土漠に埋もれ、どこへ往く
笹野にゃん吉
墓守
土の中へ沈んでゆく母を見ていた。
祖父の掻く土の行方を見ていた。
シャッと振りかけられた細かな土が、ひび割れた棺の表面を汚すのを見ていた。
アルカは母親を亡くした。息を引き取ったのは、一昨日の夜のことだった。
母がもう長くないことは、幼いアルカにも解っていた。母は枯れ木のように細かったし、蝙蝠の鳴き声よりキンと耳に響く咳の中には、血の吐き出されるゴボゴボという音も混じっていたから。
真っ赤な槍のような光が遠く沈んで、身体の芯まで凍える夜が来て、咳も血も吐かなくなった母は、やっと楽になれたのだとアルカは思った。
その代わりに、アルカはちょっと寂しくなった。母の痛みのほんの僅かな部分を、胸の中に借り受けたような気持ちだった。
そして今、土の中へ消えゆこうとしている母を見て、その切なさが鋭利な痛みに研ぎ澄まされてゆくのを感じていた。
アルカは、土の中にスコップを刺し入れた祖父の、その解れた裾を摘まんで、くいくいと引いた。祖父が振り返った。そのよく日に焼けた頬が、赤い光を照り返して、目に痛かった。
「どうした、アルカ?」
アルカは祖父の顔をとても見上げてはおれず、今や角を出すばかりとなった棺を指差して言った。
「ねぇ、おじいちゃん。おかあさんはどこへ行くの?」
訊ねるまでもなかった。母は土の中へ行くのだ。もはや、自力で棺から出ることさえかなわない。
けれど、土色の壁に隔てられたこの小さな町で、祖父は「ハクシキ」な人として知られていた。南西のがらんとした広場、そこにぽつぽつと並んだ腐った木の十字架の墓場の傍ら、ちょんと控えるバラックに住み続けてきた祖父に学はないが、彼は実に多くのことを知っていた。本の代わりに祖父の許を訪ねてくる者も少なくなかった。
だからアルカは、きっと自分が求めている以上のものを、祖父がもっているに違いないと確信していた。
祖父は刺したスコップをそのまま放り出して、膝を折った。そうやって、自分と同じ高さから見つめてくれる祖父が、アルカは好きだった。
「お母さんはどこにも行かないよ」
早速意外な答えが返ってきて、虚を衝かれるような思いがした。
「どこにも? でもおかあさんは、死んじゃったんでしょ?」
「そうとも」
「じゃあ、おかあさんは、やっぱりどこかへ行っちゃうんじゃないの?」
「いいや、お母さんはここにおるじゃろ。ほれ」
そう言って祖父は、掘りかけた穴の中を指差した。たしかに棺の中には母の遺体が、そのまま納められている。ゆっくりと横たえられ、蓋に釘を打たれるところまで、アルカもはっきりと目にした。
けれどアルカの言いたいのは、母の身体がどこにあるかということではなかった。では、なにを知りたかったのかと考えてみると、ちょっと難しい。それでも物知りの祖父ならば――と、すっかり期待していたアルカは、馬鹿げた答えにその思いを萎れさせた。
祖父はそんなアルカの気持ちを知ってか知らずか、続けてこう訊ねる。
「アルカはお母さんに会いたいのかい?」
「うん」
即答した。
すると祖父は、その頭に手をのせて切なく笑った。
「そうだろうね。お祖父ちゃんも、きっとアルカと同じ気持ちだ。でも、お母さんにはどうして会えないんだろうね」
それはアルカのほうが訊ねたいことだった。
死が別れの別称みたいなものであることは、アルカにもなんとなく理解できる。生きていれば、棺に納めて土の中へ埋めたりはしないけれど、死んでしまえばもう会うことはできないから、きっとそういうことをするのだ。
そこでアルカは、ふと「会う」というのは、どういう意味だろうかと気になった。先程は祖父の言葉を馬鹿げていると思ったが、ちょっと真面目に考えてみると、たしかに土を掘り返して棺を壊してしまえば、母には会えるのだ。
だが、心の奥のほうで「それは会うなんて言わない!」と叫んでいる自分がいる。それに得心している自分もいる。
それなのに、なぜそれを「会う」と言えないのかは説明できなかった。
アルカは返答することなく、小さく首を傾げ、黙っているしかなかった。その首をくすぐるように、祖父の手が撫でた。強い陽射しにめくれ上がった皮膚が、今更ながらひりひりと痛んだ。
「アルカ、実はね、お母さんにはいつだって会えるんじゃよ」
「え、会えるの?」
「ああ、会えるよ。だけど、お母さんの声を耳で捉えることはできないし、その手で撫でてもらうこともできない。人が死ぬというのは、そういうことなんじゃよ」
アルカはますます首を傾げ、遠く隔たった母との距離を感じた。寂寥は時とともに膨れ上がっていき、悲哀まで混ざって酸っぱくなる。それが母に会えないがゆえの痛みだと解っている。解っているはずなのに、解せない。祖父は母に「いつだって会える」というのだ。もう会うことはできないのに。
「じゃあ、おじいちゃん。おとうさんに会うことはできるの?」
「うーん、それはな……」
祖父がちょっと困ったようにこめかみを掻いた。
アルカの父は、アルカが物心つく前に亡くなってしまった。北の国境では戦争が絶えず、父はそこに兵士として駆り出され、ついに帰ってこなかった。棺に納められることもなければ、肉片の一つさえ戻ってくることもなかった。
けれど祖父は、迷った末、そんな父にさえ「会えんこともない」と言った。そしてこう続けた。
「そもそも、会うというのは、どういう意味だと思う? こうして話をすることかな? それとも触れ合うことだろうか? あるいは互いに見つめ合うことだろうか?」
アルカにはそれ以上の答えを掘り出すことができなかった。
「そうじゃないの?」
「もちろん正しい。だからその意味で、アルカもお祖父ちゃんも、お父さんやお母さんに会うことは二度とできない。でもね、会うという意味が、それだけじゃないとしたら?」
「どういうこと?」
祖父の言葉は難し過ぎて、アルカには解らない。暑さと難しさで、頭がくらくらする。軽く髪の表面を撫でると、鉄板のように熱かった。アルカは頭をパンパン叩いて熱を払った。
「お祖父ちゃんは墓守をしてるね」
祖父はすぐに答えをくれなかった。アルカはちょっとイライラしたし、不意に転換した話の行方がどこへ辿りつくか判らずに当惑した。
「そうだけど、それがなんなの?」
「墓はなぜ建てるんだろうね」
「え?」
祖父はもう長い間墓守をやっている。アルカが生まれるよりも、うんと前からもう墓守だった。
けれどアルカは、どうして墓を建てるのかなんて、その意味を考えたことが一度もなかった。祖父にそれを訊ねたこともなかった。人が死ぬから墓を建て、それを祖父が守り、管理する。当たり前のことだと思っていたけれど、考えてみると、奇妙なことだと思った。
人が死ぬとひどく臭うことは、アルカも知っている。どんどん醜い姿へ変わってゆくことも知っている。だとしたら、それを防ぐためとか、隠すために、人を埋めるのじゃなかろうか。
でも、それだけの理由なら、どうしてその上に墓まで建てるのだろう。死体を棺に入れてから埋めるのだろう。よく解らないことが多かった。
不明だとは思いながらも、あえて思ったことを口にした。
「死んだ人は臭いし、怖いから、それを隠すためなんじゃないの?」
祖父はそれを「違う」というだろうと思っていた。
ところが彼は「それも正しい」と言ってから続けた。
「人が話したり、触れ合ったりする、その間には魂というものがある。心みたいなものだね。嬉しかったり、悲しかったりするじゃろう? そういうものがある。お墓はね、そういうものを大切に扱うためにあるんじゃ。人は死ぬと魂を失くしてしまう。だから話すことも、動くこともできなくなる。だけど、魂をもっていたことには違いがない。アルカはそれを大切にしたいと思わんかね?」
話の行方は相変わらず知れなかったけれど、アルカは素直に頷いた。
「うん。それを大切にするために、まず亡骸を棺に納める。それから土を被せて埋めてやる。そして、最後に十字架を建てる」
「どうして十字架が必要なの? 棺に入れるだけで、魂は大切に扱ってるんじゃないの?」
孫の質問を受けて、祖父は満足そうに頷いた。
「そうだね。だから、お墓というのは魂の在り処を示すためのものなんじゃよ」
アルカは額の汗を拭って、祖父に訝しげな視線を向けた。
「でも、死んだ人に魂はないんでしょ? 魂はそこにないんじゃないの?」
「その通り。お墓に死んだ者の魂はない」
「じゃあ、どうして、お墓を建てるの?」
訊ねると、祖父がアルカの小さな胸を、指先でとんと突いた。
「魂のあったことを、その標を、生きている者たちに示すためじゃよ」
またも虚を衝かれる思いがした。墓は死んだ者のために建てられるのだとばかり思っていたからだ。けれどそれは、生きている者へ示されるためにある。生きている者のためにあると、祖父は言ったのだった。
「とても辛いことだけど、お母さんは死んでしまった。そしてアルカ、お前はお母さんに二度と会えないと思ったじゃろう。だけど、それは違う。お母さんの身体はたしかに死んだ。でもね、その魂はまだ生きている」
「魂が? でも死んだ人の魂はなくなっちゃうんじゃないの?」
祖父が不意に視線を逸らし、埋めかけの穴の淵を覗いた。祖父はそのままこう答えた。
「ああ、無くなる。その人の身体からはね。だけど、魂はわたしの中やアルカ、お前の中でまだ生きている。それがお前の寂しさや悲しみの正体なんだよ」
「たましい……」
アルカは小さな舌の上で、その言葉を優しく転がした。教わってもまだ、その意味はよく解らないけれど、胸の中に広がる痛みが、ほんの少しの温もりを帯びたように思えた。
「人はね、しばしば死者の魂の在り処を忘れてしまう。大切な人を喪った悲しみに溺れ、寂しさに酔う。お墓は、その在り処を忘れてしまった人のために作られるものなんだよ。魂が生きていること、死んだ人が、悲しむその人とともにあったことを、改めて教えてあげるために、こうして建てられるものなんだ」
アルカは祖父とともに、亡き母を見下ろす。そこに魂はない。死とともに去ってしまったから。
けれどそれを見つめ、途方もなく拡大する寂しさや悲しみの中には、たしかに母のあったことを想う温もりがある。それはアルカの、母への愛であると同時に、母から与えられた愛が、それゆえに形を変えてしまったものでもあった。
アルカははっとして、祖父の横顔を見つめた。
その瞳は真っ黒だった。どこまでも終わりがないように見えた。けれど怖くはなかった。まるで、しんと冷えた夜空のようだったから。ちかちかと星が光って、わけも分からず切なく、けれどどこまでも温もりを探り当てることのできる闇のようだったから。
アルカはそこに、如何なる苛立ちも失望もなく言った。
「ぼくは、今もおかあさんに会ってるんだね」
「そうじゃよ。そしてお祖父ちゃんとアルカもまた、会っているんじゃ。生きるということはね、そんな簡単で貴いことの繰り返しなんじゃよ」
「うん……」
母を喪った悲しみも寂しさも、やはり膨れ上がってゆくばかりだ。アルカは祖父の細い袖に縋りついて、痛いほどの陽射しも忘れて慟哭した。
心の奥の温もりを、決して見失うことのないように、それでも今はただ、天を破るように泣いた。
やがて母の温もりのほうが勝った頃、アルカは、一緒に涙を流してくれた祖父に訊ねた。
「ぼくもおかあさんを埋めてあげていい?」
祖父は赤い目許を拭って頷いた。
「もちろんだとも」
土漠に埋もれ、どこへ往く 笹野にゃん吉 @nyankawa
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