08:ダムに映る空
遠くに見える木造の橋を眺めながら、昌子は堤防から投げ出した足を揺らす。足の下に広がるのは、ゴミの浮かんだ水面だった。誰が落としたのか、古めかしい文化人形が片腕を失った状態で漂っている。
昌子達の住む町に流れる川には、小さなダムが建てられていた。山間にあるような立派なものではなく、堰を少し大きくしただけのものであるが、此処に住む人間達には馴染み深いものだった。
昌子が座っているのはダムの堤防で、緩く揺蕩う水面の向こうには、K村の防風林が見えた。戦前は舟で互いの村を行き来していたと言うが、橋が多く作られるようになってから、「Kの渡し」と呼ばれた交通手段は消え去った。
「すっかり涼しくなったなぁ」
昌子の隣に座って、釣り糸を垂らしていた誠が呟いた。その釣り糸は先程から、ただ川魚に餌を与えるだけで、一向に何か釣れる気配もない。絵を描くほかは冴えない誠は、釣りの勘も一際悪かった。
「そろそろ夏も終わるもの」
「そういえば、まーちゃんは何の絵を描いたの?」
あの七夕祭りの日、結局昌子は白い七夕飾りを諦めた。何度か鉛筆を走らせようとしたが、その度に失敗してしまった。誠がその横でどんどんと絵を描いているのを見ると余計に気が急いでしまって、何を描いても不格好な輪郭しか作れなかった。
「竹飾り描いたわ。ほら、商工会のところの」
「あぁ、大きかったもんな。どのへんに飾ってある?」
「言わないわよ。恥ずかしいもの」
「何でさ」
「何でもよ」
夏休みが終わって、学校には全校生徒の描いた絵が一斉に張り出された。
その中で誠の描いた絵は他のどの絵よりも際立っていた。白色は紙の色をそのまま使い、灰色の絵の具で陰影を表現し、そして背景は雲ひとつない青空を、絶妙な色彩で塗って飾の白さを引き立てていた。
飾られたときから、その絵は生徒達のみならず教師達にも絶賛されていたし、町内の展覧会に出されることが早々に決まった。
あの絵と比べると、昌子のはただの絵日記の延長に過ぎなかった。
「まーちゃん、あの時に太郎兄ちゃんと何か話してた?」
そう問われて、昌子は祭りの日のことを思い出す。一ヶ月以上前のことだが、まだ鮮明に記憶に残っていた。
「うん、オトウカ様のこと」
「ふぅん」
誠は釣竿を引き上げたが、その先には餌のついたままの釣り針がぶら下がっているだけだった。
周囲には同じように釣りを楽しむ人達がいる。ダムでの釣りは、秋の風物詩として町民たちに愛されていた。
「誠ちゃん、聞いてなかったの?」
「絵を描くのに必死だったんだよ。あの飾りをさ、全部見て全部描かなきゃ気がすまなかったから」
「画家にでもなればいいのに」
「俺ぐらいのは、東京に沢山いるよ」
「そうなの?」
「きっとそうだよ」
ダムの上を戦闘機が飛んでいく。水面に映る機体は、銀色に土色を混ぜたかのようだった。
「昨日落ちた飛行機は、どこのだったかしら」
「この前と一緒さ。畑に落ちたんだ」
「畑でよかったわ。人は死ななかったんでしょう?」
「うん」
釣竿がしなり、水面に釣り針が落ちる。もうそこに戦闘機の影はない。
昨夜も戦闘機はこの町に落ちた。昌子は弟の茂雄にせがまれて外に行ったが、その姿を見ることは出来なかった。
「落ちない飛行機が出来たらいいわね。そしたら、この町にR基地があることなんて忘れられるわ」
「忘れたいのか?」
「だって恐ろしいじゃない」
「だったら、他の町で就職したらいいんだよ。基地がない場所でさ」
昌子はその言葉に瞬きを何度か繰り返した。
「私、町を出たいわけじゃないわ」
「でも怖いんだろう?」
「怖いわよ。私達にはどうしようも出来ないんだもの」
「でも此処にいたいの?」
昌子はハッキリと頷いた。
太郎達が生き延びて、オトウカが灯り、誠がいて、七夕のあるこの町が昌子は好きだった。
考えなきゃいけない、と祭りの日に言った太郎の言葉は、微かではあるが昌子を成長させていた。外部からの何かに怯える昌子と違い、太郎はこの土地がそんなものに負けないことを信じていた。
自分達よりも巨大で得体の知れぬ何かに対して、太郎は一遍の恐れも抱いてはいなかった。
「いつかこの町に飛行機が落ちなくなるまでいるわ」
空を見上げると、戦闘機が通ったあとに白くて細長い雲が出来ていた。それはまるで、あの日の七夕飾りの残りのようだった。白くたなびくその雲はいつか消えてしまう。それでも昌子がそれを見たという記憶までは消せない。
「だから、誠ちゃんもここにいてね」
「えっ?」
その台詞の意図を汲みかねた誠が、驚いたように昌子を見る。だが、やがて顔を赤らめると、何かの言葉を返した。
二人の上空を再び戦闘機が横切り、周囲の音を掻き消した。昌子は誠の言葉が聞き取れなかったが、しかし答えは知っていた。誠のあの絵が、どれだけこの町を愛しているか物語るには十分だった。
「約束よ」
ダムに映った空は、お世辞にも綺麗ではなかった。
三年後の昭和三十三年、再び戦闘機B57が町中に落ちて死傷者を十四名出した。それがこの町で人が戦闘機に殺された最後の記録となった。
R基地はその後に日本にその土地を返還し、自衛隊基地へと姿を変えたが、平成にはT−33Aがパイロット二人の命を犠牲にして河川敷へと墜落した。民間人の死傷者はいなかったが、墜落時に送電線を断裂したために多くの混乱を生み出した。
今もこの町の空には、多くの飛行機が飛び交っている。
終
蒼穹を仰ぐ夏 淡島かりす @karisu_A
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