榠樝の葉

鹽夜亮

榠樝の葉

 窓の外に広がる曇天は、とうに葉を失った裸の山々や庭の木々を、圧し潰すようにして覆い被さっていた。二月の冷気を帯びた荒っぽい風が、白樺の梢を乱暴に殴っている。彼以外の誰もいない台所では、無情に時間を押し進める時計の針の音と、ガスストーブが空気を吐き出す音だけが響いていた。彼は家で着るための、年齢に似つかわしくない幼さを感じさせるパーカーを羽織り、コーヒーを啜っていた。

 自分は一人きりになってしまった。実際のところ、彼は、必ずしも孤独ではなかった。家族は居た。事実、この家で共に暮らしていた。少ないながら、友人も居た。さらに、恋人も居た。彼の孤独は、そういった「孤独」とは違っていた。彼は、濃く淹れすぎたブラックコーヒーを啜りながら、なぜまだ生きているのかを自分に問うていた。塵労という言葉が常に脳裏に沈殿していた。それは、彼が、二時間後にアルバイトに行く予定を抱えているからかもしれなかった。

 彼は、生きていた。だが、彼は早く死にたいと常に願っていた。それも、出来る限り運命的な死を願っていた。肺結核に伴う喀血に憧れた。ヴェロナールと、バルビタールは粉砂糖のような甘美さをもって彼を誘惑した。アブサンは、彼にはエメラルドのように美しい輝きを放ってみえた。銃口から漏れる硝煙の香り、刃から滴る鮮血…そしてそれらが彼に対して向かうことを、彼は恍惚を覚えながら夢想した。自分が唐突に交通事故にあい、一瞬で帰らぬ人となることを、家を出る度に想った。眠る時には、もう二度と朝日を見る事もなく眠り続けることを空想した。…だが、彼はまだ生きていた。のみならず、彼は今、物質的にも環境的にも、いかにも幸福らしかった。

 その幸福は、彼の死を決して容認しなかった。彼は、その幸福を甘んじて受け入れた。それは、たしかに本物の幸福であることを、彼は知っていた。そしてついに彼は、死を、ある一面で恐怖するようになった。ここに来ていよいよ彼は、彼自身が最も軽蔑していた塵労に、自らを投棄せざるを得なくなった。

 苦いコーヒーを飲み干し、彼は窓の外に目をやった。時計の針は相変わらず淡々と進んでいる。彼の住む田舎は、なにもかもが死んだ世界であるかのように静寂に包まれている。庭の木々にも山々にも、灰色の空にも、何一つ生が存在しないように彼には思われた。この世界で、彼は一人きりで生きているかのように錯覚した。誰も彼も、彼の知らないうちに死に絶えてしまっていて、ただ一人彼だけが必死に生にすがりつこうとしている、そんな無様な想像が彼の心を愉しませた。

 台所にある彼の椅子から、窓の外を眺めるとちょうど目に入る位置に、榠樝の木が二本そびえていた。冬になると不気味な茶色に変色するその幹は、彼にとって特に好ましいものではなかった。実際、彼は、いつもその榠樝には目もくれず、その両隣にある白樺の肌の美しさに魅入った。

 形容しがたい孤独に支配されながら、彼は白樺を見た。何も感じなかった。そこには、枯れたようにそびえる美しい白樺が、ただあるだけだった。絹のように透いて見える純白の樹皮は、彼の脳裏に絵の具の白を思い浮かべさせた。そこには、どこか意味のないノスタルジーが存在しているかのように思われた。だが、絵の具の白は所詮絵の具の白でしかなかった。

 彼は何気なく、視線を右へと動かした。そこには、茶色に鈍く変色した痛々しい樹皮を携えた榠樝の木があった。彼は、はじめてこの榠樝に美しさを感じた。樹皮の所々がカミソリで裂いたかのようにめくれている。彼は、自分の人差し指にあるささくれを連想した。また、誰かのリストカットした皮膚を想像した。えぐり出された黄いろがかった脂肪のように、榠樝はグロテスクに己の内側を晒している。細々と頼りなく、曇天に向かって伸びる枝たちは、今にも腐り落ちそうに見えた。このグロテスクさが、彼の自虐心と破滅願望を刺激した。しばし、彼は榠樝の木に目を奪われた。鏡の中の自分を眺めながら嘲笑を漏らすような気分だった。事実、彼は気づかぬうちに笑っていた。

 榠樝の木を眺めるうち、その枯れ果てた枝の一つに、彼は意外なものを発見した。一枚、色を失った葉が無様に枝に縋り付いている。彼は、この風景にはっとした。心臓を射抜かれた気分だった。彼の目には、もう榠樝の痛々しい樹皮は映っていなかった。彼の目は、頼りなさげに揺れる一枚の葉に釘付けにされた。

 榠樝の葉は、そよ風にも大げさに揺れた。まだ枝についていることが不思議に思えるほどだった。それでもとうに死んでいる宿主に縋り付いていた。彼は、いかんともしがたい寂寞を覚えた。惨めで、悲しく、どうしようもない気分に陥った。あの葉が、自分のように思えてならなかった。自分以外の葉は全てとうの昔に死んでいるというのに、ただ無様に一枚だけ枝に縋り付いている、榠樝の葉。鼻孔で燻る幾分か酸化したコーヒーの残り香も、裏山の竹林の上を飛び去っていく鴉たちも、ガスストーブの轟々としたうなりも、全てが脇役として、枯れ落ちる寸前の榠樝の葉の最後を際立たせるためだけに存在しているかのように彼には感じられた。

 1時間半ほどが過ぎた。コーヒーはとうに飲み干された。カップの底にこびりついた残滓が、乾燥して不快な匂いを発していた。彼は、一つため息をついて椅子から立ち上がった。働きにいくため、着替えねばならなかった。彼は榠樝の葉を一瞥した。

 もし、自分が覚えていたのなら、この葉を毎日みてみよう、と心の片隅で小さな決意を固めた。緊張で幾ばくかの吐き気を覚えながら、彼は支度を始めた。

 数日が過ぎた。榠樝の葉は人知れず落ちた。彼は、もう枯れた榠樝のことなど、覚えてすら居なかった。

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榠樝の葉 鹽夜亮 @yuu1201

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