第3話「五つの梅干しの種」
「またか! いったい誰なんだよ?」
その怒鳴り声は、ぼくの小学校生活での最大の楽しみ——給食の時間が始まって五分ほどたったときに教室の前方から聞こえた。
もっとも、その時点で、ぼくはすでに給食の八十パーセントを食べ尽くしていたけれど。
怒りに震えた声で叫んだのは、
亀島佑作は、三年生のときから今までずっと同じクラスになった数少ない男子だ。
亀島の成績は、ずば抜けていい。もちろん、
身長は百七十センチを少し越えるくらい。不老翔太郎とほぼ同じだろうか。けれど、肩幅はがっちりと広い。さすが、地元のスイミングスクールに通って、五年生のときに県内一位の成績をたたき出しただけのことはある。優等生にして、スポーツマン。女子からも、モテないはずがない。
亀島の家は歯医者だった。といっても、虫歯を治してくれる歯医者ではない。セレブな予約客オンリーの「美容歯科」という歯医者らしい。
同じクラスで四年目になるというのに、亀島とぼくが会話をした記憶はない。亀島のほうから、ぼくを避けているような気配がある。ぼくだって、なんとなく亀島佑作には近寄りがたい雰囲気を感じていた。それはべつに、亀島の家が、ぼくの大嫌いな歯医者だから、というわけじゃない。
正直に白状しよう。三年生で同じクラスになってからずっと、亀島佑作という男は、ぼくにとって、ずっと「うらやましい」存在だった。
亀島はいつもはおとなしくて物静かで、大きな声を上げた姿なんて見たことがない。
そんな亀島が——先週末の突発的な席替えで、教壇の真ん前という席になった——給食の最中にこんな声を上げたのだ。何か「とてつもない」異常事態が起こったに違いない。
ぼくは、牛乳を飲み干し、すぐ隣の
不老は、音も立てずに「にらと卵のスープ」を、わざわざスプーンですくって一口ずつ飲んで——食べていた。
「なあ、不老——」
「この『にらたまスープ』は、冷めても味が落ちないね。この献立メニューを作った栄養士さんは、実にいい仕事をしていると思うよ。前の学校では——」
「そんなことを言いたいんじゃないんだよ」
「ご飯だろうとパンだろうと、必ず牛乳が出てくるのは、おそらく日本全国共通だろう。けれど、これは改善したほうがいいと思わないかい? もちろん、牛乳が日本において数少ない『自給率百パーセント』の食材で、タンパク質やカルシウムといった栄養価が高い。しかし、白いご飯を食べれば、やはり食後には熱い緑茶をいただきたいとは思わないかね」
始業式から三週間ほど経つ。そろそろゴールデン・ウィークになろうとしている。けれど、まだ、こいつのしゃべりに慣れることなんてできない。「かね?」って何だよ、「かね?」って。おまえは日本語吹き替え版のアメリカ映画の登場人物かよ——などと喉元まで出かかっていたけれど、もちろん口に出さないだけの分別は、ぼくにもある。
「緑茶の自給率も九十パーセント以上だけど……いや、緑茶にした場合、タンパク質、カルシウム、そして摂取カロリーといった栄養価の問題が出てくるのか。すると献立全体を考え直さないといけなくなる。つまり、もしも牛乳の代わりに上質の玉露を出した場合、今のメニューを現在の給食費で維持することは困難で……」
不意に不老は手を止めて、箸を置くと空中をにらんで、考え込み始めた。
また、この男の習性が出た。
人の話を聞かない。
周りの空気を読まない。
自分の思いついたことしか言わない。
自分の興味のあることにしか反応しない。
いったいどうしたら、こんなにもねじれ、ゆがみ、屈折した性格の人間になれるのか、つくづく疑問だ。
にも関わらず、この男は嫌われることがない——特に女子に。ほんとうに、男子の一人として、つくづく腹が立つではないか。
不意に女子の声が不老の深い深い思索を邪魔した。
「でも不老君、この『ミートボールとブロッコリーの炒め煮』は、カロリー高いよ。太りそうだと思わない?」
と言いつつ、そのミートボールをおいしそうに口に放り込んだのは、金銀河だ。
先週の金曜に、席替えをしたばかりだった。
そして、どういうわけか、ぼくのすぐ後ろ——つまり、金銀河の隣——が不老翔太郎の席になった。
ぼくたちのクラスでは、男女三人ずつ、六人で一つの班を作る。男女ちょうど十五人ずつのクラスなので、全部で五班できる。
その六人の班で机を移動させて「島」を作り、給食を食べることになっていた。
「ねえ、不老、さっき亀島があんなこと言うのって……」
ぼくは完全に不老に黙殺された。
「給食の献立というのは、ちゃんと必要摂取カロリーも栄養素のバランスも考慮した上で作られているはずなんだ。しかしね、実に奇妙なことがあるんだよ。文部科学省の『学校給食摂取基準』では、なぜか炭水化物の摂取基準が盛り込まれていない。これは実に奇妙だと思わないかい?」
「さあ、べつに思わないけど……」
「加えて、この『摂取基準』には法的拘束力がないんだよ。従って、各自治体ごとに一回の給食における摂取カロリーが異なるようだ。給食の献立メニューを作成する管理栄養士の『好み』が反映する場合もあるらしいよ。確かに、今日のメニューは高たんぱく高脂肪だと言わざるを得ない。それに——」
不老はまっすぐにぼくを射貫くような視線を向けた。
「君は、今日もまた、ご飯をおかわりしたね。しかも二回も。明らかに炭水化物の摂取過多だし、摂取カロリー・オーバーだ。君の体型に関しては、君自身がよく理解しているはずだと思うが……」
「はいはい、忠告どうもありがとうございます」
憮然として、ぼくはデザートのフルーツミックスゼリーに手を伸ばした。
「おっと、僕の忠告をまったく聞いていないようだね」
瞬く間、とはこのことを言うのだろう。いつの間にか、不老の右手に、ぼくのフルーツミックスゼリーがあった。不老の長い腕に、ぼくの太くて短い腕が届くはずがない。
「これは代わりに僕が摂取するよ。脳の活動には糖分が必要だ。さて、この低コストでこれだけのメニューを考え、長年にわたって実施されてきた学校給食は、改善の余地があるにせよ、たいへんにありがたいものだと僕は高く評価したいね。もっとも、君のような良家のお坊ちゃんにはおわかりにならないだろうけど」
一言どころか二言も三言も、いや以上、よけいなことを言うのだ、この不老ってやつは。
会話に割り込んできたのは金銀河だった。
「ねえ、不老君。わたしたち女子は、男子の知らないところで苦労しているんだよ。もっと栄養のバランスに気をつけて給食を作って欲しいな」
「ほほう、申し訳ないけれど、それは『苦労』ではなくて、いわゆる『徒労』なんじゃないかな?」
まったく、何てことを金銀河に向かって言うんだ。何度も何度も疑問に感じているが——ほんとうにどういう脳味噌の構造をしているんだ、不老翔太郎って男は?
「銀河さんがいかにダイエットしようと、太ろうと痩せようと、ぼくたち——いや、少なくとも僕は一向に気にしないけれどね。そもそも『太っている』と『痩せている』の境界線は何なんだい? いや、この
さすがに我慢の限界だ。ぼくは口を挟んだ。
「BMWだかベンツだか知らないけど、はっきりわかりやすく事実を言うよ」
「ほほう、御器所君に『わかりやすく』説明できる能力があるとは驚きだ。ぜひ拝聴したい」
不老はもみ手をするかのように両手を握り、ぼくに身を乗り出してきた。
胸の奥の心臓に近い辺りで「ぐぬぬぬぬ……」という声なき声を響かせながら、ぼくはゆっくりと言った。
「間違いのない事実。それはつまり——不老翔太郎は、ウザイ」
約十五秒の沈黙——
不老は弾けたように爆笑した。
「御器所君、君にそんなユーモアのセンスがあったとは、驚きだよ! まさか君の口から、陳腐な『ウザイ』という単語を聞こうとは、まったく仰天だ。実に傑作だよ!」
いや、ユーモアじゃなくて、事実を言っただけなんだけれど。
妙に顔面の毛細血管に血流が増えるのを実感する。たぶん、ぼくの顔は「こいのぼり」の「ひごい」以上に真っ赤に染まっていたことだろう。
「でも、そういう正直なところが、御器所君の長所だと思うよ。不老君は鈍感なの!」
思いがけず、金銀河にフォローされてしまった。さらにぼくの顔面は赤みを増したことだろう。心臓の鼓動も早くなる。
クラスでナンバー・ワン、いや学年でナンバー・ワンの美人にして優等生に、こんな言葉をかけられて、ドキドキして緊張しない男子がいるだろうか。
それを悟られないよう、ぼくはすぐに空になった食器の載ったお盆を持って、立ち上がった。教室の前に移動した。
かごのなかに食器を種類別にわけて入れる——ぼくが最初に給食を食べ終わったらしく、かごのなかはほとんど空だった。
ちら、と最前列の班の亀島佑作のほうを見た。亀島は、牛乳だけを飲み、給食には一切手を着けていなかった。
食欲がないなら、ぼくが代わりに全部食べてあげるのに——と思ったが、そんな場合ではないことに気づいた。
萱場先生のほうを見やると、いつものように、まずそうに給食を半分ほど食べ、ため息をついていた。牛乳には口を付けていなかった。
「御器所君」
不意に、萱場先生に声をかけられ、ぼくはびくっと体を震わせた。目立つことがとてつもなく苦手なぼくは、先生に名前を呼ばれただけで緊張してしまう。
「牛乳、飲む?」
「は、は、はい」
ぼくは萱場先生の机に歩み寄って、ちらっと不老のほうを盗み見した。幸か不幸か、不老の言葉に、金が笑い声を上げている。楽しそうな二人の会話。
牛乳瓶を受け取り、胸底で「くっそー」と言いながら、その場で一気に飲み干した。
牛乳を飲むと身長が伸びる、というが、ぼくの場合はタテではなくヨコに作用するようだ。
悲しい現実だけど、やっぱり食べることは好きだ。
牛乳瓶を収めるケースに空瓶を入れて、ふと亀島のほうを見ると、やっぱり亀島は給食を口にしようとしていなかった。ただ、腕組みをしたまま、机の上の給食をにらんでいる。
亀島の班の他の五人は、黙りこくったまま給食を食べていた。この班の「島」の周囲だけ、異様に重苦しい空気が漂っていた。
席に戻ろうとして、ためらった。
「あの……亀島」
自分らしくないことだけど、ぼくは呼びかけていた。
亀島は、まるで怒っているような視線をぼくに向けた。思わずひるんで二歩も後ずさった。
「あの……何か、あったの?」
おそるおそる、訊ねた。
亀島佑作は、ぼくのほうを見もせずに、つぶやき声で言った。
「こんな給食、食べられるか……!」
「どうして?」
亀島は、突然、振り向いた。ぼくはさらに三歩後ずさった。
「今日もまた、こいつが入ってたんだ」
亀島は、お盆の上を指さした。
それは細長い小石のように見えた。
「『今日もまた』っていうことは、前にも入ってたの?」
ぼくが訊くと、亀島はうつむいた。そして、絞り出すような声で言った。
「今週に入ってから、毎日だよ。そんなこと、あり得ないだろう?」
「毎日……? この石が?」
何か、「事件」の気配を感じてぼくは亀島に歩み寄っていた。
「石じゃない……よく見ろよ」
ぼくは、亀島佑作の給食の盆の上に載っている物体に顔を近づけた。ちょうど、一・五センチほどのラグビー・ボールのような形をしている。
「何これ?」
「今日で五回目だよ。五つ目の、梅干しの種だよ!」
亀島が言うや否や、視界の片隅で不老翔太郎が立ち上がったのが見えた。
「つまり『梅干しの種五つ』が、亀島君の給食に入れられていた、ということなんだね」
なぜかうれしそうな顔で、不老翔太郎は言った。
「ちょっと不老君、真面目に考えてるの?」
なぜかぼくたちと一緒についてきた金銀河が、両手を腰に当てて不老を見上げた。
昼休み——ぼくたちは教室を出て、北校舎——別名「管理棟」へと続く渡り廊下にいた。「管理棟」とはよく言ったもので、この建物には職員室をはじめ、校長室、教頭室、来賓室、生活指導室、保健室、図書室……などがあった。つまり、教室はない。昼休みにこの渡り廊下を通って北校舎に行くのは、図書室に行く生徒か、何かやらかして職員室や生活指導室に呼び出された生徒だけだ。
亀島は、眉根を寄せて言葉を選ぶようにして答えた。
「一番最初は、ちょうど月曜日……ほうれんそうのみそ汁のなかに入ってたんだ」
「見事な記憶力だね。そのときはサワラのフライがおかずで、デザートは、いちごヨーグルトだった」
ぼくは必死に記憶の引き出しのなかを探ってみたけれど、まったく覚えていなかった。とにかく、いつだって給食の時間がいちばんの楽しみなのだから、「覚えていない」のは、きっと「おいしかった」ということなのだろう、と結論づけた。もっとも「おいしくなかった」記憶もないんだけれど。
亀島は大きくため息をついた。まるで歳を取ったおじいさんのようにも見えた。
「火曜日には——」
「火曜はパンの日だ。おかずにはポテトスープが出たね」
すかさず不老が言う。亀島はうなずいた。
「そこに入ってた。でも、何かの間違い——給食のおばさんがミスったとか——って思ってた」
「その後も同様に、ということなんだね。水曜の給食は、野菜カレーだった」
「うん……しかもそのとき、噛み砕いて、少し飲み込んじゃったんだ」
亀島が噛みつぶしたのは梅干しの種だけじゃないみたいだ。つまり、「苦虫」っていうやつも同時に。
「それでも亀島君は黙っていたのかい?」
不老の問いかけに、亀島は口ごもった。ちらっと視線を金銀河に向ける。
ああ、亀島もやっぱり金のことが気になるのか。そのくらいの推理はぼくだってできる。
「恥ずかしいし……やっぱり、何かのミスかも、って思ったし」
「ほほう、ずいぶんと慎み深い性格なんだね」
確かに不老と同様、ぼくも驚いた。金銀河の前だ、という理由もあるだろうけど、優等生でスポーツマンでクラスの人気者の亀島のこんな姿は、この三年間ではじめて見た。
「もっとも、ここにもっと謙虚な人間がいるけれど、御器所君の場合は『謙虚』というよりは、『小心』と表現したほうが適切かな」
「いいから不老君、茶々を入れないで亀島君の話を聞きなさいっ」
金銀河がにらむ。
「銀河さんが肩入れしているのは、御器所君なのか、それとも亀島君のほうなのか。人並みに興味があるね」
ぼくと亀島は、ほぼ同時に顔を真っ赤に染めた。金がどんな表情をしていたか——とてもじゃないけれど、見ることができなかった。
「不老君!」
怒ったような金銀河の声。
「本題に戻ろう。木曜、つまり昨日だ。パンの日で、クロワッサンが出た。おかずにはささみフライ。デザートに白桃のゼリー。つまり、梅干しの種を沈めておくようなスープや汁物がなかったが……」
「それでも、種はあったんだ。ささみフライの上に載ってた」
「なるほど……それで、亀島君はどうしたんだい?」
「さすがに……これは誰かが俺にいやがらせをしているんだ、って確信した。だから先生に言ったよ。月曜からの出来事を」
「で、昨日の先生の反応は?」
「まるでこっちが叱られるじゃないかって感じの眼で見られたよ。そして一言、『わかりました』だけだ。給食に異物を入れられたんだぞ。警察沙汰になってもおかしくない『事件』じゃないか!」
「確かにその通りだね。六年生だから体格が大きくなってるとはいえ、この大きさの種を間違って飲み込んでしまったら、一大事だ。それに、梅の種には毒がある」
「ええっ!」
ぼくと亀島と金は同時に声を上げた。
「梅の種にはアミグダリンという成分が含まれている。腸液の消化酵素の作用によって、シアン化水素——つまり猛毒の青酸ガスを発生させる」
亀島は今にも吐きそうな顔になった。それもそのはずだ。一度は噛み砕いて飲み込んでしまったんだから。
不老は淡々と続けた。
「このアミグダリンという成分は、以前はビタミンB—17と呼ばれて、癌の治療に効果があると主張する研究者もいたようだ。けれど、その後の研究で、癌にはまったく効果がないことがわかった。アミグダリンを摂取することによって、むしろ青酸中毒になるリスクのほうが高いという研究もあるんだよ」
亀島の顔が、ますます青白くなった。
「しかし、安心したまえ。熟した梅の実にアミグダリンはほとんど含まれていないんだ——熟す前の青い梅の実を食べたら、おなかを壊すかもしれないけれどね。さらに、梅干しにしてしまえば、毒性の心配は皆無だよ。君たちは食べたことがないのかな、俗に『天神様』と呼ばれる種の内部——『仁』とも呼ばれる——つまり『胚乳』を。タンパク質を含んでいて、僕はとてもおいしいと思うけどね」
それでも亀島の顔色は変わらなかった。
「不老君……悪い冗談はやめてよ」
金銀河が言った。が、不老は右の眉だけを器用に上げただけだった。
「冗談なんかじゃなく、純粋に科学的データを挙げただけだよ。さて、話を本題に戻そうか。そして今日もまた、梅干しの種が『にらたまスープ』に入れられていたそうだけど……」
亀島は、まだこわばった表情だった。ぼくも、同じようにドキドキと高鳴る心臓の鼓動を感じていた。そして、不老翔太郎という「ド変人」への怒りが増した。
そんな様子に気づくはずもなく、不老は続けた。
「今まで何もなかったにも関わらず、今週に入ってから『梅干しの種五つ』混入事件が起こった。その点には、きっと理由があるに違いない」
「偶然とは思えない。明らかに、亀島君個人を狙った行為だとしか考えられない」
金銀河が言う。
「どうして、俺が……?」
亀島がつぶやいた。
「亀島君、もう一度、さっきの梅干しの種を見せてもらえるかな」
亀島は、ティッシュに包んだ種を、汚いものでも触れるかのように、不老に差し出した。
不老はお構いなくティッシュを開くと、梅干しの種を手に取った。ためつすがめつすると、なんてことだろう、鼻に近づけて匂いを嗅いだ。
「いつも種はこの大きさ?」
「ああ、だいたい同じような種だったよ」
「かなり大きめの梅干しだ。実はきれいに取り除かれている……いや、しゃぶり尽くされているのかもしれないが……」
金銀河が顔をしかめた。
よくもまあ、どこの誰ともわからない他人がしゃぶった(かもしれない)梅干しの種に触れるな、とぼくもあきれた。
「梅干し特有の匂いがしない。食べられてから相当時間が経過しているのか……いや……かすかに匂うぞ」
「もうやめろよ、不老。汚いよ」
もちろん、聞く耳なんぞを持っている不老翔太郎ではない。
「無臭の匂いだ」
「はあ?」
おかしいのは不老の嗅覚なのか、アタマなのか、それとも両方なのか?
「亀島君、ほかの四つの種は、持っているかい?」
「そんなの、すぐに捨てちゃったよ。気持ち悪いじゃないか」
けれど、金銀河が短く「あっ」と声を上げた。
「そうか、この種、洗ってあるんだ」
「はあ?」
間の抜けた声を出すことしかできないぼく。
「わかんないの? 洗剤! うちの食洗機の洗剤も、『無臭』って書いてあるけど、独特の匂いがするもん」
亀島が怪訝そうに言った。
「でも……俺に対する嫌がらせだったら……わざわざ洗ったりしないんじゃないか?」
「さすがは、亀島君だ。僕も同じことを考えていたよ。思った以上に、この事件は奥が深そうだな……」
「そうね、誰が、どうやって、なぜ、梅干しの種を入れたのか……」
金銀河はいつの間にか腕組みをしている。
「『フーダニット』としても『ハウダニット』としても、さして難しくはない。問題は『ホワイダニット』という点だ。面白い、実に面白いよ。この種、しばらくお借りするよ」
不老は独り言のように、どこの国の言語かすらもわからない意味不明の単語を並べ立てながら、ポケット・ティッシュを取り出し——わざわざ常備しているとは、妙に几帳面なところのあるやつだ——それで種をくるんでズボンのポケットに収めた。。
やっぱり不老翔太郎はイカれている。いったいぜんたい「ナントカダニット」って何語なんだ?
亀島みたいな優等生なら呆然としているだろう……と思ったが、あろうことか、大きくうなずいていた。
「容疑者は五人しかいない。もしも俺が荒畑みたいだったら、全員をシメ上げて吐かせるんだろうけど、もちろんそんなことはできないじゃないか」
亀島は言った。ぼくが「なぜ五人なのか」という質問を発する前に、金銀河が言った。
「違うよ、容疑者は十一人」
「えっ? そんなに? じゃあ、クラスの三分の一じゃないか……」
亀島はうろたえていた。ぼくの狼狽はそれ以上だったけど。
「そのとおりだよ、銀河さん」
「ちょっとタイム。どうして五人とか十一人とか正確な数がわかるの? 六人とか七人とか……もしかして十三人とか、いや、クラス全員、被害者の亀島とぼくを除いて二十八人が容疑者っていう可能性だって……」
ぼくの疑問は、「あーあ」という金銀河の声に遮られた。
「じゃあ、御器所君は、わたしも容疑者にカウントしてるんだ」
「いや、まさかそんなこと……だったら……えー、二十七人……」
あせりながらとりつくろった。けれど次の瞬間には、不老が、大きく大きく聞き覚えのあるため息をついた。
「わかってないね、御器所君は。前回の席替えはいつだった?」
「はあ? 席替え?」
もうダメだ。ぼくの脳細胞は、ただ混乱するばかりだ。
どうせバカにされることを覚悟で、ぼくは訊いた。訊くはいっときの恥。訊かぬは一生の恥、と昔の偉い人——誰か知らないけど——は言った。どうせ金銀河の前で恥をかくなら、訊いたほうがマシだ。
「どうして『席替え』と梅干しの種に関係があるのか、ぼくにはさっぱりわからない。ちゃんと説明してくれよ」
「誰が種を入れられる?」
「えーと……あっ、そうか、同じ班の子だ!」
先週の金曜日に、席替えが行なわれた。つまり、それで班のメンバーが変わった。新しい班での給食は、ちょうど今週の月曜からスタートしたのだ——亀島への梅干しの種混入事件もまた同時に。
だから、給食の時間に、亀島は同じ班の生徒たちをにらみつけていたのだ。
しかし、金銀河はさっき——
「十一人って言ったっけ?」
「人の話をちゃんと聞かないのは、伝記作家として失格だね」
前にも同じ単語を、不老の口から聞いたことがある。誰が伝記なんか書くものか。
質問する間もなく、不老は続けた。
「いいかい、四月に転校して来た僕ですらわかることだ。どうして六年目の君にわからない?」
「はあ?」
またも、間の抜けた返答。しかも、金銀河の前で。そして、当の金が大げさにため息をついて、ぼくに一歩近づいてきた。反射的に一歩下がってしまう——逆に一歩近づけば、大接近できたのに……ということは、あとから気づくものだ。
「わからないの? 席替えをしたから、班が変わった。だったら、給食当番も変わるでしょ?」
「あ、そうか……だから、その班の生徒も入れれば、十一人……」
やっぱり間抜けな返答しか返せないのが悔しい。
「三十一人の人間のなかで、もっとも怪しい容疑者が十一人……確率的なことだけを考えれば、ひじょうに難しい事件だと言えるね」
「三十一人? 一人多いじゃないか」
「萱場先生を含めれば、このクラスで給食を食べていたのは三十一人だ」
金銀河が気色ばんだ。
「ちょっと待ってよ。先生まで数に入れてるの? 不老君、どうかしてるんじゃない?」
まさにそのとおりだ。この男は、いつだって「どうかしてる」のである。
「容疑者とは言っていない。事実を述べたまでさ。正確な事実を把握しない限り、真相にたどり着くことはできない」
確かに、亀島が萱場先生に訴えたときの先生の態度は、明らかに、いつもの先生じゃない。亀島の「梅干しの種五つ」混入事件について、萱場先生の態度は奇妙だ。
そのときだった。背後から声が飛んできた。
「何やってるの。早く教室に戻りなさい」
噂をすれば影、というやつだろうか。当の萱場先生だった。ぼくは確実に二十五センチは飛び上がった。
ぼくたち四人は、萱場先生の声に無理矢理背中を押されるようにして、なんとなく早足になって教室に向かった。
先頭を歩いていた不老が教室の扉に手をかけたまさにその瞬間、五時間目の始業を告げるチャイムが鳴った。
不老が、不意に動きを止めた。その隣の金銀河——悔しいけど、二人はずっと並んで歩いていた——が顔を見合わせた。
数メートル背後から、萱場先生が国語の教科書を抱えて近づいてくる。
不老は金銀河を見やり、続いてぼくに視線を向けた。ぼくの隣の亀島は、怒ったような顔で、無言ながら「早く教室に入れよ」と訴えている。
「不老、何してんの!」
ぼくの隣の亀島が言った。が、不老はそのままの姿勢で、背後を振り返った。
なぜか怒ったような表情の萱場先生が近づいてくる。
「不老、今日は漢字テストの日だろう?」
亀島がいらだった声を上げた。
確かにそうだった。ぼくは全然、勉強してなかったけど。でも、漢字テストは得意だ。八十点以下を取ったことはないので、べつに心配はしていない。
と、そのときになって、はっと気がついた。
チャイム?
ということは、ついさっき、五時間目が始まったばかり?
萱場先生だけじゃなくて、他の先生も、五時間目のチャイムと同時に教室に入ってくるなんてことはない——これはぼくが五年間この小学校に在籍して身をもって体験した事実だ。
チャイムと同時に教室に入るためには、チャイムが鳴る前に職員室を出なければいけない。つまり、多くの先生がチャイム前に職員室を出るほど熱心ではない、っていうことだ。
なのに、今日に限ってどうしてチャイムが鳴る前に萱場先生が渡り廊下まで来ていたのだろう? そして、チャイムが鳴って二十秒後には教室に着いている——こんなこと、今までにはなかった。
「さ、早く席に着きなさい!」
鋭い萱場先生の声が響いた。
廊下で駄弁っていた生徒——いつも女子が多いのはどういうことだろう——が、しぶしぶと教室に入った。
ぼくたちも各自の席に着いた。
ふと不老のほうを見やると、不老は腕組みをして、眼をつぶっていた。もちろん、こいつが居眠りをするはずがなく、何か深く考え事をしているに違いなかった。
「じゃあ、教科書の二十一ページ——」
萱場先生は、亀島の給食への「梅干しの種五つ」混入事件について、何か知っているのだろうか? まさか、先生が犯人とは思えない。かりに真犯人だとするならば、動機がないし、それに梅干しの種を入れる機会もない……。
「はい、御器所君、読んで」
唐突に、名前を呼ばれた。
「あ、あの……」
「二十一ページ!」
不機嫌そうに萱場先生は言った。
こんなとき、ぼくはすっかり緊張してしまう。まるで金銀河にじっと見つめられたときのように——そんな経験、ほとんどないけど——顔は真っ赤になってしまい、全身から汗が出る。緊張を苦い唾と一緒に喉の奥に飲み込んでから、立ち上がった。
が、そのときだった。ぼくは、ゆっくりと背後を振り返った。
やはり、不老翔太郎は腕組みをしたままだった。その隣の金銀河は、小首をかしげて不思議そうな表情をぼくに向けた。
もっと汗が出た。
でも、おそらく金銀河と考えていることは同じだったはずだ。
漢字テストは、どうして行われないのか?
いったい、萱場先生は何を考えてるのだろうか?
六時間目の「社会」の授業が終わり、掃除も終わって「帰りの会」が始まった。萱場先生はぼくらのほうを見もせずに、来週の連絡事項——「算数の宿題を忘れないように」といった、大したことのない話だったけれど——を告げた。
そして、ちらっと腕時計に眼をやると、言った。
「じゃあ、日直、号令」
が、その瞬間に、「先生!」と手を挙げた生徒がいた。
こんなタイミングで、みんなが完全に帰る態勢になっているのに、ランドセルに手をかけた状況なのに——まったく周囲の様子を読まないような人間は、一人しかいない。
不老翔太郎だ。ぼくは大きな大きなため息をついた。
「先生、この教室で給食に異物混入事件が起こっていることは知ってますよね?」
おいおい、先生に向かってなんだ、その物言いは。それ以前に、クラス全員の前で言うことか? 文字通り、頭を抱えた。
こんな変人と友だちだと思われるなんて、心外だ。最悪だ。
「聞いてます。そのことは、ちゃんと給食室の担当の人に報告しておいたので、心配する必要はないわよ、不老君」
「そうでしょうか。今週、この教室で起こった事件——あえてそう呼ばせてもらいます——は、給食室で偶発的に発生した事故とは考えられませんが」
萱場先生は、ぼくと同じように大きなため息をついた。誰だって、常識を持っている人間なら、不老の物言いにため息をつかずにはいられないはずだ。
けれど、不老翔太郎の辞書に「常識」の文字はなかった。
萱場先生は腕時計を見やると、突き放すような口調で言った。
「不老君が心配してくれているのは先生としてもうれしいけど、二度と、こういうことは起こりません。だから、来週からは安心して給食を食べて下さい」
先生の台詞の後半は、クラス全員へ向けたものになっていた。
不老は黙りこくったまま、腕組みをしていた。
「起立!」
という、日直の号令がかかっても、不老は腕組みのまま立ち上がった。
「さようなら」
日直のお決まりの台詞に続いて、ぼくらも「さようなら」と義務的に唱和する。
そのあいだも、ずっと不老は腕組みをしたままだった。妙な姿だったけれど、ぼくは笑う気になれなかった。
ぼく、亀島、不老翔太郎、そしてやっぱりなぜか金銀河も一緒に、管理棟の裏側にある職員用駐車場にいた。ここにはほとんど他の生徒は来ない。なんとなく、ぼくたちは誰にも聞かれてはいけない密談を始めるような気分だった。
「さて、本題だ。もう一度、詳細を初めから検討する必要があるね、亀島君」
不老は、珍しくあっけらかんとした表情だった。
「でも、全部話したじゃないか」
「もう一度、月曜日の最初の『梅干しの種』混入の経緯から、話してくれないか? 君が忘れていること、我々が気づかないことが、新たに見つかるかもしれない」
「わかったよ……」
亀島は素直に月曜の給食の時間に梅干しの種を見つけた様子を話し始めた。どうやら、亀島も不老の持つ奇妙な空気に引き寄せられてしまったようだ。
金銀河も、身を乗り出して亀島の話を聞いている。
ぼくは、みんなに聞こえないようにため息をついた。
どうして不老のようなやつに引き寄せられなきゃいけない? ぼくはただ、これ以上ヘンなことを言い出さないでくれ、と冷や冷やのしどおしだ。当然、不老がぼくの気苦労を知っているはずはないし、知ろうとするはずもない。なんておかしな人間と関わってしまったんだろう、と全身の筋肉と脳細胞が疲れを訴え始めた。
「あ、先生!」
鋭く金銀河が言った。
瞬間的に、なんとなく隠れなきゃ、と思った。いや、べつにぼくたちは悪いことなんか何もしていないんだけれど。
その気持ちは亀島と金銀河も同じようだった。
ぼくたち三人は、素早くシルヴァーのプリウス——確か教頭先生の車だ——の背後に身を隠した。
「何をしているんだい?」
不老が悠々と歩いてくる。
萱場先生の姿が見えた。かなり疲れている様子だった。いつも授業中に着ている紺色のジャージではなく、パンツ・スーツ姿だった。
萱場先生は駐車場のいちばん端の日陰になっているところへ向かい、フルフェイス・ヘルメットをかぶると、中型のバイクにまたがった。
「ほほう、萱場先生はバイク通勤だったのか」
不老は突っ立ったまま、驚いた表情を見せた。
萱場先生は、ぼくたちに気づいた様子もなく、バイクのエンジンをかけた。そして、急発進させた。重低音が腹の底のほうを振動させた。
と同時に、その振動に誘発されたのか、ぼくの胃袋が「ぐおるる」と間抜けな音を発した。
給食だけでは、絶対に足りないに決まっているじゃないか。給食の時間、不老に奪い取られたフルーツミックスゼリーの姿がちらつく。晩ご飯までは、まだ二時間はたっぷりあるのに。
よりいっそう全身がぐったりと弛緩してしまった。
萱場先生のバイクは裏門から外に姿を消した。
ぼくたちは教頭先生のプリウスの陰から出た。
「先生という立場にしては、ご帰宅が少し早いんじゃないかな」
不意に不老が言った。
「何か大事な用事があるんじゃないの? 例えば、デートとか。今日は金曜だしね」
金銀河が言った。
三十七歳・独身の萱場先生に彼氏ができたというなら、それはめでたいことだ。もう職員室で他の先生たちに笑われることもなくなるだろう。
「なるほど。確かに今日は『花金』だ。ずいぶんと立派なスーツを着ていたよ」
「ハナキン?」
「今どきの若い人は知らないだろうけどね、昔は『花の金曜日』と言われていたものだよ」
おまえだって「今どきの小学生」だろうが、という言葉を危うく飲み込んだ。その代わり、ぼくは不老をにらみつけた。
「しかし、引っかかる。萱場先生のあの顔は、『
「へえ、それはそれは、不老は人生経験さぞや豊富なことなんでしょうね」
混ぜっ返したが、無視された。いい加減にこの男のこういう態度に慣れないといけないんだろうけど、やっぱり腹立たしい。
「萱場先生は、何をしようとしているのか? 何を思っているのか……」
独り言のように不老は言った。
「昼休みにも言ってたけど、まさか萱場先生が容疑者だっていうのか?」
はっと我に返ったように、不老はぼくを見て、短く息を吐いた。
「容疑者は、六人」
「ええっ、どうして十一人から六人まで減ったの?」
金銀河が一歩、不老に歩み寄る。うわ、近い。それ以上、この男に近づくな——なんてぼくには言えなかった。
「梅干しの種は、すべて給食の内部に入っていた。昨日に限ってはささみフライの上だったけれど、それは犯人にとって、やむを得なかったんだ。汁物がなかったのだからね」
ぼくは突っかかった。
「『なんで六人になるのか』って質問の答えになってないよ」
「まだわからないかな、御器所君。昨日まで、梅干しの種は汁物のなかに沈んでいた。だから亀島君が野菜カレーと一緒に食べてしまったわけだ。つまり、種は『先に』食器に入れられていた」
亀島が、ゆっくりと口を開けた。亀島のこんな間の抜けた表情を目撃するのは初の体験だ。そのあんぐりと開けた口から、かすれた声が漏れた。
「犯人は、給食当番か!」
「今週の給食当番は……一班ね」
「でも、一班の誰が……」
ぼくが口を挟もうとすると、やっぱり不老翔太郎に遮られた。
「今回の『梅干しの種五つ』混入事件は、無差別なターゲットに向けて行なわれたとは考えられない。もっとも、可能性としてはゼロじゃないけれどね。犯人たちが三十人分の給食のたった一つに種を入れ、それが五日間連続で亀島君のもとへ運ばれる確率は、単純に計算して三十分の一の五乗。つまり……えーと」
頭がくらくらしてきた。
「二千四百三十万分の一! 不老君、そんなことはどうでもいいから……」
頭のくらくら度がさらに上昇した。ぼくは「ゴジョー」の意味もわからないというのに。
「あ、ちょっと待って! 今、不老君、さっき何て言ったの?」
ぼくが眩暈と闘っているあいだにも、金銀河の頭脳は何倍も速く回転しているようだ。
「不老、今、『犯人たち』と言ったか? 複数犯なのか?」
亀島もまた鋭い声を発した。今にも不老に摑みかからんばかりだった。ぼくは、まだくらくらの波と格闘中だった。
不老は大げさに天を仰いだ。こんな芝居がかった仕草のできる小学六年がいったい他にいるだろうか?
「この学校での給食当番の仕事は、転校生の僕よりも君たちのほうがずっと詳しいんじゃないか。彼らが給食の準備に何をしているか考えてみればわかることさ」
ぼくの脳内には「?」が百八個くらいふわふわ浮かんでいるというのに、金銀河が不老に続けて言った。
「まず食器に給食を盛りつける係、そしてそれを運ぶ係——その両方の協力がなければ、亀島君を狙って種の入った給食を配膳することは不可能。盛りつけ係と運び係の両方に一人ずつ、共犯関係にある子がいた……そういうことでしょ?」
金銀河は得意げだった。
不老は片方の眉毛をぴくりと上げた。
「一人ずつかどうかは、わからない。それ以上の共犯がいる可能性は否定できない。例えば——」
不老翔太郎は、あるイギリスの探偵小説の真犯人を例に挙げた。
「ちょ、ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと待ったぁ!」
ぼくは叫ぶように言った。なぜなら、ちょうどそれは、ぼくが今まさに読みかけの本だったからだ。
しかし、不老翔太郎に「人の気持ちを察する」能力などありはしない。
まるで世間話のように、何の躊躇もなく、不老は「真犯人」の正体をしゃべった。ぼくに耳をふさぐ暇はなかった。ぼくは聞いてしまった。
「マジで……? それ、反則だよ……」
泣きそうになった。もうすぐエルキュール・ポワロが灰色の脳細胞を駆使して、事件を解決する寸前だったというのに。
「いや、まったく反則じゃない。クリスティ女史は、いつだって実にフェアに小説を書いている」
ぼくの体から力が抜ける。反則なのはアガサ・クリスティじゃなくて、不老だ。
そんなぼくの気持ちを一ミリたりとも意に介さないのが不老翔太郎だ。不老は、探偵小説のネタバレをしたことなど忘却したかのように、その鋭利な視線を亀島に向けた。
「さて、亀島君。君はほんとうに心当たりがない、と言うんだね」
「ああもちろんだよ。俺は何もやってない……いや、俺の班の誰かが犯人だとずっと疑ってたのは、確かに悪かったよ。みんなに謝らなきゃいけないな」
「亀島君、それは気にしないで。悪いのは犯人なんだから。亀島君って、ホントに優しい人なんだね」
金銀河が、いたわるような声をかけた。
亀島の視線が泳ぎ、その顔の血管の血流量が増えたことを、ぼくは見逃さなかった。それをごまかすかのように、亀島は空を見上げてつぶやいた。
「一班か……
亀島に「俊介」と呼ばれたのは、もちろん
「それに、アントニオも犯人じゃない」
「ほほう、どうしてそう思うんだい?」
不老翔太郎が、じっと亀島の顔を見ながら言った。
「あいつとは幼稚園の頃からずっと同じクラスで……つまり、恥ずかしいけどさ、『親友』っていうのかな。そんなやつなんだよ」
それは初耳だった。べつに恥ずかしがることじゃないとは思うけれど。
アントニオとは、
さすがブラジル系といっていいのだろうか、サッカーがめったやたらと上手い。去年の秋の「球技大会」で、左サイドからの亀島のセンターリングにあわせてヘディング・シュートを決めた植田の姿に、みんなが歓声を上げた。
どっちにせよ、亀島ほどじゃないけれど、女子に人気があるのは間違いない。すらりと痩せて背が高く、色黒で真っ白な歯を見せて笑顔になると、女子は「キャーキャー」騒ぐとか騒がないとか……その場を見たことがないから何とも言えないけど。
ふと気づいて、ぼくは口を挟んだ。
「荒畑はどうなの? 荒畑だったら、こんなおかしなこと、間違いなくやらないよ」
クラスでナンバー・ワンの問題児、荒畑力哉。いや、この男には「児」という文字が絶対的にふさわしくない。身長は四捨五入すれば一八〇センチ近い。そして、横幅も広い。一見して、絶対に小学六年生には見えないやつだ——不老翔太郎とはべつの意味で、だけど。
もしも荒畑が亀島に何か遺恨を持っているなら、もっと直接的な方法でそれを表すはずだ。
たとえば、拳。あるいは蹴り。
あるいは肘だって、膝だって、荒畑はいろんな身体の使い方を知っているはずだ。が、それで済めばまだマシなほうかもしれない。
「では、男子が犯人である可能性は低いということか」
不老が言うと、金銀河が口を尖らせた。
「ちょっと、わたしにも言わせてよ。ミオは絶対に犯人じゃない。ミオとは一年生からずっと同じクラスなんだよ。すっごく仲いいし、ミオが亀島君の給食にヘンなことをするなんて、あり得ない。わたしが一二〇パーセント保証する!」
金銀河の言う「ミオ」とは、
正直に白状すると、結構、可愛いとぼくは思う。成績も金銀河と同様に優秀。五年生で同じクラスになってから、何度か金銀河と親しく話している姿を見たことがある。背はそれほど高くなくて、ぼくと同じくらいだ。あんまり話したことはないけれど、妙に「社会」好きというか「歴史」好きな子だ。ふわっとしたおかっぱ頭だが、それがよく似合っていて、小幡美桜のことが好きだという男子も、一人や二人じゃないはずだ。
が、金銀河と仲がよくても、亀島に対してどんな気持ちを持っているかは、別問題だ。金にしては非論理的なことを言うな、と思ったが、続いて金銀河は言った。
「それにアサミちゃんも」
「じゃあ、
ぼくは口を挟んだ。亀島は、あっけに取られた顔になった。
白鳥あやめ。ぼくは三年生から同じクラスになった。名前だけを聞けば、どこかの深窓の令嬢といった風情だけど、見た目は六年生女子のなかでもっとも体重も重い——と言われている。真偽のほどは定かじゃないけど。けれど、本人は、ぼくよりも明らかに太っているのに、それを何とも思っていない様子で、大声で「ゲヒャハハハ!」(ほんとうにそう聞こえるのだ)と笑い、やたらと明るい。ぼくと比べるのはちょっと、いや、大いに不本意ではあるけれど、白鳥のあの陽気さはどこから来るんだろう、とうらやましく思うことがあるのは事実だ。
だからこそ、陽性の白鳥あやめが、暗くじめじめしたこの事件に関わっているとは到底考えられなかった。
「待ちたまえ」
うわ、また出た。この男の「たまえ」だ。何かの冗談みたいに思えるだろうが、不老が言うと、妙に説得力があり、一瞬だけ自然に聞こえてしまうのが不思議だ。実際、金銀河をはじめ、みんなは黙り込んだ。
「いいかい、私情を挟んでいては、冷静客観的な推理はできない。この際、友だちだとか親しいとかいった感情は抜きにして検討しなければいけない。案外、犯人は身近なところにいるかもしれない」
「そうだな。アントニオがサッカー部でまだ練習してるはずだぞ」
「ほほう、それは実にいいタイミングだ」
我知らず、大きなため息が出る。眼の前にいるのは、六年の最強モテ男子とモテ女子だ。そんな二人を軽くあしらうことのできる不老を、ぼくはとてつもなくうらやましく感じたのは事実だ。ぼくには逆立ちしたって真似できない。そもそも逆立ちができないけど。
「じゃあ、ぼくは帰るよ。何かわかったら、後で知らせてよ」
ぼくはランドセルを背負った。
「何をしているんだい、御器所君」
不老の声が背中から追いかけてくる。
「だって、これから一班のみんなを一人ずつ調べに行くんだろう? だったらぼくなんかは邪魔だから——」
「親愛なる伝記作家たる君がいないと、僕が困る」
またか……とうつむいた。「シンアイナルデンキサッカ」という文句——つまり、何の活躍はしないけど、とりあえず脇役としてそこにいるだけでいい、という役回りのことなんだろう。けれど、絶対に不老翔太郎なんかの伝記を書くものか。
「僕が、困るんだ。御器所君、一緒に来てくれ」
なんと身勝手な言い分だろうか? べつにぼくは全然困らないんだけど。
けれど、不思議に不愉快にはならなかった。
ちょうどサッカー部の練習が終わったところらしく、傾いた陽光の下で、植田アントニオは水飲み場で上半身裸になって、頭から水道の水をかぶっていた。
よく日焼けした体、筋肉も発達している。きっと腹筋だって割れているんだろう。
「やだぁ」
珍しく女の子っぽい声を金銀河が上げて顔を背けた。
どうして男の上半身にそんなに恥ずかしがる必要がある? 女子ってホントに不可思議な生き物だ。
亀島が歩み寄ると、植田アントニオはにっこり笑って歩み寄ってきた。
ははあ、確かに女子にもてるはずだ。いつも地味で、ちょっとくたびれた服装をしているけれど、背は高いし色黒の肌からのぞく真っ白な歯——どこかのアイドルみたいだ。いや、ほんとうに、オーディションを受けたら合格しちゃうんじゃないか。
亀島と不老が歩み寄り、植田はしばらく話していた。が、徐々に植田の眉間に皺が寄っていくのが見えた。
そして植田は大げさに首を左右に振り、両の手のひらを上に向け、空に向かって何ごとかを言った。それは「ホデール」というようにも聞こえた。少なくとも日本語ではなかった。植田は脱ぎ捨てた体操服を拾い上げると、乱暴に砂を払い、サッカー部の部室のほうへ去って行った。
「どうだった? 植田は、やっぱり怪しかった?」
ぼくが訊くと、不老は片方の眉を器用に吊り上げた。
「何とも言えないね。亀島君はどう思う?」
不老の問いに、亀島は表情を曇らせた。
「あいつは何もしてないよ。俺、あいつを、傷つけちまったかな……」
「そう、亀島君、君は植田君を傷つけたんだ。間違いなく、ね」
不老の情け容赦のない言葉に、さすがのぼくも腹が立った。
「もともと不老が口を挟むから、そういうことになるんじゃないか」
「確かに、そう言えなくもないかな」
珍しく不老は、少し沈んだ声になった。
「不老にも、金さんにも、ホントに俺のことで迷惑かけちまったと思う。もしよかったら、うちに来ないか? そこでじっくり腰据えて、話し合いたいんだ。もし迷惑じゃなかったら、だけど」
確かに亀島はよくできた人間だ、と思う。本気でこんなことを言えるやつなんて、そうめったにはいない。ルックスだけじゃなく、性格もまた限りなくパーフェクトに近い。女子にモテるハズだ。
もっとも、その地位を眼の前の不老翔太郎——人格は破綻して、まったく周囲の空気を読む能力に欠け、そのいっぽうで、他人を不愉快にさせる空気ををばらまく能力に長け、何ら我関せずという、大人になったらほぼ間違いなく「社会不適応者」だが——という「超変人」が奪取しつつあることに気づいているんだろうか。亀島も、不老自身も。
女子にモテなくて、頭の回転も悪くて、背が低くて、太ってて、さらに底意地も悪いぼくは、そんなことを考えていた。
「全然迷惑じゃないよ。ねえ不老君、一緒に来て事件を解決しよう!」
金銀河が勢い込むように言う。
亀島は言った。しかし、やはり不老は浮かない表情だった。
「しかし、萱場先生が……」
「はあ? 不老、真面目に今度の事件のこと、考えてるのか?」
思いもかけない言葉にぼくは裏返った声を出した。が、不老の耳にはわずか二メートルの至近距離からのぼくの声も届いていない様子だった。
「誰も萱場先生を心配していない。それが僕には心配だ」
「萱場先生がどうかしたの? 亀島君の事件に、萱場先生が関わってるっていうの?」
金銀河が不老の顔をのぞきこむ。「近すぎる!」と胸の内でぼくは叫んだ。
「そう。ある意味で、関わっている。萱場先生の言葉を覚えているかい?」
不老はそう言うと、またしても腕組みをし、左手の人差し指を唇にあてた。まるで「しーっ」とぼくらに沈黙を強いるかのように。
そんな姿勢のまま、不老翔太郎は言った。
「萱場先生は言った。『もう二度とこんな事件は起こらない。来週からは安心して給食を食べていい』……そう言ったんだ」
「確かに言ってたね。それで?」
ぼくは、ため息八十五パーセントの声で答えた。
けれど金銀河が、眼を見開いた。夕陽が金銀河の両の瞳に反射して、「カワイイな」と思ったのは内緒にしておこう。
「そうか! 萱場先生も、わたしたちと同じように真相に気づいている、ってことね? 犯人は給食当番の一班にいる、って」
「はあ?」
反射的に間抜けな声を上げ、同時に腹の虫も間の抜けた声で「ぐぉうるるる」と鳴いた。
亀島が不満そうに、そして不快そうに、唇のはしをねじ曲げた。二枚目が台無しだ。もっとも、台無しにしたのはぼくの腹の虫なんだけど。
「萱場先生が真相に気づいてるなら、どうして俺の話をちゃんと聴いてくれなかったんだ? まるで、事件を隠そうとしてるみたいじゃないか」
「そうね。でも、どうして隠さないといけないのかな……?」
金銀河も視線を宙に向けて、考え込んでいるようだった。
ぼくも脳味噌をフル回転させて考えてはみたけれど、何も答えは浮かんでこなかった。
クラスの、いや全六年生のなかの優等生である金銀河と亀島佑作という二人が考えてもわからないのだ。
そんなことを、このぼくが考えたってカロリーを無為に消耗するだけだ。
と思ったためなのか、またしてもぼくの腹は正直にも「ぐぉうるるるる」と、空腹の悲鳴を上げた。
金銀河がぼくをにらんだ。まるで「きっ」とほんとうに音が聞こえそうな鋭い視線。
なんてこった。至近距離に金銀河がいるというのに。ぼくの消化器は、いらだたしいほど健康的だ。
不意に腕組みを解いて、不老は顔を上げた。
「わかった。亀島君の言うとおり、作戦会議を開こうか」
「ああ、いいよ。すぐ近くなんだ」
亀島は言った。
「わ、亀島君のおうちに行くのって、はじめて」
うれしそうに金銀河が言った。瞬間的に、亀島の顔が紅潮するのをぼくは見逃さなかった。
ぼくだって、金銀河を我が家に招きたいと思わないことはないけれど……それは決して無理な相談だ。
「あの、ぼくは……」
言いかけると、不意に不老が振り返った。
「もちろん、一緒に来てくれ」
「『デンキサッカ』だから?」
「そのとおり」
まだ不老につきあわなければならないのか。ぼくは大きな大きなため息をついた。と同時に、またしてもぼくの腹が悲鳴を上げた。
ぐぉうるるる……
勘弁してくれよ——という言葉がチクチクとぼくの心臓の、たぶん左心室あたりを責め立てていた。
学校の正門を出て、ぼくの南のほうへ五分ほど歩けば、そこにはレンガ造りの堂々たる四階建ての西洋館風の建物が二十メートル手前からでも見える。
けれど、そこが歯医者さんなのか、近づいてもよくわからない。亀島という表札の下に、銅板でできた「Kamejima Beauty Dental Clinic」という看板が、控え目に埋め込まれていた。
玄関も、一見すると歯科医院には見えない。むしろ、隠れ家的な高級フレンチ・レストラン——行ったことないけど——のような雰囲気だ。
亀島は先頭に立って、その入り口ではなく、敷地の左手に回った。そこにはもう一つ、金属製のドアがあった。
亀島はその脇のカメラ付きインタフォンのボタンを押した。すぐに女性の声が答えた。
「お帰りなさい」
その口調からすると、亀島のお母さんだろう。インタフォンのカメラでちゃんと見ているようだ。
「あの、友だちを連れてきたんだけど、いいかな?」
亀島は、やや緊張した口調だった。
「いいわよ。どなた?」
そのとき、ガチャッという音が聞こえた。一見するとふつうのドアだが、自動でロック解除ができるような仕組みになっているらしい。我が家と同じだ。もっとも、防弾仕様ではないだろうけど。
「えーと……三人いるんだけど、去年から同じクラスの金さんと、御器所君と、それから転校生の不老君っていうんだけど……ちょっと待って」
最後の言葉は、インタフォンの向こうのお母さんと同時に、ぼくたちにも向けられていた。亀島はドアを引き開け、家のなかに消えた。その横顔はどこか硬かった。
ぼくたちは、十分近くも待たされた。
「どうしたのかな、亀島君は?」
不老が独りごちる。
けれど、ぼくにはわかっていた。
やっとドアが開いたときには、亀島は疲れたような面持ちだった。
「ごめん。ちょっと、うちの都合で、作戦会議はできなくなった」
「さっきお母さんが『いい』っておっしゃってたじゃない?」
金銀河の言葉に、亀島は無言でうつむいた。こんな亀島の表情ははじめてだ。
ぼくは、できるだけ感情を込めずに言った。
「わかってる。ぼくがNGなんだよね。ヤクザの息子に、家の敷居をまたがせるわけにいかない。常識的には、誰だってそう思うよ。ぼくは帰るから、作戦会議の結果は、あとで知らせてよ」
そして背中を向けて、歩き出した。
「待ちたまえ、御器所君!」
命令口調の不老の声が、背中にぶつかってきた。またも「たまえ」か。
「君が帰るというなら、僕も失礼するよ。僕には伝記作家が必要だからね」
亀島が、うなだれた。
「俺の両親って……何というか、古い考え方の人間なんだ。だから……くそっ、これ以上言わせるなよっ!」
亀島は怒鳴り、ドアを拳で殴った。亀島の激した姿なんて、今まで一度たりとも見たことがなかった。
そのとき、静かに口を開いたのが、金銀河だった。
「わかるよ、亀島君。わたしも、同じくNGだったんでしょう?」
亀島は黙ったままだった。その沈黙こそが、雄弁な答えだった。
「へ? どうして金が?」
ぼくが言うと、金銀河は、ぼくのこれまでの十一年少々の人生で決して見せたことのない、優しい笑顔をぼくに向けた。
「御器所君が『わからない』って言うの、半分腹立つけど、半分は、うれしいな」
「へ?」
同じ間抜けな声を漏らし、ごくり、と唾を飲み込んだ。否応なく、顔面の毛細血管に血液が集まってしまう。
「建設的な話をしよう。さて、それでは我々は、次にどこに行くべきか? ここからもっとも近い、一班の生徒は誰かな?」
不老は、まったく表情を変えなかった。
もっとも早く立ち直ったのは、やっぱり金銀河だった。いつだって、強いのは女子だ。
「ここからいちばん近いのは、亜佐美ちゃんの家かな?」
「黒川亜佐美さんだね。それでは、亜佐美さんの家に行こう」
方角もわからないくせに、不老翔太郎は歩き出した。
ぼくも、金銀河も亀島も、慌てて不老の後を追って小走りに追いかけた。
「違う! そっちじゃなくて、右に曲がるのっ!」
鋭い金銀河の声が響いた。
不老は、長い両方の手脚をひょこひょこと動かし、壊れかけたロボットのように、金銀河の指摘した交差点を曲がった。
この街で生まれ育って十一年になるというのに、ぼくは学校の北側の地域に行ったことはほとんどなかった。
学区の北側は穏やかな丘陵地になっている。JRの駅がある南側から遠目で眺めると、ふわっとした緑のなかに、おもちゃの家が並んでいるように見える。ちょうどぼくが生まれた頃——父さんをはじめとして、大人たちが言うには「バブルが弾けた後、ほっと一息ついた頃」なんだそうな——に建てられた家々らしい。
ゆるやかとは言えない坂道を、ぼくは文字通りに「はへはへ……」とあえぎながら上った。他の三人は、軽々とスキップするかのようだった。
もっとも、ぼく以外の三人とも、成績優秀なだけじゃなくて運動神経も抜群——いや、不老はちょっと違うかもしれない——だ。
そもそも、ぼくがこの三人と行動をともにしていること自体が、どこか間違っているのだ。
ということを思いながら、「ちょっとタイム」と切れ切れの声で言おうとしたまさにそのとき、
「着いたよ」
金銀河が振り向いた。その黒い髪がふわっと弧を描く。傾きかけた陽光が髪を背後から照らす。うわ、まるで映画のワン・シーンみたいな映像だ。スローモーションでもう一度見たい。
しかし、二人の男子は、あんな奇跡的にうつくしい瞬間に気づいていないのか? 不老も亀島も無反応だった。この二人の男子、いったいどこに眼を付けているんだ?
審美眼では、ぼくのほうがずっと優れている、と自信を持って言える。今のところ、それが役立ったことがないのが悔しい。
「ピアノの先生が来るから、三十分くらいしかダメなんだって」
「三十分も必要ないよ。では、お邪魔させてもらおうか」
不老は臆することもなく、平然とした口調だった。
無性に腹が立ってきた。が、何も言えずに、黒川亜佐美の家を見上げた。
ほんとうに女の子の「リカちゃん人形のおうち」みたいな三階建ての家だった。レンガを模した外壁。窓枠は淡い黄色で塗られている。屋根は濃いグリーン。
低い塀から、色とりどりの花が植えられた庭が見える。
地味で、黒っぽい服を好んで着る黒川亜佐美のイメージとはずいぶんと違うな、と思った。
黒川亜佐美の部屋は、「リカちゃんの家」の三階にあった。家の外観とは裏腹に、やっぱり地味だった。白と黒のモノトーン。いつもの黒川が着ている服と似ていた。
やっぱり、女子の部屋に入ると、どうしても心臓がドキドキする。
一瞬、本郷梓の姿と、本郷の部屋の様子を思い出してしまった。慌てて頭を振って、雑念を脳味噌の皺の隙間から振り払う。
ぼくは、人の家に行くといつも本棚を見てしまう。自分が本好きだからだろう。逆に、自分の本棚を見られることが、とても恥ずかしい。もっとも、今のところ、ぼくの本棚を目撃した人間は不老翔太郎しかいない。
黒川の部屋に本棚はなかった。あることはあったが、入っているのは教科書と参考書、問題集。それからピアノの楽譜や教本といったもの。そして数十枚のCDだった。CDはほとんど全部、クラシックらしい、ということがわかった。とてもよく整頓されていた。ぼくの本棚とは大違いだ——いろいろな意味で。
ぼくたちは、黒川亜佐美の部屋で、カーペットの上に車座になっていた。なぜかぼくと亀島は正座をしていたけれど、不老翔太郎はというと、片膝を立てて、実にくつろいだ様子だった。
「突然来ちゃって、ごめんね」
金銀河が言うと、黒川は小さい声で、
「いいよ、金さんが言うんだから」
黒川は自宅にいるというのに、緊張した様子だった。金銀河のほうへ、助けを求めるような視線を送り、ぼくたちのほうに意識的に視線を向けないようにしているのがわかった。
確かに、男子三人までが女子の家におしかけてくるのは、少々常識からはずれていると思う。
「で、訊きたいことってどんなこと?」
黒川は金に訊ねた。
もちろん、金銀河が口を開く前に割り込むやつがいた。
「さっそくだけど、今日の給食の時間に起こった出来事を知っているね」
どうして転校生のくせに、こんなに馴れ馴れしく話せる? しかも、女子に。
「あ……帰りの会で先生が話してたこと?」
黒川亜佐美は、伏し目がちに一瞬だけ亀島を見たが、すぐに視線を金銀河に戻した。
亀島は勢い込むように、前傾姿勢になった。
「俺の給食に、今週ずーっと、毎日毎日、梅干しの種が入れられてたんだ。一班って、今週の給食当番だったじゃん? だから……つまりさ、何か知らないかなぁ、って思ってさ……」
黒川の顔色が曇った。金銀河に向かって、すがるような視線を向けている。
が、不老がそのあいだにまたもや割り込むように言った。
「亜佐美さん、君は何か、怪しい行為を目撃していないのかな?」
遠慮も会釈もありはしない。なんとも直接的、そして直截的な質問。しかも、下の名前で馴れ馴れしく呼びかける。さらに、二人称の代名詞が「君」って……ほんとうに、不老翔太郎という人間は理解しがたい。
この不老翔太郎を止められる人間はいないのか? いや、それは愚問だ。
「べつに亜佐美さんを疑っているんじゃないんだよ。僕らはただ、手がかりを得るために、亜佐美さんのお宅にまでお邪魔したんだ。どんな些細なことでもいい。気づいたことはないかな? いや、質問を変えよう。今週の給食当番は、『盛りつけ係』と『配膳係』の分担はどうなっていたんだい?」
「一班は……男子が盛りつけて、女子が配ってたけど」
「月曜からずっと?」
「うん」
やっぱり黒川亜佐美は、金銀河に答えを求めるように、視線を上げた。
金銀河は言った。
「ごめんね、黒川さん。実はね、亀島君の給食に梅干しの種を入れたのは、給食当番だ、って考えてるの。だから、もしかして黒川さんが今週一週間、何か変わった光景を見てないかな、と思って、訊きにきたの」
「変わった光景……あ、そういえば……」
と、黒川は口ごもった。ぼくは、身を乗り出した。亀島も同様だった。
しかし、ぼくよりも亀島佑作のほうがはるかに冷静だった。
「黒川、何か見たのか?
黒川亜佐美は亀島の顔を見上げると、すぐに眼を伏せた。そして金銀河に顔を向けた。
「木曜日……だったかな……?」
「木曜日に何があったの?」
金の詰問するような口調に、黒川はたじろいだ様子だった。
「よくわからないけど……萱場先生が立ったまま、じぃっと、わたしたち一班のみんなを見てた」
「萱場先生が? 何か言ったの?」
思わずぼくが声を発していた。ここでいちばん場違いな人間なのに。
黒川は、金銀河のほうへ顔を向けて答えた。
「その日はじっとわたしたちのほうを見てて……で、わたしに近づいてきたの」
「何て言ったの、先生は?」
金銀河の問いに、黒川は申し訳なさそうにかぶりを振った。
「覚えてる? 校内放送があったの。『萱場先生、職員室へお戻り下さい』っていう」
そうだ、確かにそんなことがあった。
「そのために、萱場先生は、言うべきタイミングを逸したのか……」
不老が眉間に皺を寄せた。
「じゃ、一班の子が、何か不審なことをやったところ、見た?」
金銀河が問いかけると、黒川亜佐美は口ごもった。
「ううん……とくに何も……」
「あっ、そうか。やっぱりさ、言いにくいよな。わかるよ、俺、黒川の気持ち」
不意に亀島が言った。その言葉に、はじめて黒川亜佐美は顔を上げた。
「ごめん、黒川。給食で……例えばさ……俺が食中毒になった、とかいうわけじゃないだろ? もういいよ」
なぜか亀島は、恥ずかしそうに言った。金銀河は二人を交互に見たあと、大きくうなずいた。
「そうね、ごめんね、黒川さん。わたしたち、よけいなことしてるかも……」
「ほんとに、ごめんな、黒川。俺……俺たち、もう帰るよ」
亀島は言って立ち上がった。
「よくはないだろう、亀島君。何も彼女から手がかりは得られていない」
不老翔太郎が、珍しく息を荒げた。
「被害者の俺が『もういい』って言ってるんだ。黒川は無実だ。次に行こう。誰の家がいちばん近い?」
亀島はほとんど不老を無視して、金銀河と黒川を交互に見て、言った。
こんな場面で、ぼくが言う台詞なんて、あるはずがない。
ただし、傍観するしかないぼくでさえ、わかったことがある。
——亀島佑作は、黒川亜佐美のことが好きだ。
もちろん、亀島は金銀河にも好意を持っているんだろう。しかし、ほんとうに好きなのは黒川なのだ。たぶん、金銀河もそれを知っているし、黒川自身もまた、亀島のことを意識している。
しかし、それを理解していないやつが、この場にたった一人だけいた。
「待ちたまえ、亀島君。君はほんとうにこの事件を解決したいのかい?」
何度目か、数えるのさえ億劫になってしまうため息をついた。
「ねえ不老君、亀島君が言うんだから……それに、わたしも黒川さんの無実は保証するし、次に行かない?」
明らかに、金銀河は冷静さを装っていた。
「ごめんなさい。もうすぐ、ピアノの先生が来るから……」
黒川は言った。やっぱり、すがるような視線を金銀河に向けている。
不老はぼくら全員を見回すと、短く「ふうっ」という息を吐いた。
「了解したよ。では、我々もおいとましよう」
不老が言い、亀島もまた立ち上がった。ぼくも慌てて立とうとしたが、ひどく足が痺れていた。正座は苦手だ。みんなよりも太ももに肉がたっぷりと付いているから、なおのことだ。
「さあ、次は誰にあたってみようか」
「いちばん近いのは、荒畑君の家ね」
金銀河が言う。
「荒畑君については、御器所君の見解を重視しよう。彼が犯人である可能性はゼロではないが、物事には優先すべき順位がある。その次は……」
「ミオの家かな……? でも、ミオにおかしなこと言い出さないでね、不老君。わたしの大親友なんだから」
金銀河が口を挟んだが、不老は腕組みをして、またしても右の人差し指を唇にあてた。
前にも見たことのある仕草。こいつの癖なのか? あんまり見た目にいいものじゃない。格好つけやがって、と思う。しかし、それがさして違和感を抱かせないところが、奇妙だ。
「では、ミオさんの家に行こうか。じゃあ、お邪魔したね」
そう言うと、とっとと部屋を出て行こうとする。が、くるりと機械的に振り返った。あいかわらず、人差し指は唇にあてたままだった。
「亜佐美さん、キッチンはどこかな?」
「キッチンじゃなくてトイレだろう?」
ぼくの声は完全に無視された。
「キッチンは……」
黒川亜佐美は、きょとん、とした表情で助けを求めるような視線を金銀河に向けている。
「おい、不老、もういいじゃないかよ」
亀島が声を荒げる。あ、やっぱり——と思ったけれど、ぼくは口をつぐんでいた。
「無論、一階だね」
「うん……」
黒川亜佐美がおずおずと自室を出て、一階のキッチンへ向かった。ぼくは不老のすぐあとについていた。手を伸ばして不老の着ているシャツを引っ張りたい衝動に、必死に耐えた。
ぼくたちがキッチンに着くと、黒川はますます落ち着かない表情になった。
そこはLDKだった。キッチンとダイニングが対面式になっている。
ダイニング・ルームには花柄のテーブルクロスに覆われたテーブルが鎮座し、四つの椅子が整然と並んでいた。たぶん、お人形さんが食事をするなら、きっとこんなキッチンだろう。
黒川は、確か一人っ子だ。両親との三人の家族の食卓がそこにはあった。どの席がお父さんで、どの席がお母さんで、どの席が黒川なのか、なんとなくわかるような気がした。
何人もの「大家族」を抱えているぼくの家とは、ずいぶん雰囲気が違う——当然だけど。
「あの……もういい?」
黒川の言葉が聞こえていたはずなのに、あろうことか、不老はキッチンの流しの下の扉を開けた。
「失礼過ぎるだろ、不老!」
ぼくは不老に駆け寄ろうとしたが——足が痺れているのを忘れていた。間抜けな格好で、尻餅をついた。それでも手を伸ばし、不老の肩を摑んだ。
が、細い不老翔太郎の体には、意外にも強い筋肉がついているようだった。ぼくの存在など感じていないかのように、扉のなかを覗き込んだ。
そこには、鍋やフライパンなどの調理用具が整然と並んでいた。
さらに、不老は隣の扉を開けた。そこに並んでいたのは、調味料類だった。さらに不老は立ち上がると、シンクに顔を近づけた。なにやら「くんくん」と匂いを嗅いでいる。
勘弁してくれ。ぼくはじりじりと後ずさった。もうこんな男と友だちだと思われるのはごめんだ。ちらりと金銀河を見やると、金は不老翔太郎の様子に眼をこらしているようだった。
まったく——ぼくは、何度だって言ってしまう。
——なんてこった!
不老は平然とした表情を、黒川亜佐美に向けた。
「洗剤は『フレッシュオレンジの香り』か……なるほど」
「何が『なるほど』だ! デリカシーがないな、不老は!」
ぼくが言いたいことを言ってくれたのは、亀島だった。不老は、まるで機械仕掛けのように、くるり、と百八十度振り返った。
「いいかい、君の事件を調べているんだ。君からそういう台詞を聞くとは心外だね。が、もう必要な情報はすべて得られた。さて、次に行こうか」
こうもあっけらかんと言われると、誰もが「毒気を抜かれる」っていう状態になるのだ。
ぼくとほとんど同時に、亀島が大きく大きく、ほんとうに大きくため息をついた。
「さて、次は小幡美桜さんのおうちだね。御器所君のおなかが耐えられるうちに、早く行かなければならない」
その瞬間、ぼくは我が身の空腹を思い出した。そしてまた、思い出した瞬間に、例の「ぐぉるるるるる」が鳴った。
ああ、金銀河の前で、ぼくはいったい何度腹を鳴らしたんだろう。昔の人は、リアリティのある言葉を生み出す天才だ——「穴があったら入りたい」——そんな気分だ。今すぐにでも逃げ出して、消え去りたい気持ちだった。
が、ぼくには逃げる度胸もなかったし、身近に穴もなかった。しかたなく不老たちの後について、黒川亜佐美の家を出た。
小幡美桜の住んでいるのは、学区の南西側に位置する県営住宅だった。昭和三十年代後半に建てられたらしい。ぼくの父さんも母さんも生まれる前だ。たぶん「高度成長期」という時代なんだろう。
まったくそっくりな姿形の四階建ての団地が、三棟ずつ、合計六棟並んでいる。鉄筋コンクリートの外壁は暗い灰色をして染みだらけで、ところどころ稲妻のような形のヒビが入っていた。
「美桜、携帯持ってないからアポなしで来ちゃったけど、大丈夫かな? 自宅にかけてみるね」
金銀河が言った。
この地域は、小さな町工場が集中していて、ぼくが生まれる少し前から、外国人も増え始めたという話を、確かカンさんから聞いたことがある。
去年、外国人専門の人材派遣会社ができ、かなりあくどいピンハネをしている、というので、うちの組——もちろん学校のクラスのことじゃない——が相談を受けたことがあった。若水さんとカンさんが動いた結果、その会社は解散して、経営していた人たちは、この街から去ったという。
実際、ぼくたちが県営住宅の敷地に入ると同時に、幼稚園児くらいの肌の浅黒い男の子二人が、ぼくたちの脇を駆け抜けて行った。外国人だったけれど、聞こえてきた単語は、
「バトロン星人」
とか、
「スペリウム・フラッシュ!」
といったものだった。
「いつの時代も子どもは変わらないものだね」
そんなバカげたことを言うのは、一人しかいない。無論、不老だ。
と、亀島が間髪入れず、
「不老だって子どもだろ?」
亀島に拍手喝采を送りたくなった。
「ああ、怖いこと!」
不意に鋭い声が耳に突き刺さり、ぼくは振り返った。
片手に買い物袋を下げたおばさんだった。ぼくの母さんよりも年上の人だ。たぶん五十代だろうか。その表情は険しく、走り去った二人の子どもたちに向けられていた。
「ほんっとに、フィリピン人は礼儀知らずなんだからっ」
吐き捨てるような口調で、聞こえよがしに言った。いや、まさにぼくたちに聞かせるために言ったのだろう。
何か不愉快な石のような塊が下っ腹に膨らんできた。
すると、不老が意外な行動をとった。そのおばさんに近づいたのだ。
「あの子たちが、何か危険なことをしたんでしょうか? それとも単なる人種差別主義ですか?」
一瞬、おばさんが怪訝そうな表情になったが、すぐに先ほどの子どもたちに向けたのと同じ視線を亀島に突き刺した。
「ここは日本でしょ! あなた、中学生? 学校はどこ? 校長先生に言いつけるわよ!」
不老はおばさんの剣幕に臆することはなく、小学校の名前を言い、自分の名前も告げた。
「どうぞ告げ口なさってください。しかし、何を? むしろ、さっきの子どもたちに謝罪すべきです」
おばさんは虚を突かれたように後ずさりながら、
「ああ、怖い怖い。最近の子はどうしてこうなっちゃったんだろう……」
と、わざとらしく言い捨てた。おばさんはぼくたちに背中を向けて県営住宅の敷地から、出て行こうとした。
意外なことに、亀島が出し抜けに声を上げた。
「ちょっと待てよ!」
おばさんは無視を決め込んで、そのままぼくたちから離れて行こうとした。
「俺の親友は日系ブラジル人だ! それが悪いことなのかよ!」
続いて金銀河までが大声を上げたのには、さすがに驚いた。
「わたしは在日朝鮮人四世です!」
「そして僕は、イギリス人とのクォーターです」
最後に不老翔太郎が、平然と言ってのけた。
おばさんの姿は、県営住宅の敷地を出て、角を曲がって消えた。
「マジでえっ?」
不老翔太郎に向けたぼくの声は、これ以上裏返りないようのないほど裏返った。
「無論、ウソに決まっているじゃないか。一度言ってみたかっただけさ」
不老はこともなげに言ってのけた。
腰から下の筋肉が脱力する。不老と一緒にいると、よく体験することだけど。
が、金銀河の黒い眼は、どことなく潤んで見えた。
「まだいるんだ、ああいう人……あーあ、久しぶりに怒鳴っちゃった」
「さて、と。銀河さん、小幡さんの家はどっちなんだい?」
静かに不老は言った。はっと我に返ったような金銀河の表情。
「美桜の家は、もっと奥のほう。B棟の21号室」
すぐにいつもの金銀河に戻り、にっこりと微笑んだ。
いっぽう、亀島の怒りは治まっていない様子だった。
B棟の前まで来たときだった。唐突に先頭を歩いていた金銀河が立ち止まった。
「あれ……萱場先生のバイクじゃない?」
建物の脇の自転車置き場からはみ出るように停められている。間違いない。つい数時間前に、学校の駐車場で見たばかりの250ccのバイクだ。
「さっき電話したら、お母さんが出て、美桜はいないんだって。今、萱場先生は美桜の家にいるのかな?」
亀島が険しい顔つきになった。
「どうして萱場先生が小幡の家に来なきゃいけないんだ? あっ、まさか萱場先生も……」
「そういうことね。だったら、教室で亀島君に言ったことも理解できる」
金銀河が言う。
ん? 「そういうこと」って、どういうこと?
ぼくだけが、完全に取り残されていた。何が何だかさっぱりわからない。やっぱり三人についてくるんじゃなかった、といじけた気分にもなる。
「親愛なる伝記作家には、事実関係を理解してもらわないと困る。いいかい、萱場先生が小幡さんの家に来た目的、それは、我々と同じなのさ」
「え? じゃあ、ちょ、ちょっと待って。えーと、確か、『二度と事件は起こらない』って『帰りの会』で言ってたね。すると……犯人は小幡? っていうことは……はじめから萱場先生は犯人を知ってたのか?」
「小幡さんが犯人、あるいは犯人の一人かどうか、それはわからない。が、萱場先生が、我々と同じ目的で奔走していることは確かだ」
突然、亀島が首を振りながら、言った。
「わかった、もういいよ。帰ろう」
「ちょっと待ちたまえ、亀島君」
不老が例の「たまえ」を放ち、亀島と対峙した。
「不老、被害者の俺がもういい、って言ってるんだよ。梅干しなんてどうだっていいじゃないか。結局、俺が怪我したわけでもないし、中毒になったわけでもないし、もう二度と起こらないんだろ? もう探偵ごっこは終わりだ」
「いいや、終わっていない。亀島君、君は僕の『依頼人』じゃない。謎がすべて解き明かされるまで、僕は『梅干しの種五つ』を追い続けるよ」
亀島は語気をさらに荒げた。
「だから、それはもうやめろ、って言ってるんだ!」
ぼくはただ、アタフタして二人の男を交互に見ることしかできなかった。しかし、金銀河は冷静だった。
「意地張って、言い合いしている場合じゃないでしょ。ほら、萱場先生が出てきた!」
不老と亀島は口をつぐんだ。
萱場先生は、ぼくたちが隠れていることにまったく気づいていない様子だった。いつもよりもやや猫背気味で、どこか哀しげに見えたのは、気のせいだろうか。萱場先生はそそくさとヘルメットをかぶり、バイクにまたがり、エンジンをかけると走り出した。その後ろ姿は、県営住宅の敷地を出て、すぐに小さくなって交差点を曲がって消えた。
およそ一分間、ぼくらは沈黙していた。
破ったのは亀島だった。それも、わずか一言だけ。
「帰る」
きびすを返し、亀島はもはや有無を言わせぬ歩調で歩き出した。
金銀河は、遠ざかる亀島の背中を見、それから不老を振り返った。
「亀島君を説得するよ」
「無駄だろうね。が、銀河さんが行きたいなら、どうぞ」
不老の言葉に感情は一切こもっていなかった。こいつは機械仕掛けの推理マシーンなのか。
金銀河は少しためらう様子を見せた。が、何かを決意したかのように、亀島が去った方向へ走って行った。
結局金銀河は、不老翔太郎ではなく、亀島佑作を選んだ、ということだろうか? そんなことをついつい考えるぼくは俗物だな、と思った。
不老は、両手の指先をあわせて、中途半端な「合掌」のような仕草をし、眼を閉じた。
そのあいだに、不老の脳味噌がフル回転していることがわかった。
不老は眼を開いた。
「さて、小幡美桜さんの家にお伺いしようか」
「はあ? 何考えてんの?」
思わず声が大きくなる。
「『梅干しの種五つ』事件以外に何がある?」
不老翔太郎は、つかつかとB棟に向かって歩き出した。
ぼくたちは、B棟の21号室へ向かった。
「美桜は今、お友だちのおうちに行っているの……」
小幡美桜のお母さんは、申し訳なさそうに言った。
たぶん、ぼくの母さんよりも十歳くらい年上だ——少なくとも、そう見えた。髪には白いものがちらほらと見えて、おそらく化粧はしていない。ややうつむき加減に、不老のほうに体を向けていた。
県営住宅は、想像していた以上に狭かった。
ぼくたちが立っている玄関のすぐ左手にあるドアはトイレだろう。その奥に六畳の和室——畳はかなり古びて黄色くなり、毛羽立っているのが、玄関からも見て取れた。その右手にもう一室あるようだ。その向こうはベランダだろう。おそらく、ここから死角になる左側にはキッチンとバスルームがあるのだろう。ずいぶんと家具は少ない。玄関から見えるのは、こたつ兼ちゃぶ台と、その背後の壁際のプラスチック製衣装ケースだけだった。ずいぶん質素なたたずまいの部屋だった。
黒川の家とは、ずいぶんと雰囲気が違う。
「お友だちというのは……金銀河さんですか?」
素っ頓狂な質問をするので、ぼくは不老の頭がどうかしたのかと思った。いや、この男の頭は、以前から「どうかしている」んだったっけ。
が、小幡のお母さんの答えは意外なものだった。
「そうそう。銀河ちゃんと一緒に、〈レインボー・タウン〉に行くとか……」
それが癖なのか、小幡のお母さんはしきりにまばたきをしながら、やや下を見ていた。
〈レインボー・タウン〉とは、ちょうど一年ほど前にできた、「郊外型大型ショッピング・モール」というやつだ。車が千台くらい停められる巨大な立体駐車場があり、その駐車場よりもさらに巨大な建物に、スーパーがあり、書店もあり、CDショップもあり、映画館もゲームセンターもあり……とにかく、一日中いても飽きない、と言われている場所だ。
学校からは、「子どもたちだけで行かないように」という厳しいお達しが先生から毎週のようにあるけれど、学校から自転車で三十分もかからないので、遊びに行く生徒は多い——らしい。というのも、ぼくは行ったことがない。特に行きたいとも思わない。
いや、正確に言おう。こんなところに一人で行ったって面白くない。そしてぼくには、一緒に行くような友だちがいない。単純明解な論理だ。明智小五郎でなくたって、解明できる。
「不思議ですねえ。つい十分くらい前まで、僕は銀河さんと一緒にいたんですが……?」
不老は、じっと小幡美桜のお母さんを見つめた。
小幡美桜のお母さんは、唇を噛み締めるようにして、コンクリートの三和土に視線を落とし、何度も何度もしきりにまばたきを繰り返した。
不老は静かな口調で言った。
「実は美桜さんにお訊きしたいことがあってお伺いしたんですが……またべつの機会にします。週明けに、学校で会えますから」
「ごめんなさいね、せっかく来てくれたのに」
小幡美桜のお母さんは、顔を上げ、笑顔を見せた。それでもやはり、まばたきをパチパチと繰り返している。
「あ、一つお願いがあるんですが……」
不意に不老は言った。隣に突っ立ったまま、ハラハラし通しのぼくは、今度は何を言い出すのか、と心臓が凍結しそうになった。
「喉が渇いてしまったので、水を一杯いただけますか?」
「お水? はい、ちょっと待っててね……」
小幡美桜のお母さんは相好を崩し、室内のキッチンへと向かおうとした。
予測してすぐに止めるべきだったのだろう。が、一瞬出遅れた。不老翔太郎はためらうことなく靴を脱いで上がり込んだ。
「不老、待てよ……」
無論、ぼくの声を聞く人間ではない。
小幡のお母さんも狼狽しているのがわかった。まばたきの頻度がさらに上がった。
その表情を見た瞬間、ぼくも考えを変えた。靴を脱いだ。不老のあとを追った。
「あの、えっと、お、お邪魔します」
ここに来て、ぼくがはじめて発する台詞だ。
明らかに歓迎されていない視線を受け止めながら、不老翔太郎の背中に隠れるように、部屋に上がった。
予想通り、左手がキッチン——というより「台所」と表記したほうがいい雰囲気だ。いくつかの段ボール箱が置いてある。野菜などが入っているようだ。その横に、冷蔵庫があった。一瞬、それが何の「機械」なのかわからなかった。なぜなら、ぼくの家にある冷蔵庫の三分の一くらいの大きさだったからだ。
一口のガスコンロ。そこには古びてかすんだ色のヤカンが載っている。そして、隣には小さなシンク、というか「流し台」。小さなへこみのある鍋が流し台のなかに置かれていた。
質素——という以外に言葉が見つからなかった。
小幡美桜のお母さんは、ぼくと不老を交互に不審そうに見ながらも——パチパチとまばたきを繰り返し——、二つのコップに水道水を注ぎ、手渡してくれた。
正直言って、ぼくには「水道水」を飲む習慣はない。我が家のキッチンには浄水器が備え付けられている。それに加えて、ミネラルウォーターのタンクを宅配してくれるウォーター・サーバーもある。そのどちらかしか飲まない。水道の水なんて、トイレで流すのと、手を洗うのにしか使ったことがない。
が、そんなことはおくびにも出さないだけの常識は、ぼくだって持ち合わせていた。水道水を一気に飲み干した。気のせいか、げっぷが出そうになった。それを我慢しながら、コップを小幡美桜のお母さんに返した。
不老はというと、たかが一杯の水道水を、味わうかのように時間をかけて飲んでいた。
「どうも、お邪魔しました」
ぼくは言って、不老の腕を引っ張った。不老は慌てた様子もなく、悠々と水道水を飲み干し、「ごちそうさまでした」とコップを小幡のお母さんに手渡した。
玄関まで戻り、靴を履くと、やっと気持ちが落ち着いた。今まで妙に緊張していたことをあらためて気づいた。
唐突に、不老翔太郎が言った。
「毎年、3Lサイズなんですね」
「え……? そうなの。不老君……だったわね、詳しいのねえ」
小幡美桜のお母さんが戸惑いのいろを浮かべながら、やはりしきりにまばたきをしながら答えた。
「うちでもやってますから。うちは毎年、2Lサイズです。この街に引っ越してきたばかりなので、ドヨウの暑さはわかりませんが」
不老が意味不明の言語を発し始めた。
「ちょうどいい感じよ。お母様によろしくね」
小幡美桜のお母さんは、笑顔で言った。
不老はすぐにドアを開けた。ぼくも慌てておざなりのお辞儀をした。
「ところで、萱場先生は味見をされたんですか?」
ああ、脇にいるぼくの頭はおかしくなりそうだ。「言語明瞭、意味不明瞭」とはこのことなのだろうか?
しかし、確かに不老の言葉の直後、小幡美桜のお母さんの顔色が変わった。笑顔が消滅し、一瞬にして表情が硬直した。
「お邪魔しました」
不老は相変わらずの口調で言った。
ドアを閉じたのは、小幡美桜のお母さんのほうだった。
ぼくたちは階段を下り、B棟の外に出た。
「やはり、そういうことか……」
不老翔太郎は、薄暗くなり始めた空を見上げながら独りごちた。
「そういうことって、どういうこと? 土曜って、明日だよね。確か、天気予報じゃあ、曇りときどき晴れみたいだったと思うけど……?」
「御器所君」
不老は、不意にぼくの顔を覗き込んだ。
「へえっ?」
やっぱり、間抜けな声しか出せないぼく。
「君みたいにイノセントな思考ができることを、僕はうらやましく思うよ」
不老は言いながら、足早に歩き始めた。「いのせんと」ってどういう意味だっけ? と思いながら、ぼくは不老の背中に向かって言った。
「あのさ、それって、全然褒め言葉に聞こえないんだけど……」
「無論、褒めてはいない」
実に実に冷静かつ正確な答えが返ってきた。
ぼくは、もう何度目かわからないほどのため息をついて、不老の背中にもう一度声をかけた。
「どこ行くの?」
「帰るだけだよ」
「亀島や金は?」
「『帰宅する』という結論に達していることだと思うよ」
不老はぼくのほうを振り返りもせずに言った。
そのとき、ぼくのポケットのなかで、携帯電話が振動した。取り出すと、金銀河からの着信だった。ちょっと、いや正確には、かなりドキドキする——いろいろな意味で。
「もしもし……」
「いい、驚かないでよ?」
「へ?」
間抜けな声しか出せない。顔が赤くなったけれど、電話では顔色までは相手に見えないのが救いだ。
「わたしたち、萱場先生を見つけたの」
「わたしたち?」
「わたしと亀島君に決まってるでしょ!」
「あ、そうか……」
いつも金の前では間抜けな役回りしかやらせてもらえない。
「萱場先生がどこに行ったかわかる?」
いつの間にか、不老がぼくの携帯電話に耳をぴったりとくっつけて顔を寄せているのに気づいた。
男子に顔を密着されて喜ぶ趣味は、ぼくにはない。不老を押しのけた。
「わからないけど……つまりこの近く?」
「そう! なんでわかったの?」
金銀河の驚いた声。心地よくぼくの鼓膜を振動させる。こんな機会があるだろうか。金銀河の前で、推理を披露できるなんて。
「だって、走ってバイクに追いつくことができたんなら、そんなに遠くはない、ってことだよね」
あろうことか、不老はぼくの携帯電話をごくごく当たり前であるかのように取り上げた。
ぼくは横から不老の顔をくっつけて聞いてやろうと思った——が、ムリだった。不老のほうが、ぼくよりも二十センチ以上も背が高い。背伸びをしたって、届きはしない。
こうなると、ぼくは完全にのけ者だ。
「『孤独なバイク乗り』の萱場先生は、ごく近いこの県営住宅内を移動したんだろうね」
「ええっ!」
ぼくは聞き間違いかと思って、飛び上がった。
「……なるほど、わかったよ。そうしよう」
言うや否や、不老は携帯電話をぼくに放ってよこした。慌ててキャッチする。すでに、電話は切れていた。
どっと疲れが出てきた。忘れかけていた空腹が、倍増してぼくの胃を刺激する。
「さて、今日のところは、これで解散だ。少なくとも、今、この瞬間に我々ができることはない」
不老はすたすたと歩き出した。
「ちょっとストップ。どうして二人がこの県営住宅にいる、っていうか、萱場先生の目的地がこの住宅内だとわかったの?」
不老は歩き続けながら言った。
「逆に訊きたい。どうして君にはわからない?」
「答えになってないよ」
「さて、帰ろう。御器所君が腹ぺこで倒れられてもらったら困る」
冗談じゃない。納得できるはずがなかった。しかし、ぼくがいくら声を上げようと、不老が決めたことを覆せるわけがない。
いっぽうで、不老の言うとおり、空腹に耐え難かったのも事実だ。給食のときに奪い取られたフルーツミックスゼリーの姿が、脳裏にちらつく。
いずれにせよ、ぼくの腹立ちの原因は、不老翔太郎という男以外の何者でもなかった。
ぼくと不老は、哀しいかな、家が同じ方向だった。
県営住宅の敷地を出ようとするとき、またしても、あのおばさんがいた。
ぼくと不老に剣呑な視線を容赦なく向けてきた。
「ああ、怖い怖い、最近の子どもは……親の顔が見てみたいわ……」
聞こえよがしに言いながら、おばさんはぼくらが来た方向へと足早に去って行こうとした。
「そのとおりですよ」
不意に、不老が言った。おばさんに視線を向けることはなかった。
「子どもは、怖い存在なんです。たぶん昔も、今も、ずっと」
おばさんの後ろ姿が歩みを止めた。
不老はやはり、まっすぐ前方を見つめたまま、ほとんど独り言のように言った。
「しかし、その怖い子どもを生み出したのは、誰なのでしょう?」
言うなり、不老は足早に歩き出した。
ぼくは、おばさんがどんな反応を示したのか確認することもできず、慌てて不老翔太郎の背後から、県営住宅の敷地を出た。
ぼくと不老は、ずっと無言のままだった。珍しく、ぼくのほうが先に立って足早に進んだ。
とにかく、腹が立っていた。腹は減っていたけれど、それでも同時に腹が立っていた。無性に腹が立っていた——特に、不老翔太郎という男に。
いつの間にか、ぼくの家の近くまで来ていた。
その瞬間だった。何がきっかけだったのか、わからない。まったく出し抜けに、ぼくの脳細胞がパチパチと火花を飛び散らせた。
「そうか、わかったんだ……!」
日が長くなってはいたが、すでに周囲は薄暮に包まれていた。けれど、ぼくの眼の前は、急激に音を立てて明るさを増していくような気分になった。
「そのとおり、御器所君」
はじめて不老が口を開いた。
「そのとおり、って何が?」
「だから、君の考えているとおりだ、という意味さ」
「ぼくの考えてることなんて、なんでわかる?」
突っかかるように言った。
「亀島君には、事件の真相がわかった。わかってしまった。だからこそ、僕たちを追い出すかのように、突き放した。そのことに、御器所君も今気づいた、ということだろう?」
「そうだよ、亀島は——」
言いかけて、口をつぐんだ。不老は、まさに揉み手をするといった感じで、両の手の平をごしごしとこすりあわせている。
「あのさ……ほんとうに……不老って、つまりその……霊能力とか、テレパシーとか、そういうの、持ってないの?」
ぼくは唾をごくんと飲み込んだ。
「霊能力! テレパシー! 君のユーモアのセンスは実にクラシカルだね!」
べつにユーモアで言ったんじゃないんだけど。
「どうして、ぼくが気づいた、ってことに不老は気づいたの?」
「初歩的なことだよ、御器所君」
わざとらしく、右の人差し指を立てて、ぼくの顔面の前で振って見せた。人を不愉快にさせる才能で、こいつの右に出る者はいないんじゃないか。つくづく思う。
「県営住宅を出てから今までの……およそ二十分のうちに、君のおなかは十九回鳴った」
「余計なお世話です」
「そのあいだ、僕たちは道すがら、一軒のファミリー・レストラン、三軒のコンビニエンス・ストア、二軒のハンバーガー・ショップ、一軒のお好み焼き屋さん、二軒のラーメン屋さんを通り過ぎた」
「だから? それがどうしたの?」
「君のような食いしん坊が——しかも、相当の空腹に耐えかねている大の食いしん坊が、すぐ近くの食べ物に眼もくれなかった、ということさ。それには、理由があるに違いない。つまり、食いしん坊の君ですら、空腹を忘れるほど、考え込んでいたんだ」
何度も何度も「食いしん坊」と言うな、と思ったけれど、確かにそれは事実だった。
「今、この局面で食べ物よりももっと重要なことといえば、一つしかない。それに、そんな君が顔を上げたのは、三回だけだった」
不老にじろじろと観察されていたのかと思うと、なんだかぞっとした。背筋に凍ったムカデでも這っているような気分だ。
「七回目に御器所君のおなかが鳴ったとき、君は顔を上げた。てっきりコンビニでもあるのかと思いきや、眼の前には、歯科医院があった。さらに十三回目におなか鳴り、顔を上げたとき、同様に歯科医院があった」
そこで、不老は不意に腕を組んだ。どうしてこいつは、一挙手一投足にかっこつけたがる? いや、本人にはまったくその意識がないから、いっそう腹立たしいのだが。
不老は続けた。
「僕だって、銀河さんとの電話で、県営住宅から尻尾を巻いて帰らなければならなかったときには、不可解だった。君と同じように、腹も立った。御器所君、さすが、僕の親愛なる伝記作家だ」
だからその「シンアイナルデンキサッカ」っていうのをやめてほしいんだけど。
「君の推理は間違っていないよ。亀島君は——証拠は得ていないが——事件の真相に気づいた。気づいてしまった」
「ちょっと待った。全然、答えになってないよ! ぼくが知りたいのは、どうして亀島が真相に気づいたことに、ぼくが気づいたことに、不老が気づいたこと……えーと、それでいいんだっけ? つまり……とにかくそれが、さっぱりわからないんだよ!」
不老と話していると、自分の脳味噌を、太いスリコギでかき回されるような気分になってしまう。それをごまかすために、ついついぼくの声は大きくなってしまった。
「話は最後まで聴きたまえ」
もう「たまえ」はたくさんだ。ため息はいくらでも出る。と同時に、またもやぼくの腹の虫が「ぐぉるるるる……」と悲鳴を上げた。
「僕は、君が顔を上げたのが三回だ、と言ったね。二回は歯科医院の前。三回目は、ここから五十メートルほど手前、ほら、ここからも見えるよ。あの通りの向かいにあるスポーツ用品店の前だった。そのときに十八回目のおなかが鳴ったことは、付け加えておかなくてもいいだろうが」
ぼくは一瞬、呼吸をするのも忘れて、不老を見た。
そして、確かにぼく自身が見たはずのスポーツ用品店の看板を指さした。
「どうして……」
「デュパンの真似をしただけさ」
「ルパンって……泥棒じゃないか……」
ぼくが言うと、不老は大げさなため息をついた。
「ルパンじゃない。デュパンだよ。そういえば、君の部屋の本棚には、エドガー・アラン・ポーの本はなかったね」
「江戸川乱歩なら『怪人二十面相』と『少年探偵団』は読んだ」
不老翔太郎は、わざとらしく空を仰ぎ見た。日が長くなってきたとはいえ、もうすでに日没を過ぎて、辺りは薄暗くなっていた。
「その話は、またべつの機会にしよう。今日はもう遅くなった。君のおなかも忍耐の限度を過ぎているだろう?」
そう言われるや否や、まさにグッド・タイミング、いや、バッド・タイミングで、ぼくの腹は例の「ぐぉるるるる」という悲鳴を上げた。
ぼくは恥ずかしさを隠すために、わざと声を荒げた。
「不老は納得しているかもしれないけど、ぼくは全っ然、わけがわからない。ぼくがほんとうに『伝記作家』だって言うなら、ちゃんと教えてくれよ」
「いや、御器所君。君はもうわかっているはずじゃないか。ただ、我々に共通している点は、証拠がない、そして、動機もわからない、ということだけだ」
「へえ?」
ぼくはまったく何もわかってないんだけど。
「ぼくはこれで失敬するよ」
「シッケーって……?」
気づくと、ぼくたちは、いつの間にかぼくの家の前に着いていた。
不老は、立ち止まることもせず、そのまま足早に立ち去りながら、ぼくに背中を見せて手を振っていた。
まったく、なんて傲慢で自己中心的な男なんだ。
腹立たしい思いで、小さくなっていく不老の背中をしばらく見ていた。
そのとき、何もしていないのに、インタフォンから声が聞こえた。
「坊ちゃん、お帰りなさい」
ジンさんの声だった。ちゃんと監視カメラでぼくの帰宅は見られていたらしい。
ゆっくりと、防弾仕様チタン合金製の扉が、眼の前で開いた。
ぼくは、さっき不老が指さしたほうを見た。
スポーツ用品店の看板が、薄暮の向こうに、かすかに見えた。
その看板にはこう描かれていた。
——ヒガシスポーツ サッカー・フットサル専門店
この「梅干しの種五つ」事件には、ぼくも不老も最初から関わらなかったほうがよかったのではないか。痛いほどそう思った。
うとうと……としかかった、と思ったときだった。なぜか、眼が醒めた。
時刻は午前八時三分。「うとうと」と思っていたけれど、結局、七時間以上も眠っていたことになる。いずれにせよ、いつもの土曜日ならば、熟睡しているはずの時刻だ。
そのタイミングで、部屋のドアがノックされた。
ドアを開いたのは、アイリーンさんだった。
「おはようございます。坊ちゃん、もう起きてますか?」
「あ、うん。今から下に降りようと思ってたところ。ごめんね。わざわざ」
もう朝ご飯の支度はできているはずだった。
「お友だちが来てますよ」
「へえっ?」
裏返った声が出た。まさか、とは思った。口のなかが急激に乾燥していく。
「ほら、あの変わった子」
やっぱり、不老翔太郎だ。
「ああ……この前は、あいつがヘンなこと言っちゃって、ごめんね」
頭を抱えてベッドに潜り込みたかった。
「今日は気分が悪いから寝てる、って伝えてくれる?」
「御器所君は、おそらく自分だけが蚊帳の外に置かれた気分で、御機嫌斜めだろうから、仮病を使う可能性が高い——」
「はあっ?」
「……って、あの子、不老君が言ってましたよ」
ほんとうに熱が出てきそうだ。わざわざこんな場面で推理力を働かさなくてもいいだろうに。
「ところでお坊ちゃん、『カヤ』って何ですか?」
「あの……たぶん、テントみたいなもの……かな? 実物を見たことないけど。蚊とか虫が入ってこないように、部屋のなかに吊して使ってたみたい」
「アン、ハ! モスキート・ネットのことですね?」
「モスキート・ネット? 英語でそう言うんだ」
「わたしも、使ったことがありますよ」
「へえ、日本で? アメリカにもあるの?」
訊ねたが、アイリーンさんは少しだけ肩をすくめるような仕草をして、話題を変えた
「不老君、待ってますよ、門の前で」
「え? あの、朝ご飯は……?」
アイリーンさんは、両手の平らを天井に向けて、肩をすくめた。さすがアメリカ人だ。
いやいや、そんなことに感心している場合じゃない。急激におなかがすいてきた。
ますます不老翔太郎へのいらだちは募った。
「パストラミ・サンドとオレンジ・ジュースは美味しかったかい?」
唐突に、不老は言った。
「な、なんでわかったの?」
愚問だと思いつつも、訊かずにいられない。
「初歩だよ、御器所君。まず、ぼくがインタフォンのボタンを押してから今まで……ええと、七分十七秒たっている。そのあいだに、食いしん坊の君が朝食抜きで現れるとは考えられない——たとえ、顔を洗ったり、歯磨きするのを忘れたとしても」
「歯磨きはしたよ! 朝ご飯の前に」
「食前に歯磨きをして、食後にしないのは、とても奇妙な慣習だと思わないかい、御器所君?」
知ったことか。
「まあ、それはそれとしよう。さて、君のような食いしん坊が短時間におなかに詰め込むことができるのは、サンドイッチか、おにぎりといったところだろう。君のズボンにパンくずが付着している。そして、食後に歯を磨いてない君の唇の端に辛子マヨネーズと思しきものが付いているし、かすかに君の吐息からは胡椒の匂いがする。オレンジ・ジュースについては、言わずもがなだね。君のシャツの左袖に付いている黄色い染みだ。慌てて食べると消化に悪いが、それにしても、もう少し上品に行儀良く食事をしたほうが、もっと美味しくいただけると思うよ」
まったくもって、不老翔太郎の「推理」に間違いはなかった。それがよけいに腹立たしい。でも、ぼくは何とかして抗弁したかった。
「予告もなくこんな時間に不老が来るから、しかたなかったんじゃないか……」
「さて、行こうか?」
人の気持ちを察しない。不老の持つ実に実に素晴らしい才能の一つだ。
パストラミ・サンド一切れしか口にしていないというのに……時間なかったから、ハム・トマト・サンドも、ツナマヨ・ポテト・サンドも食べられなかったのいうのに。
いつか、この男には「食べ物の恨みは恐ろしい」ということを教えなきゃいけない。どうやったらいいのか、それが問題だ。
「どこ行くの?」
「亀島君の家さ」
「え、じゃあ、亀島に呼び出されたの?」
「彼のお母さんが許可してくれると思うかい?」
「いいや、思わない」
昨日の出来事が思い出されて、不意に胃が重くなった。
でも、負けてばかり、逃げてばかりいるわけにはいかない。
ぼくは、
ぼくは、門柱の脇のインタフォンに顔を向けた。ずっと、ぼくたちの様子は誰かがモニターしているはずだ。
「悪いけど、誰か車を回してくれない?」
「わかりました、お坊ちゃん」
すぐさま、関西なまりのゲンジさんの声が聞こえた。
三十秒もしないうちに、黒塗りのベンツがゆっくりと近づいてくるのが見えた。
「御器所君……君は……」
「ぼくは、亀島のお母さんになんか、負けないよ。ぼくは誰が何と言おうと——ぼくが望んだわけでもないけど——御器所一なんだ」
不老翔太郎は、ほんの一瞬だけ、眼を見開いた。
「君の言いたいことはわかるつもりさ。僕だって、とてもプライドを傷つけられた——間違いなくつまらない感情に違いないだろうけれど——僕もいたくプライドを傷つけられたんだ。いまや、これは事件じゃなくて、僕のパーソナルな問題だ」
珍しく、不老はいら立った感情を見せた。
ダークスーツに身を包み、オールバックの髪がつやつやと光っているゲンジさんが、ベンツの後部座席のドアを開いた。
ちらっと不老を見やると、ゲンジさんは少しだけ相好を崩した。
「お坊ちゃん、どこに行かはります?」
ぼくが答える前に不老が運転席のゲンジさんに向かって身を乗り出した。
「〈亀島ビューティ・デンタル・クリニック〉という歯医者さんをご存じですか?」
「ああ、聞いたことありますわ。この街のセレブ御用達の歯医者ちゃいます? なんでまた、そんなとこ……」
「同級生の家なんだけど……うちの組内と何かあったの?」
十数秒、ゲンジさんは黙っていたが、つぶやくように言った。
「お坊ちゃんに言うてもしゃあない話ですけど、なんか、気ィ悪いんですわ、あそこ。一度、姐さんが行こうとしはって、予約の電話入れたら断られたことあるんですわ。あそこの爺さん、この街で十二期——つまり五十年近くも市会議員務めよって……そんなこともあって、組内とはいろいろ長い歴史があるみたいなんですわ」
「そうだったんですか。その曰く付きのお宅まで、お願いできますか?」
不老はそう言うと、両の手の指先をあわせ、中途半端な合掌をして、うつろな目つきになった。どこか遠くを見ているようだった。
ゲンジさんはわざわざ後部座席を振り返った。
「ええんですか、お坊ちゃん?」
「うん、もちろん構わないよ」
「ほな、行きますけど……何かあったら、わしもおやっさんや姐さんに顔向けできません。真っ先に跳び出して、お坊ちゃんには指一本も触れさせしまへんさかい、安心して下さい」
いや、それがかえってこっちには困るんだけど……とは言えず、ただ、黙ってうなずいた。
ベンツはほとんど音もなく出発した。
「さあ、不老、教えてよ」
「何を?」
「全部、何もかも! ぼくだって馬鹿じゃない。夕べ、いろいろ考えた。どうして、亀島はぼくたちをあんなふうに放り出したんだ? いや、その前に、どうして被害者であるはずの亀島が、真犯人をかばう必要があるんだ?」
「それは亀島君に直接訊けばいい」
なぜ、いちいちもったいぶった態度を取るのだろう、この男は。
「不満のようだね」
「不老も、犯人がわかってるの?」
不老は、おおげさにため息をついた。
「いちばん最初に僕が言ったことを覚えてないようだね。今度の事件は『フーダニット』としても『ハウダニット』としても簡単だが、『ホワイダニット』としては難しい、と。『犯人は誰か?』なんて、それは些末な問題さ」
「些末な問題ってことはないだろう。やっぱり、犯人は……?」
「そう、植田アントニオ君……」
「植田が……どうして?」
ぼくが昨夜一生懸命に考えた末に浮かんだ真犯人の名前だった。
「人の話は最後まで聴きたまえ」
「その、『たまえ』はもういいよ。植田は亀島の親友だよ。どうして事件を起こさなきゃいけない?」
「僕は植田君だけが犯人なんて、一言も言っていない」
「ということは、やっぱり共犯者が……?」
「僕は時間を無駄にしない主義だ。昨日、君と別れた後、僕は荒畑力哉君の家に行き、桜山俊介君の家に行き、それから白鳥あやめさんの家にも足を伸ばした。歩き過ぎていまだにふくらはぎが筋肉痛だよ。そこで、実に興味深い、いや、予想通りの結論を得た」
「どんな? あ……聞かなくてもわかる。萱場先生が、三人の家には来ていない。そういうことだろう?」
「お見事! そのとおり。予想はしていたが、裏付けは取らなければならない」
「っていうことは、共犯者は……」
言いかけて、ぼくは唾をごくり、と飲み込んだ。妙に苦い。それ以上を言う必要はなかった。
そしてぼくは思った。
今、これから不老とともに亀島の家に行くことが、果たしていいのかどうか? 急に自信がなくなった。口のなかが乾いていく。
いったい、「事件」とは何なんだろう?
いったい「謎」って何なんだろう?
解決しなくてもいい「事件」、明らかにしなくてもいい「謎」もあるのではないか?
ぼくは、憂鬱な気分になった。
「ねえゲンジさん、うちに戻って」
運転席に向かって、ぼくは言った。
「ええんですか、お坊ちゃん? いやあ、盗み聞きしてたわけちゃいますけど、それでお坊ちゃん、納得できはります? ホンマ、出過ぎた真似して申し訳ない思います。お怒りでしたら、どうぞおやっさんに言うてくれて構しまへん。けど……オトシマエつけなあかんことって、あるんちゃいますか?」
ぼくの胸に「オトシマエ」という単語は重く重く響いた。
「俺みたいなしょうもないハンパもんでも、おやっさんは拾うてくれはりました。まだお若いのに『スジ通す』いうことを知ってはります。今、お友だちの不老君……でしたね、スジ通しに行きはるんちゃいまっか?」
ぼくには、返す言葉がなかった。
「詳しいこと、全然知りまへんけど、つまり全部終わっとるちゅうことなんでしょう? せやかて、不老君は行かなあかん思うてはる。俺は——ホンマすんません——不老君の考え、ようわかるんすわ。どないしてもスジ通さなあかん、っちゅう気持ちが」
ぼくは黙ったまま膝のあたりを見つめていた。
「ごめんね、ゲンジさん。やっぱり、目的地は変更しないで」
「お坊ちゃんが謝られること、ありまへん」
ぼくらを乗せたベンツはそのまま進路を変えなかった。
ゲンジさんがベンツを走らせているあいだじゅう、ぼくはずっと黙っていた。不老のほうをときどき盗み見すると、長い両脚を折り曲げ「体育座り」のような姿勢になり、半眼になっていた。
ぼくは、ただぼんやりと窓の外の風景を見ていた。ゲンジさんは、見かけによらずに、安全運転だった——あくまでも、「御器所組」の若い衆のなかでは、だけど。
十分もしないうちに、ベンツは「亀島ビューティ・デンタル・クリニック」の前に横付けされた。しかも、駐停車禁止の標識の前に。
ぼくと不老は車を降りた。が、数歩歩きかけたところで、不老が歩みを止めた。
玄関脇に、見覚えのある250ccのバイクが停められている。
一足遅かったかもしれない。その思いを無理矢理飲み下した。
不老は、静かに言った。
「君は黙り込むという、素晴らしい才能を持っているね。だからこそ御器所君、君はかけがえのない僕の友人たり得るんだよ」
不老の口から「友人」なんていう言葉が飛び出してくるとは予期していなかった。正直、ぼくはうろたえた。
「萱場先生は、ここに来たばかりだ。どこまで話が進んでいるかわからないが、亀島君がその場に同席していることはないだろう。御器所君、亀島君に電話してくれるかい?」
言われるがままに、ぼくは携帯電話で亀島にコールした。
留守電につながるか、と思った瞬間に、電話の向こうから亀島のいら立った声が聞こえた。
「窓からずっと見えてたよ、真っ黒なベンツが! あんな車で堂々と、何しに来たんだ?」
不機嫌極まりない、といった声で亀島は言った。
「もちろん、事件を解決しに……」
「だから、梅干しの話はもういいって、昨日言っただろう? もう全部『解決』した。それより、さっき、萱場先生が来たんだ。今もした階下でおふくろと話してる」
「知ってるよ。でも、ぼくも譲れないんだ」
「な、何言ってるんだ?」
不意に、携帯電話を取り上げられた。不老だ。
「いいかい、亀島君。すでに真犯人もわかっている。その手法も、昨日、君に告げたとおりだ。しかし、まだ解決していない謎……つまり動機が、今の我々にはわからない。おそらく、君にもまだわからないと思う。それを解明するまでは、僕は諦めることができない」
ぼくは不老から携帯電話をもぎ取った。
「ねえ、亀島。犯人を『許す』って言うんだろう? たとえ……犯人が友だちでも」
ぼくは、ごくりっ、と音を立てて唾を飲み込んだ。が、電話の向こうは無言だった。
ぼくは続けた。
「それは構わない……と思うよ。けれど、なぜ亀島にとって大事な友だちがそんなことをしたんだろう? それを知るほうが、『犯人捜し』よりも大事なんじゃないかな? だってさ、動機がわからないまま亀島が勝手に許しても……向こうは亀島を許していないかもしれないよ……」
やっぱり、沈黙しか返ってこなかった——そして、空電音。亀島は電話を切ったのだ。
予想した通りだったが、妙に淋しい思いにもとらわれた……が、それもほんの二十秒ほどしか持続しなかった。
と、携帯電話が振動し始めた。
メール着信は、亀島からだった。
——玄関の右手、塀と建物のスキマから裏に回れる
素っ気ない文章。
脇から覗き込んだ不老は、もう歩き出していた。
「さあ、行こうか、御器所君」
足早にぼくたちは亀島の言うとおりの道筋で、〈亀島ビューティ・デンタル・クリニック〉の裏手に回った。
そこにも小さな勝手口のような地味なドアがあった。すでに、ドアは開き、亀島が待っていた。
「こっちの階段から部屋に上がれる。靴は、ドアの脇にでも置いといて」
うながされるまま、ぼくと不老は、抜き足差し足で、亀島家に踏み込んだ。
雑然と掃除用具の置かれた物置スペースのような場所を抜けた。
かすかに女性二人の話し声が聞こえた。内容までは聞き取れなかった。しかし、一人は静かな口調で話しているのに対し、もう一人はやや甲高い声で感情的になっている様子だった。
亀島がため息をついた。そのいっぽうで、不老は実にあっけらかんとした表情だ。
階上につながる階段を上った。まるで、オフィスのような階段だった。が、ぼくたちの目的地は、二階ではなくて三階だった。二階にも、クリニックとしての検査室や処置室のような部屋があるらしい。
三階に上がると、人家らしくなってきた。亀島は廊下を進み、一つの部屋にぼくたちを通した。
亀島の勉強部屋に通されるのかと思っていたが、そうではなかった。ソファが並んでいるが、それは約二十畳ほどの広さの部屋の半分だけだ。しかも、それらはみんな部屋の奥を向いている。
どうやら、ここはホームシアターらしい。天井を見上げると、案の定、ビデオ・プロジェクターがセットされている。各所からぶら下がっている四角く黒い箱はスピーカーなのだろう。
きっと、どこかのボタンを押すと、スクリーンが降りてくるに違いない。「ホーム」シアターというより、ちょっとした「映画館」だった。
「あんまり長くいてもらっても迷惑なんだ。話すだけ話したら、とっとと帰ってくれないか?」
亀島はいら立った声を不老にぶつけた。
不老は、ちらり、と平針を一瞥すると、亀島に向かって身を乗り出した。
「とうに亀島君は気づいているはずだが、犯人は二人」
「それはわかってるよ」
「一人は、植田アントニオ君、もう一人は、小幡美桜さんだ。そうだね」
ぼくは唾を飲み込んだ。苦かった。
「もっと正確に言えば、梅干しの種を調達したのは、小幡さん。盛りつけ時に混入したのは植田君。それを君のもとへ運んだのは、小幡さんだ」
亀島はうつむいた。歯を食いしばっているらしく、顎の筋肉がこわばっているのが見て取れた。
「どうしてわかったの?」
ぼくはいつものように愚問を発した。
「そのために、わざわざ無礼を承知でキッチンへお邪魔したのさ。まず僕が疑問に思ったのは、亀島君の給食に混入されていた梅干しの種自体だ」
そう言って、不老はポケットからティッシュにくるまれた種を取り出した。
「なぜ、これほどまで丁寧に実を削り取られているのか? そして、わざわざ洗剤で洗ってあるのか? 亀島君に嫌がらせをするのであれば、食べた梅干しをそのまま食器に『ぺっ』と口から直接、放り込んでしまえばいい」
亀島が、露骨に嫌悪感をあらわにした。
「梅干しを食べたのであれば、この種に歯形が付いていてもおかしくない。しかし、この種には、細かい傷こそあるが、歯形は付いていない。ちなみに……」
そう言いながら、不老はポケットからもう一つのティッシュの包みを取り出し、広げた。それは、亀島の給食に混入されていた種より、一回り小さな種だった。
「僕も実験してみた。やはり、どうしてもこのように歯形が付く。できるだけそっと食べたつもりだったけど、これだけの傷は付いてしまう。安心したまえ、洗ってあるから。おかげで、七つも梅干しを食べるはめになった。あとで喉が渇いて渇いて、参ったよ」
確かに、不老の言うとおりだった。不老の種には、もっといびつな太い傷が付いていた。
「つまり、梅干しの調達者は、そこまで下品なことができなかった。こんなに優しい脅迫者はいない。性差別的表現かもしれないが、種を見た時点で、僕は調達者が女性だと断定した。あとは、小幡さんのお宅にお邪魔したときに、確信したよ」
「じゃあ、水を飲んだのは……」
「無論、キッチンで自家製の梅干しを漬けていないかどうかを調べるためさ。黒川さんのお宅では、梅干しが見つからなかった。いや、もしかしたら冷蔵庫のなかにあったのかもしれないが、洗剤が違っていた。この種は無臭タイプの洗剤でこすって洗われている。黒川さんが調達者なら、種からは『フレッシュオレンジの香り』がするはずだ」
はっと気づいた。
「じゃあ、不老は小幡さんの家で、梅干しを見つけたの?」
「いや、正確には漬ける前の青梅と焼酎だけどね。自家製梅干しはこれから漬ける時期に入る。そして、夏の『土用干し』を行なう。この種の大きさから考えて、梅のサイズは3L。まさに同じものが段ボール箱に入っていたよ」
「でも……アントニオがどうして……?」
亀島の問いはもっともだった。不老は、わずかに眉をしかめた。
「それは、正直なところ、物証は何もない。ただ、亀島君。植田君をかばうために、彼が小幡さんと同じ県営住宅に住んでいることを黙っていたのは、いただけないな。昨日、僕たちと別れたあと、銀河さんと一緒に歩いた先は、同じ県営住宅内の植田君の家の前だったんだろう? そして、そこで萱場先生のバイクを発見した」
亀島は黙り込んだ。
「それに、夕べのうちに確認したよ。萱場先生は、一班の他の人の家には行っていない」
亀島は無言だった。
「亀島君、君は動機に心当たりはないんだろう? おそらく、ぼくたちにも摑むことはできない。ただ、推測することはできる。亀島君、植田君、小幡さん……この三人には共通する『何か』がある。それこそが事件を引き起こした原因であり、萱場先生が頻繁にこの三人の家に来訪する理由でもある」
不老は立ち上がった。
「これから僕がすることは、おそらく君をいたく傷つけることになると思う」
ぼくは狼狽して声を上げた。
「タイム! まさか不老、直接、萱場先生に……」
「そして、亀島君のお母さんに、ね」
歩き出そうとする不老に、亀島が追いすがった。
「待て、待ってくれ!」
不老は、じっと亀島を見返した。
「俺も行く。俺が、直接、おふくろから話を聴く」
僕たちは、亀島を先頭に階段を下りた。
一階は歯科医院というより、高級ホテルのような雰囲気を漂わせていた。分厚いワインレッドの絨毯が敷き詰められている。壁は大理石だろう。廊下に面した木製のドア——「Conference Room」と彫られた金属板が貼ってある——をノックもなしに、亀島は一気に引き開けた。
白を基調とした、清潔感に満ちた十畳ほどの部屋。窓はないが、暖色系の間接照明が、柔らかく室内を照らしている。
が、部屋の雰囲気とはまったく逆に、怒りと憎悪のどす黒い空気がそこには充満していた。
白く塗装されたテーブルをはさんで、同様に白い革張りのソファに向かい合って腰掛けていたのは、萱場先生と、白衣姿の亀島のお母さんだった。
「
詰問口調だった。ぼくの父さんや母さんよりも年上だろう。やせ形の亀島とは違って、やや太めだ。派手な金色のイヤリングが耳から下がり、唇は明るめのルージュ。髪もブリーチしているのだろう。束ねることなく、そのまま肩の下あたりまで伸ばしている。爪には口紅とほぼ同じ色のマニキュア。とても医者には見えない。
白衣は「歯科医」であることを誇示するための小道具に過ぎないのだな、とわかった。というのも、うちの「若い衆」のみんなも、身に着けるもので——それが似合っていようといまいと——自分がヤクザ者であることを誇示しているから。
「ちょっと御器所君に不老君まで、いったいあなたたち……」
うろたえた萱場先生の声。
「御器所……君?」
心なしか、亀島のお母さんの紅潮していた顔色が、血流量を失ったように見えた。
ぼくは大きく息を吸い込み、亀島のお母さんから眼をそらさないように、はっきりと言った。
「はじめまして。亀島君と同じクラスの御器所一です。こちらは友だちの不老翔太郎です」
「ちょっと……あなたたち、わたしはうちに入れるのを許可した覚えはないわ!」
「俺が許可したんだよ」
亀島が静かに言った。
「ママ、つまらない意地を張るのはやめてよ」
あれ? 亀島の言葉づかいまで変わっている。どうしたんだ?
不老はというと、無表情なまま、亀島母子をじっと見ている。
「佑くん、あなたは黙ってなさい!」
「いいや、黙らない。ママはいつもそうだ。俺はママの道具じゃないし、アクセサリーでもない。ママの身勝手のせいで、俺は友だちを失ったよ」
「いいからお黙りなさい! 友だち? あのブラジルかどこかの子? あんな子とつきあうなんて、ママ、驚いたわ! それだけじゃない。佑くん、いったいどうしちゃったの? 朝鮮人やら、ヤクザの子やら……ああ、ママはそんな子に育てた覚えはないわ! 情けない……」
不意に、亀島は黙り込み、がっくりと肩を落とした。
そして、聞こえるか聞こえないか、という小さな声を亀島は漏らした。
「そんな育てられ方、したくなかった……」
「亀島君」
口を開いたのは、萱場先生だった。
「お母さんに謝りなさい。親に向かって、そんな口を利くものじゃありません」
萱場先生の「ホンモノの先生の顔」を見たのは、久しぶりかもしれない。
「さあ亀島君、謝りなさい」
亀島は一瞬、気圧されたような表情になった。そして、お母さんを見ると、頭を下げた。
「ごめんなさい……でも、俺はママが正しいとは思わないよ。ママだって、間違うことがあるでしょう?」
が、あろうことか、亀島のお母さんは萱場先生をにらみつけ、吐き捨てた。
「ちょっと待って下さい、先生。いったい、うちの子が何をしたって言うんです? 親でもないくせに、何の権利があって、謝らせるんですか? だからわたしは、あなた方にうちの子を任せられないのよ」
萱場先生は、まっすぐに亀島のお母さんに顔を向けた。
「教育基本法第五条の2、義務教育として行われる普通教育は、各個人の有する能力を伸ばしつつ社会において自立的に生きる基礎を培い、また、国家及び社会の形成者として必要とされる基本的な資質を養うことを目的として行われるものとする——そのために、わたしたち教師がいるんです」
唐突に、亀島のお母さんは笑い出した。
「あらそうなの? だったら、ろくでもない出来損ないばかり生み出しているあなたたちは、教師失格ね。この街がどんどん汚れて、この国もますます汚染されていることにも気づかないくせに、ご託を並べるのもいい加減にして欲しいわ。本気で世の中に役立つ子どもたちを育てるというなら、あなたたちの『悪平等主義』に付き合ってあげます。だからこそ、払わないんじゃないの。教育委員会だか文科省かどこかしらないけど、文句があるなら、もっと上の人を連れて来なさい」
はっと不老翔太郎が顔を上げた。
「そうか……だから梅干しだったんだ」
たっぷり六秒ほど、室内に沈黙が落ちた。
「な、何が?」
小声でぼくは不老にささやいた。しかし、不老の答えはささやきどころか、部屋中に響いた。
「だから給食だったんだ! 梅干しの種は、亀島君への嫌がらせや脅迫ではなかった。メッセージだったんだ!」
「な、何言ってるんだ、不老?」
亀島も狼狽した様子で、不老とお母さんを交互に見た。
萱場先生は立ち上がった。
「御器所君、不老君。心配をしてくれたのは、とても嬉しく思います。さ、今日のところは……」
が、萱場先生の声は不老の耳に届いていない様子だった。そわそわと室内を行ったり来たり歩き出した。
「そもそも、なぜ梅干しの種だったのか、僕は事件のスタート地点に戻って考えたことがなかった。実に間の抜けた話だ。亀島君に嫌がらせをするなら、もっと不愉快なもの……例えば小石だって、あるいはゴキブリだって、大量の下剤だってよかったはずだ。なのに、かりに食べてしまってもさして害のない梅干しの種……しかも、手間をかけて、きれいに洗ったものを使った。植田君と美桜さんは、最初から亀島君を傷つけるつもりはなかった。植田君と美桜さんに、亀島君を恨む怒りや悪意は——なかったといえばウソになるだろうが、それよりも、君に知って欲しかったんだ。気づいて欲しかったんだ」
その瞬間だった。
玄関のチャイムが鳴った。来客のようだった。
「ああ、もういったい今日って日は何なの? わたしだけで、どう対処していけばいいっていうのよ? いつもいつも、わたしばかりが矢面に立たされる……どうしてわたしばっかり……」
亀島のお母さんは、チャイムを無視し、ソファにへたり込むように身を沈めた。
「お客様ですよ」
萱場先生は穏やかな口調で言った。が、亀島のお母さんは、すっかり疲れ切っている様子だった。
「勝手になさい。知ったことじゃないわ。払えばいいんでしょう、払えば。いくら?」
投げやりな口調で亀島のお母さんは言った。
「書面で何度もお渡ししているはずです。十一ヶ月分の給食費、四万七千三百円になります」
亀島のお母さんは、ゆっくりと立ち上がると、部屋から出て行った。そして、三十秒とかからないうちに、財布を手に戻ってきた。アルファベットのCの文字を二つ組み合わせたロゴが入っている。
亀島のお母さんは、無造作に財布から一万円札を五枚抜き出し、萱場先生に突きつけた。
「お釣りは要らないわよ。領収書も」
「いえ、お母さん、所定の口座に振り込んでいただかないと……」
萱場先生は狼狽し、その拍子に手から五枚の一万円札がひらひらとテーブルの上に舞い落ちた。
亀島のお母さんは、憔悴した様子でソファに座り込んだ。
と、そのときだった。
「おい亀島、俺たち、おまえに話すことがあるんだ」
何の前触れもなく、開け放たれたドアの向こうから、声が聞こえた。
「アントニオ……?」
そこに立っていたのは、植田アントニオと小幡美桜、そして金銀河だった。
「あなたたち……」
萱場先生が、唖然とした面持ちで、かすれた声を漏らした。
「ちょっと御器所君、何度も携帯に連絡したんだからね!」
金銀河の怒った声。金銀河に会うとき、ぼくはほとんど怒られてばかりのような気がする。
ポケットのなかを探って携帯電話を取り出した——バッテリー切れ。なんてこった。
「それから不老君、出し抜こうったって、そうはいかないんだから」
「出し抜く? そんなつもりはないよ。ただ、銀河さんが現れたのは意外だったね。植田君と美桜さんは、いずれここに来てくれると思っていたけれど」
「えっ?」
「昨日、美桜さんのお宅にお邪魔したとき、美桜さんは銀河さんと出かけた、とお母さんがおっしゃっていた。無論、銀河さんは僕たちと一緒に行動していたから、明らかにウソだ。なぜ、ウソをつかなければならないのか? 今回の『梅干しの種』事件について、植田君の家に相談に行っていたのだろう。あろうことか、そこへ萱場先生が現れた。萱場先生が、今回の事件の真相に気づいていたことを、改めて知った。そこで、すべてを告白すべきだ、との結論に達したんじゃないかな? さて、話を聞こうか。いや、聞くべきは僕ではなく、亀島君と亀島君のお母さんだろうけれど」
植田アントニオは一歩前へ踏み出した。そして、テーブルの上に散らばる五枚の一万円札に気づいた。少し哀しげな表情で五枚の一万円札を見ながら、植田は静かな口調で言った。
「佑作、俺はおまえを許してないぞ。今でも怒ってる。けれど、俺のやり方が間違ってた。あんな卑怯な真似をするんじゃなかった」
が、同様に一歩前に踏み出して来たのは、小幡美桜だ。
「ううん、アントニオは悪くないよ。考えたのは、わたしだから。すごく浅はかだった、って反省してます。ごめんなさい」
小幡美桜は亀島に頭を下げた。
亀島は慌てて、助けを求めるように、不老を見た。が、不老は無表情なまま、何も言わなかった。
「い、いや、なんで謝るんだよ。謝られても困る。もとはといえば、俺が全部悪かったんだ。何も知らなかった俺が。何も気づかなかった俺が。アントニオたちのサインに気づかなかった俺が……」
出し抜けに、亀島は、分厚い絨毯の上に膝を着いた。そして、土下座をした。
「このとおり謝ります。ごめんなさい」
一瞬の沈黙の後、アントニオの怒声が響いた。
「馬鹿野郎! やっぱり、まだわかってないな。そこが、おまえの甘いとこなんだよ。ほんとうに謝る相手が違うだろ」
亀島は、はっとしたように顔を上げた。そして、ゆっくりと立ち上がり、萱場先生のほうを向いた。
「先生、ご迷惑おかけして、すみませんでした」
「すみませんでした」
植田と小幡も、一緒に萱場先生に頭を深々と下げた。
萱場先生は、テーブルの脇を抜けて、ゆっくりと三人に歩み寄った。
そこでくるり、とソファでうなだれている亀島のお母さんの背中に向かって言った。
「来週の金曜までに、振り込みをお願いします。それ以降もお納めいただけない場合は、もう一度、いえ、何度でもお伺いします」
それから、今まで見たことのない優しい顔を亀島、植田、小幡の三人に向けた。
「ごめんね、みんな。あなたたちをこんなことに巻き込みたくはなかったのに。教師失格かな……」
萱場先生の声は震えを帯びていた。
失格だなんて、とんでもない話だ。こんなに亀島や植田や小幡のことを気づかい、身も心もすり減らしてくれる先生なんて、そんなにいないはずだ。
「さて、僕らもおいとましよう」
不老は言った。
「ああっ!」
思わず声を上げてしまった。
「どうしたの?」
金銀河が珍しく、ぼくを心配そうに見る。
「ゲンジさん、待たせたままだった……」
いちばんの武闘派であるゲンジさんだ。まったく何の連絡もせず、路上駐車したベンツで待たせてしまったにも関わらず、今まで殴り込んで来なかったのが奇跡だ。
「急がなきゃ……ヤバイかも」
「もっともだ、御器所君」
と言いながら、ぼくよりも先に駆け出したのは不老だった。
ぼくには、知らないことがたくさんあった。
小幡美桜が、自分の給食費未納について知ったのは、二週間ほど前のことだったという。ちょうど、小幡が自宅にいる夕刻に、萱場先生が小幡の家に来たのだ。小幡自身は、自分の家が給食費を納めていないことをまったく知らなかった。
小幡の家に行ったとき、小幡美桜がどんな生活をしているのか、おおよその見当はついた。しかし、小幡が二年生のときにお父さんが亡くなり、ずっとお母さんと二人暮らしだということは知らなかった。そしてまた、ぼくと不老が直接会ったお母さんが、実は膠原病の一種である「シェーグレン症候群」という病気(その症状の一つは、ドライアイや口の乾燥だという)に罹り、パートを辞めざるを得なかったことも知らなかった。もちろん、生活保護を受けていることだって、知らなかった。
知らないことが、あまりにもたくさんあった。
植田アントニオのお父さんは、大手自動車会社の下請けの下請けのそのまた下請けにあたる小さな工場で働いていた。が、ここ数年の不況の影響なのか「外国人だから」という理由で真っ先に首を切られ、今では〈レインボー・タウン〉で、夜の九時から早朝五時までの倉庫作業をしていることは知らなかった。それに、植田アントニオには、幼稚園に通う弟、ホアキンと、二歳になったばかりの妹、ニーナがいることも知らなかった。
同じ県営住宅に住んでいる住人同士として、小幡のお母さんと植田のお母さんが親しかったということも、知らなかった。
そして、六年四組には「給食費未納」の生徒が三人だけいた、という事実——それもまた、知らなかった。
けれど、小幡は知ってしまった。
三人目の未納者が、亀島佑作であることを。
小幡がふと漏らしたその言葉に、植田は激怒したという。
植田の気持ちもわかるような気がする。親友だと思っていた亀島佑作に裏切られた気分だったろう。
そして、なんという偶然だろうか。六年四組では席替えが行なわれた。小幡と植田は同じ班になった。
くじ引きで行なわれた席替えの結果にもっともショックを受けたのは、萱場先生だったに違いない。あろうことか、植田と小幡が同じ班になり、一週目に給食当番を担当することになったのだ。
給食費を「払えない」小幡と植田。そして、払えるのに「払わない」亀島。
萱場先生の心配は的中した。
亀島の給食への「梅干しの種」混入事件が起こってしまった。すぐに——不老よりも先に——萱場先生は事件の真相に気づいた。
折しも、マスコミでも「給食費未納問題」が声高に報道されている時期だった。たぶん、職員室の萱場先生は針のムシロに無理矢理座らされた気分だっただろう、と思う。
萱場先生は、その週に走り回った。給食費未納の三人の家へ、何度も足を運び、未納分の一部でも払ってもらおうとした。
その結果、萱場先生は冷静ではいられなかったのだろう。異様に早く教室に現れたり、そのいっぽうで漢字テストを忘れたり……。
そんななか、萱場先生は懸命になって、亀島のお母さんと対峙したのだった。
月曜の朝、ぼくは教室に入るのが憂鬱だった。入り口でためらっていると、背後から不意に背中をたたかれた。
不老だった。
「ねえ不老……」
「また事件かい? 勘弁して欲しいな。このところ睡眠不足なんだ」
ぼくはため息をついた。
ふと顔を上げると、亀島佑作が、ふざけて植田アントニオにヘッドロックをかけている姿が見えた。植田は素早くふりほどき、逆に亀島に卍固めをかけようとして、うまくいっていないようだった。
いっぽう、小幡美桜は、白鳥あやめと昨日のテレビ番組について笑いながら話している。
「ちょっと、そこに立ってられると教室に入れないんだけど」
背後から金銀河の声が聞こえた。
金銀河も、表情はどこかしら硬かった。そして、教室内を見回して、つぶやいた。
「解決した……のかな?」
不老は、ゆっくりと顔をぼくに向けた。
「御器所君は、どう思う? ほんとうに解決したんだろうか?」
ぼくは口をつぐんだ。
亀島のお母さんは、給食費を納めたのだろうか?
植田と小幡の家は、給食費を払えるようになったのだろうか?
萱場先生の孤独な闘いはまだ続いているのだろうか?
チャイムが鳴った。と同時に、萱場先生が現れた。眼の下に隈を作っている。
「さあ、席に着きなさーい」
ぼくたちは無言のまま、それぞれの席に向かった。
「五つの梅干しの種」完
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