水のないプール

アメリカンニューシネマの初期に「泳ぐひと」という作品がある。
バート・ランカスタ演じる金持ちが、友人たちとのプールパーティーの後で、自分の家までの道のりにある家のプールをすべて泳いで帰ると宣言・実行する映画だ。
唐突な登場といい、皮肉なラストといい『難解』と評されることの多い作品だが、キタハラ氏の小説「プール」の、キャサリンの邸宅のプールに佇む東洋人の男の、邸宅の門の外、水を抜いたプールに所在なさげに佇む姿は、虚しさ溢れる『泳ぐひと』を思い出させた。

夫の留守中のブルジョワの奥様のお楽しみは、同じ階級の女性達で共有される。
その間をイノセントな風情で行き来する東洋人の男は、表情が読めない。
だがキャサリンの心象風景である荒れた庭を心配する。
そのイノセントすらも彼女は余計なものと感じている。
生への欲望は乏しいが、性的な感覚には倦んでいないのだ。

水の潤いが無くても生は続く。
乾きと湿り気の共存した作品。