八月二十日

「忘れ物ないか?」

「たぶんないと思うわ。もともと荷物少ないし。忘れてたら、その時はその時よ」

「相変わらず適当だな」

「それ、もちろん褒めてくれてるのよね? ……ってか、空港ここで聞く? もう搭乗手続きまで済ませちゃってるんだけど」

 コーヒー片手にぎゃいぎゃい言い合う響と馨。国際線のターミナルゆえ、外国語もちらほら耳に入る中、この一角では実に遠慮のない日本語が飛び交っていた。

 現在彼らがいるのは、空港内にあるカフェテリア。出国までまだしばらく時間があるため、軽い昼食を兼ねて入店したのだが。

「ロンドンまで何時間だ?」

「だいたい十二時間半かしら」

「暇すぎるな」

「寝てたら着くわよ」

「お前基本どこでも寝れるよな」

「体育の授業中、ソフトでファースト守りながら眠りこけてたアンタにだけは言われたくないわ」

 流れるような言葉の応酬。

 まるで台本に書かれた寸劇さながらのやり取りに、紫は終始耳を傾けていた。食後のアイスティーに口をつけつつ、ちらちらと二人交互に視線を送る。

 こんなふうに言い合ったりもするけれど(言い合っている時間のほうが長いかもしれないけれど)、二人の仲の良さに、おのずと顔が綻んだ。

 八月二十日、火曜日。

 およそ三週間にわたる日本での滞在を終え、まもなく、響はイギリスへと帰国する。

 今朝、スーツケースを持って日野家を訪れた彼。自宅マンションまで迎えに行くと言った馨の申し出を断り、暑い中を電車でやってきたのだ。

 理由は、妹の墓参をするため。出国前に、もう一度だけ手を合わせたかったのだと、彼は言った。

 墓参を終えた彼の表情、その穏やかさに、紫は胸がいっぱいになった。おそらく、彼の中では、ようやく一つの区切りを迎えることができたのだろう。止まっていた時計の針が、この夏、ようやく動き出したのかもしれない。

 自分と、同じように。

「さて、と。……そろそろ行くわね」

 短く溜息を吐き、響が立ち上がる。空港内には、ロンドン行きの乗客に対するアナウンスが流れていた。

 ぱらぱらと人が集まってきた保安検査場の前。兄妹が響と一緒にいられるのは、ここまでだ。この先への立ち入りは、乗客にしか許されていない。

 別れのときが、やってきた。

「いろいろありがとね。小父おじさんと小母おばさんによろしく」

「ああ、気をつけてな。向こうに着いたら、連絡入れてくれ」

「体に気をつけて」

「お前もな」

 互いに肩を叩き合いながら、親友との別れを惜しんだ二人。次に会えるのは、いったいいつになるのだろうか。今回は十年ぶりだったが、果たして次は……。

 きっと、まだまだ話したいこともあったはず。そんな感情をおくびにも出さない二人を前に、紫は胸の締めつけられる思いがした。

 そして、

「紫ちゃん」

 紫のもとへ、響が近づいてきた。

 深緑ダーク・グリーンの瞳に、灰色アッシュの癖毛。こうして改めて対面すると、初めて彼と出会った日のことを思い出す。


 ——もしかして、紫ちゃん?


 すべては、あの日から始まったのだ。

「アナタに出会えて、アタシ本当に幸せよ。……素敵な時間を、どうもありがとう」

「響さん……」

 まるで色硝子のようにきらきらと煌めく彼の双眸。そこに映り込んだ自身の表情を自覚した瞬間、今まで意識することを避けていた彼との別れ、その現実が、寂しさとなって一気に押し寄せてきた。

 目頭が熱い。鼻の奥が痛い。引き結んだ唇が、わなわなと震える。

 紫は、彼の両の指先をきゅっと握り締めると、涙に咽びそうになるのをこらえながら懸命に伝えた。

「……わたし、昨日の夜、両親に相談したんです。留学のこと。そしたら、応援してくれて……。三年生になったら、イギリスに留学するって決めました。それまで、頑張ってたくさん勉強するから、だから……」

 この夏、彼と過ごしたかけがえのない時間。彼との時間を、彼への想いを、終わりになんてしたくない。

 今日で、終わりになんてしたくない。

「わたしのこと、待っててくれますか……っ」

 叫びにも似た紫の声。その声は、その言葉は、響の胸に鋭く深く突き刺さった。

 紫の両手を握り返し、彼女の小さな体を引き寄せる。そうして強く抱き締めると、耳元で優しくこう囁いた。

「I'm looking forward to the day you come.(アナタが来るその日を、楽しみにしているわ)」

 堪えきれずに流れた紫の涙が、響の胸元を濡らす。込み上げる愛おしさに、互いの胸は今にも張り裂けそうだった。

 つかの間の抱擁。けれど、このたった十数秒で、思いの丈は十分に分かち合うことができた。終わりじゃない。始まりなのだと、そう、はっきりと確信できたのだ。

「Bye for now!(じゃあ、またね!)」

 ゲートの向こう側。

 弧を描くように、大きく大きく手を振りながら。

 弾けんばかりの笑みを残して。

 響は、行ってしまった。



「……あ、いつ……」

「……?」

 響の背中が見えなくなって、しばらくした後。

 鼻をすする紫の横で、馨が顔を引き攣らせていた。『やりやがったな』と言わんばかりに目を据わらせ、腕組みをしている。どうやら、大事な妹を公然と……否、自分の眼前で抱き締められたことに対し、一言物申したい様子だ。

 しかし、肝心の相手は、すでに自分の手の届かない領域へと入ってしまった。やり場のない小さな怒りが、まるで楊枝のように地味に胸中を刺激する。

「馨兄」

「ん?」

「怒らないでね。響さんのこと」

「……」

 妹のこの言葉に、馨はうっと息を詰めた。いまだ腫れの引かぬ潤んだ目でこんなふうに懇願されてしまえば、従う以外に選択肢などない。

 それに、なんだかんだ言いつつ、二人の関係は認めているのだ。二人が強く想い合っているのなら、幸せに向かってともに歩めるのなら、それでいい。それが、自分の願いだから。……口には絶対出さないけれど。

 出発用の電光掲示板。その一番上から、〝ロンドン〟の文字が消えた。

 響は、故郷の地を飛び立ったのだ。

「帰るか」

「うん。……あ、ちょっとだけ時間もらってもいい? 電話したい人がいるの」

「え? ああ。じゃあ俺、何か茶菓子になりそうなもの見繕ってくるから」

「わかった」

 涙も止まり、ようやく落ち着きを取り戻した紫。心なしか、その顔には清々しささえ感じられた。

 いったん兄と別れ、邪魔にならないところへ移動する。そして、鞄からスマホを取り出すと、ケースの内ポケットに入れてある紙を手に取った。そこに記された十一桁の番号を、確認しながらゆっくりとタップする。

 紫が電話をしたい相手。

 それは——

「……あ、もしもし、瀬戸くん? 橘です。今、大丈夫? ……あ、良かった。あのね、この前話してくれた同窓会の件だけどね……良かったら、出席させてほしいなって思って。……うん。うん。えっ? ううんっ、そんなことないよ! 誘ってもらえて、すごく嬉しかった。わざわざありがとう。……うん。うん。……葉書? 出欠の? わかった。じゃあ、今の住所、メールで送るね。……あっ、今、わたし名字変わってるの。今の名字は——」



 もうすぐ、夏が終わる。

 だが、たとえ季節が移ろおうとも、この夏の煌めきが色褪せることはないだろう。

 目に見えるもの。目に見えないもの。大切なそれらをすべて携え、次の季節へと繋ぐ。


 そうしてまた、


 夏を、迎えにいく。

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