八月十九日-②
涼やかな澄んだ音が庭から聞こえてくる。外はまだ薄明るいが、もう気温は下がったのだろうか。そんなことをぼんやりと考えながら、物悲しげな
あれから一時間。紫は、家の自室にいた。
現在時刻は午後六時。台所では、珍しく定時で帰宅できた都が夕飯の準備をしている。匂いから推測するに、今夜のメニューはおそらくカレーだ。
彰は在宅だが、馨はまだ仕事中。とはいえ、馨から『遅くなる』といった主旨の連絡はないため、今夜は四人揃って食卓を囲めそうだ。
「……」
今頃、響は何をしているのだろうか。家族との時間を、思いのかぎり過ごせているのだろうか。
今夜は、彼の父親も一緒に、祖父母の家で夕飯を食べると言っていた。ゆえに、
いまだ唇に残る柔らかな感触。紫にとって初めての経験だったが、恥ずかしさというものはいっさい感じなかった。愛おしくて、嬉しくて、切なくて、苦しくて……胸が張り裂けそうだ。
帰宅途中、彼のことを想って何度も泣きそうになったけれど、込み上げてくる情感をぐっと抑えてなんとか
——大切な夢を諦めないで。
先ほど彼がくれた言葉を、頭の中で反芻する。
自分の夢を叶えるために、家族と向き合うこと。避けてはいけないとわかっていながら、自分にはその勇気がなかった。家族を信じる勇気が持てなかったのだ。家族は、ずっと自分のことを信じてくれていたのに。
けれど、この夏。彼が——響が、その勇気を与えてくれた。
机の脇の三段チェスト。その一番上の引き出しから、紫は例のファイルを取り出した。唇をきゅっと結び、それを携えて部屋をあとにする。
向かう先は、父の自室。
「伯父さん、ちょっといい?」
障子の外側からこう尋ねれば、内側から入室を促す父の声が聞こえた。
少しでも緊張を緩和するために深呼吸を一つ。ゆっくりと障子を開けると、座卓で夕刊を読んでいた父と目が合った。
「どうしたの?」
「あの、ね……話したいことが、あるの」
ファイルを握った手に、おのずと力がこもる。言葉を発した瞬間、急に皮膚が引き攣り、口内が渇いた。
だが、決めたのだ。ちゃんと向き合うと。今話さなければ、絶対に後悔する。
紫は、彰に対座する形で座布団に座ると、自身の前にファイルを置いた。父の顔を直視することは難しかったが、覚悟はもう決まっていた。
問題は、どこからどう切り出すか。
そのことを悩んでいた矢先。
「ちょっと待っててね。その話は、きっと都さんも一緒のほうがいいと思うから」
突然、そう言って父が立ち上がった。驚き、目をしばたかせる紫をよそに、母を呼ぶべく退室する。
このファイルに表題などはつけていない。開けて中に目を通さなければ、内容はわからないはずなのだ。にもかかわらず、父の口ぶりは、ファイルの中身を——これから紫が話さんとしている内容を、まるで知っているかのようなそれであった。
そうして、一、二分の後。エプロン姿の母を連れ、父が戻ってきた。
母は父に並んで正座すると、娘に向かって柔和な眼差しを注いだ。少しでも娘が話しやすくなるようにとの配慮からだろう。母がとくに何かを喋ることはなかったが、いつでも聞く用意はできているといった様子だった。
そして、ついに。
紫は、両親に打ち明けた。
「あ、あのね……わたし、もっともっと英語の勉強したくて……でも、語学だけじゃなくて、文化とか、いろんなものを直接学んでみたいの。……だから、三年生になったら、留学したいと思ってて、それで……」
訥々とした口調で懸命に語る。緊張のあまり、舌がもつれそうになったけれど、なんとか自身の言葉で両親に伝えた。
だが、どうしても言葉尻は曇ってしまった。ファイルの上に乗せた手が、かたかたと震える。
両親の顔を、直視することができない。
「……やっと話してくれたね」
しかし、父からかけられたこの言葉で、紫は顔を持ち上げることができた。
父は……両親は、優しい顔で微笑んでいた。
「ちゃんと話してくれてありがとう。紫が留学を考えてたことは知ってたけど、僕たちから切り出すのは少し違うと思ったから……だから、紫から話してくれるのを待ってたんだ」
娘の夢は知っていた。生前、弟夫婦からも幾度となく聞いていたし、何より、この五年間夢に向かって努力する姿を間近で見てきたから。彼女が留学に興味を示すのは、ある意味必然だったのだろう。
覚悟を決めた紫に対する両親の答えは、もうすでに決まっている。
「彰。これ」
ここで、都が彰にあるものを手渡した。桜の花があしらわれた、可愛らしい丹後ちりめんの通帳入れ。
彰は、その中身をそっと取り出すと、紫の前に差し出した。
「これ、は……?」
紫の顔に滲んだ戸惑いの色。予想外の出来事に思考が追いつかず、ただただ瞬きを繰り返す。
一方、娘のこの反応を想定していた彰は、穏やかな声で諭すように説明した。
「それは、
「え……?」
いまだ顔色に戸惑いを含んだまま、おそるおそる手を伸ばすと、紫は父から通帳を受け取った。名義の欄には、自身の名前が記されてある。
中を開き、紫は驚愕した。
「!! こんなにたくさん……わたし——」
背筋に悪寒が走る。『受け取れない』とばかりにぶんぶんとかぶりを振り、通帳を突き返すように机の上へと押さえつけた。
それでも、彰が引き下がることはなかった。再度諭すように、優しく微笑む。
「言っただろう? それは、旭と葵さんが、紫のために遺してくれたものだって。その使い道は、紫が自分で決めなさい。……だけど、学費や留学費用は、僕たちがちゃんと払うから。僕たち家族に遠慮なんてする必要ない。学びたいことを、学べる場所で、しっかり学びなさい」
「……」
「どんな些細なことだって相談に乗る。いつだって頼ってくれて構わない。……紫は、僕たちの大切な娘だから」
「……っ——」
涙が、溢れた。
父の言葉に、紫の瞳から零れた大粒の雫。頬を伝い、顎から滴り落ちたそれは、机の上に幾重もの染みをつくった。
声にならない声とともに、心の底からとめどなく湧き上がる両親への想い。
「……伯父さん……伯母さん——」
迷惑かけてごめんなさい。心配かけてごめんなさい。……けれど、謝罪の気持ち以上に大きかったのは、やはり感謝の気持ちだった。
わたしを迎えてくれて、
わたしを育ててくれて、
わたしを信じてくれて、
本当に——
「——ありがとう……っ」
この瞬間、紫の心を覆うように複雑に絡み合った糸が、ようやく解きほぐされた。差し込んだ光が陽だまりをつくり、心奥までも明るく照らす。
あたたかい。
「二年なんてあっという間だから、きちんと準備しておかないとね。紫の夢、僕たちはずっと応援しているよ」
自分は一人じゃない。信じられる人が、信じてくれる人が、そばにいる。
そのことに気づけたのなら、きっともう大丈夫。
「そういえば」
「……?」
「響くんとのデートは楽しかった?」
「!!」
「あっ、それ私も聞きたい。どこ行ってたの?」
「あ、あの……え、と……」
顔を上げて、
前を向いて、
「……あっ、馨が帰ってきたみたい。続きは、ご飯食べながら聞かせてちょうだいね」
「!?」
自分の足で、歩いていける。
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