第4話「二つの署名」

 荒畑あらはた力哉りきやという男がまっすぐ歩み寄って来るのを見て、ビビらない生徒は、この学校に存在しない。

 ゴールデン・ウィークが近づけば、誰だって自然に気持ちは浮き立ってくる。新しい学年――といっても、ほとんど去年と同じメンバーなんだけど――での授業にも慣れてくる。季節はどんどん暖かくなってくる。自然に眠気も強くなる。

 そんなゴールデン・ウィーク直前、四月の下旬だった。

 ちょうど給食が終わって、食器を下げて席に戻ったときに、荒畑がぼくに向かって、のっしのっしとその巨体を揺らしながら、近づいて来たのだった。

 荒畑は、細い眼をいっそう細くして、顎を上げ、ただでさえ背の低いぼくを見下げるようにして、野太い声で言った。

御器所ごきそ、話があんだ。ちょっと体育館の裏に来いや」

 いよいよ出たか――「体育館の裏」。あまりにもクラシカルかつオーソドックスな場所。

 四年生の秋にはすでに声変わりしている荒畑は、とてもランドセルなんて似合わない――本人もそれを自覚しているのか、古びたスポーツ・バッグを使っているが。

 身長は、不老翔太郎とほぼ同じくらいか。が、体重は七十キロを越えているだろう。髪は短く刈り上げていて、五分刈りというよりは、むしろカンさんみたいな「角刈り」だ。

 ……などと、客観的に見ながらも、内心では恐怖のほうが大きかった。声と手の震えを必死になってごまかした。

 同時に、奇妙な安心感のような気持ちも覚えていた。

 これまで、同じ学年の男子のほとんど全員が荒畑に呼び出され――無論、「体育館の裏」へ――その力を身をもって知らされていた。

 しかし、たった一人、ぼくだけは別格だった。さすがの荒畑も「御器所組」組長の長男にヤキを入れることはできなかった。

 荒畑の拳を食らいたくはない。けれど、少し哀しかったのは本音だ。

 ぼくだけは、いつだって誰にだって特別扱いされる。ぼくも同じ学校の生徒なのに。

 ついに荒畑力哉がぼくを同級生と認めてくれるときが来たのかもしれない。

 意を決して立ち上がった。できれば顔は殴らないで欲しいな、と心で祈った。


 他人に見られたくない行為のために「体育館の裏」を使うことを最初に発見した人間は、よほど観察眼がいい。昼休み、一年生から六年生が走り回って騒がしい運動場から、わずか二十メートル弱、離れただけで、人の気配はなくなる――たぶん、どこの学校でも同じだろう。

 いざ体育館の裏に来て、じっとりとした汗が背中を伝い落ちた。荒畑力哉はまったく表情を変えなかったし、一言もしゃべらなかった。

 ぼくは、覚悟を決めた。つばを飲み込んだ。やたら苦い。飲み下す。下腹に力を込めた。

 そして奥歯を噛み締める。そうしないと、歯が折れたり舌を噛んだりする――という知識だけはあった。

 ぼくに「実戦経験」はないけど、ジンさんにせよノリ兄ちゃんにせよ、ホンモノの修羅場をくぐっていて、ぼくにいろいろ教えてくれる人はたくさんいる。

 眼をつぶった。

 顔にも腹にも、拳は来なかった。

「おい、フローと仲いいんだろ?」

 歯を食いしばったままなので、声を出せるまで数秒かかった。

「ん? んが? ふ、フロー? あ、不老ふろうのこと? べつにそれほどでも……」

「あいつ、何なんだ? 何もんだ?」

 荒畑は真剣な表情で尋ねた。

「ぼくも……よくわからない……」

 本音だ。アタマがいいのかと思ったけれど、成績のほうはどうなのか疑問だ。

 昨日の算数の時間、萱場かやば先生に向かって「なぜ円の面積は半径×半径×円周率で求められるのか」と食い下がっていた。さらに、萱場先生の前で「円周率」を百ケタまでとうとうと早口でまくしたてた。さらに、挙げ句、

「円周率を『3』で計算して、それでよしとする授業において、たかが小さな計算ミスで減点するのは納得がいかない」

 と、先生に向かって反論していた。

 さすがの萱場先生も、辟易した表情で

「とにかく円周率は『3』で計算しなさい」

 と言うほかなかった。

 運動神経はというと、今日の二時間目は体育で、サッカーだった。ディフェンダーの不老は、長い手足をひょこひょこと動かして――妙なダンスにしか見えなかったけれど、ちゃんと相手のシュートをさえぎっていた。そして、植田アントニオがシュートし、バーに当たって跳ね返ったこぼれ球を、あろうことか不老は、ディフェンダーのくせに相手ゴール前まで出て行き、ギクシャクした動きで蹴った――というか、踵で押し込んだ。ボールはコロコロとゴールに転がり込んだ。

 その瞬間の女子たちの黄色い歓声は……腹立たしい、の一言に限る。

「不老の野郎、タダ者じゃねえな。オレの右フックを余裕でかわしやがった。それに……おい、誰にも言うんじゃねえぞ」

 荒畑はドスの効いた声で言った。ぼくは無言でうなずいた。すると荒畑は、Tシャツの裾をまくって見せた。左の脇腹に青黒いあざができていた。

「レバーにぶち込みやがった。賢いのかバカなのかわかんねえし、ケンカ強えのか弱いのかわかんねえし、奇妙な野郎だな」

 ごもっとも。

 しかしそれにしても、荒畑を殴り返すとは……不老に「常識」というものが通用しないのは間違いない。

「あの野郎、亀島がやられた事件、解決したらしいじゃねえか」

 いや、ほんとうの意味で亀島の事件は「解決」してはいないかも……なんてことを、荒畑に言えるはずもなかった。

「オレから直接、不老の野郎に言うとカッコつかねえから、おまえに言うんだけどな、実はよ、ヘンなことがあったんだ」

 ぼくの脳内のアンテナが敏感に反応した。

「ヘンなこと? もしかして……事件?」

「事件じゃねえよ、バイトの話」

「バイト? 小学生なのに?」

 と尋ねてはみたものの、荒畑力哉という男は、どの角度から見ても、十五歳未満には思えない。

「誰だって、カネは欲しいじゃねえか……そっか、おめえんちじゃ、わかんねえか」

 ぼくは黙り込んだ。返す言葉が見つからない。

 荒畑は先を続けた。

「ゲーセンで東二中のバカガキ、カツアゲしてたらよ、おっさんに声かけられたんだ。ヘンなおっさんで『そんなエネルギーがあるなら仕事しないか』だとよ」

 中学生からカツアゲする小学生もヘンだ……なんてことは、もちろん口が裂けても言えない。

「で、それがワケわかんねえバイトなんだ」

「ど、どんな……?」

「おっさんに連れられて、そのビル行ったら、いたのはヤンキーばっか。なんつーんだ? 面接? 住所とかやる気あるかとか聞かれて、ま、テキトーに答えてたらよ、なんかもうバイト始めることになっちまって、事務所の個室に連れてかれたんだ。そこに、なんかわかんねえ機械とマイクがあった」

「マイク? カラオケとかの?」

「もうちょっと小さいやつ。その機械で録音するんだ。『サポーター』っていう学生みたいなやつが言ってた。で、簡単な録音のしかただけ教えて、あとのダイヤルとかボタンとか触るな、って言いやがってよ、いきなり本を渡してきたんだ」

「何の本?」

「なんか難しい漢字ばっかで、読めねえっつーの。そしたら『やっぱりね』とかその野郎、ホザきやがって、シメてやろうかと思ったら、もっとデカい本出しやがった。あんなのはじめて見た。一年の国語の教科書よりもデカい字で、漢字には全部フリガナが振ってあった。けど、ガキの本じゃなくて、アレだよ、水戸黄門みたいな? 時代劇で大人の本だった。主人公がやたら強くて、オニって呼ばれてて、泥棒捕まえるっていう……」

池波いけなみ正太郎しょうたろうだ!」

 ぼくは思わず声を上げたけれど、荒畑は構わず続けた。

「で、それ読んでるのを、『サポーター』ってやつが録音して、三十分くらいしたら、『あとは自分でやって』とか言いやがって、オレ一人だけで、録音させられた」

「それで、お金はもらったの?」

「おう。結局、三時間くらいやったら『リーダー』っていう、ゲーセンでオレ誘ったおっさんが部屋に来て、オレの録音した声聞いて『半分やり直し』とか上から目線で言いやがってよ、ブチキレかけたけど、ちゃんと時給八百円で三時間、二千四百円くれたから、マジでいいバイトじゃね?」

 一時間働いて八百円もらえることが、ほんとうにいい仕事なのか、ぼくには判断できなかった。ぼくは、働いたことなんてない。それに、毎月その二十倍近いおこづかいをもらっている。

「次の日行ったら、前にダメ出しされたとこ、もう一度録音して、それから続きを録音させられて……結局、四時間以上かかったけど、『リーダー』のおっさんが、おまけして五時間分、四千円くれた。ボロ過ぎるぜ。東二中のガキなんか、財布に千円も入ってねえときあんのによ、カツアゲより、よっぽど楽勝じゃねえ?」

 急に胸が苦しくなった。

 ぼくは、「この世界」――世の中のことを、何も知らない。

 ぼくは、「御器所組」組長の息子に生まれたことをうらんでばかりいた。ふつうの子と同じになりたい、と不満ばかり持っていた。

 けれど、ぼくなんか、恵まれすぎてるほど恵まれているじゃないか。

 それ以上考えたくなかったので、ぼくは先回りをして、荒畑に言った。

「でも、次に行ったらビルに誰もいなかった、っていうことなんだよね?」

 荒畑は、眼を白黒させた。

「はあ? いるに決まってんじゃねえか。読んでみると結構面白いもんだな。『オニヘー』って。で、最初の話の録音終わって、やっぱ五時間分のカネくれた」

 ぼくは、少々……いや、かなり落胆した。

「そっか、じゃあ『角刈り連盟』じゃなかったんだ……」

「はあん? 角刈り? オレのこと言ってのかゴルァ!」

 瞬時に荒畑の目つきが変わっていた。ここが「体育館の裏」だという現実を、すっかり忘れていた。

「い、いや、いや違うよ……小学生なのにバイトしてお金もらえるなら、すごく、いいことなんじゃないのかなぁって……?」

 荒畑は地面につばを吐いた。人を凍り付かせる鬼のような形相に豹変した。

 ぼくの口のなかが、急激に乾いていく。

 荒畑は怒鳴った。

「気に入らねえんだよ!」

 ぼくは縮み上がった。全然寒くないはずなのに、上下の歯がカチカチと鳴る。

「こんなバイトありえねえだろ? こんな楽勝な仕事でカネもらえるなんて、おかしいだろ!」

 荒畑は本気で怒っていた。

 ぼくはただ黙ったまま、震えながら、突っ立っていた。

「そっか、ゴキソ君にはわかんねえか? おまえんちが何の仕事してんのか知らねえし、知りたくねえけどな、ぜってえにおかしいことはおかしいんだよ!」

 まだ荒畑に殴られたほうがマシかもしれない。荒畑の言葉は、ぼくの胸の深いところに突き刺さった。

「不老に……聞いてみる」

 ぼくはかすれた声でようやく返事をし、その場から逃げるように――いや、ほんとうに逃げて――走り出した。が、荒畑が追いかけてきた。

「バカ野郎! これ、持ってけ」

 ぼくの右肩を摑んだ荒畑が差し出したのは、一枚の名刺だった。

「『リーダー』っておっさんの名刺。そこにビルの住所とかホームページとか、書いてある。今日、オレは五時に行くことになってるんだ。不老にちゃんと伝えとけ」

「う、うん……」

 今度こそ、ほんとうに逃げ出した。

 昼休みの終わりを知らせるチャイムが鳴った。


「『角刈り連盟』とはね。ちゃんと本棚の残り四分の一を読んだんだ」

 放課後、ぼくと不老翔太郎と――なぜか、うれしいことに――キム金ウナ銀河は、学校の近くの公園にいた。

「まだ全部は読んでないけど、その半分くらいかな。昨日、『シャーロック・ホームズの冒険』を読み終わったところだよ。だから、すぐに『赤髪連盟』を思い出したんだ」

「べつに得意がるほどのことじゃないでしょ」

 冷ややかに言うのは、ブランコに腰掛けているキム銀河ウナだった。

 金銀河だって「踊る人形」という言葉で不老の気を引こうとしたくせに。もっとも、シャーロック・ホームズが解決した「踊る人形」事件には、フランス人形もぬいぐるみも登場しなかったけれど。

 不老は、ぼくが荒畑から受け取った名刺を飽きずに眺めていた。

 ――〈こもれび〉代表 鳴海なるみひとし

 その他、住所、電話番号、メールアドレス、ホームページのアドレスが書かれていた。

「今日の五時に、『角刈り連盟』が集められるというんだね。あと……二時間もない」

「不老君、まさかそこへ乗り込む気?」

 金銀河がブランコから降り立った。

「御器所君が持ってきた事件だ。面白そうだ」

「でも、アルバイトでしょ? 事件なんて起きてないじゃない」

「起きてからでは、遅いんだ」

 金銀河は大きくため息をついた。そして綺麗だけど鋭利な視線をぼくに向けた。

「それに御器所君、だいたいそれどころじゃないでしょ? あずさに連絡してるの?」

「へえっ?」

 確かに、始業式の日に、本郷ほんごう梓の携帯番号とメールアドレスを教えてもらった。けれど、一度もメールしたこともないし、電話なんてとんでもない話だ。

「まったく、これだからオトコって生き物は! 待ってるんだから、連絡してあげなさい」

「ま、ま、待ってる……? だって、べつに用事ないし――」

「あのねぇ、用事がなくたってマメに連絡するべきなの。あーあ、男子って生き物はガキんちょばっかなんだよなぁ。御器所君、早くメールしなさいっ!」

 考えたこともなかった。金銀河に言われるがままに、ランドセルから携帯を取り出した。

 確かに本郷梓は魅力的だったけど、今ぼくの眼の前にすっくと胸を張って立っている金銀河も……。

 妙な緊張。ごくりっと音を立てて唾を飲み込んだ。

 助けを求めるように不老を見たが、不老は腕組みをして空を見上げ、この現状から超越した世界で考えごとをしている様子だった。

 その瞬間だった。手のなかで携帯電話が振動した。

「ほら、梓からでしょ。女のコのほうから連絡させる根性なしの男子って、ホントにカッコ悪っ!」

 金銀河は、きつい言葉を言いながら、いたずらっぽく笑った。

 くそっ、やっぱりかわいい。いや、本郷もかわいいけど……どちらか選べと言われたら……どうすればいいんだ?

 携帯を見た。

 ――ああ、何じゃこりゃあっ!

 胸のうちでの叫び。本郷梓からのメールでも電話でもなかった。

「あ……もしもし」

「おぼっちゃん、すぐに組のほうへ戻ってもらいますよ」

 間髪入れずに答えた相手はカンさんだった。

 もちろん「組」というのは「六年四組」の教室のことではない。不意に、そういえば、カンさんも角刈りだったな、と気づいた。

「おやっさんが、おぼっちゃんに訊きたいことがあるそうなんです」

 だったら父さんが直接、電話してくればいいじゃないか、と思った。

 そういえば、ここ一ヶ月ほど、父さんとまともにしゃべっていない。顔さえも会わせていなかった。何か忙しいらしい、ということはわかるけど。

「そういえば、若水わかみずさんは?」

 いつもぼくに電話をくれるのは――ぼくの「世話役」的な存在は――若水さんだ。

「それが……若に関係あることなんです」

「で、どうしてぼくが帰らないといけないの?」

「万が一、ということがありますから……電話じゃ言いにくいんですが、アイリーンさんがいなくなったんです」

「アイリーンさんがいなくなったあっ?」

 思わず叫んでしまった。

 次の瞬間、空をにらんでいたはずの不老翔太郎が立ち上がっていた。

「ああ、なんて僕はバカなんだ! その可能性は思ってもみなかった!」

「でもカンさん、ぼく、これから行くところが――」

「もうお迎えを出しました。すぐ戻ってきて下さい。おやっさんのご命令です」

「お迎えって――」

 電話は切れた。

 まさに、見計らったかのような絶妙のタイミングだった。

 公園の入り口の前に、見慣れた黒塗りのベンツが停まった。左ハンドル車の運転席側のサイド・ウィンドウが下がった。そこからスキンヘッドのやたらと巨大な頭部が現れた。似合わないサングラスをかけている――元力士のキヨさんだ。

「おぼっちゃん、事情はアニキからお聞きでしょう。乗って下さい!」

 キヨさんは野太い声で言った。

「いや、ぼく……」

「おやっさんからのご命令です」

 キヨさんはドアを開けて車外へ出てきた。その巨体から想像できないほどすばやく、滑るようにぼくに近づいた。着ているTシャツが小さすぎて、背中から二の腕まで描かれて――いや、彫られている――立派な「錦鯉の絵」の一部分がはみ出ている。

 金銀河が眼を見開いていた。不老は腕組みをして、険しい表情のままだ。

 けれど、それ以上は見えなかった。

 キヨさんにどんどん押されるようにして、いつの間にかベンツの後部座席に押し込まれていた。さすがは元力士。まわしを取る隙を与えずに、ほんの二、三秒で、ぼくは「送り出し」を食らった。

 確かに「角刈り連盟」も気になったけれど、荒畑なら心配する必要はないだろう。アイリーンさんのほうが大切だ。

 ベンツが急発進した。


 我が家――「御器所組」本部は、明らかにものものしい緊張感に包まれていた。いつもと違って、入り口にはモヒカン刈りのジンさんとアニメの大泥棒キャラクターそっくりのハマさんが立っていて、ベンツに――その車内のぼくに――一礼した。

 ぼくが母屋の自室に戻ってランドセルを置くや否や、ノリ兄ちゃんがやってきた。

「ぼっちゃん、おやっさんが、事務所に来てくれって」

 ノリ兄ちゃんだけは、ぼくに敬語を使わない。だから、ぼくもノリ兄ちゃんにだけは、ほんとうの兄弟みたいに接することができた。

「アイリーンさんがいなくなってホント? どういうこと?」

「俺もよくわかんないよ。けど、ヘタこくと『戦争』になるかもしんない……」

 冷たいものが背筋を駆け上がった。まさか、我が家でそんなことが起こるなんて。

「大丈夫だよ。ぼっちゃんや姐さんには、安全な場所に行ってもらうから」

「えっ? じゃ、ノリ兄ちゃんたちは?」

「心配すんなよ。いちばん若いのが最初にタマ弾丸よけになって、おやっさんやみんなを守らなくてどうすんの?」

 ますます寒気がした。

 ぼくの心配は、そんなことじゃない。ノリ兄ちゃんのことなんだ――そんなことを言っても、ノリ兄ちゃんは笑ってごまかすだけだろうけど。

 ぼくは黙って、足早に階段を下りた。一階の廊下の突き当たり――めったに入ったことのない部屋が「事務所」だ。

 自分の家なのに、一応ノックした。「はじめです」と名乗ってからドアを開けた。

 正面、以前に不老翔太郎が言及した「任侠道」と書かれた額――ぼくのひいおじいちゃん、つまり「御器所組」初代組長の書だという――の下、「御器所一家」の代紋の前のデスクに、父さんがいた。母さん――みんなは「姐さん」と呼ぶが――の姿はなかった。たぶん、キッチンにいるんだろう。

 周囲のソファに座っていた「若い衆」が一斉に立ち上がって、ぼくに深々と礼をする。

 いちばん胸苦しくなる、イヤな瞬間だ。

「おぼっちゃん、申し訳ありません!」

 いきなり床に土下座したのは、若水さんだった。

「若水、やめろ。おまえが謝ることは何もないんだ」

 父さんはそう言って煙草に火を付けた。

「一、最近、アイリーンから何か聞いてるそうだな」

 父さんは鋭い視線をぼくに向けた。どうしても、父さんのこの眼は苦手だ。

「アイリーンさん、どうしていなくなったの?」

 おそるおそる、訊いた。

「質問してるのは父さんだ。一、アイリーンから何を聞いた?」

 思いをめぐらせた。いつもどおりのふつうの毎日だった……はずだ。

「アイリーンさんが、蚊帳を使った経験があるってこと……」

「他には? もっと大事なことは聞いてないのか?」

「前に沖縄にいたっていうこと……かな」

 父さんが身を乗り出す。

「アイリーンが、そう言ったのか?」

「いや……たぶん、沖縄にいた経験があるんじゃないかなって……友だちが」

 父さんは煙草を灰皿でもみ消した。

「アイリーンに最近、変わったことはあったか?」

「べつに思いつかないけど……」

「一、ここにいるのは、家族だ。血はつながってない者もいるが、みんな家族だ。それは、わかるな」

 父さんの物静かな言葉に、ぼくは黙ったままうなずいた。

「若水は、アイリーンと結婚することになっていた」

「えっ……」

 おめでとう――と言いかけて、そういう状況じゃないことをすぐに思い出した。

「つい昨日、プロポーズしたばかりだ。なあ、若水」

 若水さんは黙ったまま、さらに深く土下座して床に額をこすりつけた。

「もういい、立て。若水、おまえにも言っておきたい」

 若水さんは、ゆっくりとうなだれたままソファに腰掛けた。

「若水もアイリーンも、ほかの連中も、みんな大事な家族だ」

「そんなこと、わかってるよ」

 若水さんの哀しそうな姿を見て、なぜか急にぼくは父さんに反発したくなった。

「いいか、父さんは家族を守らなきゃいけない。それは、『ふつう』のやり方とは違うかもしれない。もう六年生になったんだから、おまえにもわかるな」

「わかりたく……ないかもしれない」

 ぼくは父さんをじっと見つめたまま言った。

 不意に父さんは笑い出した。

「驚いたな。いつの間に、そんなに大人になった? 父さんは全然気づいてなかったよ」

 父さんは次の煙草に火を付けて、大きく吸い込んだ。そして、煙と一緒に言った。

「アイリーンは、誘拐されたらしい」

「ゆ、ゆ、誘拐? 誰に?」

 急に両膝がガタガタと震え出した。

「ほんとうは、おまえに話すつもりはなかった。けれど、そこまで大人になっているなら、家族の一員として、父さんはウソをつきたくない。だから、全部話す。関西のある組織が、この街に進出しようとしている。なんとか『手打ち』をしようと、父さんはこの半年くらい走り回った。が、無理だった」

「で、でも……この街に来たって、べつに……」

 声が震えてろくに舌が回らない。

「おまえは母さんに似て、優しすぎるほど優しい子だ。だから、父さんたちのやり方を嫌がるだろう。しかし同じ小さなひとつの街で、他の組織と仲良くすることなんか、できないんだ。若水、あれを」

 父さんが言うと、若水さんはスーツの内ポケットから、一通の封筒を取り出した。

 まったく何も書かれていない茶封筒だった。封は開いていた。たった一枚のメモ用紙が入っているだけだった。

 そこにはボールペンで、アルファベットと数字の列が書かれていた。

「これ、インターネットのURLだよ」

「そう、よくわかったな。今日の昼、これが母屋の玄関に落ちていた。そのときにはもう、アイリーンはいなかった」

「このサイト、見たの?」

「もちろん、父さんもアクセスした。動画サイトのアドレスだった」

 すぐさま若水さんの手が伸びてきて、ぼくからメモと封筒を取り去った。

「おまえには見せられない映像だ。戦場で……人質が殺される場面だった。目隠しされた人質が、首を……」

 父さんは三本目の煙草に火を付けた。

 頭から血液が下がっていく。思わず、床の上にへたりこんだ。

「アイリーンさんも……!」

「大丈夫だ。父さんたちは、絶対にそんなことをさせない。これはただの脅迫だ」

「でも……でも……」

「心配なのはわかる。だから、一、今からおまえは母さんと一緒に、別荘へ移ってもらう。学校は、しばらくお休みだな」

「そんな……!」

「言っただろう。父さんは、家族を守らなきゃいけない。いいな?」

 いつもなら、ぼくは黙ってうなずいていただろう。だけど、それができなかった。

「じゃあ、ノリ兄ちゃんは? ほかのみんなは? みんな家族なんでしょ? それに……アイリーンさんを助けるために、父さんは……父さんたちは……」

 それ以上、何も言えなかった。ぼくは泣き崩れていた。

 いつの間にか、父さんがぼくのすぐ隣にひざまずいていた。

「ごめんな、一」

 父さんは、ぼくをぎゅっと抱きしめた。父さんのスーツは煙草の匂いがした。いつも嗅いでいるはずの匂いなのに、なぜかとても懐かしく思えた。

 ぼくは、まだ子どもなんだ。六年生になっても、大人たちの世界に入れない。十七歳のノリ兄ちゃんだって、「家族」のために体を張ろうとしているのに。

 そのときだった。デスクの上の電話が鳴った。素早く若水さんが受話器を取った。内線だったらしい。

「はあ? 何だと、ハマ? どういうことだ?」

 若水さんは受話器を持ったまま、戸惑った様子でこちらを向いた。

「どうした? 何があった?」

 父さんの声が緊張で震えている。

「それが……ぼっちゃんの友だちが来てるっていうんです」

 不老翔太郎だ。視界がぐらぐら揺れた。こいつが物事を起こすのは、いつもロクなタイミングじゃない。

「もう外は暗い。子どもは家に帰る時間じゃないか」

 とてもヤクザの組長の言う台詞とは思えないけれど、それが、ぼくの父さんだ。

「それが……事件について知ってると言ってるらしいんです……」

「何だとっ!」

 父さんは立ち上がった。

 ぼくは、誰よりも先に事務所を飛び出した。長い長い廊下を走った。玄関を開けて、外に出た。裸足のまま、玉砂利の上を走った。痛みなんか感じなかった。

 門の手前に、門番として立っている一つの人影があった。ゲンジさんだ。

「おぼっちゃん! 何してはるんですか?」

「開けて、今すぐ!」

 背後から、いくつもの足音が聞こえてくる。

 ぼくはゲンジさんを押しのけた。脇の柱に隠れている蓋を開け、ボタンを押した。

 ゆっくりと防弾仕様チタン合金製の分厚い正門が開き始めた。

 その向こうから、不老翔太郎がぼくを見て、笑みを浮かべた。不老の隣には、金銀河。そして、どういうわけか、本郷梓までそこには立っていた。

「御器所君、僕なりに推理してみたんだ――」

「帰ってくれよっ!」

 ぼくは叫んだ。続いて、金銀河と本郷梓を向いた。

「これがぼくの家なんだ。びっくりしただろう? 話で聞くのとホンモノは違うだろう? 今、うちは――『御器所組』は、たいへんなことになってる。みんなを巻き込むわけにいかない。ぼくは、御器所の家の人間なんだ。カタギ堅気じゃないんだよ! これからしばらく学校には行けない。だから、不老も金も……本郷さんも、全然ぼくと関係ない。ぼくのことは忘れてよ。明日からいつもどおりに自然にふつうに学校に行って、それから、ぼくのこともアイリーンさんのことも、ゼッタイに口にしちゃダメだ!」

 ぼくは言い放つと、敷地内に戻って、門を閉じるボタンを押した。

 ゆっくりと閉じ始める門の隙間から、金銀河が言った。

「わたしたちが無関係だなんて言わせない! 御器所君に一人で背負わせるわけいかないじゃない!」

「そのとおりだよ、御器所君。あくまで推理に過ぎないが、君だって知りたいだろう?」

 不老の冷静な声に、我に返った。

 無意識のうちに、もう一つのボタンを押していた。

 ふたたび、ゆっくりと正門が開き始めた。

 不意に、背後から声がした――父さんが立っていた。

「一の父です。一と仲良くしてくれて、それに、一のことを気づかってくれて、ほんとうにありがとう」

 父さんは、不老たちに深々とお辞儀をした。

 次の父さんの言葉にぼくは耳を疑った。

「そちらは、本郷さんのお嬢様ですね。はじめまして。お父様には、お世話になっています……いや、まだ、なってはいませんね」

 本郷梓は、おどおどとした表情で、ぺこりと機械的に頭を下げた。

 いつの間に集まったのか、「若い衆」のみんなが父さんの背後にいた。

「さ、どうぞこちらへ、早く」

 父さんが母屋を指さした。

「父さん、でも……」

「おまえの大事な友だちなんだろう。だったら、父さんたちにとっても大事な人たちだ」

 ゲンジさんやカンさんやキヨさんにハマさん……一目で「その筋の人」とわかる大人たちに囲まれ、不老翔太郎と金銀河と本郷梓は、「御器所組」本部の母屋へと招き入れられた。

「なかなかこういう体験……ないよね」

 小声で金銀河が本郷梓に言うのが聞こえた。本郷は黙ったまま、あいまいに笑顔を見せた。


 父さんも、さすがにこの三人を「事務所」に入れることはなかった。

 三人とぼくは、一階の洋間にいた。純白の大理石の床と壁。それに暖炉(ホンモノではないけれど)。部屋の奥に、誰もまともに弾ける人なんかいないのに、グランドピアノが鎮座ましましている。よけいなことを付け加えれば、ご想像どおり、天井からはシャンデリアが下がっている。

 若水さんが、いつもは見せない疲れ切った様子で、マントルピースの脇に立っていた。

 きょろきょろとしている女子二人とはうって変わって、不老はすっかりくつろいだ様子でソファにもたれていた。

 するとノックもなくドアが開いた。入って来たのは、銀色の盆を抱えた、着物姿の母さんだった。

 若水さんは素早く姿勢を正した。

「ね、姐さん。おぼっちゃんにまでご迷惑おかけして、申し訳ありません。この落とし前は、男としてきっちりと……」

 母さんは若水さんに向かって黙ってうなずいてから、不老たちの前のローテーブルに銀の盆を置いた。そして、三人の「客人」にお辞儀をした。

 ぼくにとってはふつうだ。が、たぶん異様な光景なんだろう。和服姿の人を見慣れていないようだ。やっぱり女子二人は眼を白黒させている。

「いつも一がお世話になっております。一の母です。お口に合いますかどうか……」

 母さん手作りのアップルパイが、皿に山盛りになっている。パブロフの犬みたいに、唾液が口に満ちあふれる。そして、いつものように紅茶のカップ。

 真っ先に口を開いたのは、不老だった。

「御器所君、やっぱり今日もカロリー過多のデザートだね」

 どうして、この男はこんなに空気を読めないのだろうか。一種の才能だ。

「これ、母さんの手作りなんだけど」

「リアル『極道の妻』のアップルパイですか。楽しみだなぁ」

 母さんの眼の前でそれを言うか? 若水さんの目つきが瞬時に「その筋の人」のものになった。ア然どころじゃない。ぼくだって、できるものなら「その筋」の目つきで不老をにらみつけたかった。

 不老は遠慮もなく、アップルパイに手を伸ばした。一口食べると、満面の笑みを浮かべた。

「これはおいしい! 銀河さんも梓さんも遠慮なくどうぞ」

 このシチュエーションで、おまえが言うな!……と、ぼくは言えなかったけれど。

 金銀河と本郷梓は顔を見合わせると、一度、母さんのほうを見てから、おそるおそるアップルパイを口にした。

「おいしい~!」

 二人同時にハモって声を上げた。

 ――なんてこった。

 ジョシという生き物は、甘い物だけでこんなに態度が変わるものなのか。

「御器所君のお母さんって、スゴ~イ!」

 金銀河が眼を輝かせた。

「『極妻』をやめてパティシエになったほうがいいですね」

 不老が追い討ちをかけるように言った。

 こいつ、全然、自分のいる状況を読めていない。

「だから、ぼくの母さんなんだってばっ!」

「一、大きな声を出さないの。おばさんのアップルパイ、気に入ってもらえて、とてもうれしいわ」

 母さんは猫なで声で言った。それから、若水さんに顔を向けた。

「若水、こんな子たちも心配してくれているんです。ありがたいと思いなさい」

「姐さん、ほんとうに申し訳ございません! このご恩は……」

「話はあとでゆっくり聞きましょう。今は、この子たちの話を聞くときです」

「はいっ」

「それに、若水! 子どもだからといって――」

 うわ、と思った。母さん、お願いだからもうストップ、と念を送った。母さんは、ちらっとぼくを見て小さく笑った。

 ホントに? やっぱり大好きなあの台詞を言っちゃう?

 母さんは、ドスの聞いた声を放った。

「ナメたらあかんぜよ!」

 うわっちゃあ、言っちゃった。

 不老翔太郎と金銀河と本郷梓、三人の「客人」は、完全に硬直していた。

 若水さんが深々とお辞儀をしているなか、母さんは軽く不老たちに会釈して、部屋を出て行った。

 ああ、なんてこった、なんてこった、なんてこった。この数分間で「なんてこった」と何度心のなかで思ったか数えられない。

 脱力してソファに体を沈めた。アップルパイを食べた。いつもながら、美味い。ほんとうに母さんはパティシエになれるんじゃないか、と思う。

 気を取り直して、ぼくは言った。これでやっとぼくのほうが優位に立てる。

「不老、さっき正門で言ってたね。『推理してみた』って。どんな推理なのか聞かせてくれよ」

 不老の立ち直りは異様に早かった。すでに二切れ目のアップルパイをかじりながら、紅茶をかきまぜている。

 ふと横を見ると、金銀河と本郷梓はまだフリーズしたままだった。

 かわいそうだとは思ったけれど、ものごとには優先順位というものがある。

「確かに言ったね。けれどそれは荒畑君のアルバイトの真相だよ」

 唐突に思い出した。

 ぼくの記憶からは、「角刈り連盟」のことなんか吹っ飛んでいた。

「やっぱり帰ってもらえばよかった……」

 つくづく情けない気分で、ぼくは紅茶に角砂糖を入れようとした。不老は言った。

「角砂糖は二つまでにしておいたほうがいい。むしろそのほうが紅茶の味を楽しめる。今日は〈プリンス・オブ・ウェールズ〉だね」

「もう帰ってよ。母さんのアップルパイは、お持ち帰りしていいから。今はくだらない話をしてる暇はないんだ。ぼくも、明日からしばらく、この街からはいなくなるんだから……だから、もう二度と、ぼくの前に姿を見せないでくれよ!」

 自分でも気づかないうちに、立ち上がって怒鳴っていた。

「さっき銀河さんが言ったじゃないか。『御器所君一人には背負わせない』って」

「アイリーンさんのことは、『組内』の問題なんだ。カタギの不老たちを巻き込めない」

「いいかい、今は……午後八時四十七分。君と別れてから、僕たちが何もしていないとでも思っているなら、とても心外だな」

「だから、それは荒畑のバイトのことだろう!」

 不老は紅茶に角砂糖を一個だけ入れてかきまぜた。よく一個で足りるな、という思いが一瞬だけよぎった。

「確かに、荒畑君の言ったとおり、僕と銀河さんは名刺に書かれていたビルに行った。そうしたら……見事にもぬけの殻だった」

「まさかホントに……『角刈り連盟』?」

 ぼくは、アップルパイを喉に詰まらせそうになった。

「何ですか、おぼっちゃん、その『連盟』とかいうのは?」

 若水さんが、身を乗り出した。不老は表情ひとつ変えず、静かに答えた。

「すみません、若水さん。べつの事件です。アイリーンさんの話に戻りましょう。アイリーンさんがいなくなったのは、何時頃ですか?」

 若水さんは、しばらく前に事務所でぼくに向かって説明したのと同じことを、不老にも言った。

「警察には届けましたか?」

 不老は訊いた。

 呆れ返った。やっぱり信じがたいアホなのかこの男は。「御器所組」が一一〇番通報することなんか、0・01パーセントもありえない。

「監視カメラの映像はどうなっていましたか?」

 不老は続けて言った。

 すっかり忘れていた。我が家の監視カメラは十台以上あり、敷地の内外をくまなく写しているはずだ。

「昼の三時過ぎですか。『友だちに会いに行く』と姐さん――ぼっちゃんのお母さんに言って、出かけました。出て行く様子はカメラにも写ってました。そのほかに怪しいものは何も。しかし、あいつに外で会う友だちがいたなんて、聞いたことがない……」

「では、もしもアイリーンさんが誘拐されたなら、犯人によって外におびき出された、ということになりますね」

「じゃあ、犯人はメールか携帯で呼び出したの……かな?」

 そう言ったのは、金銀河だった。

「いや、あいつは、携帯を持っていませんでした」

「ウソ、ありえない!」

 立ち直った金銀河は、すっかりいつもの調子を取り戻している。ここが「御器所組」本部で、話している相手が「御器所組」の若頭であることを忘れているのだろうか。

「あ、あの……ごめんなさい……ただの……想像ですけど……」

 ひかえめに、おそるおそる本郷梓が口を開いた。

「何でしょう?」

 若水が身を乗り出すと、本郷はびくっと身を引いた。

 そんなかわいらしいしぐさは、絶対に金銀河には真似できない。

 やっぱり、本郷のほうが魅力的かも……いやいや、今はそんなことを考えている場合じゃなかった。

「もっと以前に外出したとき、その人に会って、次に会う約束をしていたとか……」

「それは可能性として、ありえます。しかし、俺の知っているアイリーンがそんなことをするとは思えない」

「じゃあ……あの……これも、根拠のない想像ですけど……郵便受けとか、どこかに置き手紙をして、その相手の人と連絡を取り合っていた、という可能性、ありませんか?」

 やや震える声で、本郷は言った。若水は表情をやわらげた。

「さすが、本郷さんだ」

 え? どういうこと? どうして若水さんまで、本郷梓を知っている?

「外部とコンタクトできる場所は正門だけ。ここ一週間の監視カメラの映像をすべて調べました。が、アイリーンが隠れてどこかで置き手紙なんかを拾った様子は映ってませんでした」

 ぼくは皿に手を伸ばした。が、何度目の「なんてこった」だろうか。

 アップルパイがなくなっている!

 もう二度と女子をこの家に連れてくるものか。いや……本郷だけなら、いいかもしれないけど。いや、金銀河も来て欲しいんだけど……。

 ぼくは、混乱した脳細胞を活性化させるべく、角砂糖をわずか三個しか入れなかった紅茶を飲んだ。まずくはないけど、決定的に甘さに欠ける……と思いながら、ぼくは言った。

「みんなの推理はわかったけど、玄関に落ちてた脅迫状は?」

 不老は両手の指先だけをあわせて、中途半端な合掌のような姿勢になった。この姿を見るたびにイライラさせられる。けれど、これは不老の癖らしいし、文句を言う場合でもない。

「古い格言を思い出す必要がありますね。『すべての可能性がダメなら、残ったものがいかにありえないようなものであろうと、それが真実に違いない』という」

「そんな格言、聞いたことないよ」

「この御器所家では、誰にも知られずに内部に侵入して脅迫状を玄関に置くということは不可能だ。ならば、それはアイリーンさん自身が置いたんだろう」

 一同はあっけにとられた。

「『脅迫状』を見せていただけますか?」

 若水さんは、すっかり毒気を抜かれた様子で、無言のままスーツの内ポケットから封筒を取り出した。

 不老はメモを引き出すと、しげしげと眺めた。

「手書きですね。これはアイリーンさんの文字ですか?」

「そう言われれば……そうかもしれない……」

 若水さんは、じっとインターネットのアドレスの書かれたメモを見つめていた。

「とにかく、このサイトを見てみよう」

「ダメです!」

 すかさず若水さんはメモと封筒を取り上げた。

「ぼっちゃんやあなたたちに、見せるわけにいきません」

「このサイトに、アイリーンさんの手がかりがあるとしても?」

「ダメです……」

 歯を食いしばるように、若水さんは言った。

「わかりました。じゃあ、一つだけ教えてください。アイリーンさんの名字は何というんですか。まさか、『アドラー』じゃありませんよね」

「アドラー? 違います。ハンター、狩人のハンターです」

 すると、妙に不老はうれしそうな顔になった。

「ヴァイオレット・ハンターという女性がいたなぁ。いや、ありがとうございました。じゃあ、ぼくらは今から御器所君の部屋で、推理を練り直します」

「へえっ?」

 ぼくは思わず裏返った声を上げた。そんなこと、許可した覚えはないんだけど。

「ぼっちゃん、お世話かけます」

 若水さんに頭を下げられて、ぼくはどうしていいのか慌てた。

「だ、だ、大丈夫だよ、きっと、アイリーンさん、無事に戻ってくるよ」

 ぼくたちは、頭を下げたままの若水さんを置いて、三階のぼくの部屋に向かった。


 女子が――しかも美人が――二人もぼくの部屋にいるので、妙に緊張した。

「さあ、早くパソコンを」

 不老に言われるがままにパソコンを起動して、インターネットに接続した。

「まさか不老、あの長いアドレスを覚えてるの?」

「そんなことはありえない」

 不老はあっけなく言った。

「人間が瞬時に記憶できるのは、だいたい七文字程度だと言われている。あんなに長くてランダムな数字とアルファベットの文字列を一瞬で暗記できるなら、それは一種の天才だよ」

「じゃあ、パソコンで何をする気なんだ?」

 ぼくは不老をにらみつけた。

「検索するんだよ。アイリーン・ハンター」

「まさか……アイリーンさんがネットに載ってる?」

「同姓同名がいるかもしれない。検索ワードをもう一語追加――」

「何?」

 次に不老が発した単語に、ぼくの脳細胞は破裂しそうになった。

「アフガニスタン」

「はあっ? こんな事態なのにふざけないでくれよっ!」

 思わず声が大きくなる。

「僕は大いに真面目だよ。アフガニスタン」

「ワケがわからない……」

 ぼくは戸惑いながらもキーボードを打ち始めた。が、すぐに金銀河が駆け寄ってきた。

「御器所君、何やってんの! カタカナで書いてどうするの? もうっ、頼りにならないんだからっ!」

 どうして、ぼくばかりが金銀河に怒られなきゃいけないのだろう?

「梓、御器所君と代わって!」

「わたしが……?」

 おどおどしながらも、ぼくと代わってパソコンの前に座った本郷梓は、キーボードを見もしないで、素早く指先をキーボードの上を走らせた。そして、「Irene Hunter Afghanistan」と入力し、リターン・キーを押した。

 すぐさま、検索結果が出た。

 千件以上もヒットした――全部、英語だったけれど。

 本郷は、一番目に載っていたサイトにアクセスした。それは、外国の新聞社かどこかが配信している英語のサイトだった。写真も数枚掲載されている。

 ぼくは息を飲んだ。

「これ……アイリーンさん……!」

 自分の眼が信じられない、とはこういう状況をいうのだろう。

「何て書いてあるの?」

 金銀河が本郷に尋ねた。

「Japanese Journalist abducted at Kandahar」

「どういう意味?」

 ぼくは尋ねた。

「日本人ジャーナリスト、カンダハルで拉致……」

 本郷梓は、記事の見出しを訳してくれた。

 本郷は、さらにその記事の内容を訳した。さらに、ほかのいくつかのサイトにもアクセスして、次々にぼくたちに説明した。

 アイリーン・ハンターさんが、これまで何を体験したのか、を。

 不老が、つぶやくように言った。

「アイリーンさんに、僕はひどいことを言ってしまった……」

 不老は、深くうなだれた。こんな不老の姿を見るのははじめてだった。

 パソコンの液晶モニタを見た――笑顔のアイリーンさんと、首から一眼レフカメラを下げた日本人の男の人。

 アイリーンさんは、カーキ色の迷彩服にヘルメット姿で――M4カービン銃を片手に構えていた。


 不意に、母屋の階下が騒がしくなった。

 ぼくは振り返り、不老たちに「待ってて!」と言い、部屋を飛び出した。

 一階に駆け下りた。事務所内が騒然としている。明らかに、非常事態だ。

 ぼくは十一年間と少しの人生ではじめて、ノックなしで事務所のドアを開けた。

 思ったとおりだった。

 父さんのデスクの前の床に、アイリーンさんが座り込んでいた。

 その脇で、若水さんがアイリーンさんの肩をしっかりと抱いている。父さんは、デスクの向こうに立ったまま、二人を冷たい眼で見下ろしていた。

 ぼくには言いたいことがあまりにもたくさんあり過ぎて、混乱しまくっていた。

「アイリーンさんは悪くない!」

 かろうじて、たったそれだけしか言うことができなかった。

「一、おまえは部屋に戻りなさい」

 父さんは言ったけれど、ぼくは首を振った。

 ぼくが父さんに反抗したのも、短い人生ではじめてのことだ。

「父さん、アイリーンさんは被害者なんだよ。それに――」

 すぐに若水さんにさえぎられた。

「ぼっちゃん、この女には落とし前をつけさせます。もちろん、私も……」

 ぼくは胸が苦しくなった。

「ひどいじゃん、アイリーンさんは何も悪いことしてないのに……それに、『落とし前』って何? 誰も……誰も悪い人なんかいないんだよ!」

 ぼくは必死に叫んだ。

 父さんは、じっとぼくを見て、次にアイリーンさんを見やった。

「一、何を知ってるんだ?」

 ぼくは父さんの質問には答えず、アイリーンさんに駆け寄った。

「ぼく、今まで何も知らなかった。子どもだから知らなくてもいいって、そういうことじゃないよね!」

「おぼっちゃん……ごめんなさい!」

 アイリーンさんは泣き崩れた。

「ううん、ぼくこそ、ごめんね。何も知らなくて――知ろうとしなくて。アイリーンさんは、ほんとうにアフガニスタンに行っていたんだね」

 アイリーンさんが、はっと顔を上げた。

 そのときだった。

「謝らなければいけないのは、僕のほうです」

 事務所の入り口に、不老翔太郎が立っていた。その後ろには、金銀河と本郷梓がいる。

「発端は……二〇〇一年に始まっていたんです」

 不老翔太郎は、堂々と「御器所組」組長である父さんに向かって、言った。


 二〇〇一年九月十一日――アメリカで同時多発テロが発生した。

 十月、アメリカをはじめとする各国は「テロとの戦い」を名目にアフガニスタンに軍隊を派遣し、戦闘が始まった。当時の日本の総理大臣は力強く「アメリカへの協力」を約束した。

 十二月、アフガニスタンを支配していた「タリバーン」政権が崩壊。が、アフガンが平和になったわけではなかった。

 翌二〇〇二年六月、沖縄県名護市の米軍基地「キャンプ・シュワブ」駐留の海兵隊に所属するアイリーン・ハンター一等軍曹(当時二十三歳)は、「治安維持」目的のために、アフガニスタンに派遣された。場所は、南部のカンダハル州。

 そこで、アイリーンさんは、日本からたった一人でやって来たフリー・ジャーナリスト、原邦彦さん(当時二十九歳)と出会った。

 原邦彦さんは、アイリーン・ハンター一等軍曹が所属する小隊と行動をともにして、その様子をビデオや写真に記録し、日本に送っていた。

 けれど、翌二〇〇三年の一月、アイリーンさんの小隊がアメリカに帰国する直前に、その事件は起こった。

 アイリーンさんたちの小隊は、いつものようにカンダハルの通りをパトロールしていた。そのとき、民家から突然、銃撃を受けた。原さんはその様子をビデオで撮影し始めた。

 アイリーンさんたちは応戦したが、小隊の兵士のなか、アイリーンさん以外はみな射殺され、アイリーンさん自身も、太ももの動脈近くを撃たれて大量に出血し、気を失った。

 そして武装グループが現れ、原さんを拉致した。

 翌日、中東のテレビ局に武装グループからの映像が届いた。

 原さんは銃を突きつけられ、「アメリカ軍が撤退しなければ、私は殺されます」とカメラに向かって英語で言った。

 その映像はインターネット経由で世界に配信された。もちろん、アメリカ軍は撤退しなかった。そして日本も、米軍の撤退を要請しなかった。「テロとの戦い」というワケのわからない終わりのない戦闘を続けることを選んだ――原邦彦さんの命を見捨てて。

 数日後、同じ中東のテレビ局に、ふたたび映像が届いた。

 武装組織は、言ったとおりのことを実行した。


「わたしは、負傷して名誉除隊となり、アメリカの実家に戻りました。でも……」

 いつの間にかアイリーン・ハンター一等軍曹は「テロリストとたった一人で戦って生き残った英雄」になっていた。地元の新聞やテレビ局にも取り上げられた。

「当時のアメリカは、戦争を支持してもらうために『英雄』が必要でした。わたしは政府によって――メディアによって、英雄に仕立て上げられたんです。同じようなケースが、わたしが負傷した直前に起きていました。彼女の場合は、映画にさえなりました。わたしは帰国してから、怖くなりました。耐えられなかった……なぜなら……なぜなら、わたしたちの小隊は、子どもたちを殺していたんです」

 カンダハル州の治安は、まったくよくなる気配を見せなかった。米兵は「いつ襲われるか」と恐怖と闘いながら、装甲車でパトロールをしていた。

 二〇〇三年が明けたばかりの頃、兵士の一人が民家を指さして「RPG!」と叫んだ。「RPG」とは、ロール・プレイング・ゲームの略じゃない。旧ソ連製の対戦車ロケット砲の名前だ。装甲車の機関銃座にいた兵士はその民家に向けて機関銃を乱射し、もう一人がグレネード擲弾を撃ち込んだ。爆発が起こった。

 アイリーンさんたちは、銃を構えてその家に入った。

「ひどい光景でした。見間違いだったんです。崩れた家のなかに、おばあさんと男の子と女の子の……ズタズタになった遺体がありました。RPG―7対戦車ロケット砲だと誤解したのは、薄暗い部屋で女の子が持っていた食器だったんです。その件は、上には報告しませんでした。かりに報告しても、もみ消されていたでしょう――それが、戦争です」

 アイリーンさんは、泣き崩れた。その背中を若水さんがしっかりと抱きとめた。

 けれど、不老だけは違っていた。

「おそらくその光景を、原邦彦さんは撮影していたのでしょう。もちろん、あなたたち米軍はそのビデオテープを没収した。しかし、アイリーンさん、あなたたちに報復の攻撃が行なわれた」

 不老翔太郎は非情な言葉をアイリーンさんに投げつけた。

「そう……これは報いです。パトロール中にごく普通の民家から銃撃されたんです……」

 そこでアイリーンさんは一呼吸すると、一気にあとを続けた。ぼくは、正直言うと、訊きたくはなかった。けれど、聞かなければなかった。

「銃弾の一発が、わたしの脚を撃ち抜きました。わたしは、パニックになりました。けれど、生きていることがテロリストに――いえ、その呼び方は正しくありません。武器を手にして子どもたちの仇を討とうとした村人たちにバレたら、確実に殺される……わたしは装甲車の下にもぐり込んで、死んだふりをしました」

「そこでアイリーンさんは気を失った――そのあいだに、原邦彦さんが拉致されたんですね。そのいっぽう、あなたは英雄として祭り上げられた」

「もう充分だよ、不老!」

 ぼくはほとんど怒鳴っていた。けれど、不老翔太郎は続けた。

「以下は推測ですが……アイリーンさんはアメリカにいることに耐えられず、亡くなった原さんの故郷であり、駐留していた経験もある日本に来たのでしょう。そこで偶然、若水さんと出会った……」

 若水さんは、アイリーンさんの肩を強く抱きしめ、うなずいた。

 意外なことに、次に口を開いたのは、本郷梓だった。

「今日、アイリーンさんがいなくなった原因は、若水さんのプロポーズですよね」

「な……なんでそんなこと?」

 ぼくだけじゃなく、不老も金もあっけにとられた表情で本郷を見ている。

「事件当時は日本の新聞にも原さんの記事は載っていました。それを調べたら……原邦彦さんは、この街の出身だとわかりました。もう日本人はほとんど事件を忘れてるけど、アイリーンさんは、忘れられなかったんですよね。わたしなんか、まだ子どもで全然アイリーンさんの気持ちは理解できないけど、もし……もしも、同じ立場だったら……たぶん原さんに報告に行くと思います」

 本郷梓は静かに言った。

 答えたのは父さんだった。

「つまり、原さんのお墓に、ということですか?」

 父さんは、ゆっくりと椅子に腰を掛けた。煙草を取り出しかけて、やめた。

 アイリーンさんが、涙を流しながら、若水さんを見つめた。何か言ったけれど、英語だったのでわからなかった。若水さんは、うなずいてから、父さんを見上げた。

 父さんは大きくため息をついた。

「若水! アイリーン!」

「はいっ」

 二人は父さんの前で土下座して、深々と頭を下げた。そんな二人に父さんの鋭い声が飛ぶ。

「おまえたち、隠していることがあるな?」

 ぼくは不老を見たが、無表情だった。金銀河はきょとんとしている。本郷梓は……あろうことか、少し微笑んでいるように見えた。

「何度も言ったはずだ。おまえたちは家族だ。隠しごとはやめよう。若水、殺された原邦彦さんは……おまえのお兄さんだな」

「マジで?」

 思わず口走ってしまい、ぼくは慌てて口をつぐんだ。

「おやっさん、申し訳ございません! 訳あって、私は中学卒業と同時に叔父の家に預けられたので、名字が違うんですが……」

 父さんは、大きく息を吐いた。続けて、静かに部屋を見回しながら言った。

「誰だって、多かれ少なかれ『ワケあり』だ。そういう連中が集まって、この『家族』を作っている。若水、おまえは真相に気づいていたな。おまえがあの映像を見たがらない様子から、おかしいと思って調べてみた。そこの少年探偵君のようにな」

 父さんは不老に眼をやった。

「若水、アイリーン、覚悟はいいだろうな」

 御器所組三代目組長のドスの効いた声――ぼくも全身が縮み上がった。

「私も極道です。ご迷惑おかけした落とし前、きっちりとつけさせていただきます!」

 若水さんが言うと、事務所内が静まり返った。

「よし、覚悟はいいんだな、若水。だったら……」

 そして父さんは、言った。

「式の日取りが決まったら、すぐに教えろ」

「お、お、おやっさん……!」

 父さんは、にやり、と笑った。

「それから、本郷さんのお嬢さん」

 父さんは、あろうことか本郷梓に視線を向けた。

「は、はい……」

 小声でおそるおそる本郷梓が答えた。

「さすが、お父上譲りの洞察力です。が、今回は、お父上には恥ずかしくて会わせる顔がない。いや、いつだって、あまりお会いしたくありませんがね。ですから、内緒にしてもらえると、たいへんにありがたいと思います」

 ありえない――父さんが、本郷梓に向かって頭を下げていた。

「わ、わ、わかりました……」

 消え入るような声で、本郷梓はうなずいた。

「父さん、どうして本郷さんのこと、知ってるの?」

 ぼくは、かすれた声をようやく発した。

「おまえこそ、どうやってお嬢様と知り合った? 本郷ほんごう虎蔵とらぞう警視正といったら、県警たたき上げの刑事部長だ」

「マジで? なんてこった……」

 本郷梓は、ぼくを見てニコッと笑った。

 かわいい……けど、ぼくはどうすればいいんだ?


 翌日、ぼくは金銀河が教室に現れるのと同時に、歩み寄った。ぼくのほうから金に近づくなんて、はじめてのことだ。

「あ、おはよう」

 金銀河に「おはよう」と言われるのもはじめてだった。ぼくは心臓の鼓動が早くなるのを感じながら、できるだけ冷静に言った。

「昨日、ぼくが公園から家に帰ったあと、キムと不老は何やってたの?」

 金銀河は、怪訝そうな顔つきになった。

「何って……わたしたち一緒に……もしかして御器所君、ヘンなこと考えてる? ヤダ! ヘンタイ! これだから男子ってサイッテー!」

「そ、そうじゃなくて……」

 朝っぱらから「ヘンタイ」とか「サイテー」扱いされるとは、どうしていつもいつも、ぼくばかり損な役回りなのだろうか。

「男子全員が『サイテー』かどうかには、異論があるね」

 振り返ると、不老翔太郎がいた。

「昨日は、アイリーンさんの事件を解決してくれてありがとう、と言っておくよ」

 ぼくは口を尖らせて、精一杯の皮肉を込めて言った。

 が、そんな皮肉の読解力を持ち合わせている不老翔太郎ではなかった。

「事件なんてなかったじゃないか。もっとも、君は『花嫁失踪事件』なんて言いたいのが見え見えだけどね」

 悔しい限りだけど、言われなくてもそのとおりだった。意地を張って、ぼくは言い返した。

「もう一つの事件だよ。『角刈り連盟』。忘れてないよね。ぼくが家に戻ったあと、怪しいビルに行ったんだろう? ビルはもぬけの殻だった、って言ってたじゃないか。それから、何かわかったことがあるの?」

 不老は机の上に年季の入ったランドセルを置くと、大きくため息をついた。

「確かに。けれど、僕よりも当事者の荒畑君のほうが詳しいんじゃないかな」

 そう言っただけだった。荒畑の席を見たけれど、遅刻常習者の荒畑がまだ登校しているはずはなかった。

 荒畑は、二時間目の途中で学校に現れた。けれど、ぼくからはなかなか言い出せずにいた。いっぽうの不老はというと、二時間目の休み時間には「国語・上」と「社会・上」の教科書を読み終え、三時間目のあとには「算数・上」の教科書を読み終えて、

「やっぱり『教育基本法』と『祝日法』の改正は、国民から論理的、客観的、批判的思考能力を奪うための国家的陰謀かな」

 と、本気とも冗談ともつかないことを言ってはぐらかした。

 金銀河のほうを見れば、明らかに不老の様子を気にしながらも、ほかの女子とおしゃべりしていた。やっぱり金銀河も事件の真相を知らないのだ。

 結局、ようやく荒畑に話しかける決心ができたのは、給食が終わった昼休みになってからだ。ちなみに、亀島佑作の給食に六つ目の「梅干しの種」が入っていなかったことを付け加えておこう。

 さて、胃袋がふくれなければ、腹をくくることもできない。

「荒畑君……昨日のことで話が……ちょっと、体育館の裏へ……」

「体育館の裏? なんでわざわざそんなとこ行かなきゃいけねえんだよ?」

 腰から下の力が抜ける。

「え? ここでいいの……? 角刈り……あ、いやその、えーと、バイトのことだけど、昨日はどうしたの?」

「もちろん、あったよ」

「えっ? でも不老がビルに行ったら誰もいなかった、って」

「昨日は、全然違う仕事。みんな総出で駅前中央通りのゴミ拾い。きったねえな、あの道。けど、オレだってペットボトルとかフツーに捨ててたんだよな……」

「バイト代は?」

「もちろんもらったに決まってんじゃん。今日は『ナントカの家』ってとこに行くんだ」

 荒畑の表情が、妙に晴れ晴れとしているのは気のせいだろうか。

「じゃあ、君の朗読による『鬼平犯科帳』オーディオ・ブックを届けに行くんだね」

 いきなり不老翔太郎が口を挟んだ。

「な、なんでわかるんだよ?」

 あっけにとられた荒畑は、ぼくを見た。いや、ぼくだってわからない。すると、素早く駆け寄ってきたのは金銀河だった。

「オーディオ・ブック? 何のこと?」

 不老は、すっかり見慣れたため息をついた。

「僕と一緒にいたはずだけど、ただぼんやりしていたのかな、銀河さんは?」

 何てことを金銀河に向かって言うんだ。怒りがわき起こったが、言葉を返せない。

「だって、何も起こらなかったじゃないの」

「確かに、あの時間帯には。しかし、荒畑君が『鬼平犯科帳』の朗読を録音していたと聞けば、『オーディオ・ブック』以外の何ものでもないと容易に推測できるじゃないか」

「だから、それが意味不明だってば」

 ぼくはつっかかるように言った。

「意味不明? ひどいな。NPO法人〈こもれび〉が、障碍者支援を行なっている組織だということなんて、すぐにわかるじゃないか。そして〈こもれび〉ならではの、もう一つの大きな活動がある――青少年の健全な育成」

「ケンゼンなイクセー?」

 金銀河が不老をにらみつける。

「眼の不自由な人のための『オーディオ・ブック』の録音をするなら、それは福祉団体に違いない。この〈こもれび〉が、これほどの手間をかけて福祉団体を偽装して犯罪を企んでいるとは考えにくい。漢字の苦手な荒畑君に『大活字本』――視覚が不自由な人やお年寄りのための本だけど、近所の書店で容易に買えるものじゃない――を使わせたくらいだからね。しかし、それも偽装工作だという可能性はゼロじゃない。あまりにもリスクが大きすぎるけれどね」

 すると、金銀河がよりいっそう強く不老をにらみながら言った。

「そう! 怪しい宗教団体とかかもしれないじゃない!」

 けれど不老は平然としていた。

「宗教団体か、なるほど。確かに銀河さんの推理は正しいよ」

「えっ?」

 言った当人の金銀河が驚いている。もちろん、ぼくもあっけにとられていた。

「僕は昨日、代表の鳴海均さんに会ったんだ」

「いつ?」

 ぼくと金銀河は同時に声を上げた。

「決まってるじゃないか。御器所君の家を出てすぐあとに、だよ。前にも言わなかったかな。僕は時間を無駄にするのが嫌いな性分なんだ。もっとも、鳴海神父とヴォランティアの大学生以外は、中央通りの清掃を終えて、誰もいなかったけれどね」

「シンプ……?」

 ぼくは完全に無視された。

「銀河さん、携帯電話は持っているね。この携帯サイトにアクセスすれば、〈こもれび〉のことがわかるよ」

 不老は、荒畑がもらった「鳴海均」という男の名刺を差し出した。

 女の子にしては飾り気のないシルヴァーの携帯電話を金銀河は取り出した。今になって気づいたけれど、名刺には宇宙人の印鑑のような「CRコード」がプリントされていた。

 金銀河は、CRコードを読み込み、携帯サイトにアクセスした。

 NPO法人〈こもれび〉代表の鳴海均は、カトリック教会の神父だった。〈こもれび〉自体、カトリック教会からの支援を受けていた。そして、いくつかの大学のヴォランティア・サークルの力も借りながら、さまざまな障碍者支援を行っている。さらに、いろいろな障碍を持った人たちが自立して生活できるための支援施設〈わかばの家〉も運営していた。

 〈こもれび〉のもう一つの活動は「夜回り」だ。鳴海神父は繁華街を歩き、たむろしている「不良」たちを注意するだけじゃなく、彼らに「アルバイト」を与えた。

 人間は「誰かから必要とされている」と感じられることで、正しく生きていける――鳴海神父の信念だそうだ。

 それが、視覚障碍者のためのオーディオ・ブックの録音や、駅前中央通りの清掃活動だった。

「そっか……荒畑君って、ホントは結構いい人なんだね」

 金銀河が言うと、

「べつに、いい人じゃねえよ」

 荒畑はそっぽを向いた。が、その頬が真っ赤になっているのをぼくは見逃さなかった。

「でも不老君、やっぱり今度も『事件』じゃなかったのね」

 金銀河の口調は急に冷ややかになった。

「そう。事件なんかもともと存在しなかった。強いて言えば……事件がデッチ上げられた。その犯人は、明白だね」

「犯人? 誰?」

 ぼくは身を乗り出した。

「真犯人は――」

 不老翔太郎は、芝居がかった仕草で腕をまっすぐに伸ばした。

「君だ、御器所君!」

 不老の指先は、ぼくの鼻の頭を指し示していた。

 はあ?

 もう言葉も出ない。

「君は最初に『角刈り連盟』という、まったく論理的根拠のない言葉を出した。僕は見事にだまされたよ。おかげで、僕は推理の初期段階で誤った方向へ導かれそうになった」

「だって……本気でそう思っちゃったんだよ。この前の『踊る人形』はどうなんだ?」

「往生際が悪いね。あのときは、僕をミスリードするために、意図的にそのタイトルが使われた。けれど、今回は違う。君は、何も考えていなかった。自分で自分の行為を理解していない犯罪者ほど危険な存在はない」

「ぼくは犯罪者じゃないって……」

 椅子にへたり込んだ。

 金銀河が言った。

「でも『事件の記録者』が真犯人だなんて、あの本と同じね――」

 金銀河は、今まさにぼくが読み始めたばかりの探偵小説のタイトルを上げた。

「ええっ? あの犯人って……そうなの?」

「なんだ、まだ読み終えてなかったのか」

 なんてこった。ぼくは文字通り頭を抱え込んだ。もう、ぼくには「なんてこった」以外の言葉が思いつかない。


 ゴールデン・ウィークが終わると、季節の変化のスピードが速くなる。一気に蒸し暑くなった五月の最後の日曜日だった。

 ちょうど、不老翔太郎が我が家に来ていた。

 萱場先生は、このところ機嫌が悪いらしく、社会の面倒くさい宿題を出した。そこで、うちのパソコンで一緒に宿題を片付けてしまおう、というつもりだった。

 ぼくの部屋のドアにノックがあった。

 ドアを開けると、そこにはアイリーンさんが銀の盆を持って立っていた。お盆の上にある薄黄色のカップは――間違いなく、行列ができる有名店の季節限定〈日向夏のブランマンジェ〉ではないか!

 アイリーンさんの背後に、若水さんが立っていることに気づいた。

「お久しぶりです」

 不老が頭を下げると、若水さんは言った。

「ぜひ、お二人に、見てもらいたいものがあるんです」

 ぼくには、お盆の上の〈日向夏ひゅうがなつのブランマンジェ〉のほうが重大だったけれど、若水さんの声には緊張感があった。

 若水さんが差し出した紙を、ぼくと不老はのぞき込んだ。

 若水さんと、アイリーンさんの二人の名前がしっかりと書かれている――婚姻届だ。

「おめでとう、若水さん、アイリーンさん!」

 ぼくが声を上げると、アイリーンさんはお盆をデスクに置いて、ぼくをぎゅっとハグしてくれた――さらに、不老も。

 不老は、明らかにうろたえていた。

 あれ? もしかして、この「名少年探偵君」は女性との接触に慣れていないの? ぼくがニヤニヤと不老を見ると、照れ隠しのように、不老は言った。

「なるほど、『二つの署名』ですね。こういう署名ならすばらしい」

 これでやっと〈日向夏のブランマンジェ〉にありつける、と思った。しかし――

 次の瞬間だった――ぼくの携帯電話が振動した。

 表示された名前は、「本郷梓」。

 本郷とは、たまに……ホントにごくたまにメールのやりとりをするだけだ。ヤクザの組長の息子と、マル暴担当県警刑事部長の娘がメールするだけでも、「業界」的にはマズイと思う。

 でも、そんな状況のなかでも、本郷がわざわざメールじゃなくて電話をしてくるなんて、珍しい。

 それに、間違いなく絶対に、うれしい。

「もしもし、あの、えっと……元気?」

 妙に慌てふためいて、なんとか返事をした。

「御器所君!」

「な、何、どうしたの?」

 切羽詰まった本郷梓の声。心臓の鼓動が否応なく早くなる。

「もしかしたら、今、不老君と一緒?」

「へえっ?」

 同じシチュエーションを、前にも一度体験したことがある……ような気がする。

 イヤな予感。一気にぼくの胸に広がる。

「あの……確かに、一緒だけど、ま、ま、まさか、ひょっとして……?」

「すごくおかしなことが起こったの。わたし、どうしていいかわからなくて、とっても不安で……」

「っていうことは……つまり……えーと、代わったほうがいいんだよね……不老と」

 間髪入れず、不老翔太郎は、ぼくの手から携帯をもぎ取った。

「もしもし、不老です……うん……ほう、それは実に奇妙な話だね、梓さん……」

 どうしてぼくではなくて不老なんだ?

 どうして不老は、女の子を下の名前で呼べる?

 ぼくだって、まだ一度も呼んだことがないのに。

 この不老翔太郎という男は、ぼくにとって、最悪の疫病神なのかもしれない。

「心配する必要はないよ、梓さん、今すぐに行く」

 不老は携帯電話を切ってぼくに放った。いつかのように、慌ててぼくはキャッチした。

「御器所君、事件だ!」

 いつか、その台詞を聞くと思っていた。

 ぼくと不老翔太郎は、若水さんとアイリーンさんにお辞儀をして、部屋から駆け出した。

 せめて〈日向夏のブランマンジェ〉を一口でも食べたかった……と思ったことは内緒だ。

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不老翔太郎 最初の挨拶 美尾籠ロウ @meiteido

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