二章 屍はなにを語る
漆黒の地平に吹雪く花粉の風は、ディスプレイに生じたノイズのようにも映る。メットを外せば、そこには群青の空が伸び、穏やかな緑が揺れているのかもしれない。外の世界を知られては不都合な、どこぞのクソ野郎の施した洗脳が、今ここにある世界だという可能性は捨てきれない――。
花粉の恐ろしさを嫌というほど知っていながら、ハーネス・ボンドは馬鹿げた妄想を脳内に垂れ流す。そうでもしていなければ、精神の均衡を保てない、というわけではない。単に退屈なのだ。
人類の虚しい反撃によって死した地平は、風景としての価値も失った。不安定で無味乾燥な外界〝デッドランド〟は、そうして
「〝鉄塔〟まで、距離およそ21000。バイタル異常なし。酸素残量95%オーバー、異常なし」
コイル・バルデネスからの定時連絡が、ハーネスの妄想を吹き払った。他隊員からも彼女と同じような返事がある。
ハーネスはディスプレイの情報を確認する。異常な数値は見受けられない。呼吸も安定している。
「こちらハーネス。バイタル異常なし。酸素残量95%オーバー、異常なし」
出撃前の憂鬱はどこにもない。空恐ろしいほど穏やかだった。
むしろ、穏やか過ぎて緊張感を欠いている。F237へ進入するのは日をまたいでからになるが、このような心もちのまま任に当たるのは却って危険が予想された。
皆、迷いがあるようには見えない。弛緩している様子もない。スーツの表面が毛羽立つような緊張ばかり伝わってきて嫌になるほどだ。
だが、緊張を保ち続けられるのも才能である。充分な体力が備わっていなければ、緊張は維持できない。彼らは背中をあずけるのに申し分ない実力者であり、どこまでもシリアスだ。ひょうきん者のダス・マブルでさえ、任務中には軽口一つ叩かず、BCを前にすれば機械のような立ち回りを見せる。
見習うべきだな。
ハーネスは嘆息を呑み、思いなおす。
緊張を維持できなければ、待っているのは死だ。退屈と引き換えに、地獄への片道切符を押し付けられては堪らない。地上から花粉の風が消えるそのときまで、チケットもぎりには暇をしてもらおう。
気をひきしめ、決然と死の灰を踏んだ時だった。
カウトス・フェラーの通信が隊員たちの鼓膜を震わせたのは。
『……10時方向、異物確認。照合求む』
すぐにコイルの返答がある。
『了解』
環境観測士の装備は、戦闘員とわずかに異なる。
その一つが、照合機能。
不審な物体を発見したとき、それが既知の物体であるか否かを判断するために用いられるものだ。過去の調査映像をデータベースからひき出し、現在の映像と照らし合わせるのである。
しばらくは待機が続く。
物体の照合はAIが自動で行うが、カテゴリの選別は手動で行わなければならないからだ。
ハーネスはその間に、カウトスが示した方向へ目を転じた。
たしかにおかしな物体がある。
黒く染まった大地の上に、黄色い塊が転がっているのだ。
ここから見た限りでは、花粉の堆積したなにかとしか言いようがない。ハンドヘルドモニタを操作し、カメラを起動、ズームアップするも、やはり黄色くずんぐりとしたなにかとしか形容できない。唯一、ハーネスにも判別できるのは、その花粉の堆積具合から、放置されて1日以上経過しているだろうということくらいだった。
2、3分経過した頃、コイルから通信が入った。
『……出ました。照合結果、不明。同座標での物体確認記録なし』
『妙だな……』
答えたのは、班長のライアン・オクトだ。
『照射反応はどうなってる?』
照射反応とは、特殊な光を照射し、その反応を見ることで、有機物か無機物か判別する機能である。
『無機反応が主ですが、微かに有機反応が見られます』
『花粉の反応ではなく?』
『……おそらく。調査を推奨します。生まれたてのBCの恐れがありますので』
『みんな聞いたな? 一時コースを変更する。念のため武装展開を忘れるな』
一斉に『了解』の応答。
ハーネスは細く息を吐く。
こういうことがあるから、デッドランドでも気が抜けない。コイルの予測したように、生まれたてのBCであるとしたら危険だ。森を形成せずとも、BCの運動能力には充分な殺傷力がある。
一行はライフルを構え、未確認物体へ向けて慎重に行進する。
バイタルに異常はない。メカ野郎の忠告もない。油断もない。ぬかりない。
未確認物体との距離が5メートルほどになると、班長から通信がある。
『包囲』
一行は、合図とともに未確認物体の周囲へ散開する。ライフルの銃口は、無論、それに向けられたままだ。
だが、それが意味のないことだとはすぐに解った。いや、すでに解っていた。
そのシルエットは、明らかに人間のそれだったからだ。
『なるほど。無機と微かな有機反応か。メット越しには、有機の大きな値もでないだろうな……。みんな構えを解いてくれ』
ライフルを背中にしまいながら、一行はそれぞれ小さな嘆息を落とした。
隊員の未帰還が意味することなど、誰しも解っている。しかし実際に死体を確認すると、その現実の重みが、憂鬱に圧しかかってきたのだ。
『カーター、頼めるか?』
『了解です』
カーター・オルバは、何事も手際がいい。BCを殺すのも、物を破壊するのも、解体するのも――。花粉にまみれたスーツにダガーを通し、死体の状態を確認することさえ、彼は躊躇なくやってみせた。
その傍らにコイルが屈みこみ、他隊員たちは手を組み黙祷を捧げた。
やがてコイルが言った。
『どうやらマルス・ラナー氏のようです』
スーツの製造番号から個人を特定したらしい。
マルス・ラナーは、第7班の環境観測士を務めていた男だ。
『マルスからの定時連絡、識別信号の記録はどうなってる?』
『定時連絡はおよそ1週間まえのものが最後です。識別信号は……あれ? 断続的ではありますが、4日前、ここから西方1200の地点で反応があります』
『なに……?』
これには全員が首を傾げた。
ハーネスはダスと顔を見合わせる。ダスはさらに肩をすくめた。
そこにカーターの抑揚のない声が割って入った。
『外傷を確認。コイル、頼む』
カーターが傷口の一部を採取して掲げた。
するとコイルが、小型パックから針の付いたリモコンめいたものを取り出す。肉片に針を挿入すると、リモコンのディスプレイが点灯した。無数のアルファベットと数字の羅列が浮かび上がる。
あれを眺めていると頭が痛くなる。ハーネスはカーターの背中を眺めた。
『BCの反応……なし』
その声から、コイルの当惑が伝わってきた。
傷口からBCの反応は確認されなかった。つまり、マルスはBCの攻撃によって傷ついたわけではないことになる。
考えてみれば、当然のことのようにも思える。BCは植物と同じように地中に根を張るため、森の外へ移動することはできない。彼の識別反応は、4日前にも、ここからそう遠くないところで確認されているのだから、BCの襲撃が死因であるはずなどないのだ。
だが、なにもかもが奇妙だ。
それはハーネスも感じていた。
BCが直接の原因でないとしたら、マルスを殺したのは人間しかいない。仲間内でなんらかのトラブルがあったのかもしれない。激しいストレスにさらされる環境下だ。望ましくはないが、ありえない話でもない。
それはそうとして、なぜマルスは連絡を寄越さなかったのだろうか。
通信機が破壊されたのか?
しかしその可能性は、すぐさまカーターの声によって否定される。
『おかしい。バッテリーは切れてるが、通信機に異常な個所は確認できない』
そこに班長の唸り声が続く。
『他隊員の識別反応はどうなってる?』
『いずれもF237で消息を絶っています』
『馬鹿な……。じゃあ、誰がマルスを殺したんだ?』
全員のバイタルが正常値を逸したその時だった。
何事にもドライなカーターが、不意にうめき声を上げた。
『これは、なんだ……』
続いてコイルの短い悲鳴があがった。
隊員たちは一斉に屍を覗き見た。
「おいおい、こいつはどうなってんだよ……」
ハーネスは視界の端で、血圧や心拍の値がはね上がるのを見た。
だが、そんな数字を見ずとも、肉体が拒絶反応を示しているのは、感覚で理解できる。痙攣した胃が、中のものを上へうえへとせり上げる。メットの中がゲロの海になるのはごめんだ。ハーネスは何度も唾をのみこみ堪えた。
一方コイルとカウトスは、屍から目を背け、えずいた。ダスはメットの上から額を押さえるような仕種をしている。
無理もない。
カーターが仰向けた屍の状態は、およそ同じ人類とは思えない奇怪な姿だったのだから。
頭部を覆うメットは千々に砕けていた。その薄暗がりの中には、原型を留めない顔が眠っていた。
眼球を貫き、眼窩から伸びるのは、触手状の黒い物体だった。それは先端で拳ほどのサイズにまで膨れ上がり、嚢胞めいたものを形成している。表面に稲妻型のひび。そこから緑の液体がじくじくと漏れ出してくる。
鼻は中央で割れていた。中で剣山のように連なるのは、やはり黒い物体。眼窩から生じたものより硬質な印象で、無数に枝分かれしている。口や耳からも同様のものが突出していた。
『……BC、反応は』
ライアンの震えた声が催促する。
コイルはかぶりを振って、測定デバイスをカーターに手渡した。
彼はやや逡巡した様子を見せたが、すぐにそれを嚢胞部位に突き刺した。ディスプレイが点灯し、アルファベットと数字の羅列が浮かび上がった。
カーターはそれを理解できない。
しかし、この場にいる誰もが、その成分がなにに由来するものなのかを察していた。
デバイスを受け取り、ディスプレイに目を落としたコイルから、苦しげなうめき声が漏れた。
そして彼女は言った。
『BC反応……あり』
ハーネスは乱高下する数字から目を背け、首に提げたシガレットの感触を探した。
けれど、スーツ越しでは、それを探り当てることはできなかった。
目を瞑っても、煙の酩酊は訪れない。吐き気ばかりが胸を侵していた。
NATURAL BREAKERS 笹野にゃん吉 @nyankawa
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