うちのポチは「深きもの」らしい。

月波結

第1話 『ポチ』

『ポチ』という名前をうちの中で聞くようになったのは、いつからだろう?


 私を除く家族は、妻と三人の娘。いつも女子同士、こそこそくすくす楽しそうにやっている。

 私のいない時間には四人でカラオケに行ったり、外食またはテイクアウトで何か食べたり、マンガの回し読みにイラスト大会。私はいつも着いていけない。


 そんなある日、彼女たちの会話の中に『ポチ』という単語が頻繁に現れるようになった。

「今日、ポチがねー」

「ポチってさぁー」

「もう、ポチったら」


 …ポチ?家主の私に黙って、また新しいペットでも飼い始めたのか?


 うちにはすでに『マロン』という大きな猫がいる。キャラメル色のしましまの猫だが、『マンチカン』という品種で、なんだか上から見下ろすとツチノコのようだ。脚の短い品種なのだ。日本猫より大型の品種『マロン』は、その細くて柔らかい毛を家中に撒き散らし、我が物顔でふんぞり返っている。

 『マロン』だけでも家族みんな持て余し気味なのに、新しいペット?


 特に問題なのは妻だ。無害そうな顔をしているが、生き物を飼うことをやめられない。ハムスターから金魚、ミドリガメ、カブトムシ、そしてネコ。『ポチ』なるペットを飼い始めたのもたぶん、妻が子供たちに入れ知恵をして、そそのかしたのだろう。

 しかし、一般的に『ポチ』はイヌの名前だ。妻は決してイヌを飼うことに賛同しない。実家でイヌを飼っていて、さんざん世話を押しつけられたらしい。「かわいいけど、飼いたくない」が妻の言い分だ。


 となると、やっぱりあれか。

 最近、うちで盛り上がっているのはハリネズミだ。世間的にも人気があるらしいが、なかなか愛嬌のある生き物だ。先日、ペットショップを冷やかしに行った時、ハムスターと違ってすぐに潰れそうではない大きさはちょっと好ましく思えた。が、飼うとなれば別だ。


 そう、とにかくうちには『マロン』がいる。やたらな生き物では殺されかねない。何しろ猫は生き物と戯れるのが好きな動物だ。ハリネズミのハリがどれくらいの防御力なのかわからないが『マロン』に見つかってはただではいられないだろう。

 まったく、勝手に飼い始めるなんて…。


「さっきポチにねー」

 娘と妻はスマホでマルチをしながら(なんのアプリかはわからない)またしても『ポチ』の話をし始めた。二人とも画面から目を離さずに、なんとなく話している。

「うん、ポチがどうした?」

「干からびたらかわいそうかなと思って、水、あげといた」

「いいんじゃないの?あったかくなってきたから、凍ったりしないだろうし」

 ……?なんの会話だ?まったく理解不能。お陰でオンラインゲームの奥義を出しそびれてしまった。このゲームはもう2年以上やっているのに、初心者のようなミスだ。

「R(わたしのハンネ)さん、ファイトですp(´∇`)q 」

「気にしなくて大丈夫ですよd('∀'*)」

 などと顔文字入りで、次々とチャットが入る。

「次はがんばります(´・_・`)」

 と返事を入れた。

 が、『ポチ』の問題は解決していない。


「あー!」

 土曜日、外の水栓に学校の上履きを洗いに行った末娘が大きな声を出して家に戻ってきた。

「どうしたのー?」

 妻がのんきな声を出す。長女が玄関に行って話を聞いている。

「あのねー、『ポチ』がねー。」

 その瞬間、沈黙が訪れ、二人の目線がこちらを向いた気がした。

「とにかく見に来てー!」

「わかった、すぐ行く!」

 長女はサンダルを急いで履くと、外に出て行った。

 次女が二階の吹き抜けから顔をのぞかせて、

「母さん、何かあったのー?」

 と大きな声で聞いた。

「なんかポチがやっちゃったみたいよ?」

「あーねー。場所が悪いよね」

 ……。沈黙。

「お姉ちゃんが見に行ったから大丈夫でしょう」

「それなら大丈夫じゃん」

 次女はすたこらと自室に戻って行った。


 隠されている?私にだけ隠されているのか?

 いつまで隠し通すつもりなんだ?

 私はこれでも家主なんだぞ。ペットと言えど扶養家族、増えたなら言うべきだろう。


「…最近、父さん機嫌悪くない?」

 小声で言っているようだが、ちゃんと聞こえている。

「なんか気に障ることしたかねー」

「したんじゃなーい」

「今日は大人しくしてようか…」

 女の子というのは父親から離れるのが早いと言うけれど、父親はまるで地球外生命体扱いだ。同じ地球生物だと主張する気は無いが。


「昨日さ、あらためてクトゥルフ、調べたんだけどさー」

「うん、何食べるって?」

「全然わかんないの。期待してなかったけど、やっぱり飼い方は載ってないよねー」

「ないでしょー」


 大盛り上がりだ。そもそもクトゥルフってなんだ?

 アプリで遊んでいるふりをして、ググる。…神話?なんだか複雑なことがWikiには書かれていたが、これと『ポチ』に何の関係があるんだ?


 さらにググッてみると、最近若者の間で、クトゥルフ神話を題材にしたTRPGが流行ってるらしい。うちの女子たちの間でもこの前、TRPGが瞬発的に流行ったからまた流行りが戻ったのかもしれない。だとしたら、『ポチ』は私にとって遠い話になる。

 あの時も、

「ぎゃー、サンチがー!」

 と意味不明な叫びを上げていたし、『ポチ』もゲームのキャラなのかもしれない。

 おかしな話だが、ちょっと安心する。知らないところで知らないことが起こっているのは気持ちが悪い。


 ある夕方のことだった。その日は仕事が定時に終わったので早めに帰宅したのだが、妻は娘たちを迎えに行っていてまだ誰も帰宅していなかった。

 妻の車が当然のことだがない。

 いつも車が停まっているところの後ろが、例の水栓だ。なんとなく気になるが、気にしないことにする。


 しかし、それにしても何だか生臭い。

 これは例のミドリガメを飼っていた時の水槽の臭いに似ている。ミドリガメ(ちなみに名前は『カメ』)は大事に育てた結果、水槽からはみ出るサイズに育ち、その水槽は持ち上がらないという理由で洗うのは私の仕事だった。

 ずいぶん掃除していない側溝が臭うのか…いや、違う。これは例の水栓の方からやはり臭ってくる。


『ポチ』、『ポチ』と呼んでかわいがってるように見えたが、あいつらはもしかして、『ポチ』を死なせてしまってあの辺りに埋めたか、放置したんじゃないのか?そうなるとゲームのキャラではない。生き物なのか?


 それはひどいと思ったが、それ以前に『ポチ』なる生き物がどのように存在しているのか私は知らない。

 少し考えた。

 しかし、知らないままでいるのは気分が悪い。水栓の近くに臭いの発生源がないか、ちょっと見に行こうと決意した。


 水栓の下は土が流れてしまってちょっとした空洞になっている。ふだんはそこに草が生えていることが多く、妻曰く、土の流出を防いでいるらしいのだが、今は春めいてきたけれどまだ寒い。草など生えていない。


 あまりにひどい臭いなので、注意深く近づく。けれど、できれば妻たちが帰宅するまでに確認してしまいたい。

『ポチ』あるいは、別の動物の死骸などではないといいのだが…。


 例えば隣の家の猫。放し飼いにされていて、盛りの時期になると夜中中、狂ったように鳴いている。『マロン』は去勢済みなので知らん顔だが、それもそれで哀れだ。人の庭をトイレ替わりに使い、妻によると、花壇を掘り返して花をダメにしているらしい。

 しかし、隣人に文句をつけるわけにはいかず、猫どもは放し飼いのままだ。

 うちの敷地内で死体になられても困る。


 水栓の前まで来ると、もう鼻を塞がずにはいられないレベルの臭いになった。

 一体、なんなんだ?ご近所様に嫌われて、生ゴミでも捨てられたのか?


 その時。

「ピチャッ」

 と水音がした。さっきまでは水が流れる音はしなかったのだから、何か、水が跳ねるような音がしたということだ。

「ピチャッ」

 また同様の音がした。さすがに気持ちが悪くて身構える。本当になんなんだ?


「ピチャッ」

 三度目の音がして、もう無視することは出来なくなった。仕方がないので音の出どころを探す。怖くないと言ったら嘘になる。何しろ猛烈に臭い中、不穏な水音がするのだ。妻の大好きなホラー映画では、すでにフラグが立っているところだ。


 どう考えても音の出どころは水栓の下だ。家の中から懐中電灯を持ってくるべきか?いや、ここは覚悟を決めて、鼻をつまんで少しずつ屈んでみる…。


 ちょうどその時、光が家の前の私道を明るく照らして妻たちが帰ってきた。妻は駐車が苦手だ。運転を代わり、駐車する。バックミラーとバックモニターを見ながら後退して、さっきの水音を思い出す。…あれは何だったんだ?

 しかし、思わぬところでみんなが帰宅して、きちんと確認出来なかったことに少し安堵している自分がいることを、気がつかないことにした。


 夕食の時間、女子たちはまたもやにぎやかだ。部活の話、友だちの話、スマホアプリの推しキャラの話にイケボ声優の話…これが毎日なんだから、やれやれだ。

 一通りその情報交換が済むと、末娘が話し始めた。まだ小学生なので、滑舌がよくないところが少しかわいい。


「はるちゃんに聞いたんだけどねー、はるちゃんのとこではお魚あげてるって」

 急に末娘以外の表情がぴたっと止まり、末娘に長女が耳打ちする。

「だから、その話はさ」

「あー、そっかぁ。なんでもない、なんでもないよ、父さん」

 !!ここまで来て秘密か?

「まったくこれだから小学生はさー、草生えるわ」

 イマドキぶって次女がため息をつく。

「なんでもないよねー」

「ねー」


 これは、経験的にあまりよろしくない傾向だ。やつらは絶対、良くないことを隠している。すでに確信だ。


 今度はこちらが攻める番だ。速攻で行かなくては話題を逸らされてしまう。

「そう言えば。外の水栓のところ、すごく臭いよな?」

 沈黙。

「そうかな?気のせいじゃないの?下水、近いし、昼間あったかかったから臭ったんじゃない?」

「ちょっと見てきたんだけど、なんだか水漏れみたいな音もするんだよ」

 いっそうの沈黙。

 黙ってれば済むのか?


 沈黙が続くことに我慢ができない体質の、妻がそろそろと話し始める。私は少し怒ったような顔をして話を聞くことにした。


「あのねー。…父さん、クトゥルフ神話って知ってる?」

 妻の顔が引きつっている。

「知らない。」

 本当はすでに調べたのだけど、ここは知らなかったことにする。『ポチ』の正体を今日こそ聞かなくては。あのひどい匂いの原因は『ポチ』なのかもしれないのだから。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る