第三十六計 最後の計略

 

「おい、玄徳、起きろ」

 乱暴に小突かれて目を覚ますと、隣でシボーさんがアイスクリームを食べている。


「そろそろ会計の準備をしろよ。あたしにやらせるつもりか?」


「ああ、すみません」

 頭を振って、目を覚ます。

 どうやら少し、うとうとしてしまったらしい。見回すと、他のみんなは南雲さんの周囲に集まって、なにやらわいわい騒いでいる。言葉の断片を繋ぐと、どうやら南雲さんの旦那さんの写真を見せてもらっているようだ。


「なんで、シボーさん、一人でアイス喰ってるんですか?」


「へっへっへ、これはな、『孫子』でいうところの、『その攻めざるを守り──」


「──その守らざるを攻める』、ですか?」


 シボーさんが、おっという顔をして目を見開いた。

「なんだ、玄徳。『孫子』を読んだか」


「『孫子』を読みました。『韓非子』も、『論語』も『三十六計』も読みましたよ。そうでもしないと、シボーさんを騙せないと思いましたからね」


「へー、ずいぶん読んだな。あれか、『男子三日会わざれば、すなわち刮目して見よ』だな」


「それ、なんですか?」


「『三国志』」


「そんなのも、あったか……」


「おまえ、玄徳って名前のくせして、『三国志』読まないよな」


「引っ掛かりのある名前つけた親へ対する反抗ですね」


「子供かよ。あ、あと、『史記』も名言が多いな」


「いろいろ読まなきゃならない本がありますね」


 シボーさんはふんと鼻を鳴らした。

「玄徳、おまえ、『書は学の門なり』という言葉を知っているか?」


「え? 聞いたことあるような、ないような?」


「意味はなんだと思う?」


「本を読むことが、勉強だという意味ですか」


「逆だな」

 シボーさんは、不正解!とばかりに肩をすくめた。

「書店員のあたしが言うのもなんだが、この言葉の意味は、『本を読んだからといって、勉強したと思うな』という意味だ。人は門をくぐり、玄関を入り、廊下を抜け、奥の院に通されて、初めてその家の主人に会うものだ。書は学の門とは、本を読むことは、学の道の門をくぐったに過ぎない。そこから自分で考え、検証し吟味し、その先にある真理に至る必要がある。だから、本を読んで、それで修了だと思うのは、大きな間違いだということさ」


「はあ」


「玄徳、きょうはありがとう。おかしいおかしいと思いながら、まさか自分が騙されているとは思わないから、すっかりやられたよ。零花や麻衣の顔を見たときは、本当に嬉しくて、涙が止まらなかった。やっぱりこういう送別会はいいものだ。麻衣が何度もバイトのみんなのために送別会みたいなことをやっていた理由が、いまになってやっとわかった」


「ええ」

 玄徳はちらりと南雲さんや零花たちの方を盗み見る。そして、声を潜めた。

「シボーさん、脱走しませんか?」


「なに?」


「二人で逃げちゃいません?」


 すぐにシボーさんはピンと来たらしい。にやーっといつもの笑いを口元に浮かべる。

「いいね、それ。じゃあ、まずあたしがトイレに行くと言って席を立つ。で、三分遅れて、おまえがトイレに立て。荷物は手に持って低く下げろ。上着は着ないで、荷物に突っ込む」


「シボーさん、花束どうしますか?」


「さすがに置いて行けない。お前が持ってこい」


「そんなご無体な」


 シボーさんは素早く動いた。

 いつもの手提げバッグに上着を突っ込むと、低い位置で提げて、椅子の死角になるように立ち上がり、すっとみんなのところへ行って、「四番いってくる」と店の奥へ歩いて行った。


 なるほど、さすがシボーさん。

 店の奥へ行けば、まさか帰ってしまうとは、みんな思うまい。シボーさんはテーブルを大きく迂回して、柱の向こうの通路から店の出入り口へ悠々向かう。

 まさに第一計『瞞天過海まんてんかかい』。『天をあざむいて、海をわたる』が如し。


 ちなみにいまシボーさんが使った「四番」とは、トイレの隠語である。

 百貨店などの店内で「トイレ」と言うのが憚られる場合、その店独自の隠語が使われるのだが、その中で「四番」というのは比較的有名な物らしい。

 なんでも、その昔、東京駅の四番ホームにだけトイレがあったことに由来していると八重垣さんに聞いたことがある。あのおっさんも、変なこと知っている。


 しばらく待って、玄徳もふらふらと立ち上がる。カバンにシボーさんが貰った花束を詰め、サルスーツは着たまま。


 酔ったふりをして、ぼうっとしたアホヅラで、みんなの背中越しに、「すみません、トイレ行ってきます……」と情けない声をかけて、通り過ぎる。第二十七計『仮痴不癲かちふてん』、『痴をいつわるも、癲せず』だ。


 玄徳がへろへろなため、みんな大して気に掛けない。


 みなの注意が向けられていないのを幸い、通路の奥で素早くしゃがみこんだ玄徳は、するするとサルスーツを脱ぎ去った。そして、シボーさんと同じルートで店の出口に向かう。



 レジでは、シボーさんが会計をしていた。

「ありがとう、ございましー」

 斎藤さんが、クレジットカードをシボーさんに返している。


「ちょっ、シボーさん、主賓が会計するのはダメですって」

「いや、どうせ今日は奢るつもりだったし、すごく楽しかったしな。これは、あたしを騙した奴らへの、せめてもの復讐だ。あ、すみません、領収証おねがいします」


「かしこまりました。お名前はいかがいたしますか?」

「ソウイジョウで」

「どういう字でございますか?」


 斎藤さんが差し出したペンで、シボーさんは伝票のうらに、漢字三文字を書く。


「それより、玄徳。おまえ、ここで逃げちまったりしたら、フーと仲良くなるチャンスをフイにしちゃうんじゃないのか?」


「いいですよ。あの話はシボーさんを騙すためのネタですから」


「え? そうなの? 本気にしてたよ」

 口をとがらすシボーさん。


「すみません。フーちゃんは可愛いですけど、ぼくには他に好きな人がいますから。アイドル顔で睫毛の長い人」


「え? それって宮園零花か?」


「いいえ、もっと性格が歪んだ人です」


「零花より性格が歪んでいるなんて、そりゃそーとー頭おかしい女だな。おまえ、趣味が変わってるわ」


「ぼくも、そう思います」


「こちら、領収証になりましー」

 斎藤さんが差し出した領収証の宛名を確認したシボーさんは、それを斎藤さんに返してこう告げた。

「あとで、うちの集団の南雲ってやつに渡しておいてください」


「かしこまりました。南雲さまですね」


「はい。旧姓ですけど」


「じゃ、行きますか」

 玄徳は先に立って外に出た。


「おい、玄徳。あそこに案内しろよ。大道寺がやらかしたバー」


「あ、いいですね。行きましょう。北口の方なんでちょっと遠いですけど、なかなかいい店ですよ。しかし、シボーさん?」


「ん?」


「さっきの領収証の名前、南雲さんじゃあ、意味わからないでしょ」


「それくらい自分で調べるんじゃないの? でも、ああいう風に書いておかないと、あとが怖い」


「書いといても、あとは怖いですよ」


 玄徳はシボーさんと肩をならべて、地上へと向かう階段を上がり始めた。


 シボーさんが領収証の名前に書いたソイウジョウとは、漢字で書くと「走為上」となる。


 これは『兵法三十六計』の第三十六計であり、すべての兵法の中で究極最強の計略であった。


 ──走るをもって上と為す。


 意味は、逃げるが勝ち、である。


 



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バイト軍師シボーさん 雲江斬太 @zannta

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