天童シコ男の恋と冒険(下)

 本殿のなかは、巨人の国であるかのように物のスケールがひと回り、ふた回りおおきく、わたしは圧倒されました。どこまでもたち並ぶ大きな襖戸、たかいたかい天井。わたしの走る、ひろい廊下には、やはり外のようにいくつものともし火が、脚のながい燭台にともされ、ならんでいました。

 わたしはふり返り、ふり返りして逃げていたけれど、いつまでたってもうしろから鬼は来ません。

 きっと自分は、あっという間に鬼にとらえられ、こぞってひき裂かれ食われるものと思っていたけれど、なぜか一匹も追ってこない。

 なんなのだ。さっきから何なのだ。とはいえ、ひた走る足をゆるめる気にはなれません。わたしは腹の肉を揺らしながら、板張りをどたどたと走ってゆく。

 そのうち、すこし様子のちがうところへ出ました。

 前方いちめんの障子戸が見えた。その一角だけ、すべて障子張りであった。これまでは、豪奢な襖ばかりであったというのに。

 障子紙のむこうは暗い。わたしは反射的にその戸の一まいをひき開け、内へすべり込んだ。使われていない部屋だと思った。ここなら、隠れられると。

 内側から慎重に、障子戸の合わせをととのえた。見ればその部屋のなかは、やたらと物の影が濃い。障子紙いちまいの外には、このへん特におびただしい数の燭台がたちならび、その煌々こうこうとした明かりが星のように透けているというのに。この部屋にこごる闇は、あろうはずの畳の目すら隠し、部屋の底はいちめんの夜のようでした。

 

「だれぞ」


 うおあああああああ!!

 全くいきなり、鈴を振ったような、澄んだ声にとがめられてわたしはとび上がる。

「なに者ぞ」

 人がいる。

 いや、何かいる。人とはかぎらない。

「口がきけぬか? きく気がないか」

 わたしは声を出せない。命がかかっている。やり過ごせれば、あるいは。

「……いまいましいの」

「ちがいちがいます」

 美しい声に不機嫌がにじんだので、わたしはしどもど答えてしまう。そして、ああと頭をかかえる。人の言葉をあやつり、人を食うものかもしれない。

 暗やみの濃さにも、目がなれてくる。わたしは目をみはって、声の主をさがす。

 二十畳、あるかないかの、この屋敷にしては小ぢんまりとした部屋の中央にいる、すわり込んだ影法師、人らしきかたち。その色がみえてくる。

 長い髪。床までいたるほどにながい髪。和装の。絢爛な着物のよそおい。そして、

 流れる髪の下にのぞく、顔。つかう言葉より幼い、年端もゆかぬ少女の、端正な、おどろくような美貌。しかし、肌のいろが熟れた桃のように、あかい。

「ちがうか。ならば答えよ、下郎。なに者じゃ」

 そこでわたしは、自分のありさまを思いだす。

 全裸。

 うはあっと声をあげそうになり、わたしはその場に正座しました。そして、その上から手でおおい隠す。何をって、なに、つまらないものです。

「あやかしは今、ここへたち入れぬはず。ならば人か。人なら、よう食われずにおれたの」

 うつくしい声が、ひとりつように語る。

「ひと、です」

 その声にひとり語らせるのはひどく失礼な気がして、わたしはまた答える。

「くわれませんでした」

 しかし、発言に中身がない。言わずとも知れることばかりだ。

「ふうん」

 そのとき、わたしは息をのんだ。

 彼女が、彼女でよいのか、そのひとが、手ぐしでそのながい、髪を、底のふかい清水の流れのように端然とした漆黒の髪を、すうっとひときした。その、流した髪にまぎれて、一対のつのが見えた。

 ——おれた角が。

 どちらも、根元ちかくで折れていた。折れたあとがなまなましく、痛々しかった。

 そしてなぜだか、わたしは。こんなことを言ったら、おかしいかもしれないけど。

 むしょうに——腹がたった。

 それをとても、ゆるされないことだと思ったのです。

 だって。

 彼女はこんなにも、疵瑕しかもなく、うつくしいのに。

 だれが。なんのために。

 ひとりうち震えているわたしに、彼女は言った。

「おぬし。におうの」

 今度こそ、わたしはうはああっと声をあげ、障子を開けてとび出したくなる。

「ごめんなさい、すみません、ごめんなさい。わたしは」

 わたしはわたしのあちこちを嗅ぐ。臭いといえばすべて臭い。だって今日はずっと汗だくで、濡れねずみで。また、生がわきで。

「出て、ゆきます」

 ふと、そう言ってしまう。ここにかくれていたかったけれど。命がおしかったけれど。なのに。

「はあ? なんじゃ。おれ」

 あきれたような声を出される。拍子ぬけする。わたしは座りなおす。

「名は」

「はいっ?」

 またなにか叱られるかと、声が裏がえる。

「名のれ」

 あ――名前。

「てんどう――」

 言いかけて、つまる。ためらう。

 この人には、あざ笑われたくない。

 それは。

 いやだ。

「し、こお。です」

「ほう」

 声が笑みを含んだ。わたしの目の端に、熱いものがにじんだのがわかった。心の水面に、重い泥が撒かれたように、錯覚した。

 なのに。

「よい名じゃ。なんと書く」

 さらにかれる。それだけではなかった気がしたけれど、わからなかった。

「てんの、わらべに」

 彼女の顔を見ないようにして、答えた。

「み、にくい、おとこと」

「はっは」

 今度はたしかに笑った。けれど、そのからっとしたほがらかさに、こんどは心が澄むような気がして、わたしは、顔をあげた。

 彼女がわたしを見ていた。

「よい名じゃ。たけき、まことのの子の名じゃ」

 その言葉は、わたしの胸の奥底にはいり込み、ふかい傷口を、すうっと埋めた。

 さっきにじんだ熱いものが、視界の端をゆがめていたものが、ぱらっと落ちたのを感じた。――ただ。

「――合点した。その名は、鬼の系譜じゃ。おぬし、鬼の血がはいっているな」

 つぎの言葉には虚を衝かれた。

「人にしてはにおうと思った。だが、なまの血肉を食らうくささがなかった。なるほど、これは」

 なにを――なにを。

「人としてそだった、人を食わぬ鬼のにおいか。なるほど。鬼の血をひくから、鬼の目をのがれ、業のうすい人の子だから、この結界にふみ入れた」

 鬼の血。鬼。わたしが?

「だが、なぜ来た? わしをなぐさめに来てくれたのか? うい奴よの」

 彼女は楽器をかき奏でるように笑う。わたしはきき惚れて、考えることをやめそうになる。

 いや、考えなくて、なにが悪い。なにを思いなやむことがある。

 だって。鬼だというなら、きっと――

「わしが名のっておらんのう。きくか? この、鬼の名を」

 そうだ。彼女と、おんなじだ。

 彼女は、すっと顎をあげる。長いまつ毛が、ほそい鼻すじが、暗やみになお、楼閣のような影を作る。

「わしの名は雁木がんぎ童子。――雁木小僧、、元興寺の鬼などとよばれたこともある、が」

 彼女は、花のつぼみのような唇の、端をあげてほほ笑む。

「もっともふるい名は、沙悟浄さごじょうじゃ。信じるか?」

 無垢なような瞳が、婀娜あだっぽく細められた。わたしは、ひたすら、蠱惑されていた。

「もっとも、わしは天竺などめざしたことはないし、元興寺にも身をおいたことはないがの。ぬしら人間のえがく唐獅子が、もとの獅子と異なるように、ぬしらが口伝するわしのありようは、もとのわしとはちがう」

 そのとき、どーんという地鳴りがあった。

 おくれて障子がかたかたと騒ぎ、魂をぬかれたようになっていたわたしも、われをとり戻す。

「ふん、痺れをきらしておるな。あさましい、まがい物どもが」

 彼女が――童子が、そらを仰いでつぶやく。

「まがい、もの」

 わたしは木偶でくになったようにくり返す。

「外におる奴ら、あれは、本性からの鬼ではない。もとは、いのちすらないがらくたよ」

 童子が答える。唾棄するように語る。

「いやしい付喪神もののけどもが、鬼をころしてまわり、鬼の血をすすり、鬼のまね事をしておるのじゃ」

 そこで、童子の声色がいっそうかわる。地獄を呪うような暗い声に。

「ただ、扇動する者がおる。みずから皇子を僭称し、そのくせ誇りもなく、ごみのよせ集めの大将をきどる、恥しらずの鬼が」

 声音は、先ほどの地鳴りよりもふかく、腹の奥をえぐるようで、わたしは、すくむ。

 しかし。

「ふむ――」

 そんなわたしを、童子はじっと見つめている。瞳に射られわたしは血が、感情が沸きたちそうになる。

「おぬし。よい。よれ」

 頭も沸騰しているので、なにを言われたかわからない。

「ここへ。来いというのじゃ」

 童子が、足をくずし、わたしを呼ぶ。思うより乱れていた着物の前がわれて、わたしはいよいよ正気があやしくなる。

「――わしと、ちぎれ」

 耳を疑う。きわまって、失われた正気がささやく空耳かと思う。

 しかし。童子が手まねいている。わたしの魂がひき込まれる。

「わしの血を飲めば、ぬしの鬼が目ざめよう。わしの霊力ちからをすべてぬしにやろう。そうして、生きよ」

 わたしは抜き身の下腹部をかくしながら、あやつられるように、膝をすり、童子のもとへいざり寄る。

 童子がわたしに手をのばしている。その指先が、わたしの、頬にふれる。

「――たのむよ。わしのちからを、あんなやつらにやりとうないのじゃ」

 耳にふれる。耳朶をにぎられ、ひき寄せられる。

「だからおまえが、しずくもあまさず、わしを、もらってくれよ」

 童子は、そのほそい顎をひらき舌を出して、小指のつめを立てると、一たび、二たび掻いた。

 舌のうえ、じわりと、印に赤い血がにじみ、ひとすじ流れた。

 したたった血を目で追い、うつ向けたわたしの顎を、童子が掴み、

 呆けた顔を起こしたわたしに、

 くちびるを重ねた。


 気がつくと、まだ、童子の顔は目の前にあった。

 わたしのくちの中には、むせ返るかぐわしい、はらの底まで焼くようなつよい酒精の香がうずを巻いていた。

 そしてその香の中心に――うごめく、皮いちまいひやりと冷たく、その中は溶岩のように体温の燃えさかる、童子の舌、舌が、わたしにからんでいた。

 童子が、ふうっと、あまい息をつく。その息が、じぶんの顔のすぐ横、頬を這うので、わたしはそれだけでも胸をかき乱されて悶絶しそうになる。

 そして、ぐるぐると煮えていた、わたしの脳髄が唐突に、噴火する。

 にぎられている。

 わたしの耳をつかむ童子の、もう片手。その手が、わたしの下腹部をさぐって。

 わたしの孤独な陰茎を、にぎりこんでいた。

「は――な、にを」

 なさけない声が漏れる。

 童子の顔がすこし離れる。しかしまだ鼻がすり合う。目をほそめている。

「ほら、こっちも……さわれ」

 吐息があつい。耳をつかんでいたほうの手が、今度はわたしの手首をつかまえ、童子の、前のほどけた着物の、おくへと手をみちびかれる。

 そんな。いけない。いけません。あなたは。

 しかし、童子のたかい体温がこもる着物のおく、手でにぎらされたものが、太くて固くて、ぬらりと熱いものだったので、わたしははげしく戸惑う。

 えっ。

 あれっ?

 つい目を下ろす。不躾にも気づかず、童子の合わせの奥をのぞき込む。

 ぼんやりと光るような、赤みのつよいつややかな肌の前に、違和感のあるもの、異物がある。

 わたしが握っていたのは――

 童子の血にぬれた、童子につき立つ、ひと振りの太刀たちの柄だった。

 あんなに熱くなっていたわたしの、心が凍てつく。

 童子の、少年のようなうすい胸の真んなか、みぞおちを、それは、つらぬいていた。

 

「あやかし殺しの妖刀――〈虚舟うつぼぶね〉じゃ」

 刀の柄をにぎるほどに、柄糸が、その吸った血をじわりとあふれさせる。

「わしは、このために――じきに死ぬ。おもての砂利どもは、それを待っている。たおれたわしの血をすする、そのときを」

 童子の指が、刀を握るわたしの手をやさしく撫でる。

「この結界――〈要石かなめいし〉は、業のおもさだけ、内にいる者の背に目方を科す。ながく眠っていたところへ、をおられ、虚舟でかれ、要石をおぶわされては――さすがにかなわぬ」

 そう言って、わらう。かなしそうに笑っている。

 このひとにそんな顔をさせる者がいる。

「わしのいのちが尽きれば、要石は割れ、それがしらせじゃ。やつらがなだれ込んでこよう」

 童子が、わたしの肩に頭をもたせ掛ける。流れる髪が夏の夜のそよ風のように、わたしの肌をあらう。

「なあ、ぬし殿よう、その前にこれを、抜いてくれよ。ずいぶん耐えたが、もう、つらいのじゃ」

 あまえた声。わたしに。

 思うよりはやく、わたしの体は動いた。

 一挙動でわたしはたち上がり、その刀を真っすぐ童子から抜いた。

 童子の頭はいちど、くらっと揺れたけれど、すぐにもち直した。

 そして、よろりとたち上がる。その上背は、わたしよりもひくい。

「ああ――すっとした。いい気分じゃ」

 起こしたそのまな差しは、かすかにうつろだったけれど、はじめの童子の光をとり戻していた。童子の手が、わたしの背のほうを指す。

「ゆけ。じき、要石がわれる。そうなる前に、奴らの中をかけ抜け、逃げるのじゃ」

「でも、でも――あなたも」

 わたしは手をさし伸べる。童子のほうに。どうか。わたしと。

 童子が、ッ、と気合をはなつ。

 部屋に嵐がふき荒れ、わたしが、後ろへまき飛ばされる。四面すべての障子戸も、ふっ飛び倒れる。

「たわけ。わしに、恥をさらせと? 足手まといになれと。おごるわ、醜男ますらおが」

 たおれた障子戸に、燭台の火がうつる。燃え上がり、あっという間に梁を、天井を焼く。

 たちまちにうず巻いた火が、わたしと、童子、そして部屋のなかをあかあかとてらし出す。

 それでも、部屋の底はまだ暗かった。

 いや、ちがう。

 これは、闇ではない。炎にかき消えるような、影ではない。

 こごる闇と思っていたもの、部屋の底にあったいちめんの漆黒は。


 部屋をみたすほどに伸び流れた、童子の長いながい、ぬばたまの黒髪だった。


 そう知れたのもつかの間、火が――

 童子の髪に、燃えうつり。

 一瞬で、視界が炎に巻かれた。

 熱気が炸裂し、わたしはまたつき倒される。

 転げて、全身を焼かれながら体をおこし、顔をおこしたわたしが、業火のなかにさいご、見たもの。

 ゆけ。

 さいごも、そのひとは、わらってくれた。


***


 わたしは、屋敷のなかを、外をめざして走った。

 火が追ってきている。その勢いは、はやてのようで、わたしは何度も、背を、尻を焦がされた。

 じゅうぶん精いっぱいのところ、やっと見えた本殿の上り口に、すでに這入ってきている鬼、いやもののけ、数匹の妖怪の影が見えた。

 わたしは、まだ持っていた刀――虚舟うつぼぶねを悲鳴をあげながらふり回す。

 それが、せいぜい威嚇のつもりだったのが、わたしを見て飛びかかってきた妖怪すべてが、に切れた。

 自分がいちばん驚きながら、本殿をとび出す。屋敷の前の広場に、つぎの妖怪がいる。

 頭のない、胸板に顔のある、見あげるほどの一ツ目の妖怪が。わたしを確かに睨み、山のようにたち塞がっている。

 わたしは恐怖にかん高い悲鳴をあげる。

 その声につき飛ばされ、一ツ目がよろけ、尻餅をつく。わたしは恐怖をふり絞って、絶叫する。一ツ目が苦しそうにもがいて胸を、胸の顔をおさえ、ふくれ上がる目玉をおさえ付けようとするけれど、わたしが絶叫を怒号にしてさけび切り叩きつけると、あわれ目玉ははじけ飛び、一ツ目は目無しとなって絶命する。

 わたしの声を聞き、猿のように群れ集まってきた影がある。わたしの息はもうぜいぜいと切れている。しかし。

 群れのなかに、浮く影を見つけた。見おぼえのある鬼面。あれは。

 飯村老人を食った、妖怪だ。

 わたしの血がどくりと脈うった。頭に血がのぼり、わたしは無謀にもうら返った声で雄叫びをあげてかけ出した。刀を大上段にかまえ、鬼面の真下にいた妖怪を一匹、二匹とふみ台にして、わたしは跳んだ。だが、ぜんぜん足りなかった。鬼面はさらに高みに逃げている。

 それでも、わたしは力のかぎり虚舟をふり切った。

 空気を裂いた衝撃が、鬼面の顔をたてに撃ち、八ツ橋のように折りたたんだ。さらに二撃、三撃をくらわすと、鬼面は柘榴ざくろのようにくずれてちていく。たちまち、あちこちから手がのびて鬼面の血肉はむさぼり食われていった。

 また、ならんで落ちたわたしの落下点をめざし、かけ集まる妖怪たちがいた。

 わたしはそいつらの上を飛び石のように渡り、かけ抜けてゆく。どこへ。群れる妖怪に手うすいところなどなかった。ひしめく異形の影は、すでに濁流のような渦となり、地に満ちてわたしをとり囲んでいる。

 わたしは地面にかけ降り、身をひるがえす。妖怪の大群が、津波のようにおし寄せ、つき進んでくる。

 わたしは、イヤァッと気合一閃、腕をうち振るい見得を切る。その先で大群が、不可視の衝撃をうけてふっ飛び、またつき転がされ、進行をとめる。

 つづけて、ウンヌゥッとこぶしを利かせ、空間をひねり上げる。進行をとめた群れの、百匹は下らぬ妖怪が、にぎり飯のたわらにむすばれるがごとく空中でとなって圧死する。それをたかくふり上げ、ふり下ろし、地面にたたきつけると、その下じきとなりさらに十数匹がつぶれてむくろをさらす。

 それでうち倒したのは文字どおりひと握りであったが、おおくの肝のちいさい物の怪は、それでひるんだ。わたしの前に、参道のように道がひらいてゆく。

 そこに残った、影があった。

 童子のように、いや童子ほどではない、くるぶしにとどく程の長い髪をたなびかせる、美丈夫がいた。美丈夫は、大小の脇差しをさし、その両脇に、二匹の鬼、牛頭ごず馬頭めずをつき従えていた。

 ただ、美丈夫とはいったが、童子のほうがうつくしい。

 しかし、それでもわたしよりはずっとずっと、うつくしい。

 だが、それが、どうした。

 こいつか。つまらぬ吹きは。

 教科書で見た公家のような身なりをしたその美丈夫は、侮蔑するわたしの心を読んだように、そのうつくしい顔をゆがめた。もっと歪めてくれようと、わたしは虚舟を構えかけ出す、が、ふと気づく。

 牛頭、馬頭のすがたがいつしか見えない。

 あっと思ったときには、両脚をとられていた。

 左の牛頭、右の馬頭。わたしの脚にしがみつき、かみ付いて、地に縫いとどめる。

 わたしはとっさに虚舟を逆手にかまえ直すも。

 一瞬のちに、わたしのそばに美丈夫がかけ寄っていた。

 その顔をちかくで見て、ああでも、やはりこいつはイケメンだなあ、と、いいなあ、とわたしは羨ましくなる。

 そして、ひと太刀が振るわれた。わたしはかろうじて虚舟でその一撃を受けたけれど、むざんにも虚舟は、というするどい音ともに根本から断たれた。

 そして、息をのんだわたしの呼吸が、また無情にひゅうと虚空に抜ける。

 情けなくも、虚舟が折られたのと同じ一撃で、わたしは首をはね飛ばされていた。

 くるくるっ、と視界がまわる。わたしは、また、高いところから妖怪の群れを見下ろす。


 ああ。どうせ、さいごはこうなるのか。

 しかたないよ。わたしだもんな。


 頭ひとつとなったわたしの内側が、かなしい気もちに満ちる。童子に申しわけがなくて、涙も出ない。

 上空の風がふいている。童子の声がききたい。風は笛のような、うつろな音だけを響かせている。

 わたしは落ちてゆく。下には、わたしの体をつかまえる牛頭、馬頭と、刀の血をはらう美丈夫が見える。

 ああ。

 わたしも、あれになりたいなあ。

 流れる髪もうるわしき美丈夫イケメンがわたしはうらやましくて、せめて、その端正なつくりの顔をめざしてわたしは落ちてゆく。どんな名峰よりもうつくしくそそり立つ鼻すじに口づけたくて、くちびるをとがらせ、しかし、

 美丈夫のつんざく絶叫が響きわたる。

 美丈夫はおそろしい剣幕をまぢかに見せて、美しい顔をゆがめ、わたしの顔に、肉まで爪をくい込ませてひき剥がそうとするけれど、わたしはあまりにかれの血が濃くて、肉があまくてたまらなくて、その顔の肉をすすり、くらってゆく。この世のよろこびそのもののような肉をくい進むなか、ひやっとする目玉がひとつ、ふたつとわたしの口のなかではじけ、無数の歯がかぐわしいナッツのようにくだけて、いつか、深い脳みそのすばらしい味わいが舌のうえにあふれるころ、嵐のような叫喚きょうかんはもはやなく、かれの抵抗はやんでいた。

 そのたまのような血がとび散るのがもったいなくて、わたしは、かれに切断されて、ゆき場のなかったじぶんの首の血管をのばして、かれの血管につなぎ、直接そのとうとい血しおを身中にうけた。まさに、心が洗われるようであった。

 そうして、かれの頭をくらい尽くしたわたしは、その首のうえに鎮座し、かれの手を動かして、また足ぶみをした。すでにわたしの体だ。たおやかな手足が見なれず、おかしくて笑う。その白魚のような指で、笑うとぐらつく自分の頭をつかんで、しかと固定する。

 むげなく首をとばされ、地べたに力なく屈んでいたわたしの体も、その切断面からすでに獅子面が盛りあがってきており、ゆっくりと四つ這いで活動を再開していた。その背にはちいさな翼が生えはじめていて、全身のが開き、両足に食らいついていた牛頭馬頭も、かみついた口からわたしに頭をとり込まれて意思をなくし、左右のたけき車輪へと変容をほぼ終えるところであった。

 わたしは、その地を這うわたしの手から折れた虚舟うつぼぶねをとり上げる。ほとんど根元から刀身をうしない、みじかく軽くなったはずの虚舟は、いま、むしろ、そのかがやきを増しましている。そう、虚舟は刀身をうしなってなどいない。

 折れた刀身のしたからあらわれた、この妖刀の真のすがた。実体のあるものを斬らず、あやかしき存在のみを斬る、ひかりのやいば。握る柄のさき、鯉口のさきにまばゆく伸びる、三日月のするどさと満月のかがやきをもつ、新生した虚舟をわたしは頭上たかくたかくかかげる。

 わたしは、まさに月のかたちを模すように、おおきく円をえがいて虚舟をふり薙ぐ。薙がれた地面がたちまち、時化しけたようにひろく激しく波うち、土飛沫をあげると、その下から、体を真ん中からたて割りに両断され苦しみにあえぐ大百足おおむかでが姿をあらわす。

 わたしは愉快のあまり呵々大笑する。七尺、八尺はそのかがやく刃をのばしていた虚舟が、今の一ふりで、倍の長さにはなっている。その魔刃が、地面を透かし、その奥底で姑息に息をひそめていたこの化け百足だけを斬ったのだ。

 わたしは、車輪もつ獅子と化した四つ這いのわたしにまたがり、身をふたつに分かたれながらも空にむかって逃げようとする、化け百足の背をぱっとかけ上がる。左右に泣きわかれした百足の体を軌条のようにして車輪で駆け、風を切り、雲を裂き、最後はその頭を蹴たぐり砕いておおきく飛翔する。

 眼下に、森が広がる。そこに木々よりも目立つ、無数のあやかしどもの姿。この光景に見おぼえがある。人としての記憶。

 東京タワーの、展望台で、都心を見わたしたとき。大小さまざまのビル群が、眼下にひろがった。どこまでも、地の果てを、埋めつくしていた。

 あのときは、それすらも、畏敬した。わが存在よりはるかにおおきなものだと。いまは違う。あのときのビルのように見果てえずたち並ぶ、化けものども。だが、寸毫たりとも、負ける気がせぬ。一ぴきのこさず、屠り、平らげてくれる。


 わが愛と、そのねやを踏みけがしたおのが不運と愚行、もはや遅いがせいぜい悔いて呪え。そうだ、ここは――


 鬼の棲むもりだ。

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鬼の棲む杜 〜天童シコ男の恋と冒険〜 ラブテスター @lovetester

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