第2話「踊らない人形」
部屋を出ると、玄関近くでモヒカン刈りのジンさんと出くわした。
「お坊ちゃん、お出かけっすか?」
「うん、ちょっと」
「そっちのお友だちも一緒なんすよね、送りますよ、車で」
「いや……大丈夫だよ」
しかし、
「君は自転車がある。僕は走って追いかけるのかい? 二人乗りしてもいいが、たぶん君の自転車は、二人乗りできるようなママチャリじゃないだろう」
まったくおっしゃるとおり。もう驚く気にもなれない。
「お願いできますか?」
不老は、ジンさんに向かって、深々とお辞儀をした。
ガレージには、黒塗りのベンツとBMWが二台ずつ、ポルシェが一台ある。が、ポルシェは父さんが、ベンツの一台は母さんが使っているようだ。
すでに気が重い。
ジンさんは悪い人ではないけれど……行き先では
「じゃ、お坊ちゃんと、お友だちの方、どうぞこちらへ」
「お世話になります」
すたすたと不老は、ぼくより先に立って、ジンさんと一緒にガレージに向かった。ぼくは肩を落として、その後をついて行った。
ふつうは車で二十分程度かかるだろうが、モヒカン頭のジンさんの運転だ。しかも、サイド・ウィンドウにスモークを貼った黒塗りのベンツ。他の車のほうから道を空けてくれる。
「ボクシング、やっていらっしゃったんですか?」
不老翔太郎がジンさんに言う。
「よくわかったっすね……っつーか、このつぶれた鼻見りゃわかりますわな」
「いや、耳でわかりました。柔道家かとも思ったんですが……」
「柔道家よりやせてるっしょ」
「そうですね。で、ボクシングは強かったんですか?」
「リングの外では。お坊ちゃん、面白いお友だちですね。気に入りましたよ」
いや、ぼくはまったく気に入ってない。
ジンさんはアクセルを踏み込んだ。
信号なんか、あってもなくても関係なかった。赤信号で交差点に突っ込んでも、黒塗りのベンツにクラクションを鳴らすような車は存在しない。
そんなわけで、十分もかからずに、金銀河が待っているマンションの前に到着した。
ああ、なんということだ。マンションの前にほかならぬ金が立っていた。腕組みをして、ぼくたちの乗ったベンツを見ている。その隣には、メガネをかけた、会ったことのない女子が戸惑った面持ちで立っていた。
素早くベンツを降りるジンさんを見ると、さすがに二人ともたじろいだ様子だった。
ああ、最悪の状況。ジンさんはうやうやしく後部座席のドアを開け、深々と頭を下げた。やめて欲しいんだけど。
「じゃ、お坊ちゃん、お帰りになるときには、呼んで下さい。駆けつけますよ」
「あ、ありがと……」
ぼくと不老翔太郎は、ベンツの後部座席から降りた。ジンさんは、二人の女子に気づくと、ニコッと笑って見せた——のだと思う。が、誰が見ても、ガンを飛ばしているようにしか思えない。
ジンさんがベンツで去ると、ようやくぼくはため息をついた。
「さすが、ベンツのSクラスの乗り心地は、大衆車とは違うね」
感心した様子の不老は、金銀河ともう一人の女子に歩み寄った。
「どうして
非難するような金銀河の声が、胸に突き刺さる。
「だって、金がぼくの携帯にかけて……」
ぼくの台詞は、途中で尻すぼみになった。
金の隣にいる女子が、金に小声で言ったのが耳に入ったのだ。
「この人たち、ホントに大丈夫?」
もう一人の女子——学校で見かけたことはないが、色白で黒いフレームのメガネがよく似合う。可愛らしい顔立ちだ。もちろん、金銀河ほどじゃないけど。
「あのね、こっちは今日、転校してきた不老翔太郎君。すごくアタマがいいの。一瞬で暗号を解いちゃったんだから」
ん? ぼくのことは? っていうか、あれは「暗号」というほどのものではなかったし……と思ったが、そんなことは誰一人として気にしていなかった。
「わたし、銀河ちゃんの塾の友だちで、
本郷梓という子は、隣の小学校に通っているという。確かに、ここはぼくらの小学校の学区ではない。
「で、銀河さん、事件というのは?」
不老翔太郎は聞いた。
「梓の家に、『踊る人形』があるの」
「踊る人形! これは面白そうだ。また暗号か!」
不老は一気に声を弾ませ、本郷に近づいた。いや、近づき過ぎだ。
「え? 暗号……?」
本郷梓が慌てた様子で言う。どうも話がかみ合っていないようだ。
「とにかく、詳しい話を聞かせてもらおうか、梓さん」
どうしてそう気安く、初対面の女子の下の名前を呼べる?
とりあえず、ぼくは追い帰されなかったことにホッとしながら、本郷梓の住むマンションのエントランスをくぐった。
十五階建てマンションの最上階に、本郷梓の家があった。
玄関を開けて出迎えたのは、五十歳くらいのおばさんだった。本郷のお母さんにしては歳を取っているし、おばあちゃんにしては、若い。たぶん、家政婦さんなのだろう。
ぼくたちは、本郷梓の部屋に通された。
やっぱり、女子の部屋に入るのはドキドキする。
想像とは違って、意外と落ち着いたベージュ色のカーテン。同じような色合いで統一された壁紙、家具、ベッド……。女の子らしいのは、チェストの上に並んだいくつかのぬいぐるみたちか。
「わたしと梓は、四年生のときに塾で同じクラスになって、それ以来の仲良し。けど、こないだのハルコーの頃から、なんだかおかしいな、と思ってたの」
「ハルコーというのは?」
不老が尋ねた。
「あ、ごめん、『春休み講習』のこと」
ただでさえ短い春休みにわざわざ塾通いなんて、中学受験とはご苦労様だ。
「それでね、今日、家に帰ったんだけど、塾がなくてつまらないし、一緒に勉強しようと思って梓んちに来たの。梓の様子も心配だったからね……何かあったのか聞いてみたら、部屋に『踊る人形』がある、って……」
結局、全部説明したのは、金銀河だった。本郷梓は、心配そうに金と不老を交互に見ている。ぼくなんかチラリとも見てくれない。
「それじゃあ、見せてもらえるかな、『踊る人形』を」
不老はやたらにうれしそうだった。
「そこ……なんだけど……」
本郷梓が小声で言った。
不老は、きょとん、とした顔になった。本郷が指さしたのは、ぬいぐるみが並んだチェストだった。不老は眉間にしわを寄せて、ゆっくりとチェストに歩み寄った。
そこに並んでいるのは、見たことがあるぬいぐるみが五つ。そして、いかにも高そうな西洋風の人形が一つだった。
不老は、それらをじっと見つめると、「ふうっ」と息を吐き出した。
「まさか『踊る人形』っていうのは、ほんとうに『踊る』のかな?」
不老翔太郎は、がっくり肩を落としていた。どうして肩を落とさなければいけないのか、ぼくにはよくわからなかったが。
「ね、早く謎を解いてみせてよ」
金がせかす。不老はもう一度「ふうっ」とため息をつくと、本郷に向き直った。
「とりあえず、どんな状況だったのか、教えてもらおうかな」
本郷は、おずおずとチェストに歩み寄った。
「最初に気づいたのは、ちょうど春休みの始めくらいだったの。朝起きたら、ショーンが——ショーンって、そのヒツジだけど——動いてたの」
ショーンというのは、ちょっと間の抜けた、けれど確かにかわいいヒツジだった。見たことがないけど、アニメか何かのキャラクターだろうか。
「動いたというのは? 眼の前で阿波踊りでもした? 踊るアホウに見るアホウ、同じアホなら……」
「不老! ちゃんと話を聞けよ!」
ぼくは思わず口を挟んでいた。
「動いたところは見てないけど……向きが変わってたの。横を向いてた」
「どっちを?」
「ええと……右の方を」
「つまり、このビスク・ドールのほう、ということだね」
「不老君って、物知りなんだね」
金が感心したように言う。
はいはい、どうせぼくは物を知りませんよ……と、ついついひがみっぽくなってしまう。
ぼくが聞きかじりで知っていることといえば——
県警捜査四課——いわゆる「マル暴」の刑事たちの話とか、前文部科学大臣の民主自由党代議士が、次の衆院選に向けて父さんに近づきたがってることとか、ある中堅ゼネコンと御器所組との関係とか、今、関西で勢力拡大をしている組が中国系組織と手を組んで、この街への進出を企んでいるとか……
小学六年生にはまったく役立たない知識ばかりだ。
「ビスク……何?」
無知なぼくは聞いた。
「このフランス人形だよ。陶器でできている。最近ではプラスチックの安物もたくさんあるだろうけど、これは、おそらく……かなりプレミアのついているアンティークものじゃないのかな?」
「じゃあ、何万円もするの?」
「二ケタ違うだろうね」
不老の返事に、ぼくは思わずチェストから後ずさった。
不老はそんなぼくにはおかまいなく、本郷への質問を続けた。
「ぬいぐるみが踊った……いや、動いたのは、その日だけじゃないんだね?」
「うん。毎晩じゃないけど、一週間に何回か動いてるの」
「ヒツジのショーンが?」
「ううん、ほかのぬいぐるみのときもあったし、後ろ向きになっているときも……」
不老はもう一度ぬいぐるみに近づいた。
「触ってもかまわない?」
「うん」
不老は、一つずつ、ぬいぐるみを手に取った。左から順に、「ドナルド・ダック」、緑色の「シュレック」、「魔女の宅急便」の黒猫、名前は忘れたけど赤いモンスター、「ヒツジのショーン」、そしてビスク・ドールだった。
「いつ、どの人形がどの向きに動いたか……なんて、覚えていないだろうね」
「う、うん……」
本郷梓は悲しそうな表情でうつむいた。
「不老君、この事件、どう思う?」
金銀河が身を乗り出した。
「確かに、面白い……かもしれない」
不老は、しきりにうなずいていた。
ぼくもぬいぐるみに触れてみた。けれど、特にしかけがあるとは思えない。市販されているぬいぐるみたちだ。さすがに高価なフランス人形だけは、触る気になれなかった。
「この部屋の掃除をしているのは?」
「
「さっき玄関で会った人だね。人形……ぬいぐるみの位置は、いつもこの場所なのかい? つまり、並び方は同じなの?」
「うん。東山さんも、勝手に動かしたりしない」
「ぬいぐるみが動くのは、梓さんが眠っている夜なんだね」
「そ、そう……」
本郷梓は、うつむいた。
うわ、その伏し目がちの表情、ぼくの心臓の限りなく中心に近い部分をグサッと貫いたかもしれない。いや、もちろん金銀河には負けるけど……けれど、こんなにつらそうな、苦しそうな美少女の表情を見て、心動かされない男がいるだろうか?
いや、全地球上でたった一人、ここにいた。
「ベッドからドアまで歩くと、ちょうどチェストの近くを通る……」
「そうだけど……」
「梓さんが夜中に尿意をもよおしてトイレに行くとき、寝ぼけて動かしたということは……」
「不老! 何言ってるんだ。真面目に答えろよ!」
思わず声を上げた。
「僕は大いに真面目だよ。東山さんは、夜には家にいないんだね」
「うん、毎日、朝から夕ご飯までのあいだ、通いで来てくれる」
「梓さんに、きょうだいは?」
「いないよ。今日、始業式でしょう。塾もないしさみしいから、銀河を呼んだの」
「なるほど、確かに理にかなっている……ように見える」
不老の言葉を聞いているとイライラしてくるのは、いったいどういうことだ? かといって、ぼくは何を言っていいのかわからなかった。
「夜、この家にいるのは、梓さんとご両親だけということになる。夜のあいだ、お父さんかお母さんが動かしたという可能性は——」
あきれてぼくは言った。
「どうしてそんなことしなきゃいけない?」
「どうして御器所君はそんなに怒っているのかな? 僕には前から格言があるんだ。不可能なものをすべて排除したあと——」
不老が話している途中に、いきなり金銀河が割り込んできた。
「残ったものが、たとえどんなに信じられないようなものであっても真実……そういうことね、不老君」
「そう、まさにそのとおり! いわゆる消去法だ。銀河さんはわかっているね」
金銀河の満面の笑み——学校ではほとんど見たことがない。
どういうことだ? 二人だけで理解し合っている。今日が初対面だっていうのに。
まさか……と思う。
気が強くて、五年生のとき、運動会の運営をめぐって六年生の生徒会長と渡り合った金銀河が——校長先生に一人で直談判しに行ったというウワサの金銀河が、まさか……転校生の不老翔太郎に……
つまり、いわゆるひとつの「ひとめぼれ」?
信じたくない。あり得ない。あってはならない。ぼくは必死に首を振った。
「そんなことより、ちゃんと謎を解く気があるのか、不老!」
ぼくの声はいつの間にか大きくなっていた。
金銀河と本郷梓という美人二人の前で、くだらないことばかりしゃべってる不老翔太郎が、どうして主役になっているのだろうか?
そのときだった。何というタイミングであろうか、
ぼくのおなかが「ぐおるるる……」と鳴った。
そうだ。今日はまだ昼ご飯を食べていない。腕時計を見た。午後一時四十分。家で食べたブルーベリー・タルトは、もちろん別腹だ。
不老は右側の眉だけ器用に上げた。
「むしろ君の関心事はほかにありそうだね」
「だって……生理現象だよ」
これでまた、ぼくの株が下がる——いや、一度も上がったことなんかないけれど。
「そうだった。ぼくと御器所君は昼ご飯がまだなんだ。銀河さんに梓さんも、一緒にどこかでお昼を食べない?」
一瞬、金銀河の表情が明るくなった。
「でも——」
本郷梓が、ひかえめに言った。
「もう、二人で食べちゃった……東山さんが作ってくれたから」
「そうだろうね。昼ご飯よりも、大事なことがある」
そう言って不老翔太郎は、ぼくをじろりと見た。
どこまでも嫌味なやつだ。
なぜ、こんなド変人の転校生と行動をともにしているんだろうか? 根本的な疑問がぼくの脳裏でぐるぐると回転する。
「不老、事件の真相はわかったの? ぬいぐるみが夜中に動くなんて、あり得ないじゃないか」
「そう、まさにあり得ない現象だ。お二人には悪いけれど、この御器所君の胃袋が耐えられそうにないので、昼ご飯を食べてくるよ。実は、僕もおなかがペコペコなんだ。それじゃ、僕たちはこの辺で失礼するよ」
なんて気取ったイヤらしい口調だ。しかしそれ以前に、何が何だか理解不能だ。
「えっ、帰っちゃうの?」
金銀河が踏み出す。本郷梓は、さびしそうな表情でうつむいたままだった。
金の声が聞こえなかったかのように、不老はぼくに言った。
「さっきの……ええと、ジンさんに電話してくれるかい?」
ぼくには、何かにすがろうとしているような本郷梓の表情が耐えられなかった。
「ねえ不老、何も解決してないじゃないか!」
「確かにね。しかし——」
不老はそこで言葉を切って、美人二人を交互に見た。
「もう二度と『動くぬいぐるみ』事件が起こらないことを保証するよ。じゃ、失敬」
は? 今「シッケー」って言った?
ほんとうに不老翔太郎は六年生なのか? 年齢詐称疑惑が濃厚だ。
不老は、すたすたとドアに向かい、一度「ビスク・ドール」を見やった。
「この人形は、梓さんの?」
当たり前じゃないか。最後の最後まで何を言い出すんだ?
けれど、本郷梓は大真面目な表情で答えた。
「去年亡くなったおばあちゃんが、フランスで買ってきてくれた人形なの。『ジュモー』っていうんだって」
すると、不老は甲高い声を上げた。
「ジュモー! まさか、この人形は踊らなかっただろうね」
「う、うん……」
「この人形が踊ったら、たいへんだ。もしもほんとうに踊ったときには、僕……いや、御器所君に連絡してくれれば、駆けつけるよ」
そう言い残し、不老が歩き出した。ぼくはしかたなく、その後をついていった。
玄関で、本郷梓の不安そうな視線と、ぼくの視線が合った。
ああダメだ。こういうとき、ぼくの脳味噌はすっかり機能停止してしまう。
「ええと……大丈夫だよ。もう何も起こらないから。それから……その、つまり、本郷さんの……け、け、けい……」
案の定、不老がこちらを見もしないで言った。
「携帯の番号なら、あとで銀河さんから聞けばいいんじゃないかな、御器所君」
なんてことをなんてタイミングで言うんだろう。ぼくの顔は真っ赤になっていたに違いない。
「待ってよ、不老君!」
怒りを含んだ金銀河の声。けれど、不老はものともしなかった。
男子にあるまじき行為だ。
「じゃ、銀河さん、また明日。御器所君、早くジンさんに電話してくれないかな」
ぼくは、金銀河と本郷梓の二人に、他人行儀なお辞儀をして、そそくさと逃げるようにマンションを出た。つくづく情けなかった。
電話するまでもなかった。マンションの外に、漆黒のベンツが路上駐車していた。
ぼくと不老は、ジンさんがわざわざ開けてくれたドアから後部座席に乗り込んだ。
「ひどいじゃないか、不老。せっかく二人が助けを求めてきたのに、何もせずに帰るなんて」
「だって、おなかがすいているんだろう? 僕もだよ」
言われた途端に、またぼくの腹が「ぐおうるる」と鳴った。
「お坊ちゃん、お昼、召し上がっていないんですか?」
運転席のジンさんが言う。
「うん、食べ損ねちゃった」
「君は一食くらい抜いたほうがいいと思うね」
平然と不老は言った。それを聞いて、珍しくジンさんも笑った。
「ジンさん、実は、アイリーンさんっていう人のことですが……」
唐突に不老は切り出した。
「あの人が、御器所家に来たのはいつのことかご存じですか?」
「えっ? 確か……四年、いや五年くらい前かなぁ。お坊ちゃん、覚えてます?」
五年前といえば、一年生だ。
「よく覚えてないなぁ。それより、どうしてアイリーンさんの話が今、出てくるの?」
「ずっと気になっててね」
「『踊る人形』は? 気になってなかったってこと?」
「人形もぬいぐるみも踊ってなんかいなかった。それより、きっとアイリーンさんは、以前、沖縄にいたと思うんですが、聞いたことないですか?」
するとジンさんが答えた。
「さあ、知らないっすね。キャンプがどうとかって聞いたことはあるっすよ」
「やっぱり……」
そう言ったきり、不老は黙り込んだ。
同い年の金銀河や本郷梓よりも、年上金髪美人のアイリーンさんのほうが、不老の好みなのだろうか。むしろ、ぼくにはそのほうがありがたいけど。
結局その日、不老翔太郎は、ぼくの家の前でベンツを降りると、そのまま家に帰って行った。ぼくにはただ、抱えきれない不満と不安と……それから空腹だけが残った。
翌日、学校に行くのは憂鬱だった。
今日から時間割通りに授業が始まる——ということは、この際どうでもいい。
態度がひどかったのは不老翔太郎のほうけれど、ぼくもやつの友だちかと思われると、つくづく気分が重い。
昨日知り合ったばかりの転校生に、どうしてここまで振り回されなければならない?
挙げ句の果てに、金銀河にとってのぼくの株はこれ以上下がりようがないほど大暴落してしまった。
何度も何度もため息をついて、軽いランドセル——不老に指摘されたとおり、まだ一年しか使っていない——を背負って、家を出た。
ただでさえ小さな体を、よりいっそうすくめて校門をくぐり、教室に入った。けれど、どれだけ身を縮めても、御器所組組長の長男、御器所一が登校したことに気づかない者なんかいない。よそよそしい視線が、あちらこちらから、イヤでも突き刺さってくる。
この小学校に通ってもう六年目だ。いい加減に慣れてもいいと思うけど、今日はいつも以上に気分が重い。
これも全部、不老翔太郎という転校生のせいだ。
教室に入ると、すぐさま金銀河の視線を感じた。マイナス273℃ の絶対零度に限りなく近い視線を受ければ、誰だって凍って動けなくなってしまう。
とくに、普段から金銀河を見ると気持ちが熱くなってしまうぼくには、その温度の落差が激し過ぎた。
椅子に座った瞬間、全身の力が抜けた。
それから数分遅れて、不老翔太郎が、何ごともなかったかのように教室に現れた。昨日以上に、女子たちの熱烈な視線を浴びながら。
それにまったくおかまいなく、不老はまっすぐにぼくの隣の席に着いた。
「元気がないようだね」
「当たり前だよ。不老、昨日はなんてことしてくれたんだ」
「昨日? ただ真実を告げただけじゃないか」
すると、イラ立った声が突き刺さった。
「ちょっと、不老君!」
ああ、なんてこった。新学期の朝から、なんだか泣きそうになってくる。もちろん、声の主は金銀河だった。
「さっき、梓からメールがあった」
不老は表情一つ変えず、金のほうを見もしなかった。
「御器所君の携帯番号とアドレスを教えて、ということかな」
「ふざけないで!」
「僕は全然、ふざけていないけれどね」
不老は、はじめて金銀河を振り返った。
その瞬間の金銀河の表情は、明らかにうろたえていた。
「梓の家で……また人形が踊った、っていうの」
「へっ! ほんとにっ?」
ぼくは椅子から転げ落ちそうになった。
なのに、不老翔太郎は、平然としている。
「ねえ不老君、何考えてるの?」
金銀河は不老を険しい目線で見下ろした。
「じゃあ今から、梓さんに電話しよう」
「え?」
金銀河の視線が空中を泳いだ。
「事件が起こったんだろう? 直接、本人から聞くのが手っ取り早い。銀河さん、今すぐ、梓さんに電話してくれるかな」
「昨日『もう事件は起こらない』って言ったのは不老君でしょ!」
「そう、確かに言ったと思う。御器所君、僕はそう言ったね?」
「う、うん。言った……はず……」
「さすが、僕の親愛なる伝記作家だ」
「は?」
不老翔太郎の話はあちらこちらに飛びすぎて、ついていくのがたいへんだ。「シンアイナルデンキサッカ」って何だ? どうしてぼくがこの転校生の「伝記」なんか書かなきゃいけない?
それを質問する前に、金は両手を腰に当てて、さらに強い視線を不老に向けた。
「待って! 不老君、謎は全然解けてなかった。なのに、自分の失敗をごまかすつもり?」
しばらく、二人はじっとにらみあった——いや、表現を変えれば「見つめ合った」っていうのかもしれないけど、ぼくはあえて「にらみあった」とここに書こう。
「今の銀河さんの言葉、すべて、銀河さんにお返しするよ」
またしても、二人は黙り込んだ——ひりひりとした緊張感。
「あ……!」
ようやく、ぼくにも意味がわかった。
「失敗っていうことは……」
ぼくはおそるおそる言った。
「そのとおりだよ、御器所君。この『踊る人形』事件、正確には『踊らない人形』事件は、犯人の失敗に終わった。いや、事件そのものが存在しなかった。だから……」
そこで言葉を切って、不老翔太郎は金銀河に向き直り、その顔をじっと見た。
「犯人もいなかった、ということだね」
三度目の沈黙——でも、何なんだ、この二人の目線は。にらみあってないじゃないか。
結局、最後までぼくはカッコ悪い役回りしかできなかった、ということだ。
事件の真相について不老に聞きたいことは山ほどあったけれど、始業式の翌日は、意外にせわしないものだった。毎時間、
もっとも、先生が変わらないのだから、クラスの雰囲気だって五年生のときとそれほど変わらない——不老翔太郎という存在以外は。
その日、「帰りの会」が終わるまで、不老とろくに話すことができなかった。とくにこいつに近づきたいとも思わなかった。けれど、事件の真相が知りたいのは山々だった。
なんとなく言葉をかわすこともなく、不老と同じタイミングで昇降口に向かうと、すでに金銀河がいた。まるでぼくを……いや、不老を待っていたかのように。
「ラブレターはあったかな?」
不老が聞くと、金は不機嫌そうに、
「なかった」
と答えた。
「じゃ、期待していたんだね」
「してるわけないでしょ。気色悪い」
「少なくとも、脅迫状ではなかった」
なんとなく三人そろって学校を出た。校門を出ても、三人の家は同じ方向だ。
ぼくは昨日の「踊る人形」——いや「踊らない人形」事件について聞きたかったが、不老と金の様子を見ると、とてもぼくから言い出せるような雰囲気ではなかった。
不老は相変わらずだったが、金はかなり気持ちが落ち込んでいる様子だった。その原因は、もちろん桜山俊介からの「ラブレター」がなかったためではない。
このままだと、いちばん近いぼくの家に着いてしまう。その前に真相を聞かなくては、と思ったら、金銀河が切り出した。
「いつわかったの?」
「何が?」
考えごとをしていたらしい不老は、急に現実世界に引き戻されたような顔つきだった。
「どうして『踊る人形』なんてウソだった、ってわかったの?」
ぼくは、妙に緊張して二人の様子を交互に見た。けれど、金銀河は拍子抜けするほど気楽な口調だった。
「なんだ、そのことか。ぬいぐるみだよ。あの部屋にあったぬいぐるみは、あまりにも違和感がありすぎたからね」
本郷梓の部屋を思い出した。大人びたベージュ色系で統一された部屋に子どもっぽいぬいぐるみは、少し不思議な感じがしたのは確かだ。
「でも、女の子だからぬいぐるみがあっても……」
ぼくが言いかけると、不老はわざとらしくため息をついた。
「だから、君は女性の心がわからないんだよ」
余計なお世話だ——事実だけど。
「どんなぬいぐるみがあったか覚えているかい?」
「確か……くまのプーさんと、ヒツジのショーンと……フランス人形と……」
「左から順に、ディズニーの『ドナルド』、ドリームワークスの『シュレック』、スタジオ・ジブリの『ジジ』、セサミ・ストリートの『エルモ』、イギリスのアードマン・スタジオの『ヒツジのショーン』、最後に、ジュモーのビスク・ドール」
「はいはい、不老の記憶力がいい、っていうことはわかりました。で、それが何なの?」
「まだわからないのかい? やっぱり、君は女性の心理を理解していないね」
だから、不老に言われたくないってば。
「ディズニーにドリームワークスにセサミ・ストリートにジブリにアードマンにジュモー。あまりにも統一が取れていないじゃないか。いや、統一どころじゃない。全部違う——もっとも、ドリームワークスとセサミのぬいぐるみは同じユニバーサル・スタジオで買えるけど——まるで、わざとバラバラに選んだかのようだ。たとえ、自分の好きなキャラクターだとしても、ここまで姿形までバラバラだろうか? 偶然とは思えない。そこに、誰かの意図を感じたんだ。だからわかった。これは、実際に梓さんの家にあるぬいぐるみじゃない、ということがね」
「じゃ、ぬいぐるみを並べたのは……」
「そう、ここにいる銀河さんだ。あえて統一感のないキャラクターを選んだのは……おそらく銀河さんからの『挑戦状』だったんじゃないかな」
「挑戦状って……つまり、不老への、ってこと?」
ぼくはあっけに取られて次の言葉が出てこなかった。
じゃあ、ほんとうに、リアルに、マジで、ぼくという人間は金銀河の眼中に1平方センチも入っていなかった、ということなのか。
ぼくは、おそるおそる金銀河の顔をうかがった。
けれど金銀河はむしろ、ケロリとして明るくうれしそうな表情だった。
脱力する。一歩足を踏み出すのさえ、疲れてしまう。
やっぱりそうか。金銀河は、不老に謎を解かれることを楽しみにしていたのだ。
「お見事。さすが不老君。でも、大きな落とし穴があるんじゃない? 『踊る人形』事件が狂言だったとしても、それは梓がやったことなのかもしれない」
「いや、それは違うね。まず最初に、僕……いや、御器所君に電話をかけてきたのは銀河さんだ」
「だって、不老君の電話番号を知らないんだもん」
「それから、事件の説明をしたのはほとんど銀河さんだった。梓さんはむしろ、そのあいだずっとうつむいたままで、申し訳なさそうにしていた」
「状況証拠に過ぎない」
「時間だよ。教えてくれたのは、御器所君だ」
「へ? ぼくが何かしたっけ?」
ぼくはうろたえた。
「してくれたじゃないか。絶妙のタイミングで、その立派なメタボリック予備軍のおなかを鳴らしてくれた」
金銀河の前でそんなことをわざわざ言わなくてもいいだろうに。
「始業式が終わって、靴箱の『暗号』を解いて学校を出たのが、おそらく十時十分頃。僕が御器所君の家に着いたのが十時半過ぎだ。そして、銀河さんからの電話があったのは……たぶん一時頃じゃなかったかな?」
ぼくは携帯電話を取り出し、着信履歴を調べた。確かに、金銀河からの着信は「十三時四分」だった。
「じゃあ、銀河さんの行動を考えよう。一度帰宅してからすぐ梓さんの家に行った、と言っていたね。学区が違うから、自転車でも二、三十分はかかるんじゃないかな。それでも十一時半、いや長めに見積もっても十二時頃には着いていたんだろう。梓さんから事件の話を聞いてすぐに電話したなら……十三時四分というのは、遅すぎないかな。しかも、銀河さんも梓さんも、ちゃんとお昼ご飯を食べ終えている。怖い事件に出くわしたわりには、ずいぶんと食欲旺盛だ。銀河さんは、僕を出し抜こうとして『踊る人形』事件を思いついた。そして、梓さんのマンションに行き、ぬいぐるみを並べ、おいしいお昼ご飯を食べながら口裏合わせをし、僕らを待ち受けていた」
金銀河は、やっぱり笑みを浮かべていた。あろうことか、うなずいている。
「それでも、状況証拠」
「銀河さんは、女の子だよね」
「何いってるんだ、不老!」
ぼくの発言は、やっぱり完全に不老に無視された。
「女の子が『人形』と『ぬいぐるみ』を言い間違えるだろうか? 銀河さんは、はっきりと『踊る人形』と言った。だからこそ、僕が梓さんのマンションまで行ったんだ」
「だから、何なんだ?」
「被害者の——いや、事件なんか存在しなかったんだから被害者とはいえないけど——梓さんは、一度も『踊る』という言葉は使わなかったし、『人形』とも言わなかった。あそこにあった『人形』はビスク・ドールだけだよ。かりに、銀河さんの言うとおり、梓さんの家に行き、そこで『ヒツジのショーンが動いた』という話を聞いたなら、『動くぬいぐるみ』と言ったはずだ。絶対に『踊る人形』なんて言葉を使うはずがない」
確かに、不老の言うとおりだった。人形とぬいぐるみは違う。実際に、あの部屋にあった「ジュモー」のフランス人形は動いたことがなかった、と本郷梓は言っていた。
「銀河さんは、靴箱の『暗号』を解いた僕を見て、思い立ったんだ。そこで、僕に謎を出すことにした。しかも、『踊る人形』というヒント付きで。もっとも、これもまた状況証拠に過ぎないけどね」
いつの間にか、ぼくたち三人はぼくの家のすぐ近くまで来ていた。
「でもちょっと待った。なんで『踊る人形』がヒントなんだ?」
不老翔太郎は、何度目かのため息をついた。
「言ったはずだよ。本棚の四分の三を読んだのなら、残りの四分の一も読むべきだ、と」
「は? ぼくの本棚のこと?」
「ほかにどんな本棚がある?」
続きはぼくの家で話さない?——なんて、言えなかった。
不老はともかく、金銀河をヤクザの事務所に入れるわけにはいかない。入れたくないし、我が家のほんとうの姿を知られたくない。
「不老君、今回は、わたしの負けを認める」
ぼくは思わず口を挟んだ。
「今回って……まさか次があるってこと?」
「だって、負けたままでいられないでしょ」
金銀河は、じっと不老をにらみつけた——今度は、対抗意識全開でにらんでいる。
なんてこった。金の負けず嫌いにもほどがある。
「それから、不老君の『伝記作家』たる御器所君?」
「はい?」
まさか同じことを金銀河から言われるとは。
「梓からメールが来たのはホントのこと。御器所君に教えて欲しいって」
「へ……?」
「さ、携帯出しなさい、早く!」
慌てて携帯を取り出した。金銀河は本郷梓の電話番号とメールアドレスをぼくに送ってくれた。
「あ、ありがとう……」
「御器所君にも梓にも借りができちゃったからね。これでチャラにして」
喜んでいいのか、哀しんでいいのかわからないけど……やっぱりうれしいことは、うれしい。
「挑戦、待ってるよ」
不老翔太郎は、金銀河をじっと見返した。
どうして、ぼくばかり取り残されたような気分になるんだろう。何度目かのため息をついた。
けれど、金銀河の挑戦の前に、クラスで大きな事件が起きてしまった。
「踊らない人形」完
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