永い夢の終わり(終)

 本能の赴くままの行動だったのかもしれないし、あるいは勢いに任せればできると思ったのかもしれない。


「……やっと、その気になったのね」


 顔を半分水にうずめながら、彼女は挑発的な言葉を投げかけた。もっとも、それは紛れもなく本心からの言葉だったかもしれない。

 瀧川たきがわはもう身体を変異させるそぶりも見せず、そっと目を閉じていた。ほとんど死体ような静けさだった。


 周りの化け物も輪を成して、ぴたりと静止したままこちらを眺めているだけだ。公開処刑に群がる悪趣味なギャラリーのよう。


 つまり、すべてが僕の背中を押していた。瀧川を殺せと。目の前の少女を殺して、この怪異を終わらせろと。


 本当にやるのか。この僕が?


 土壇場に来て、僕は冷静すぎるほどに自分の行動を見つめ直していた。あれだけの助走の勢いは完全になくなって、今は立ち止まっているも同然だ。目の前の最後の一線を越えるだけの勇気がどうしても湧いてこない。殺人は悪だと、それには染まらないと僕は決意していたのだから。


 ――あなたはいつまでそんな綺麗事を掲げていられるのかしら。


 学校での瀧川の言葉が頭の中で繰り返される。

 あの時から今に至るまで、僕は彼女の警告を真剣に取り合ってこなかった。僕の夢の楽園は永遠に続くわけもなかったのに、ずっとどこか他人事にしていた。だから今、僕はうろたえている。


 片方の拳をもう片方で握りしめ、振り下ろす用意をしながら、努めて無感情な声で僕は言った。


「本当に……これしか方法はないのか?」


 目を閉じたまま、同じように感情のない声で瀧川は応えた。


「さあね。ふふ、でも浸蝕しんしょくは分水嶺を越えようとしている。今ならまだ、間に合うかも」


 かも。

 そんな曖昧な理由で、僕は彼女を殺していいのだろうか。

 だって、僕は誰も殺さないと、誓ったはずなのに。

 一人の命と引き換えに、世界を救う。

 果たしてそれは許されることなのか。


 深く考えるべきではなかったのかもしれない。勢いに任せて突き進めばこんなに苦しむこともなかっただろう。でも僕には理由が必要だった。次の行動に対する完全無欠の免罪符が。


 世界を救うためだ。仕方がない。

 本当にそうか。一人の命は何よりも重いんじゃなかったのか。


 相手は大量殺人鬼だ。ためらうことはない。

 本当にそうか。単に僕も同類になるだけじゃないのか。


 あるいは本当に瀧川の言う通り、全ての事柄には善も悪もなく、ただ生き残りやすいものが存続するのだとしたら、これから行われるのは遺伝子の選別というただの物理現象に過ぎなくて、それ以上でもそれ以下でもないのかもしれない。

 だけど結局のところ、この思考回路はこれまで殺された連中と同じで、僕の邪悪な何かが殺して良い誰かとその理由を探しているだけなのかもしれない。


 やはり答えは出ない。だけどカズハの息遣いを首の後ろで感じて、僕はただ思い込むことにした。やるしかない、と。僕がやるしかないんだ。

 だから最終的に僕がたどり着いたのは、


「ごめん」


 という最もありふれた、何の弁解にも弁護にもならないチープな三文字だった。


「ふふ、何よそれ」


 瀧川はそう言って笑った。美しい笑顔だった。

 そして僕の腕が振り下ろされて、その眉間の薄い皮と肉ごと頭蓋を叩き割り、生命の根源たる何かを破壊し尽くす直前、瀧川は言った。




「証明終了」




 瀧川の身体がビクンと跳ねて、僕の骨盤を震わせた。

 血飛沫ちしぶき脳漿のうしょうが腕を汚していく。

 だけど、何よりその最期の言葉が僕の心をズタズタに引き裂いて、深い傷をのこしていくようだった。


 ああ、そうか。僕は変わってしまったのか。


 僕はしばらく一歩も動けず、瀧川を腰の下に敷いたまま、呆然と赤い空を見上げていた。

 僕を取り囲んでいた化け物も、一体残らずその場に崩れ落ちている。


「ユウ……」


 振り返ると、カズハが立っていた。


「カズハ……」


 どちらからともなく僕らは駆け寄って、声を上げて泣いた。お互いに肩を貸し合って、崩れるように膝をついて、互いの背中をさすり合った。今まで一年、あれだけ近くにいておきながら、僕らは初めてわかり合えたような気がしていた。


 どれだけの間、二人でそうしていたのかわからない。


「流れが……」


 ふと、カズハが何かに気付いたように言った。

 浸水の水が動いている。僕もそれを太もものあたりで感じていた。


 流れる先を振り返って見ると、瀧川の亡骸なきがらが揺れるように動いていた。また何かが起きるのかと身構えていると、実際はその下に穴のようなものができていて、水が底に向かって流れ落ちているようだ。

 お別れとばかりに白く細い腕がひらりと舞って、そのまま渦にまれて二度と浮かんでこなかった。


「ここから離れなきゃ」


 僕らは互いの手をきつく握りしめ、流れに逆らって歩いていった。先ほどのような大跳躍をしようとしたのだけど、気づけば身体は元の人間らしい感覚に戻っている。肌の至る所からドロドロと黒い汚れが流れ落ち、足元の水に混ざり合って、やがて穴に吸い込まれていく。それで不条理な力は失われているらしかった。


 目の前は化け物の残骸が大量に水面に浮かんで、流木のように僕らの行く手をふさいでいる。

 なんとか掻き分けて進んでいくと、それに混じってあの山羊頭やぎあたまの姿があることに気付いた。向こうからゆっくりと流れに乗って近づいてくる。真っ赤な目がこちらを捉えていたが、不思議と敵意は感じなかった。奴は最後まで何も言うことなく、僕らの脇を流れ落ちて穴の中に呑み込まれていく。


「つぅ……」


 カズハが苦悶の声を上げた。右腕の痛覚が戻ってきたのだろうか。

 僕も胸や腹に尋常じゃない痛みが走って、まっすぐ立つことすらままならない。

 だけど僕らは二人で支え合って、必死に歩き続けていった。


 きっとこの災厄も、また水害として記録されるのだろう。

 だけど前回と違うのは、僕らは今、新しい何かに生まれ変わっているということだ。何人もの死、罪の意識、辛いことばかりだった。でももう僕は逃げない。カズハのためにも。


「大丈夫だ」


 その言葉でまた二人、前を向く。

 世界はきっと元の形を取り戻していく。でもそれは決して永遠じゃない。ひょっとしたらすぐまた世界の法則がめちゃくちゃに狂って、次こそ街は水の底に沈んでしまうかもしれない。僕らを取り巻くありとあらゆるルールだって、いつ終わりを迎えるかもわからない。

 でも、今の僕なら、今度は逃げずに向き合えるような気がしている。


 今回の終わりを、僕は決して忘れないだろう。そして将来、新しい僕らにもいつか終わりが訪れる。そのことだって決して忘れはしない。

 やがていつか終わる。それが万物共通の決まり事なのだから。




――終わり

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やがて来る僕らの終わり 髭鯨 @higekujira

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