一章 里帰り
花粉防護ドーム壁に覆われた居住コロニーE4079。
冴えるような緑の地平、農業区画を見下ろすようにして、その建物はあった。
子どもが無邪気につみ上げた積み木のごとく、歪で不安定な形をなしたそれは、肥沃なる大地を奪われた人類の恨みをこめて〝
その三階の喫煙ルームに、二人のやさぐれた男の姿があった。
「7班からの定時連絡が途絶えて、今日で1週間だとよ。そろそろオレたちが呼ばれる頃じゃねぇか?」
咥えていた機械式シガレットを吐き出し、ダス・マブルが虚ろに息を吐いた。その隆々とした筋肉は、赤っぽくギラついた肌に覆われている。まるで、幾度も折って鍛え上げられた鋼鉄の兵士だ。ところが、その相貌にはりついた八の字の眉だけが、ひどく頼りなげな印象を与える。
ハーネス・ボンドは、同僚を横目に一瞥し、返事もなく手のひらを上向けてみせた。「返せ」のサインだった。
ダスは大仰に肩をすくめると、しぶしぶシガレットを手渡した。
ハーネスはそれを噛むように咥え、特に旨くもなさそうに煙の吐息を漏らす。
「……たて続けに2班落ちるってのは、なかなか気味の悪い話だ」
「だよな。オレはそんなところ行きたくねぇなぁ」
「誰だって好きこのんで森の中なんざ入りたかねぇよ」
BC殲滅部隊第7班が出動するさらに3週間前、第11班が花弁駆除のためにF237へ向かった。部隊は普通3日もすれば帰還するが、11班の定時連絡は出動2日目には途絶え、ついに帰還しなかった。7班はその調査・駆除を目的とし改めて派遣されたが、それも未だに連絡がない。予備の栄養液・酸素量から考えても、全滅したと見るのが自然だった。
ダスの言う通り、近いうちに、次なる報復部隊が選定されるだろう。そして今、〝ザリチュ〝に待機している実動班は、ハーネスたちの所属する第3班だけだった。
陰鬱な気分でもう一度煙を吐き出したところに、ダスが追い打ちをかける。
「……つまりさ、オレたちもうすぐ死ぬかもしれねぇってことだよな」
飼い主に叱られた犬のような情けない声だった。
ハーネスはすかさず、その鼻先にシガレットを突き付ける。
「縁起でもないこと言うんじゃねぇ。自暴自棄になって、てめぇが足許掬われるのは勝手だが、俺まで地獄に引きこもうとするな。いい迷惑だ」
ダスはこれにも肩をすくめて答えた。
配属当初はこのジェスチャーが嫌いだった。クソみたいな映画を観させられたような憤りを感じたものだった。
だが、こいつはこういう奴だと思うしかない。恨みを募らせる相手は、BCだけで充分だ。大気すら信用ならないこの地上で、人間くらい信頼しなければ、とてもやっていられない。
「それに仲間が一人減れば、俺の生存確率も減る。お前も死ぬ気で生き残ってくれなくちゃ、俺が困るんだよ」
吐き捨てるように言ったつもりだったが、ダスはガキのようにニヤニヤと笑った。それが無性に腹立たしく、虚しくもあった。ハーネスは心にぽっかりと空いた穴を意識した。
やっぱりこいつはクソ映画みてぇな野郎だ。
ハーネスはシガレットを咥え直し、たっぷり含んでから、ダスの顔に煙を吹きかけてやった。
「おい、てめっ!」
それはよほど目に沁みたようだった。筋骨隆々の大男が、レモンをかじった子どものように舌をだして涙目を拭う様は、少々笑えた。
ぶつくさ文句を言うダスを宥めていると、不意に喫煙室のドアがかちゃりと開いた。
ひょっこりと顔を出したのは、金髪碧眼の女だった。煙で緩んだ頭が、一気に冴えるような美女だ。BC殲滅部隊第3班の紅一点、環境観測士のコイル・バルデネスである。
ハーネスはダスを真似、頭が3つに見えるほど肩をすくめ、シガレットを掲げてみせた。
「よお、別嬪さん。あんたも吸うか?」
それに返ってきたのは苦笑だった。
コイルはシガレットの残り香にもむせ返るような煙嫌いで、喫煙ルームどころか、二人に近寄ることすら苦手としていた。
「コイルがここに来るなんて珍しいなぁ」
そう言ったのはダスだ。
その横顔を見て、ハーネスはおめでたい奴だと思ったが、口には出さなかった。
コイルは多少咳き込んでから、ダスに苦笑を返すと、すぐに目を逸らして言った。
「残念ながら、一服しに来たわけじゃないの」
ダスがこれに怪訝な眼差しを返した。まだ何事か理解できないらしい。
ハーネスは煙のない息を吐き出し、やれやれと天を仰いだ。
コイルが続けた。
「……班長が呼んでるわ」
そこでようやくダスが顔をしかめた。大仰に肩をすくめるのも忘れなかった。
◆◆◆◆◆
死に対しては、漠然とした恐怖がある。だから死地に飛びこむとなれば、暗澹とした気分にもなろうというものだ。
だが、ハーネスは、それを肉体からのフィードバックだと考えている。肉体は生きるために活動しており、それゆえに死を拒絶する。その一部が精神面にも表れる。たったそれだけの反射に過ぎない。
つまりハーネスは、生に対して強い執着があるわけではない。すすんで死のうとまでは思わないが、強く生きたいと望むことはもうない。死地に赴くのに気後れするのは、だから生きたいという執着ではなく、苦しみたくないという逃避に過ぎなかった。
不意に3年前の光景が脳裏をよぎる。
洞のごとく果ての見えない
声だ。
ハーネスは知っている。それが声だということを知っている。
その後、声にじっと耳を傾けてしまうことも知っている。
ハーネスは唾を吐き捨てようとするが、頭部がメットに覆われていることを思い出してやめた。
「……クソ」
ハーネスは大きくかぶりを振って、過去の幻影を振り払う。
ディスプレイに表示されたバイタルの乱れを認め、自省的になりかけていた己を嗤った。
BC殲滅部隊第3班は、案の定、F237への出動命令を受けた。
任務内容に、花弁駆除は含まれていない。今回の目的はあくまでデータの回収にある。全滅した2つの班が記録していたと予想される映像や音声、マップを回収、復元することで、今後の攻略に役立てようというのが、上の判断らしい。
7人の隊員は、すでに2重皮膜のスーツで全身を覆い、フルフェイス型ディスプレイメットを装着済みである。
背中には小型パックが3つ。1つは栄養液、1つは酸素、最後の1つに予備バッテリーやサバイバルセットが詰め込まれている。隊員は身体の一部に、栄養液や酸素を取り入れるための接続管をインプラントしているので、2つのパックは、スーツの中ですでに直結されている。ハンドヘルドモニタから操作することで、予備が吸入される仕組みである。
その他、拳銃、ダガー等の使用頻度が多く予想される装備は、スーツの腕部や脚部に収納されており、いつでも着脱が可能だった。
それらの準備を整えた上で、彼らは、E4079、3重構造コロニーゲートの開門を待っているのだった。
ハーネスのバイタルには、未だ乱れが確認できた。ディスプレイの右端には「正しい呼吸を心がけましょう」の赤文字が明滅している。今はまだ呼吸弁が開かれているので、スーツ内の酸素は消費されないが、出発までにリズムを整えておかなければならない。呼吸の乱れは、酸素を枯渇させ、窒息死のリスクを高める。
囚われるな。過去はもう済んだことだ。いちいち苦しんだって、今更取り返しはつかない。過去は現在になんら影響を与えることはできない。
ハーネスは暗示めいて、何度も己にそう言い聞かせた。
「どうした、ビビってるのか?」
隣に立ったカウトス・フェラーの神経質そうな眼差しが、メットの中で光った。
ハーネスは苦い笑みを噛み殺して答えた。
「ビビってはいねぇ。億劫ではあるがな」
「そうか。なんでもいいが、首尾よく頼むぜ」
「ああ、なんとかやるさ」
ハーネスは懐に収めたシガレットを意識した。任務には不要なものだが、これがあると落ち着くのだ。煙の味を思い出そうとするだけでも、多少トラウマから意識を逸らす役に立つ。タリスマンのようなものだ。
何度か深呼吸を繰り返してから、改めてカウトスの横顔を一瞥する。
「……?」
目が合ってしまった。
その微妙な気まずさの中、この緊張や迷いは、自分だけの問題ではないのだと、ハーネスは思わされた。そういったネガティブな感情は、なんらかの形で仲間たちにも伝播するのだ。特に平時は淡々と仕事をこなす人間が乱れていれば、隊に生じる影響は小さくない。寡黙なカウトスが珍しく話しかけてきたのも、目が合ったのも、この複雑な感情の一端が伝播したからに違いなかった。
だが、容易にトラウマを払拭できない理由があった。
それは今回の任務に関することだった。この7人の中でたった一人、ハーネスだけが、そこに特別な意味をもっているのだった。
『ハーネス、調子はどうだ?』
そのとき、メットの中に響き渡ったのはライアン・オクトの声だった。第3班班長であると同時に、立場上、ハーネスの過去を知る男だ。
ディスプレイに表示された情報から、これが固有回線を用いていることがわかった。他隊員に二人の会話が聞かれることはない。気を遣われているらしかった。
「特に問題ありません」
『本当か? 無理はしてないだろうな?』
「見てのとおりですよ」
先頭の宇宙服が振り返った。
『中が暗くてよく判らん』
ハーネスは小さく笑う。
「でしょうね。まあ、さっきはちょっと動揺しましたよ。ああ、里帰りかなんて、おセンチになったもんです」
軽口を叩くと、短い沈黙のあとに、ライアンの返答があった。
『……里帰り、か。冗談が言える分には心配なさそうだな』
その言葉を最後に、通信は切断された。
いよいよコロニーゲートが花粉妨害エアーの角度調整を終え、開門を始めたのである。
ハーネスは呼吸弁を閉じると、他隊員とともに第1隔壁へ進入した。再度確認したバイタルは、血圧こそやや高いものの、特に問題のある数値ではなかった。メカ野郎の「呼吸を正せ」という忠告も消えている。
一行は続けて第2隔壁へと進入する。殺人花粉を決して内部へ侵入させないため、ここからはすでにエアーがハリケーンのごとく吹き荒れている。少しでも気を抜けば、鍛え抜かれた殲滅部隊隊員であっても、転倒の恐れがあった。
そんな油断ならない状況の中、ハーネスはメットの中の唇を微かに歪めた。
そうだ、ちょっと里帰りするだけさ。
最後の隔壁がゆっくりと口をあけた。
黄味がかった風が歓迎の腕を拡げた。
BCとの大規模戦争の名残りで焦土とかした地平は、どこまでも黒かった。まるで、星のない宇宙が地に寝そべっているかのようだった。
〝デッドランド〟
その姿はいつまでも変わりがない。
ハーネスが独り救いを求め歩いてきた、3年前と同じだ。
だが、彼のかつての故郷は、この地平のどこにも残されていない。
3年前のあの日、ハーネスは故郷を失ったのだ。
居住コロニーS0017は、空前絶後の大災害によって、花粉と焦土の地へとさらされたのである。
動的性質に乏しいとされていたBCが、突如、地下から発生したのは、誰もが予想だにしない事態だった。
BCは瞬く間に人類の生活圏を脅かした。
緑の大地は砕け、無色の大気は膿のように濁った。水路は根となり、アンテナは花となった。人類の回復とともに、ゆっくりと成長を続けてきた建造群は、たちまち黒々とした大樹に取って代わられた。
文明の力は失われ、不気味な森だけが残された。
そして今、その地は「F237」と呼ばれている。
死した故郷へ向け、ハーネスは重い一歩を踏み出す。
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