第三十五計 単なる偶然
ちらりとスマホを確認するが、メッセージも着信もない。電波が悪いのかもしれない。
いま本隊が来ない理由は明確だ。会場を発見できないのである。
会場は、以前使ったことのある場所がいい。そう教えてくれたのは、シボーさんだった。だのに、なぜ、自分は初めての会場に、こんな複雑な作戦で人を集めようとしてしまったのか。本当に、ぼくは駄目な幹事だ。
玄徳はあきらめた。
これでこのままシボーさんの送別会は、結局開催されず、今夜はただのお食事会として終了することだろう。零花がせっかく用意してくれた花束も無駄になってしまった。
やがて、ビールとサワーと梅酒がテーブルに並べられ、注文したお好み焼きが、じゅーじゅーいう鉄皿に盛られて到着した。
このお好み焼き屋『豚ちんかん』は、案外内装が洋風でおしゃれだ。
壁には三角形にカットされたミラーがモザイク状に張りつけられ、そのせいで店内は明るい。
玄徳が最初に気づいたのは、その三角形のミラーに映った宮園零花の笑顔だった。
玄徳は、「ほうっ!」と大きく息を吐いた。
目の前でシボーさんの目が大きく見開かれ、眼鏡のレンズいっぱいに広がる。
びっくりして口を半開きにしたシボーさんは、ぱっと両手で鼻と口を覆った。
玄徳は、てっきりシボーさんが笑っているのかと思った。
なぜなら、シボーさんは両手で口をおさえ、身体をぷるぷると震わせていたから。しかし、玄徳の見ている前でシボーさんは、大きく見開いた両目から、ぼろぼろと涙をこぼし始めた。
「シボーさーん!」駆け寄ってきた零花が、さっきの花束をシボーさんに差し出す。「偶然ですねー。こんなところでお会いするなんて」
立ち上がったシボーさんは、片手で口を押え、真っ赤な目を濡らしながらも、花束を受け取った。
そんなシボーさんを、零花はぎゅっと一度抱きしめると、後ろからきた南雲さん──いまは結婚して坂井麻衣さんとなったが──に場所をゆずる。
「亮子、お久しぶり」
南雲さんが両腕を広げると、シボーさんはその中に飛び込んでしゃくりあげる。
「麻衣ぃ。玄徳が、玄徳が、いじめるぅ」
旧姓南雲さんは、シボーさんを抱きしめると、その頭をいい子いい子して、
「そうだねー、玄徳くんは、悪い子だねー。亮子のこと、騙すなんてねー」
と笑っている。
「えー、みんな、どうしたんですかぁ!」
フーちゃんが高い声をあげて、とりあえず拍手している。
「いやー、みんな偶然だねえ」
言いながらテーブルによってきた筒井さんが、そばに立つ店員さんに、「とりあえずビール、五人分」と、可愛い手の平を広げていた。
「いやほんと、偶然ですよ」
いいながら、オータニくんが塚田くんと一緒に一生懸命テーブルを動かして、離れた席をひとつの島にしようとすると、慌てて店員さんがやってきて手伝ってくれた。
みんなが着席し、ビールが人数分運ばれても、まだシボーさんは泣き止まなかった。ぐすっぐすっとしゃくりあげながら、真っ赤な目からときおり涙をこぼしている。
南雲さんがハンカチを差し出すと、シボーさんは眼鏡を外して目を押さえる。
「うわっ」零花が大げさに驚く。「シボーさんが眼鏡外したの、初めて見た。案外アイドル顔だね。睫毛、長っ!」
からかわれて、ハンカチで顔を覆ってしまうシボーさん。
「もう。泣かないでよ」
筒井さんが元気づけようとシボーさんを小突く。
シボーさんは、うなずき、やっと顔を見せた。
「あ、ほんとだ、アイドル顔」
と筒井さんは、けらけら笑う。
「んじゃあ、子房亮子の送別会、そろそろ始めますか」南雲さんが仕切ってくれた。「じゃあ、今回の幹事および作戦立案者の玄徳くん。ちゃんと責任とって、挨拶してください」
玄徳はビールのジョッキを軽く空けると、立ち上がった。そして、カバンからある物を取り出す。
「そのまえに、これを」
玄徳は、カバンから出した茶色い布を広げた。
「あっ! それ」零花が指さす。「伝説のサルスーツ!」
「約束ですからね」玄徳は広げたサルスーツに両足を通し、袖に手を通し、頭にフード部分を被ってシボーさんを見下ろす。「つぎに幹事やるときも着ろと、シボーさんに言われましたから」
シボーさんは真っ赤な目で玄徳を見上げ、そしてやっと笑った。そして小さい声をあげる。
「ばか、このスカポンタン」
「おや、みんなこんなところに集まって、なんと偶然だねえ」
棒読みのセリフを吐きながら、約一時間遅れて八重垣さんが到着したとき、すでに玄徳はかなり酔っぱらってしまっていて、ほぼグロッキー状態だった。
「やへがきさん、ほそいれすよ」
「なにいってるんだか、分かんないよ」八重垣さんは、持ってきた小さいブーケをシボーさんに渡し、「おつかれさまでした」と告げる。
「おい、玄徳」すっかり元気になっているシボーさんが、酔っぱらってヘロヘロになった玄徳の頭をぽかりと殴った。「おまえ、あたしを騙すのはいいが、このあとどうなるか分かってるんだろうな?」
「はひ?」
酔いつぶれたサルスーツの男は、焦点の定まらない目を上げて、赤い顔に薄ら笑いを浮かべる。
「おい、玄徳。おまえ、フーちゃんを好きだと言ったあれは、嘘なのか?」
わざと大声で言われた。
「えー、そうなんですか!」
聞こえよがしな大声を出すのは、零花。
ちょっとまって、それ作戦……。
玄徳は混濁した意識の中で、抗議するも、言葉は口をついて出ない。
零花ちゃんが考えた作戦……。
玄徳は手を上げるが、それも力なくぽとりと落ちてしまう。
「ええー?」
みんなの声が響き、テーブルについた全員の目が、大澤フーちゃんの方へ注がれる。
フーちゃんは、それを受けて、
「えー、やだー!」
え……。なにその、『やだ』って……。
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