プール
キタハラ
プール
仕事をくれ、と東洋の男が門前におります。メイドが告げた。そんなことをいちいちわたしにいわないでいい。わたしが睨むと、メイドはそそくさと去っていった。最近入った使えない娘だった。籐椅子に座り、わたしは庭を眺めていた。庭の中心にはプールがあり、周りに雑草が生い茂っている。庭師のトマスが草を刈る音が聞こえていた。音がやむ。ちょうど真昼だった。奥様。トマスが雑草をかき分けわたしの前にやってきた。そろそろ刈りませんかね。整えるのがわたしの仕事です。荒れたまま、そこに秩序をあたえるなんてことは、難問だ。彼が昼食をとる前の恒例のやりとりだった。そうね、考えておくわ。わたしの返事も同じだ。トマスは首をすくめた。
わたしはとても忙しかった。夕方にはエイミーの家の晩餐に招待されていたし、読みかけのスペンサー・シリーズもあった。しかし、もっとも重要な一日のつとめは、籐椅子に腰掛け、荒れ果てた庭を眺めることだ。車の通る音、そして若い娘の嬌声が、遠くで聞こえた。近所に住む映画俳優の家は、海外の観光客が押し掛けるちょっとしたスポットになっている。
夕方、エイミーの家へ向かう車のなかで、東洋男が門前に佇んでいるのを見た。東洋人の顔など、わたしにはすべて同じように見える。
あら、怖いわね、と怖れる素振りも見せず、エイミーはいった。早く通報しなさいよ。もしくは、ガードマンに追い払わせればいい。わたしは数年前から、味覚がなくなっていた。そのことは誰にも話していない。口のなかのソテーは固めた砂をかんでいるようだった。味わうことなど、もう飽きたし、ちょうどよかったと思っている。東洋人は勤勉だからな。エイミーの夫はワインを飲みながらいった。アレの小ささを努力や忍耐でカヴァーする。わたしたちは笑った。アレってなによ、とエイミーが訊くと、ふん……とナプキンで口を拭ってから、勿体ぶった口調でエイミーの夫はいった。脳みそさ。彼は優秀な人間だけれど、ジョークはつまらない。
なに人なのかしら、中国? 韓国? それとも日本? そんなに金が欲しいのならば、路上でカンフー・ショーでもすればいいのに。わたし、面白ければ、少しくらいなら払ってもいいわ。エイミーは口からつばを飛ばし、遅れて手を口にあてた。俺の金をそんなつまらないことで使うな。憮然とした表情で、エイミーの夫はいった。楽しめるならば、それでいいじゃない。報酬は与えられるべきだわ。
過度のストレスが、早めてしまったのですね。あの医者の言葉とともに、チャーミングなはげ頭のことを思い出す。早発閉経など、よくあることです。よくあることが、我が身にふりかかるだなんて、なんてつまらないのだろう、そのとき、四十四歳だったわたしは思った。楽しくないわ。病院から帰り、わたしは整備された庭を眺めた。もう誰も泳ぐ者はいないというのに、プールには水が張ってある。日光で水面は輝いていた。わたしはトマスを呼び出し、プールに水を抜くように命じた。そして、しばらく草刈りをしないでいい、といった。仕事がないだなんて、まるで拘束されたようなものです、生きた心地がしません、とトマスが怯えながらわたしに訴えた。読み終わったスペンサー・シリーズを貸すわ、とわたしは微笑んだ。何年前のことだろう。味覚を失ったのと同じ頃だ。
エイミーの家をあとにした。家の前の通りに東洋男はいた。メイドにあの男を通すように命じた。
仕事が欲しいそうだけれど、あなたにはなにができるの? わたしが問うと、なんでもいたします、と男はいった。男はくたびれた格好だった。古着なのか、同然に着倒したのかわからないジャケットを羽織っている。わたしが首を回しながら、あなたになにができるのかを訊ねているのよ、というと、男はわたしの背後に回った。わたしは右手に握っていた、呼び出し用のブザーをいつでも押せるように身構えた。男はわたしの肩に手をかけ、ゆっくり揉み出した。男の手は、わたしの肩の凝りをほぐそうとしていたが、毎週やってくる整体師に比べ、ひどくぎこちない手つきだった。そのぎこちなさにわたしは大笑いをした。こんなに愉快になったのはいつぶりだろう。わかったわ、あなたをしばらく雇ってあげるわ。わたしはいった。
あら、新しい遊びを始めたのね。うつ伏せになりながら、エイミーと電話をしていた。男のぎこちないマッサージを受けながらだ。どう? いいの? エイミーが訊く。まあまあね。男は懸命にわたしの体を押す。小さいの、やっぱり、というエイミーに質問されると同時に、痛い、とわたしは男にいった。するとこめる力ががためらいがちになる。もっと強くしてちょうだい。わたしの指示を男は懸命に果たそうとする。今度貸してくれというエイミーに、いいわよ、とわたしは返事をした。
わたしの体をさする以外は、トマスの手伝いをさせた。わたしの生まれた町を作ればいいのですね、と男はいった。そうしてちょうだい、とわたしはいった。でも、独創性などいらないわ、トマスのいうことに従えばいい。男の生まれた場所も、なに人であるかも、わたしは訊かなかった。
あれ、なかなかいいわね、とエイミーがいった。とあるパーティーのことだった。また貸してくれない? いる面子はいつも見かけるメンバーばかりだった。こういった場にいても、他人と話すことはなにもない。わたしの生活は、荒れた庭を眺め、自分を見つめることしかなかった。エイミーとは同い年だった。今日、彼女はとても若い格好をしている。ずいぶん短いわね、とわたしが彼女のワンピースに苦言を呈すると、なによこのくらい、楽しまなくては、と驚いた顔をする。キャスはいつもつまらない格好ね、とエイミーが渋い顔をする。まるで喪服ね。もっと楽しむ姿を見せつけなさいよ。若い頃のように。でも肌はつやつやねえ。あの男のエキスが凄いのね。さすが歴史のある国だわ。ザーメンは漢方にもなるのかしら。わたしは微笑んで受け流し、エイミーの元を去った。
別の友人がわたしのもとにすり寄ってきて、囁くようにいった。ね、あなたの飼っているアジア人、貸してくれないかしら。エイミーに訊いたわよ、凄いんですってね。どんな浅ましいこともしてくれるのでしょう。エイミーいってたわ、とろけそうだったって。旦那さんとつながっているところを嘗められると、天にも昇ったような気分だった。終えたときに、なかに出されたあれを吸って飲ませたって。尻も使えるそうじゃない。マンネリ気味なのよ、お願い。
パーティーを中座して家へ戻ると、プールのなかに、男は立っていた。なにをしているの。わたしは男に訊ねた。泳いでいるんですよ。男はいった。水がないのに? 禅の問答かなにかかしら? 意地の悪いいいかたになっていた。せっかくプールがあるというのに、泳がないのですか。男に問われたのは、はじめてだ。あなたが泳いでいる姿を、見ているわ。わたしはいった。わたしは何もかもを見ていたいのよ。行動に起こすのではなく、有様を俯瞰したいの。本当は、この庭がジャングルになればいいと思う。わたしがいうと、男が、トマスさんが困りますね、といった。わたしの名前を知っている? いいえ、奥様。キャサリンよ。でも、なんとかして、この名前は忘れてちょうだい。わたしはね、自分がこの世からいなくなったとき、誰もわたしを覚えてくれていなければいいと思っているのよ。忘れるために、あなたはわたしの名前を覚えておいて。
そして、わたしの前からいますぐいなくなって。
再びやってきた整体師は面目躍如といわんばかりに強くわたしを揉みしだいた。おかげで何度か小さく悲鳴をあげなくてはならなかった。昼だった。トマスが午前の仕事を終えたところだ。もうあの手つきを味わうことはないのか、とわたしは少し残念に思う。しかし、慣れなくてはならない。あの男のいないこの家に。夫からひさしぶりに連絡がきた。二週間後に帰るという。きっと夫は、帰ってくるといつものごとく顔をしかめトマスに命じる。この庭を元に戻すだろう。幸福の象徴にかえすだろう。もう、荒れた庭も、水の張っていないプールもいらないだろう。わたしの内面に、あの男の故郷の荒れ地ができたからだ。リラックスなさってください、という整体師の声に従い目を閉じると、そこには見たこともない村があった。
プール キタハラ @kitahararara
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます