【最終話】八月一日

 スーツケースを転がしながら、ようやく辿り着いたロビー。着陸してからここまでの距離が、驚くほど長かった。

 周りは言わずもがな外国人ばかりだが、空港内ということもあり、まだあまり異国情緒は感じられない。これから外に出て、街へ行けば、存分に体感できるのだろう。

 八月一日。

 紫は、ロンドンにいた。

 現在時刻は午後四時半。機内から見た空は、突き抜けるように青かった。ロンドンの昼間は長いと聞くので、それだけで好奇心がくすぐられる。

 今夜の予定は未定。だがそれは、すべてをに委ねているから。

 スマホを確認すると、一通のメッセージが入っていた。なんと、もうすでに、彼はロビーに到着しているとのこと。

 顔を上げ、辺りを見渡す。この人混みの中、身長の低い自分を見つけるのは難しいが、身長の高い彼のことを見つけるのは容易だと。

 そう、思っていたのに。

「ゆかーりちゃん」

「!」

 またしても、彼が先に見つけてくれた。

 目と目が合い、おのずと緩む頬。二年ぶりの再会に、さまざまな情感が込み上げてくる。

「髪、伸びたわね。……うん。今日も可愛い」

「響さんも。今日もとってもかっこいいです」

 この二年間。二人は、それぞれの生活を懸命に送りながら、互いの想いを大事に育んできた。

 響は、仕事の合間に、少しずつ母親と過ごす時間を増やしている。まだまだ安定している状態とは言えないが、響を〝息子〟だと認識し、短時間ではあるけれど、会話もできるようになったらしい。

 昨年、紫のもとへ、彼から一枚の写真が送られてきた。彼と彼の母親が並んで撮られたその写真は、今も紫の部屋に大事に飾ってある。

 東京とロンドンの時差に負けることなく、ずっと連絡を取り合ってきた二人。夢について語り合い、将来についても、ゆっくりと堅実に話し合ってきた。

 そして、ついに。

 紫は、この九月から、ロンドン市内の大学へ二年間留学することが決定したのである。

「勉強、頑張ったのね」

「響さんのおかげです。つらいときも、もちろんあったけど……響さんが励ましてくれたから、頑張れました」

 紫の頬にそっと添えられた響の手。そこから伝わる温もりが、なんだかひどく心地好い。この二年間、何度も何度も夢に描いた瞬間。

 彼に。彼女に。

 やっと、触れられた。

「家族に『着いた』って連絡した?」

「あっ、まだしてないです。今向こうって……」

「プラス八時間だから、夜中の十二時半過ぎね」

「起きてるかな? みんなにメール入れとこ」

「すかさず馨から電話かかってきそうね」

「わたしもそんな気がします」

「あっ、そうそう。同窓会、どうだった?」

「すっごく楽しかったです。みんな、全然変わってなくて」

「そう。良かったわね、思いきって京都に帰って」

「はい。……あっ、響さんに、そのときのお土産があるんです。スーツケースの中だから、ちょっと今は渡せないんですけど」

「あら、わざわざありがとう。じゃあ、部屋に着いたら、受け取ってもいい?」

「はい。……あっ、電話だ」

「……馨?」

「……です」






 はじまりは、二年前のあの日。

 蝉のさんざめく、八月一日だった。

 青く高く澄んだ空とは対照的に、あの日の自分は鬱屈としていた。夏の訪れを厭わしく思い、目の前の現実を受け止め切れずにいた。

 夏なんて来なければいいのに。そう、思ったりもした。

 けれどあの日。彼と出会って、自分の中の夏が変わった。夏の匂いが、形が、音が、色が——がらりと変わった。

 心のどこかでずっと探し続けていた玻璃の花。あの夏、ようやくそれを見つけることができたのだ。

 夏の風のように、夏の海のように、夏の空のように、澄み渡った玻璃。

 大切な、

 大切な、



 夏色の玻璃。



《了》

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夏色の玻璃 那月 結音 @yuine_yue

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