八月十九日-①

 ふう、と溜息を吐きながら、テーブルに紙袋を乗せる。

 これらはいったいどこに収めればいいのだろうか。たかだか専門書六冊。されど、その六冊を本棚に戻すという、至極単純な作業がすこぶる難しい。

「困ったな」

 静かに嘆き、苦い顔でぐるりと本棚を見渡す。空いている箇所に適当に突っ込んでしまおうか——そんな悪魔の囁きに誘惑されそうになるも、なんとか踏みとどまった。きちんと整頓しておかなければ、郷里から戻ってきた彼らに叱られること必至だ。……まあ、不機嫌を撒き散らしつつ動いてくれることはわかっているので、べつに彼らに任せても構わないような気もするのだけれど。

 八月十九日、月曜日。馨は、いつもどおり自身の研究室にいた。

 夏休み期間中ゆえ、講義などは開講していないが、諸々の業務が馨を待ち構えている。准教授といえど、研究のほかにもなすべきことは多数。事務処理から原稿執筆まで、まるで泉のごとく滾々こんこんと湧き出てくるのだ。

「……仕方ない」

 観念し、覚悟を決めた馨は、しぶしぶ本棚と向き合うことに。明日は有給休暇を取得しているため、なんとかして今日中に片してしまいたい。

 この紙袋を妹から渡されたのは二日前のこと。わざわざ家を訪ねた教え子から、直接受け取ったらしい。その場に居合わせた響が『ちゃんと先生してるのね』などと発言したという余計な情報まで聞かされた。

「……」

 響——この名前を口にするたび、妹が動揺していたことを、兄は見逃さなかった。

 動揺といっても、けっして悪い意味合いではない。程度も微弱なものだった。少しそわそわしたり、少し上の空だったり、少し頬が赤くなったり……と、まあこんな感じだったのだが。

「……はあ」

 大したことではないと自分に言い聞かせるも、ほんのり気が気でないというのが正直なところである。

 紫と響を近づけたのは、ほかでもない自分だ。それにはちゃんと理由があったし、こうなることも予想していた。妹に対する響の気持ちを知ってからはとくに。むしろ、こうなることを望んでいた部分もないわけではない。

 とはいえ、どうしたって心配は募るわけで。

 これだけそわそわしている自分を見れば『見ているこっちが落ち着かない』と言われても仕方がないと、先日の親友の発言に妙に納得した。

 大切な妹。大切な親友。この二人の幸せを、馨は誰よりも願っている。複雑な心境ではあるが、馨にとって一番の願いは、やはり二人の幸せなのだ。

 明日の午後。響は、イギリスへと帰国する。

 はたして、二人はどんな答えを出すのだろうか。たとえそれがどんな結果に繋がったとしても、自分は二人を信じるだけ。この夏、そう決めたのだ。

「……イギリスか」

 ずるずると滑り落ちるように、ソファに浅く腰掛ける。

 天井を仰ぎ、何か未来への暗示を見出した馨。自身の右腕で両目を覆うと、緩んだ口元から深い溜息を吐いた。



 ◆ ◆ ◆



 ——明日、わたしとデートしてください。


 昨日の夕方、彼に送った一通のメッセージ。

 緊張したし、恥ずかしかったけれど、勇気を出して連絡した。この夏、彼が日本で滞在する最後の日を、どうしても一緒に過ごしたかったから。


 ——喜んで。


 二つ返事で承諾してくれた彼の言葉に、ほっと胸を撫でおろした。同時に、彼と過ごす時間を想像し、顔を綻ばせた。

 自分は本当に彼のことが好きなのだと、改めて実感した瞬間だった。


 プランはすべて紫が考えた。

 まず、お気に入りのカフェでパスタランチを食べ、その後水族館へと移動する。暑さに留意したうえで、とにかく〝夏〟を楽しめるように計画した。響と一緒に、最後までこの〝夏〟を、精一杯楽しめるように。

 一分一秒でも長く一緒にいたい。もちろんそう願ってはいるけれど、夜は家族水入らずで過ごしてほしかったため、夕飯時までに帰宅することを提案した。

 そして、カフェでランチを済ませた直後の午後二時前。

 二人は、都内某所の水族館に到着した。

「おー。またずいぶんと様変わりしちゃったわねー」

「七年前にリニューアルしたそうです。……ここ、来たことありますか?」

「ええ、小学生の頃だけどね。夏以外にも、年に何度か遊びに来てた記憶があるわ」

 懐かしそうに、響は当時を振り返った。もちろん、彼がリニューアルしたここを訪れるのは初めてである。

 以前に比べると、建物の雰囲気ががらりと変わっていた。森を彷彿とさせるかのように外壁に沿って樹々が立ち並び、ウォーターフォールが入り口付近を幻想的に演出している。現代建築と自然を上手く融合させたアーティスティックな外観。入館する前から、大いに好奇心をそそられた。

「紫ちゃんは? 来たことあるの?」

「はい。五年前の夏に、一度だけ」

 響の問いに、紫はこくりと頷いた。頬を緩め、微笑を湛えるも、なぜか視線は足下へと向けられている。

 紫が初めてここを訪れたのは、五年前の八月十六日。花火大会が開催された、その午前中のことだった。

 あまりの美しさと楽しさに、紫は、たった一度ですっかりここの虜になってしまった。滞在期間中に是非もう一度訪れたい。連れてきてくれた兄にそう伝えると、兄は快諾してくれた。京都に帰る日が近づいたらまた来よう。そう約束まで交わしたのに。

 結局、今日まで来ることはなかった。来ることが、できなかった。

「だから今日、響さんと来ることができて、すごく嬉しいです」

 顔を持ち上げた紫が笑う。その表情は、眩しいほどに精彩を放っていた。

 この夏、彼と出会ったから……彼を好きになったから、こうしてまた、ここに足を運ぶことができたのだ。

「……アタシも嬉しいわ。紫ちゃんと来ることができて」

 これに対し、響は同じように目を細めた。紫の頭にそっと手を乗せ、優しく撫でる。

 おそらく彼は今、かつてここへ一緒に来たであろうのことを思い出しているのだろう。細めた目の奥に浮かんだ色を、紫はしかと感じ取っていた。

 自然と手を取り合った二人。けっして過去に蓋をすることなく、しっかりとした足取りで前へと進む。その後ろ姿には、互いの心が通い合ったがゆえの、深いあたたかさが滲んでいた。

 館内では、終始紫のペースに響が合わせるといった形だった。いつもは、響の真横か半歩後ろをついて歩くことの多かった紫だが、ここでは珍しく半歩前を歩いている。

 頭上を泳ぐペンギン。愛らしい仕草で魅了するラッコ。青白く神秘的な光を放つクラゲ。悠々と回遊するマンタやサメ。

 中でも二人が長時間滞在したのは、メインフロアにある巨大水槽の前だった。大小さまざまな、色とりどりの魚たちが、争うことなく見事に共存している。

 ダイナミックなその様相に目を奪われ、心を奪われた紫は、今にも貼りつかん勢いで水槽の中をじっと見つめていた。

「ほんとに水族館好きなのね」

「え?」

「すっごい目がきらきらしてる」

「!」

 無意識だったのだろう。響の指摘ではっと気づいた紫は、この薄暗い空間でもわかるほどに顔を赤く染めた。責められたわけではない。むしろ肯定的に捉えられているのだとわかっていても、なんだか恥ずかしい。ものすごく恥ずかしい。

 一方の響は、こんなふうにおたおたする彼女の姿にさえ、愛おしさを募らせていた。思わず抱き締めたい衝動に駆られるも、邪念を振り払うように咳払いを一つ。ここは公共の場だと自分を説き伏せ、全力で自重した。

 ひんやりとした独特の空気に、人々の声が溶け込む。夏休みということもあり、それなりに来場者も多かったけれど、水槽の前には不思議な静けさが漂っていた。まるで、目の前の小さな小さな海に、すべての音が吸い込まれているかのように。

「……あ、あの」

 ようやく互いの心に平穏を取り戻した頃。

 紫が、響のほうを見上げて呼びかけた。

「なあに?」

 小首を傾げ、彼女の呼びかけに応じる。この夏、何日か彼女とともに過ごしてきた響は、彼女の心……その表情の機微が、少しずつわかるようになってきた。今のこの表情は、何かを知りたがっているときのそれだ。

「イギリス……というか、ロンドンにも、もちろん水族館ってあります、よね?」

「ええ、あるわよ。市内に大きなアクアリウムが」

「行ったことありますか?」

「二回だけね。こっちの水族館とは特色が違うけど、向こうは向こうで面白いわよ」

「……面白い?」

「うん。いろんな化石展示してたり、水槽の中にモアイがいたり」

「モアイ!?」

「っそ。モアイ。面白いでしょ」

 なぜモアイ……?

 響曰く、今自分たちが見ているよりも大きな水槽の中に、モアイ像が数体設置されているとのこと。そして、その横をサメなどが普通に泳いでいるらしいのだが、紫にはまったくといっていいほど想像することができなかった。

 なぜモアイ。いくら考えたところで、疑問が解消されることはない。けれど、確実に興味は深まった。その水族館に。

 彼の暮らす、異国の地に。

「行ってみたいな……イギリス」

 紫の口からぽそりと漏れた本音。無自覚から発せられた弱々しい声だったが、響はそれを聞き逃さなかった。

 彼女の手を、無言のまま強く握り締める。すると、彼女もそれに応えるように、きゅっと握り返してくれた。

 この時間が、いつまでも続けばいいのに——なんて、叶うはずのない希望に想いを馳せながら。

 しばらくのあいだ、二人は小さな海を見上げていた。


 無情にも時間は流れ、しだいに移ろう空の下。

 水族館をあとにした二人が向かった先は、それぞれの家ではなく、三日前に花火を見上げたあの丘だった。

 まだ離れたくない。

 どちらも口に出したりはしないが、これが二人の共通の願いであることは間違いなかった。

「静かですね」

「いいところでしょ?」

 夕日に染まる街を並んで見下ろす。鼓膜を揺らすのは、鳥のさえずりと、ひぐらしの鳴く声だけ。

「落ち着きます。すごく」

「いつでも自由に来てちょうだい。紫ちゃんなら、祖父母も大歓迎だわ」

 この場所に人が立ち入ることは皆無に等しい。なぜなら、ここは久我の私有地だから。そのことを響から聞かされたのが、なぜか遠い昔のことのように感じられた。

 彼に出会ったのも、彼の過去を知ったのも、彼と花火を見たのも……それらすべてが、なぜかひどく懐かしい。

 明日の今頃、彼はもう日本にはいない。午後一の便で、イギリスへと飛び立ってしまうのだ。

 空港へは、兄が車で送り届けることになっている。兄には、自分も同行させてほしいとの旨を、昨日の時点ですでに伝えた。

 彼と過ごすかけがえのない時間。

「わたし、響さんと出会えて、本当に良かったです」

 それももう、終わりを迎える。

「あなたを好きになって、あなたに好きになってもらえて、本当に良かっ……——」

 紫は、最後まで言葉を伝えることができなかった。嗚咽とともに瞳から零れた大粒の涙が、夏草の上へと滴り落ちる。

 涙を受け止めるように抱き締めてくれた彼。そんな彼の胸元に顔をうずめ、声を上げて咽び泣く。

 誰かの前でこんなに泣いたのも、誰かをこんなに好きになったのも、生まれて初めてだった。

 この夏がもたらした特別な出会い。

「アタシもよ。アタシも、紫ちゃんと出会えて、好きになって、好きになってもらえて、本当に良かった」

 それは、響にとっても同様で。

 紫の背中に回した腕に、よりいっそう力を込める。腕の中の彼女が、愛おしくて愛おしくてたまらない。

 日本行きの航空機に搭乗する直前まで、帰国することを躊躇っていた。あのとき、何が自分の背中を押したのかはわからないが、結局気持ちの整理などつかないままに、十年ぶりに日本の地を踏むこととなってしまった。

 今思えば、この子が、自分と故郷を結んでくれたのかもしれない。

「イギリスに帰ったら、真っ先に母に会いに行くことにしたの。怖いけど、でも、紫ちゃんが言ってくれたとおり大丈夫だって、そう思えるから。……だから紫ちゃんも、大切な夢を諦めないで」

 涙に濡れた紫の頬を、響は両手でそっと支えた。潤んだ黒い双眸には、目尻に涙を浮かべた自分が映り込んでいる。

「響さ——」

 鼻先が触れるよりも、もっとずっと近い距離。

 呼びかけた彼女の声は、彼の吐息と重なり合い、やがて一つになった。

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