第3話 『いあいあ』

「今日は『ポチ』にレタスをあげてみたんだよ」

 末娘がにこにこしている。笑うと片方だけエクボができる。まだ反抗期前なので無邪気なものだ。

「レタス、食べるのか?」

「母さんが、レタスの真ん中の芯のとこ、あげてもいいって言ったからあげてきた」

「…食べたの?」

「うん、食べたよ」

 私はかねてから疑問に思っていたことを聞いてみることにした。末娘なら答えるかもしれない。

「『ポチ』、臭くない?」

「臭いよー。でも、鼻がつまってるからよくわかんない」

 うちはみんなアレルギー体質だ。アレルギー鼻炎だろう。

 そうか、気にならないのか。それなら近づくこともできるよな。

「宿題やってくるー」

 走って部屋に行ってしまった。


 もっと聞きたいことがあったのに。見に行くことは決めたが、やはり心の準備は必要だ。食べ物は聞く限り雑食、やはり臭い、そして見た目は間違いなくエグいだろう。UMAは嫌いな方ではないが、見るに耐える形相なのだろうか?

 妻はホラー映画が好物だ。と言っても専門はエクソシスト物で、よくつき合わされる。何が面白いのか、悪魔が出てくるシーンなどでは必ず指をさしてケタケタ笑っている。

 私はホラーはどちらかと言えば苦手で、モンスター物のほうが得意だ。…イケるかもしれない。ちょっと自信がわいてきた。


 よし、今日は安心して寝よう。


 金曜日の夜のことだ。

 仕事から帰ろうと思うと妻からLINEが入っていた。

「外食にしてもいい?」

 文面からして行く気に満ちている。もう四人で検討済みなんだろう。

「どこに行くの?」

 ポチポチっと返事を打つ。

 妻から、妻の好きなラーメン店の名前が帰ってくる。金曜日は定休日じゃないから大丈夫だろう。

「りょ」と書かれたカエルのスタンプを押す。カエルが昔からなんとなく好きなのだ。あくまでキャラクターとしてだが。

 妻からは「おつかれさま」というひねくれたウサギのキャラのスタンプが返ってきた。


 妻は常にラーメン別腹族だ。特に味噌ラーメンが原動力であることに間違いはない。

 娘の中にはアンチラーメン派もいるが、今、通っているラーメン店は餃子や唐揚げの定食も味が良く、みんなは定食、妻だけラーメンでも問題がないので都合がいい。

 ただ一つの問題は、なぜか妻は店の定休日である火曜日に行きたがることだ。しかし今日は問題ない。餃子と唐揚げで悩んで、帰宅する。


「おかえりー」

 今日は妻もいつもよりご機嫌だ。手を洗って、仕事着から着替える。娘たちも部屋着から着替えている。

 こういうとき、女の子は大変だ。男ならTシャツかトレーナーにデニムで済むところなのに、女の子だとそうは行かない。あっちに走り、こっちに走り、髪をとかし、靴下も履かずに安いゴム製のサンダルで外に出ようとしてまず次女が妻に捕まる。続いて長女がこれまた上下の色の合わない不思議な服装で現れダメ出しをされる。末娘は小学校に行った私服のままなのでセーフ。

 やれやれ、の一言に尽きる。


 あとは妻が簡単に支度して戸締りをしてくるので、先に車に向かう。皆で出かける時は、ふだんは妻が乗っている方の七人乗りで行くので、暗い中、キーを持って外に出た。


 …臭い。やっぱり臭い。

 私だって鼻炎持ちなのに、うちの女子たちも近所の人もどうして大丈夫なんだろう?鼻をつまんで気にしないようにする。

 車まではほんの数メートル。車の後部を通る時、何かが静かに聞こえてきた。

「…いあいあいあいあ…」

 小さな声で、念仏のように唱えている。

「…いあいあいあいあ…」

 まさか、『ポチ』?あいつは鳴くのか?そんな記述、私がネットで調べた限りなかったのに。


 軽いショックに立ち止まっていると、娘たちが外に出てきた。いきなりにぎやかになる。

「何やってるの、父さん?」

 長女が顔をのぞき込むような仕草をする。

「…いあいあいあいあ…」

 そして、左手の手のひらに右手のこぶしをポンと載せて、

「『ポチ』、お腹すいたんだね。ちょっと待っててー」

 と言って家に戻ってしまった。いあいあ?何の意味があるんだ?スマホを手に検索する。

『イアイア・クトゥルー・フタグン』

 まぁ要するにあれだ。腹が減ったから、神様、お恵みをって感じだろう?『ポチ』は「いあいあ」することで餌をもらうことを覚えたらしい…。すっかり餌付けされてるじゃないか!


 呆れて何も言えない。扶養家族は確実に増えたらしい。ため息だって出て当然だ。

 水栓の方を軽く睨む。お前はもう家族なのか?まだ実際は正体不明なままだけれど。


「ひっ!」

 思わぬ声が出た。

 娘たちは玄関で靴を履いている。長女が『ポチ』の餌を持ってやって来る。

 餌を待って水栓の下からひょこひょこ出てきたのは、思っていたよりずっと小さな生き物だった。そう、お祝いの時に使う鯛くらい。暗闇にシルエットが浮かび上がる。

 その姿は魚の頭をして、カエルのようなガニ股の足をした見事な魚人だった。まさに魚のような濁った目をしている。

「『ポチ』~!」

 長女が餌を持って走ってきた。今度の餌は食パンだった。


(了)

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うちのポチは「深きもの」らしい。 月波結 @musubi-me

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