07:オトウカの嫁入り
祭りは夕方になるにつれて人が増えてきた。昼間は暑くて外に出てこなかった小さな子供達も、親や兄姉に連れられてやってきて、綺麗な七夕飾りを見てはしゃいでいた。その頃になると腹を空かせた人々が屋台に群がり始め、どこも大賑わいの様子を見せていた。
そんな中、少し前に文子と別れた昌子は、通りにある乾物屋の前に立って左右を見回していた。風向きが変わったので、川の方から湿気の多い空気が流れ込んでいる。この町ではこんな日の夜は靄が出ると決まっていた。
「あっ」
何十回目かの首振り運動の末に、昌子は待ち人の姿を見つける。数日前と同じように画板を二つ抱えた誠が、額に汗を浮かばせながら通りを歩いていた。昌子は浴衣の裾を少し持ち上げて走り寄り、その横へと並ぶ。
「ごめんね。重かった?」
「全然」
相変わらず強情な様子に、昌子は笑わないように努力しながら自分の画板を受け取る。誠は白い浴衣を着ていたが、一度転んだのか膝から下が土で汚れていた。
「さっさと描いちゃおうよ。俺、あんず飴食べたい」
「買わなかったの?」
「昼間は暑かったから、ラムネ飲んじゃったんだ」
二人は学校の課題である七夕の絵を描くために待ち合わせをしていた。
といっても今日は下書きだけで、色を付けるのは家でやる予定だったから、お互いに鉛筆しか持っていない。
「ねぇ、ちゃんと頼んでくれたんだよな?」
「疑うの? 金作さんにお願いしたら、すぐに用意してくれたわよ」
「俺、どうしても一番いい場所で描きたかったからさ。まーちゃんが太郎兄ちゃんの親戚で良かったよ」
その言葉に昌子はなんとなく面白くなくて眉を寄せる。誠と一緒にいられるから引き受けたのに、これでは体良く利用されたようだった。
「白い飾り、かっこよかったなぁ。描くのは難しいだろうけどさ、あれを描かないなんて勿体無い真似出来ないよ」
「難しいの?」
「だって白だけしか使っちゃいけないんだから」
誠は当然のように言ったあと、ふと気付いたように昌子を見た。
「まーちゃんもあれ描くの?」
「何よ。描いちゃいけないの」
内面の落胆を隠すように、怒った口調で返した。誠は元から、昌子と絵を描くつもりなどなかったのだと、今の台詞で知ってしまったからだった。
昌子はあくまで、被写体を描く場所を押さえてくれるだけ。誠はその対価で画板を持ってきただけなのである。
「まーちゃんは、姉さま人形の飾りとか描くんだと思ってたよ」
「いやよ、あれ怖いから。姉さま人形は大きくちゃ駄目ね。まるきりお化けだわ」
「でも他にも描きやすいのあるのに」
誠は親切心から言っているようだったが、昌子はつんと顔を背けた。
地面には七夕飾りから落ちた小さな紙屑や、水飴の絡んだ割り箸などが落ちている。二つ並んだ影がそれらを覆うように伸びていたが、そうして見ると誠はやはり背が高かった。昌子は自分が随分と縮んでしまった気がして、慌てて背を伸ばして前を向く。
一分ほど歩いた先に、あの白い飾りが姿を見せた。相変わらず白く輝いているが、昼間の眩さはない。
すぐ側の屋台の前に長椅子が一つ放り出されていて、その上に腕組み胡座で待っている者がいた。
柿渋色の浴衣を着て、歯のすり減った下駄を履いたその男は、二人を見て手を振った。
「太郎兄ちゃん!」
誠が嬉しそうに駆け寄る。その姿は金作とよく似通っていた。
太郎は挙げた右手を下ろし、自身が腰掛けている長椅子を平手で叩いてみせる。
「お前がこれを描くっていうから、米屋から借りてきたんだ。Sの飾り、しっかり描いてくれよ」
「任せてよ。上手に描いてみせるからさ」
太郎は長椅子から立ち上がり、二人に座るように促した。通りには他にも絵を描いている子供たちがいたが、長椅子に座っているのは昌子達だけだった。
「特等席だ」
誠がいたずらっぽい笑みを浮かべて、昌子に言う。
「ラムネでも買ってくればよかったな」
「宿題をしに来たんでしょ」
まだ機嫌の悪い昌子は、冷たく突き放して画板を構える。誠は何故昌子が不機嫌なのか理解出来ない表情だったが、同じように画板の上に画用紙を拡げた。
「上手く描けたらラムネ買ってやろう」
太郎が後ろからそう言った。昼間から呑んでいたのか、上機嫌な声だった。
「昼間はどこにいたの? あやちゃんと探したのに」
「探してたのか。そりゃ悪いことしたな。河原の方に降りてたもんだから」
文子の予想は当たっていたようだった。
「酔っ払って川に落ちないでね」
「おふくろみたいなこと言いやがる」
いつもより何処か乱暴な口調で返す太郎は、やはり酔っていた。
「オトウカ様の嫁入りを待ってただけだ。川になんか落ちやしない」
オトウカというのは、この辺りでは狐のことを指す。稲荷神社の使いだから、
特にこの川の土手では「オトウカ様の嫁入り」がよく見れると言われていた。赤い灯火が土手に沿って浮かび上がり、上下に揺れながら進んでいく。それが花嫁行列のようだったと、偶に老人たちが話しているのを昌子も聞いたことがある。
だが、今ではそれも「伝説」となってしまって、本気で信じている者など少ない。まして太郎のような切れ者が、それを昼間から待っていたというのは奇妙なことのように思えた。
「でも見たことなんかないでしょう?」
「あるさ。無ければ待つもんか」
太郎は視線を川の方に向ける。
「俺は十年前に見たんだ。此処が真っ赤な火で包まれるのを」
空襲で焼けた中には、この河原も含まれていた。昌子が何も言えずにいる傍らで、既に絵の世界に没頭した誠の、画用紙を鉛筆で撫でる音だけが聞こえる。
「あの時は、俺は駅の方で仕事をしていたから家に戻れなくてな。此処が真っ赤に燃えてるのを見てるしかなかったんだ。お寺に預けた妹が燃えているのなんか知らなかった。何も出来なかった」
太郎は笑顔だったが、その裏に悔しそうなものが滲んでいるのを昌子は見逃さなかった。
「でもな、俺は信じてるんだ。この場所は一方的に焼かれたわけじゃない。きっとあの火に乗じて、何匹ものオトウカ様が嫁に行ったはずだ」
「それを信じて何になるの?」
「何もならねぇ」
答えは素早かった。昌子がそれを訊くのを予期していたかのようだった。
「大事なのは、俺がそう考えたってことだ。自分より大きなものに飲み込まれちゃ駄目なんだ。自分で考えなきゃ、飲まれちまうんだよ」
それきり相手が黙ってしまったので、昌子は画板の上に視線を落とす。そこにはまだ何も描かれていなかった。何を描くべきなのか、何が描きたいのか、昌子はわからなくなってしまった。真っ白な画用紙と睨み合ったまま、ただ時ばかりが過ぎていった。
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