第2話 『深きもの』

「えーっと。まぁ要するにクトゥルフ神話っていうのがあってね、そこにいろんな異形の神様やその従者たちが出てくるんだけどさ」

 妻と長女は何かしらのアイコンタクトをした。

「その生き物たちがいま、うちの市内でたくさん目撃されてるのよー」


 たくさん目撃?何を言っているのかわからない。ふだんからオタクな妻と娘たちだが、小説に出てくる架空の神や生き物どもが近所に現れるのはおかしいだろう。

 ママ友たちの間の話題なのか、子供たちの噂話なのか…。


「うちの市内だけなの?」

「うん、わたしの学校では聞かないんだよね。市外だから」

 長女の通う高校は確かに市外だ。

「父さんは会社で聞かないの?ほら、O池にはダゴンが出たってTwitterでも盛り上がってたよ」

「あー!わたしもそれはFacebookで見たわ。たまたま友だちが釣りに行ってて、写メ撮ったって」

「TwitterのRTもすごかったよ!動画ついてたし!」

 うっそ、まじ、見たーい!娘たちが次々に口にする。このままでは食卓にスマホが登場しそうな勢いだ。


「ちょっと待て。それで、その話と『ポチ』に関係はあるのか?」

 一気に静かになる。

 そんなに言いたくないことなのか?ちょっと腹立たしく思えてくる。

「父さん、『ポチ』のこと知ってるの?」

 恐る恐る長女が聞いてくる。

「お前たち、毎日『ポチ』の話してるんだから、知らないわけないだろう」

 全員バツの悪そうな顔になってしまい、俯いている。


「父さんだってうちで飼っている生き物のことは知っておきたいだろう?何を飼ってるんだ?ハムスターか?ハリネズミか?」

 どうせ妻がお金を出してやって、生き物好きの次女に何か買ってやったんだろう。


「あのさ、ちょっと落ち着いて聞いてほしいんだけど…」

「あのね、『ポチ』は『深きもの』なんだよね!調べたんだよ、google先生で!」

 末娘がここぞとばかりに大きな声で話し出した。

「あーもー。どうして言っちゃうかなー」

 次女が大袈裟にため息をつく。「まったくおしゃべりなんだからさ!」辛辣だ。

「だからまとめるとね、勝手に飼ってるわけじゃなくて、うちに来て今のところ棲みついてるんだよ、『ポチ』。黙ってたのは悪かったと思うけど、必要以上に世話したりしてないからあんまり気にしないで」

 口の上手い妻がまとめる。返事をしないで食事を続けたけれど、このままでは済むわけがないだろう。


 今夜も寝る前に『深きもの』をググろう。


 ところがいつものオンラインゲームのギルド戦をやって、他のアプリを周回した後、不覚にも寝てしまった。

 朝、可燃物を捨てるために家を出ると、やはり生臭い臭いがした。近所の人は気にならないのか?

「おはようございます」

「あ、おはようございます」

 にこにことご近所さんから挨拶をされる。気持ちのいいご主人だ。私より少し上の年代だが、気持ちが若々しい。

「あのー、最近なんだか生臭くないですか?

 」

「え、そうですか?それは申し訳ないです。うちの家庭菜園に堆肥を入れたから、そのせいかもしれない。臭ったらすみません」

 いや、それは違う。

「いえいえ、大丈夫です。こちらこそいつも野菜を分けてもらっちゃってすみません」

 私は頭を下げて、そそくさと家に戻る。何だか思わぬ方向に話が行ってしまった…。家庭菜園に何の文句もないのだ。うちの女子たちは野菜大好き種族なので季節の野菜に常に飢えている。『おすそわけ』が有り難い。


 しかしそうなると、ご近所の皆さんはあまりこの異臭を気にしていないようだ。こんなに臭いのに。


 会社の昼休み、いつもは通信料が気になって見ないことにしている『YouTube』を見てみた。検索、『ダゴン』。

 即ヒット。

 恐る恐る再生する。


 何だこれは。


 空から大きな何かが降ってくる。そしてそこは、確かに市内にあるO池だった。妻と若い頃に散歩に行ったから、間違いない。ちなみにここは、市内有数の心霊スポットだ。


「きゃー!」「うわー!」

 という声が響くが、元々、バス釣りくらいにしか人が集まらないところだ。悲鳴をあげる人数も少なく、やらせっぽくもない。まだまだ疑いの目で見なくてはならない。

 そこに後ろから声がかかる。

「何見てるの?」

「あー、Mさん、なんかうちの娘たちがこの動画のこと話してて」

 Mさんがふうん、という顔でスマホをのぞき込む。画面には派手な水しぶきが上がり、撮影者は逃げているのか画面がブレて、肝心の『ダゴン』なるものが見えない。


「これ、この間のダゴンかー!あれはまいったよ。オレは仕事だったから見なかったけどさー、嫁さんはびっくりしたらしいよ。水しぶき上がったの、うちから見えたらしいから」

 Mさんの家は、O池の近くにある。しかし、隣というわけでも、同じ地区でもない。

 『ダゴン』落下の件について、Mさんはスラスラと話をした。まるで『ダゴン』なるものをよく知っているかのように。

「なんか、あそこの池に落ちたのは6メートル強の小型だったらしいけど、大型のじゃなくてよかったよな」

「あ、うん…。それでMさん、『深きもの』って…」

「あー!あれ、困るよな。うちの前の田んぼの用水路とかにいるんだよ。ちょっと見た目気持ち悪いしさ、何より臭うだろう?何、出ちゃったの、そっちにも?」

「いやー、そういう話を聞いたからちょっと不安で」

 なんで隠すんだ、自分。

 ここで一気にすべて聞いてしまえばいいのに。

「そうだよな、心配だよな。そっちはそっちで海近いし、この前はH湖でクトゥルフ出たって噂もあるし。次はニャルラトホテプとか、ヨグ=ソトースとか来たら観光地になるよな」

 Mさんはお昼ご飯を食べ終えると「まるでクトゥルフの聖地だよ」と笑いながら行ってしまった。


 一体なんなんだ?

 ここはクトゥルフ御用達なのか?

 私が市外出身だから話に着いていけないのか?(妻とMさんは市内出身者だ)


 このままではよくわからないが、クトゥルフ山手線ゲームが出来そうな具合に知らない言葉がどんどん増えていく。

 やはり帰って早くググらなければ!流行りに置いていかれる!


「ただいまー」

 今日は仕事が遅くなった。まさにお疲れ様だが「おかえりー」の声は聞こえても、誰も玄関には出てこない。そういう時期はもう過ぎたのだ。残念に思っても仕方ない。

 うちの女子たちは私が帰宅するまで、実にまったりと過ごしている。ご飯の用意も風呂の用意もまだだ。あきらめて、風呂の栓を抜きに行く。


「買い物はしてあるの?」

「うん、してきたよ。カレーでいいかな?」

「いいんじゃない」

 飲み物を飲もうと台所に入ると、なぜか小型のアジのパックが置いてあった。198円と値札がついている。

 カレーにアジ、入れるのか?それとも揚げて載せるのか?

 いやいや、それは無いだろう。

「アジのパック、出しっぱなしだぞ」

「あー、しまうの忘れてた!ごめんね」

 長女が台所に飛び込んできた。バタン。急いで冷蔵庫にしまう。

「アジ、揚げるのか?揚げてやろうか?」

「あ、ううん、いいの。ありがとう」

 娘はあわてて笑顔を作ってそう言った。瞬間考えて、ちょっとしたカマをかけてみることにした。

「『ポチ』のエサか」

「え?え?あ…ほら、わたしが食べたくて買ったの!魚好きじゃん!」

 確かに長女は魚好きだ。しかし、うちではこのサイズのアジは買わない。揚げるにしてはちょっと大きくて骨が刺さるし、焼くにしても煮るにしても小さすぎて問題外だ。…怪しい。


 トイレにスマホを持ち込んで、クトゥルフについてのサイトをググる。たくさんある。とりあえず、『入門』と書いてあるものを読む。

 読む限り、クトゥルフはうちの市内に土着の生物ではないことは確かだった。それどころか、ラヴクラフトという作家の作品を元にして何人もの作家で作り上げた架空の神話体系らしい。

 架空のものが、空から降るのか?動画は捏造で、Mさんは私をからかったのだろうか?元々、冗談が好きな人だ。考えられなくもない。

 しかし、クトゥルフに出てくる神々について読んでいくと『クトゥルフ』、『ダゴン』、『ヨグ=ソトース』、『ニャルラトホテプ』と昼にMさんが言っていた単語にぶつかった。

 それぞれ項目事に説明が分かれていて、読むのがもどかしい。早く真相を知りたくて、イライラしてくる。


 とりあえずクトゥルフ神話というからには、『クトゥルフ』を知らないわけにはいくまい。『クトゥルフ』の項を探す。なになに…


「『クトゥルフ神話』といいますが、『クトゥルフ』は最も中心となる神格の高い神というわけではありません。」


 なに!?

 私の中の勝手な想像が崩壊していく…。神々の体系についての説明図が載っている。例のO池に落ちてきた『ダゴン』はなんと、なかなか上位のようだ。見た目は魚人で生臭く、体長は最低でも6メートル…そのままじゃないか。それがO池に空から降ってきたとなれば、確かにパニックだ。ヒットしたにしては大きすぎる獲物だろう。面白半分で撮影したやつらが逃げたのも頷ける。

 それで肝心のうちの『ポチ』だが…末娘が『深きもの』と呼んでいたけれど、と思いつつ読み進むと、なんと『ダゴン』の眷属だということが判明した。


『ダゴン』の眷属…要するに下っ端のことだよな、と思う。こいつも魚人で生臭い。なんでうちの敷地にそんなものがいるんだよ。

 しかし更に読み続けるととんでもないことが発覚した。

「『ダゴン秘密教団』だって?」

『教団』って、ヤバくないのか?ダゴンを祀ってるのか?またよくわからないものを…。しかも水辺に生息して布教活動してるのか。

 うちの『ポチ』も『ダゴン秘密教団』の信徒なのか?…うちの家族は次々とダゴンを信奉するようになってしまうんだろうか?何しろ、クトゥルフは人間の心理に働きかけることができ…おい。ちょっと待とう。最初に書いてあったじゃないか。クトゥルフ神話はラヴクラフトが書いた作り物の神話体系だって。

『ポチ』なんかに布教されてたまるか。あいつ、新興宗教の勧誘員に違いない。


 そろそろトイレを出ようと思ったところで、玄関のドアをゆっくり閉める音がした。

 あいつら、さっきのアジで餌付けしたんだな。そっとリビングの前まで行くと、

「ばっちり、成功、成功ー!『ポチ』ちゃんと食べたよ」

「よかった、安心だね。あんなに小さくて痩せてるのになかなか食べないからねぇ」

「大きくなれないよねぇ」

 そうか、魚が好物だったのか。…そうじゃない、それじゃ共喰いだろう。お前たち、気がつかないのか?


 更に聞き耳を立てて立ち聞きを続ける。マロンが私を怖がって階段の影でじっとこっちを見ている。

「『ダゴン』はあんなに大きいのに、なんで『ポチ』は小さいんだろうね」

「さぁ、まだ子どもなんじゃないの?」

 妥当な線だ。

 そうか、まだ小さいのか。少し警戒を解いてもいいような気がしてきた。しかし、ネットで調べたところ、『深きもの』は魚頭であとは人間らしい、と書いてあったのに、そんな野良飼いで大丈夫なんだろうか?3月といえども、まだ寒い朝も多い。

 そもそも『深きもの』はペットになるのか?あまりそういう属性の生き物ではない気がするが…。なんだか謎は深まるばかりだ。


 やはり、外の水栓の下を覗かないわけにはいかないだろうか。

 生臭い上に魚の頭と聞くと、覗きたくない気持ちが多少勝ってしまう。娘たちの話を聞いていても、あんなに「『ポチ』がねー」と言っているわりには、「『ポチ』かわいいよねー」と聞いた覚えはない。先程見たアジが頭の中から離れない。

「父さん、カレーできたよー」

 呼ばれてしまった。あわててリビングに入る。当然、カレーにアジは載っていなかった。


 夜、家族が寝静まったころ、私はいつも通り入りゲーを回ってログボをもらい、最近ハマっているシュミレーションゲームで連敗ストップした。このゲームは連敗ストップした時点で落ちた方がいい。なかなかオンライン対戦で勝てないのだ。妻も相当苦労しているらしい。

 さて、勝てたところで寝ようと思ったけれど、やはり『ポチ』が気になって仕方がない。いちばん気になるのはなんと言っても異臭だが。


 スマホをもう一度手に持って、『ダゴン』と『O池』でググる。最近の履歴はたぶん、クトゥルフ関係ばかりだと思うとげっそりする…。

 2ちゃんがヒットした。なんと、この件のスレッドがあるのか。早速見てみる。

「あの画像、加工されてるんじゃないのか?」

「いや、無修正だろう」

 などというやり取りがなされている。

 下の方へ進める。

「わたしはO池の近くに住んでいますが、最近、用水路や側溝、田んぼに『ダゴン』の小さいのみたいなのがいます。『クトゥルフ』に詳しい方、教えてください」

「釣りだろ、釣り」

「それは『深きもの』だって教えてやればいいんだよww」

「まじ、草だなww」


 笑い事ではない。Mさんも言っていたじゃないか。『深きもの』はO池を中心に、市内に広がってるんじゃないのか?

 うちの妻および娘たちは『ポチ』を飼う危険性をわかっているんだろうか?『ダゴン』を信仰するつもりなのか?ミドリガメとはわけが違うんだぞ。


 その晩、わたしは夢を見た。

 深い海の深淵からやって来る『クトゥルフ』が、我が身の化身『ダゴン』に何かを命じている。『ダゴン』は早速、自分の眷属である『深きもの』たちに呼びかけて『クトゥルフ』の力を取り戻そうと、『ダゴン秘密教団』の力を強めるのだ。信者を集め、町中が『深きもの』で溢れかえる。人々は皆、なんの疑いもなく『ダゴン』を信奉する。なぜなら、心理的に操作されているから…。


 そのとき、ペチャリ、ペチャリと水気を帯びた音がした。庭の石畳の上を何かが歩いている。ペチャリ、ペチャリと確実に近づいているのはこの部屋だ。

『ポチ』の足音なのか?

 わたしは急に立ち上がり、災害用に準備してあったLEDの懐中電灯を持って玄関に向かった。この時がとうとうやって来たのか。

 玄関のドアにはステンドグラス風の色つきガラスがはまっている。そこに、何かの影が浮かび上がり、小さな手形が…。


「夢か…」

 本当にまずい。夢なんかで目が覚めるなんておかしい。何しろ私は起こしても起きないことで有名だからだ。その点においては家族からも嫌がられ、妻にはあまりに起きなかったからと蹴飛ばされる。そんな私が夢なんかで起きるわけがない。


 例のLEDの懐中電灯はいつも通り常備されている。私はそれを握って、玄関に向かう。心臓がいつもより早く動いてる気がするが、そんなことはないことにする。大丈夫、私のSAN値はまだ減ってはいない。


 玄関のドアのガラスを、恐る恐る電灯で照らす。…そこにはいつも通り、田んぼから庭に移り住んでいるアマガエルが張りついていた。


 こんなに煩わしい思いをいつまで続けなくてはいけないのだろうか?ネットを見ても、なかなか写りのいい『深きもの』はいない。画像を頼らなくても、うちにはいるようなのだが。

 だが、誰だって未知の生命体を見るのに戸惑いを持つのではないだろうか?もちろん、家族は守らなければならない。何しろ相手は未知なる神の眷属だ。油断はできない。

 やつらが『ポチ』を餌付けしていると思っていても、洗脳されているのはこちらかもしれないのだ。


 よし、この週末に決行しよう。土曜日の朝がいいんじゃないか?可燃物の日だし。

 決意を固めて、その日は寝ることにした。そしてその二度寝のせいでまた寝坊したことはあまり大っぴらにはしたくない話だ。

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