天童シコ男の恋と冒険(中)

 そのあと、わたしは崖から落ちました。

 狼狽してひとり山頂にかけ戻り、先ほど遠景をのぞんだ斜面にとび込んで逃げようとして、できなくて、だってそこは、そういう目で見ると思いのほか崖で。たたらを踏んでふり返り、真っすぐわたしにせまろうとしているを見つけてしまい、ああっとわたしの精神が恐慌したとき、ぺたんこの革靴の底が、岩にすべった。

 あっと思ったときはすでに落ちはじめていました。そのあともあーっと落ちつづけ、出っぱった岩や、枝にからみ、体のあちこちがはげしく打ちつけられるたびにあーあーとぶざまな声をあげて、わたしはずいぶんと長く落ちてゆきました。

 最後、崖の底に、巨大な平手打ちを食らうみたいに全身でたたきつけられ、ああ、死んだ! これは死んだ! そう思ったし、ものすごく痛かったし、わたしは悶えて、ごろごろ転がっては死んだ死んだと泣きわめいていたが、その気もちが落ちつくと意外と生きていた。

 わたしの落ちたところは、ただの地面と思ったが、あらためて見ると沢の浅瀬でありました。そんなところを転がったのでスーツは上下びしょ濡れで、何より、そこかしこが破れてびりびり、ぼろぼろで。靴などはとうにふっ飛んでいた。およそ全身、打ち身で息がつまるようだし、派手にこすったりひっ掻いたりしたところも火がついたようで、みじめで、気もちがあふれるようにさみしくて。わたしは喉をしぼってまたしばらく嗚咽しておりました。

 泣きながら、飯村老人のことを思いました。わたしは、じぶんの苦痛のためにはこうして泣くけれど、飯村氏の死――あれは、死んだろう――のためには、はたして涙を流すのか。わたしなどを気にかけてくれた、奇特なひとだ。なのに、わたしは、そのひとのために泣くより前に、こんな、痛いだ、つらいだと。いったい、おまえに人らしいこころはないのか。おまえはまた、自分のことばかりか。ちがう。ちがう。わたしは首をふって、その呵責に抵抗しました。

 涙があつい。顔があつくて、頭がいたい。その頭に、今さっき焼きついた、あの光景が、よみがえる。

 そうなのだ。わたしは、けっして、悲しくないわけでは、ないのだ。ただ、それよりも。

 おそろしいのだ。

 老人の、血がしぶく向こうに見えた、あれ。あいつの顔が。


 あれは、宙に浮く、ばかでかい人の顔、いや、鬼の顔だった。


 死を思いだす。わたしは死を思いだす。

 目のまえで見た死を思いだす。わたし自身が、未だその危機をのがれていないかもしれない死を思いだす。

 鬼。なぜ、鬼だとわかったのか。

 わかったわけではない。鬼としか思えなかった。

 宙に浮く、人の顔。人のような顔。首からは下のない、巨大な、赤ら顔。皿のようにまるい、とび出た、黄色い目。やはり黄色い、ぎざぎざの歯。牙。あたらしい血にぬれた。

 そして、その額から病んだ木のようにねじくれて生えた、ながい一本のつの

 人ではない。人ではない。

 わたしは悪寒にふるえる。自分でじぶんの肩を抱き、うずくまり、膝をつき、頭をついて。そうして動けなくなりそうになる。

 それが、恐怖のためばかりでない、濡れた衣服をまとったままであるからだと気づいて、わたしは疲労に重い手で、のろのろとボタンをはずしてゆき、またベルトを、抜きました。けれどべったりと濡れて、ひき裂けた布地は、嫌がらせをするように肌にはり付き、つめたくて、わたしが手間どるあいだにも、ひるのように体温と、わずかな体力を啜ってゆく。

 そうか、ここは沢だから、水辺だからこんなにも冷えるのだ。そう思ってわたしは、脱ぎながら浅瀬からよろよろと、ふらふらと、歩みだし――

 とたんに、脱ぎかけの服に足をとられ浅いよどみに顔からつっ込む。わたしはあわてるけれど、だけど、流れのない淀みはすこしあたたかくて、わたしはそこで体をまるめてしまう。肌にはり付いていた衣服が、水に浸かってゆるみ、わたしは四肢をくねらせて服をぬぐことができた。ばた足に水がかき回され、泥が舞う。泥にまみれる。また、人には見せられぬすがただ。また、人に指さされ、笑われるざまだ。かまわない。人ならよい。もう、人でさえあれば。今は。鬼で、なければ。

 服をあらかた脱ぐと、やっと人心地ついたような気ぶんになって、わたしは淀みから這いでました。すると、あたたかいと思っていた水よりも日に照らされた岩の白肌のほうがもっとぬくくて、心がいやされて、わたしは嘆息しながらそのうえを這いまわる。這ううちに、岩のならびから河原の砂利にたどり着き、やはりぬくまってあたたかいその大つぶの砂利に、わたしは何だかたのしくなってきて、両手でおおきくかき回したり、かきいだいたりしました。また、あお向けになると、水浴びをするように砂利をすくい上げて、ああ贅沢だとじぶんの体にかけたりしておりました。

 そして、じぶんの笑い声でふと我にかえり、また飯村氏を思いだして自責に顔を覆い、それから、はだかでいることの気恥ずかしさが今さら襲ってきました。

 さっきの水たまりから服をひき上げ、乾けばまた着られるだろうかと岩肌にひろげるも、袖口や襟ぐりよりも引き裂けた開口部のところのほうが大きいくらいで、もはや服のていをなしていない。

 現代人の矜持として、無傷であったパンツだけはき直してみましたが、濡れてだるだるになってもの凄くみっともないし、不快だし、なにより水をふくんだ布地が風にひえて、腹がひえて、さっそく腸がごろごろと鳴るありさまでした。

 なので、パンツもやっぱり脱いで、せめて手に提げて乾かしながら、もう片手を申し訳ていどに股間にあてがい、わたしはそのへんを歩きまわりはじめる。いまどの辺りにいるのか、どうすれば街まで戻れるのか、把握しなければならない。

 藪を、木立ちをのぞき込み、どこかに道はないか、また道しるべでもないか探すけれど、これが見つからない。

 そうしているうち、自然の音ではない、動くもののたてる音をどこかに聞いた気がして、わたしはおののく。そういえば、あの鬼は宙に浮くのだから、この谷までわたしを食いに下りてきてもおかしくないと今ごろ思いいたり、ふるえ上がらんばかりにおびえるも、音の正体は、先ほどわたしが脱いだスーツにあつまっている数匹の猿だった。

 見なれないものが、めずらしいのか。数匹あつまっているのを見て、さらに林からぱらぱらと出てくる数匹がある。そのうち、わたしを見つけて、歯をむき出してかん高い声をあげるものがあり、これはこれでこわくて、わたしは林のわけ入れるところから無理やりにはいり込み、はだしで枝を踏んでは、痛い、いたた、と漏れる声をおし殺しながら、その場をはなれたのでした。


***


 それから、全裸のまま、どこにも辿りつけないまま、日が暮れるまでは早かった。

 はじめは、なんでも手がかりがあってほしくて、川の音からはなれないように歩いていましたが、だけど、遭難したときに沢をくだるのは悪手という話がなかったか? というのを思いだし、そこからは沢と直角に斜面をのぼりはじめたものの、あっという間に息がきれ、斜面を横ばいにすすみ、すると同じところをぐるぐる回っている気がしてきて、不安で足が前に出なくなり、だからと来た道を戻ったりしていた。

 そして、水辺をはなれてから、また暑くうだるようだった気温が、やけに過ごしやすくなってきたと思ったら、程よいを通りこしてまた冷えてきて、風があるようになって、これはと思ったときには、日が大きくかたむいていました。

 うす暗さに気もちがすくんで、どっと疲れがでて、わたしはその場へすわり込んでしまいました。なれぬ素足あるきで足うらは、痛むのをこえてびりびりと麻痺したかのよう。わたしは手持ちぶさたに両手をじっと見る。もっていたパンツはいつの間にか、もうありません。どこで落としたのかもわからぬ。しずむ気もちへひぐらしが拍車をかけてゆく。素肌をぬらす汗の肌寒さに、これで死ぬのだろうか、と思う。背なかが冷えてゆく。

 つぎにわれに返ったときは、とっぷりと日が落ちていました。

 頭が起きたのには、理由がありました。暗やみのなかに、明かりを見たのです。

 これは、生きられるかもしれない、と思ったじぶんを、あさましいとも思いました。あきらめかけたくせにと。いや、あきらめるという思いすらなく心をとじていて、終わりを待っていたくせにと。

 それでも、わたしは歩きだしました。どうせ、きょうは、朝から、わたしは逃げどおしだったのだ。いや、今日にかぎらず、わたしの人生は、ずっと、逃げっぱなしであった。ならば、最後まで、最期の最後まで、きちんと、たしかに、逃げとおそう。わたしは、あとはせめて、あの明かりまで、逃げてみよう。そうしてだめだったら、あきらめよう。そう思いました。

 そんな気もちでけんめいに藪をこいでいると、ふしぎなもので、あっさりと足もとに道があらわれました。角材を渡してきられた段々。地面も、ごつい砂利ではなく、湿ってつめたい土となり、あるきやすく、走りやすい。いきおい、わたしの足もはやくなる。もうすっかり暗くて、風がごうごうとしていて、体が芯までひえるものだから、あたたまりたくて、わたしは走った。


 の存在には、すれ違う瞬間まで気づかなかった。

 いま何か、いや誰か、いたような。

 足をゆるめてふり返り、わたしは、しかしすぐに前に向きなおり、せかせかまた走りはじめます。

 走りながら、わたしは、いま見たものに、じぶんの目を疑う。

 だって、いま、

 すれ違うまで気づかなかった。えっ?

 そんなばかなことがあるでしょうか?

 いま一瞬ふり返り見た光景を、思いかえす。今度のそれは、すくなく見つもって、二メートルはある巨人。しだれ桜のような、猫背で、ながい腕をたらした、やはり、つののある。鬼。わたしをちらと見た気がした。いや、たしかに見た。なのに追ってこなかった。

 そして、そのすがたには、ともし火が透けていた。

 灯し火。そうだ。火が、灯籠があった。それにも気づきませんでした。なぜ。

 明かりを求めて走っている今のわたしが、火に、気づかないことがあるか?

 とまどうわたしの目に、さらなる光の行列が映ります。いまわたしがかけ登る木段の、両端に。等間隔に、灯籠が、あかあかと道をてらす光が。ある。あった。それが、わたしを、わたしのたるんだ裸体をてらし出している。

 そして。

 鬼が、まだいました。沢山いた。灯籠のまわりに。木段にそって。ともる火に下からてらし出された、とりどりの、さまざまの、異形の、巨躯きょくの、鬼。その真下を、そのさなかを、わたしは走っていた。叫びだしそうになったけれど、必死でがまんしました。鬼どもは、なぜかわたしに構わない。わたしに気づいているものはいる。わたしは泣きそうでした。でもがまんしました。

 そのうち、ならぶ灯籠のあいだに、鳥居がはさまるようになった。鳥居のつらなるトンネルです。頭上の鬼との間にさえぎるものができて、わたしはちょっぴり呼吸がらくになる。

 しかし、これも尋常とはいえなかった。

 これとは、鳥居のことです。

 ふつう鳥居は、丁字の、脚が二本あるようなつくりのはずでしょう。なのにこれは、H字というか、上にとび出ている部分がある。

 これはなんだ。これは、鬼の鳥居なのか。わたしは、いつの間にか人の世界をふみ外し、鬼の世界にまよい込んでしまったのか。

 そう思ううち、木段がおわる。のぼり終える。

 そこにあったのは、ひときわ威容のH字の石鳥居と、

 大きな、おおきな神社の、本殿。

 そして、そのまえのひらけた敷地にひしめく、鬼の群れであった。

 わたしは、魅入られ、憑かれたようにそのただ中へふらつき歩み入っていった。


***


 鬼たちは、やはりわたしを顧慮しませんでした。

 わたしは、何ごともなく無数の鬼の、その巨体の足もとを通りぬける。

 おそるおそる頭上の影を見あげる。四面。六臂ろっぴ。八足。一ツ目。牛頭ごず馬頭めず。竜頭さえある。そしてすべてに、つのがある。

 そして、地獄の博覧会のような光景がとぎれると、わたしはやたらに大きな本殿の正面にいました。おそろしく立派な、なにかの総本山のような構えに、わたしは物見遊山のように、へえとか声をもらしつつ中へ入りこみ、座敷へ上がりこむ。元からはだしであるから、ぬぐ靴もない。

 しかし、そのとき、ざわざわっと気配がうごいた。

 わたしはふり返る。無数の鬼と、

 先ほどまで、わたしを完全に無視していた鬼が全員、わたしを見ている。

 そのうちの一匹が、わたしを指さして、ぐわっと大きく口をあけたところで、わたしは肝がでんぐり返ったような悲鳴をあげて、本殿の奥へ、奥へと全力で走りました。

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