永い夢の終わり(赦)

 カズハのいる位置までは五キロメートルほどの距離がある。僕はそれを物差しで測るように理解していた。本来この遠さじゃ肉眼で見えるべくもないが、彼女の状況は鮮明に脳裏に投影されている。


 劣勢、じり貧だ。すでにカズハの身体の至る所が黒い異物にむしばまれていた。かぎ爪の傷が黒く修復されていったからだろう。これまでいったいどれだけの痛みを受け続けてきたんだろうか。そして、どれだけの痛みをこの後も受け続けるつもりなんだろうか。ただ彼女は瞳の光を失わず、赤く浸水した街の中で独り運命に抗い続けていた。


 カズハまで、あと四キロ。


 今、彼女を取り囲んでいる化け物の数は百やそこらでは到底収まらない。黒い群衆がアナログレコードのような分厚い円陣を成している。

 一年前の災厄さいやくだけじゃこの数は説明がつかない。あるいはもっと前から、こういった災厄は繰り返されているのだろうか。死後の世界があるのなら、そこから逆流が起きているような有様だ。ますます浸蝕しんしょくが進んでいることになる。


 一つまた、カズハの殴打で化け物が頭から消し飛んだ。

 息をつく隙もなく次の化け物襲い来る。かわす。殴る。消し飛ぶ。

 また次が襲い来る。躱す。殴る。消し飛ぶ。

 ずっと繰り返しだ。その連鎖がいつ終わるとも知れず続いている。


 あと三キロ。


 その様子を瀧川たきがわが間近で観察していた。すでに全身が触手だらけの異形と化して、その黒い塊の真ん中で薄ら笑いを浮かべながら、決してカズハから手が届かない周回軌道上を漂っている。もはや自分で手を下すこともせず、カズハが消耗しきるのを待っているようだ。


 実際、カズハはほとんど力を使い果たしていた。ふらふらになりながらも気力だけでなんとか意識を保っているように見える。

 どうしてここまで身を削り続けることができるのだろうか。その理由に考えを巡らせて、やはりカズハも贖罪しょくざいなのだろうと思い至る。


 あと二キロ。


 カズハは言っていた。化け物を喰ったのは二度目だと。ならば前回の災厄を終わらせたのはカズハしかいない。その時、ガクを自らの手で殺めたのだろうか。その可能性を考えただけで、心が痛みにきしむようだ。


 カズハは最初、両親を犠牲にしてまでガクを守ろうとした。でもそのガクが暴走したせいで町が一つ全滅し、被害はさらに広がろうとしていた。この世界がみ込まれる可能性まで頭をよぎったはずで、止めるにはガクを殺すしかなかっただろう。

 だから、結局救えなかった。それだけじゃなく、町の皆を巻き込んでしまった。その絶望の深さは想像もつかない。彼女はそれを独りで背負い込んでいるのだ。

 そして償う相手として生き残ったのは僕だけだ。カズハが異様なほど僕に執着したのはそういうわけだ。


 あと一キロ。


 突然、カズハの身体がくの字に曲がり、風に舞い上がるように吹き飛んだ。

 油屋あぶらやだ。その巨体から放たれた正拳が正確に彼女の腹部を捉えていた。


「カズハぁああ!」


 走りながら僕は叫んでいた。

 その声が届いたのか、カズハは背中から接地する寸前で手をついてひるがえり、追い打ちに群がった化け物数体をまとめて蹴り飛ばす。

 しかし奴らの群がる勢いは、今回ばかりは止められなかった。腕に、脚に、胴体に、奴らが次々とまとわりついて彼女の自由を奪っていく。ウェーブの掛かった黒髪の首が固定され、今まさに油屋がとどめの一撃を与えんと右腕を振り上げた。それは斬首の斧だ。

 黒い瞳が見上げている。心だけは屈しないと。死をもたらすそれが振り下ろされる最後の瞬間に至るまで。




「らああああああああああっ!!」




 腹の底から叫び声を上げ、そこへ僕は隕石のように突っ込んでいった。油屋の腕がカズハに達するよりコンマ秒早く、その破壊的なエネルギーをもって奴の巨体を粉々に吹き飛ばす。巻き起こった衝撃波はカズハにこびりついた化け物どもを引きはがし、膝まで溜まった水を跳ね上げて地肌のコンクリートを楕円状にさらけ出していった。

 腕の中にはカズハの身体を収めている。ボロボロになるまで戦い通したその熱をこぼさぬように、僕は彼女を両手で慎重に抱き上げた。


「ユウ……なの?」


 目もよく見えていないのか。カズハは焦点のずれた瞳でぼんやりと僕を見ながら、頬に手を這わせてきた。まだかろうじて人間の肌が残る左手の指先で。


「待たせてごめん。もう大丈夫だ」


 僕はその言葉を投げかけていた。ずっと僕を支えてくれた言葉だったから、それを彼女にも届けてあげたかった。

 カズハは少しの間、呆けたように黙ったままで、だけど全てを理解したのか、


「う……う、ああ、うああああ、ああああああああっ!!」


 小さな口を震わせて、僕が見ているのもはばからずに泣いた。なんの取りつくろいもない涙がボロボロと流れ落ちていく。彼女が泣くのを見るのはこれが初めてだった。僕は彼女のゆるしになれたのだろうか。


 僕はたった一つの跳躍で、すぐそばの三階建てアパートの上に降り立って、ゆっくりとカズハの身体を横たえた。ここなら化け物に襲われることもないだろう。

 また大きく跳躍して舞い戻る。静かに構える瀧川の眼前へと。


「アラアラ、スッカリ別人ネ」


 どの口が言う。瀧川は右腕の触手を自分自身に巻き付けながらクスリと笑っていた。メデューサへと変貌した頭部は、ほとんど元の清楚な面影を残していない。


「あの時、本当のことを言っていたんだな」


 学校での会話を思い出し、彼女がこの災厄を引き起こしたという事実を改めて噛みしめる。もしあの時それを信じていたとして、彼女を殺してまで止めるなんてとてもじゃないができなかっただろう。じゃあ今ならできるのか。答えは出ない。迷いを顔に出さないようにするだけで精一杯だった。


「嘘ニ生キテイタ緑川ミドリカワ君ニハ違ッテ聞コエタノカシラ」

「かもな。でも今は違う。君と同じで、人間ですらないかもしれない」

「アラ、アナタモ私ヲ化ケ物扱イスルノネ。切ナイワ」


 白々しくもおどけた様子で話す瀧川だったが、その言葉尻に微かに彼女の孤独を感じとった気がした。


「あなたも、か……。それが皆を殺した理由なのか?」


 ぴくり、と瀧川は片側の眉だけを動かした。わずかな後悔。あの風貌でも感情が表れるというのはある意味で驚きだった。

 ただ、瀧川はすぐに薄ら笑いでそれを隠してしまう。

 蛇の目が促す通り、僕は続きをしゃべりだす。


「ずっと考えてた。この殺しが復讐じゃないならなんなんだって。でも、殺された連中のことを思い返して、もちろん中学で一緒のクラスとかそういうのもあったけど、ちゃんと共通点があったんだ。油屋は犯人を探し出して殺すって公言してたし、後藤ごとうもパイプ椅子で襲い掛かってきた。モミジも僕に死ねって連呼してたくらいだし、そういえば名取なとりだって教室で犯人を殺せって油屋を煽ってた。みんな犯人に明確な殺意をいだいていたんだ」


 瀧川は少しだけ満足そうに口元を広げて、言葉を継いだ。


「あの日、踏切のそばで見回りをしていた先生とたまたまったの。私はその時アヤコに一年越しのお別れをしていた。そしたらね、彼、私に向かって言ったわ。そんなやつ拝む価値もないだろ、って」


 いつの間にか、目前で瀧川は元の人間らしい姿に戻っていた。カズハに切り付けられた首元だけ、大きなかさぶたのように黒く覆われている。


五十嵐いがらし君もそう。アヤコが死んだあと、気色悪い女だ、壊れてる、人間じゃない、事あるごとに話題に出して、侮蔑ぶべつして、踏みつけた」


 そして、その顔から笑みが消えた。


「思えば生まれつき、私は死に魅入られていたの。命が終わるということに尽きることのない興味を覚え、やがてその様子を観察することに快感すら覚えるようになっていた。その闇が次第に大きくなって、とても抗うことはできなかったわ。それがなければ生きていけなかったほどに。……でもそれは私がそういう風に作られてしまったというだけ。それに、周りだって何が違うというの? そのすまし顔の裏で、みんな私の死を望んでいたというのに」

「つまり……これは証明なのか。首刈り魔の死を望んだ誰彼に、お前らも変わらないんだと突きつけるために。状況が少し変わるだけで皆が容易に人すら殺すようになると知らしめるために。だから君はあえて一人ずつ殺していったんだ。呪いの噂も利用して、皆の本性をあぶり出していくために。そして実際多くの人が僕を殺そうとした。濡れ衣を着せる相手は僕がちょうどよかったんだ。同じく何かが欠けている身として――」

自惚うぬぼれないで!」


 瀧川の叫び声と共に、背後から鋭い痛みが突き抜けた。左胸を黒い触手が槍のように貫いている。

 髪から伸びた一本が、足元の水を潜って背後に回り込んでいた。

 油断――


「私に欠けているものなんてない! あなたと一緒にされる筋合いはないわ! 生かしておいたのだって、あなたの周りだと浸蝕を起こしやすかったってだけ! ほら、こんな風にいつだって殺せる!」

「が……はっ……」


 口から黒い血が噴き出した。

 頭上からはカズハが叫ぶ声が聞こえる。

 疑いようもなく致命傷だ。瀧川はなんのためらいもなく、僕を……。

 だけど、


 ――生きて、私の分まで。


 コハルの声が胸の内から響いてきた。

 今の僕にある心臓は一つじゃない。


「があああああああっ!!」


 強烈な鼓動、それ自体が電気ショックになって僕を無理矢理に延命させる。そのまま振りほどくように胸から触手を引き抜いた。

 気づけば勢いのまま僕は瀧川に襲い掛かって、その細身を水の中に組み敷いていた。

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