第7話

 都内では初めて雪が降るなど、今季で一番の寒さが訪れたこの日――

 半球型をした巨大なドーム式球場の隣りにある、《聖地》と呼ばれプロレス・格闘技ファンたちから親しまれている多目的ホールには、試合開始三十分前だというのに既に五百を超える人間が詰めかけ、あるものは自分が購入した座席で今夜の試合の予想を立て、またあるものは会場外の販売ブースでパンフレットなどのグッズや、休憩中や試合後に行われるツーショット撮影会の参加券を求め多くの列を作っていた。

 バルコニー席の縁には各々のファンたちが用意した、色彩豊かで個性的な横断幕が多数張られ否が応にも決戦ムードは盛り上がっていく。当然観客たちのお目当てはメインイベントである、東都女子プロレス認定プリンセス・オブ・メトロポリタン王座決定戦、日野祐希対愛果の一戦だ。

 《絶対王者》小野坂ユカが返上した【最強の証】を賭けて東都女子・太平洋女子、ふたつの団体から選ばれた次世代エース候補の両雄が、今宵「どちらが相手よりも優れているか?」を競うのだ。《女子プロレス》という底無し沼に浸かってしまったファンならば、絶対に避けては通れない一戦であろう。

 一刻、また一刻と近付く決戦の舞台を前に、観客たちは期待に胸を膨らませ、早くも爆発して散ってしまいそうな位だった。



 ふっ……ふっ……ふっ……


 規律正しい呼吸音が、ひとりだけの控室ドレッシングルームに響き渡る。バイプ椅子の上に脚を乗せ、両腕に負荷を掛けて腕立て伏せプッシュアップを延々と繰り返す、愛果の姿がそこにあった。

 試合開始二時間前に会場入りした愛果は、ずっと気持ちが昂ったままで落ち着かず、ホールの中をあてなく散歩したり控室で寝転がったりしてみたが、落ち着く気配はまるでなく結局、一番自然体でいられるトレーニングに辿り着いたのだった。

「――オーバーワークは身体に毒、よ。程々にしときなさい」

 椅子の上に手を置いたまま、身体を持ち上げ倒立をした途端、出入口の扉の向こうから聞き覚えのある声が聞こえてきた。

 太平洋女子のエースである水澤茜だ。私服姿から察するに、今日は団体側からの派遣ではなく、完全にプライベートでの来場のようだ。

 水澤の突然の訪問に驚いた愛果は、倒立のバランスを崩し椅子から落ちてしまうが、頭を床に激突させる事はなく、きれいに前転して自ら危険を回避した。たいしたバランス感覚だ。

「水澤先輩っ、何故ここにいるんです?!」

「陣中見舞いってところかな。あんた、試合前に疲れちゃったら元も子もないでしょうが」

 後輩の行動に思わず苦笑いをする水澤。かつては自分も同じような経験をしてきた故に、愛果の気持ちは痛い程よく判る。

「――落ち着かないんです、何かをしていないと」

 普段よりも大きな精神的重圧に呑み込まれ、不安で仕方がないといった様子の愛果に、水澤はやさしく肩を叩き椅子に座るように促した。

「判るわその気持ち。でもさ、東都女子ここで王座絡みの試合するのって二度目でしょ、それでもやっぱり緊張しちゃう?」

 部屋の天井を見上げて、を一生懸命探し出す愛果。僅かな沈黙の後、結論の出た彼女は再び口を開く。

「最初の――タイトルマッチの時は王座戦自体初めてだったし、大会場でしかも《プロレスの達人》のユカさんが相手だったから、夢を見てるようでが湧かなかったんです」

 愛果のを、水澤は一切口を挟まずに黙って――口に微笑みを浮かべて聞いている。

「でも今日は違う――うまく説明できないけど違うんです。これが緊張せずにいられますかって!」

 熱弁を振るう愛果の顔は、言葉とは裏腹にどことなく嬉しそうだ。水澤は少々困ったような表情で彼女にその点を指摘すると、可愛い後輩は顔を真っ赤にして照れる。

「――いいライバルを持ったんだねぇ、愛果は。それじゃあ今日の試合、客席でじっくり楽しませてもらうわ」

「わ、わたしのベルト姿。絶対期待していて下さいね?」

 そう言うと腕に力こぶを作り、自信ありげな態度をみせる愛果。もう彼女の顔から不安は綺麗さっぱり消えていた。

 入門当時、何もできなかったあの娘がねぇ――

 自分の知らない所で勝手に成長し、すっかり頼もしくなった後輩の言葉に、つい声を出して笑ってしまう水澤であった。


 わぁ――


 女の子は初めて見る、プロレスのに目を丸くして興奮する。

 基本関係者以外立ち入り厳禁である、選手控室へ特別に入室を許された祐希ファンの少女は、試合前で身支度に忙しく動き回る選手たちに戸惑いながら、祐希の状況説明を熱心に聞いていた。

「よっしゃあ!今日も勝って来るぞぉ」

 自分の出番がやって来た、祐希の同期である蒼井カンナが大声で叫び気合を入れると、扉をぶち壊さんばかりの勢いで飛び出していく。その後残っていた数名の選手たちも次々と部屋を後にし、いま控室に残っているのは祐希と少女のふたりだけとなった。

 少女は大好きな祐希と顔を見合わせる。緊張しているのが分かったのか、祐希は彼女に微笑みかけてリラックスさせようとする。

「どう、初めて見る控室の様子は。バタバタしていて色気もへったくれもないでしょ?」

 少女は何と言っていいのか分からず、ただ強張った笑顔で頷くだけだった。

「何で――」

「ん?」

「何でわたしを控室ここへ入れて下さったんですか? タイトルが懸かった大事な試合の前なんでしょ?」

 素朴かつ的確な、女の子からの質問を受けた祐希は片膝を付いて、彼女と同じ目線まで降りていくと独り言のように、ぽつりぽつりと語りだした。

「私の選手人生の中で、一番大きな勝負だからこそ、あなたに付いていて貰いたかったの」

「でも、わたしはそんな――」

「いいの。尊敬する先輩でも、仲のいい友達でもなく――最初に私のファンになってくれたがいいの」

 口元には微笑みを、それでいて見つめる眼は真剣な祐希。少女は一瞬戸惑うが、自分の小さな手を握る彼女の手が、小刻みに震えているのに気付いた。


 ――日野選手もやっぱり怖いんだ。


 プロレスラー特有の虚勢を張る事なく、等身大の《日野祐希》を見せる彼女に、少女の胸の中で幼いながらも《母性愛》が芽生え出す。自分の掌を祐希の手の上に乗せて、念を送り込むように目を閉じた。

「ありがとう」

 少女の掌の甲に祐希は額を付け、彼女の放出するパワーを体内へ取り込んでいく。

 健気な少女の行動に、祐希の硬く縮んでいた心が次第に柔らかくなり、奥底に隠れていた自信が徐々に身体の中を満たす。今ならばどんな困難にも立ち向かえる――本気でそう思った。

「ひ、日野選手――」

でいいよ。皆そう呼んでるから」

「ゆーさんは絶対勝ちます。だって、わたしが応援してるんだから」

「――そうだね。チャンピオンベルトを巻く姿、楽しみにしていてよ」

 ふたりは顔を見合わせ、にこりと笑った。

 控室の扉の向こう側から、廊下を忙しく駆け回る選手たちの靴音が響く――そろそろ自分の出番が近付いてきたようだ。 



 シックなスーツに身を包んだ女性リングアナウンサーが、厳かに――それでいて力強くメインエベントの開始を告げる。セミファイナルまで続いた熱戦の数々で、観客たちの集中力が途切れるかと思われたが、東都女子プロレスの未来を占う大事なこの一戦に、ファンたちの気持ちは醒めるどころか、桃色のキャンバスが張られたリングを見つめる視線は更に熱く燃え上がった。

 最初に観客の前へ、姿を見せたのは愛果だ。

 可愛くデザイン化された、自身の名前のプリントされたTシャツを着て、通路の両サイドにいる熱烈なファンたちにハイタッチする愛果の顔は、さっきまであった不安は嘘みたいに晴れて、今は迫る大一番が楽しみでしかたがない、といった様子だ。

 リングインしても、その笑みが顔から消える事はなく、リング下にいる太平洋女子の若手選手と二言三言会話をしたり、時折自分に飛んでくる声援に手を振って応えたりと、一秒たりとも止まる事がない。

 目一杯上がっていた口角が瞬時に下がる――対戦相手の入場曲が愛果の耳に入ったからだ。

 一方の祐希は腕を上げて、観客の呼び掛けには応えるものの、終始険しい表情を崩さずリング上の愛果から視線を逸らす事はなかった。大一番だからといって派手な入場コスチュームを着用せず、普段通り黒い大きなタオルを首に掛けただけの質素なものだが、内に秘めた並々ならぬ覚悟は十分に感じられた。

 スチール製の階段ステップを上がりリングインすると、観客の期待度は最高潮に達し様々な歓声がリングの中へ飛び込んで来る。いろいろな思惑を持った、千人超の視線が一気に祐希へと注がれ、緊張と興奮で彼女の背筋がぶるっと震えた。


 この試合の勝者が手にする、東都女子プロレス認定プリンセス・オブ・メトロポリタン王座――通称プリンセス王座のチャンピオンベルトが、レフェリーによって両手で高々と掲げられ、一分の隙もない満場の観客に披露される。桃色のベルト部分によく映える黄金色の台座プレートが、己の存在を主張するかのようにきらりと耀きを放つと、観客の誰もが羨望の溜息をついた。

 東都女子の最高峰であるこのベルトの、眩いばかりの輝きに、愛果も祐希も息を飲む。

 握手シェイクハンドを――と、レフェリーがコーナーで待機するふたりに促すと、どちらからともなくリング中央へ向かい微妙な距離間で歩みを止めた。

 しばらくの間両者は手を腰に当てたまま、じっと相手を見つめたまま動かない。

「――楽しいよね。ホール一杯のお客さんの前で王座決定戦、最高のシチュエーションだと思わない?」

 先に手を差し出したのは愛果だった。自信たっぷりな表情の彼女を見て、この決戦の舞台に立つに相応しいである、と観客の誰もが認めた。

 相対する祐希はどうなのか?

 彼女もまた余計な力みの無い、満面の笑みをみせて愛果に手を差し出したのだった。この時点でふたりとも、団体のメンツや世代闘争など要らぬ重圧を背負う事なく、純粋に闘いを欲していた。

「最高だね。愛果は自分のステップアップの為、わたしは団体最強の証の為に――プリンセス王座は絶対に獲る!」

「ここまで来て、まだ文句を言ってくる奴がいたら?――」

 愛果が少し意地悪な質問をぶつけてみた。答えは分かってる――祐希の返答は実にシンプルだった。

「ぶっ飛ばす」

 互い同士額を付け、がっちりと固く握手を交わす。周りに笑顔が見えないように。

 頃合いを見てレフェリーがふたりを分けると、彼女らは奇襲をかける事も無く、黙ってくるりと背を向けコーナー付近まで下がっていく。


 カァァン――!


 試合の開始を告げる、ゴングの甲高い金属音が会場内に響き渡る。

 己に気合を入れるように、両者が同時にリングの床を強く踏み鳴らすと、一直線に相手に向かって駆け寄っていった。様子を見ながら周回しての接触コンタクト、という回りくどい方法をとらない所に、隠しきれないキャリアの浅さと共に、抑える事のできない相手に対する熱い想いが見てとれた。

 すかさずふたりは、がっちりとロックアップを――上腕二頭筋が隆起する。両者の身体は全く微動だにしないまま、リング中央で二分近くも時が流れていった。もちろん両者とも動けないわけではない、相手よりも先に退くのが嫌なのだ。

 だが均衡が破られる時が来た。パワーのある祐希が少しづつ愛果を前へ前へと押していく。一旦動いてしまった身体はどんなに下半身へ力を込めようと、もう止める事はできない。リングシューズが荒いキャンバスの上を滑り、ずるりずるりとロープ際まで運ばれてしまう。

 愛果の背中がリングを囲う黒いロープに触れると、レフェリーはすかさず祐希へ手を離すよう指示を出す。彼女は反則ファウルカウントが数えられても、なかなか愛果の身体から離れようとせず、5カウントが宣告される直前、レフェリーを嘲笑うかのようにさっと両手を離した――別れ際に愛果の胸を突いて。

 その直後、大きな破裂音が会場に響き渡った。

 激しい怒りの籠った強い音はそれまで、熱い声援を送り続けていた観客たちを一瞬で黙らせる。祐希の行為に腹を立てた愛果が、報復とばかりに彼女の頬を張ったのだ。

 突然の出来事に面食らった祐希だったが、すぐさまビンタを張り返しきちんと応戦する。闘争心が燃え上がった両者は、隙あらば相手の頬を撃ち抜かんと手を出し合い、早くも混戦模様となる。いちど冷静になれ、とふたりの間にレフェリーが捻じ込むように割って入るが、一度着火した彼女たちの気持ちは静まりそうにもなかった。

「ブレークっ! ふたりとも一旦離れるんだ!!」

  祐希と愛果を無理矢理に分け、レフェリーが怒鳴って注意をする。喧嘩まがいの攻防が試合開始早々に繰り広げられ、観客たちは彼女らの放つ狂気に当てられて大いに興奮エキサイトした。


「おやっ……?」

 本部席に座っていた元川は、明らかに不審な入場客を発見する。

 丸縁サングラスに口まで覆ったニットのマフラー、それにミニマムな身体のサイズにまるで合っていないコート――常に周囲を気にし、行動に落ち着きがないその姿は不審者以外の何ものでもない。今までの所特に問題はないが、興行を安全に行う上となり得る芽は、早めに摘んでおかなければならない。そう考えた元川は席を立ち、足早と不審客の方に向かった。

 立ち見席でうろうろとする客に、刺激を与えないよう元川は穏やかに声を掛ける。

「ちょっとすみません、お客さ……ってお前?!」

 サングラスの隙間から覗く目に、もしや?と思った彼は、深く被ったニット帽を取り外すと見覚えのある栗色のショートヘアが現れた――小野坂ユカだ。

 正体のバレてしまったユカは、急いで元川の側から離れようとするが、長すぎるマフラーの端を掴まれてしまい、一定距離から先へは動けない。ならばと慌ててマフラーを外すも時既に遅し――男の腕力でがっちりと捕らえられたユカは、元川の誘導で本部席へと連行された。


「ユカ、こんな所で何してるんだよ! お前が話していたメキシコ行きはどうなったんだ?!」

 この大会の始まる一週間前、ユカは事務所で今後の予定を話している時に、前々から興味のあったメキシコへ、視察を兼ねた旅をしてみたいと言っていたのだ。就労ビザを取得していないので残念ながら試合は出来ないが、違った土地の違ったプロレスを観る事で、自分のプロレスの幅をもっと拡げてみよう――と。そんな話をしていたのにユカがまだ日本にいるので、元川が不思議がるのも当然の事だった。

 を突かれたユカは、ははは……と力なく笑うだけ。一体何があったのか?

「いや、今日搭乗予定だった飛行機なんだけどね。ちょっと寝坊しちゃってさ――フライトの時間に間に合わず乗り損ねちゃった」

 自分の意思で渡航中止を決めたならまだしも、寝過ごしてだとは――あまりの馬鹿馬鹿しさに、元川はつい声を荒げてしまう。もちろん周囲に配慮しながら。

「バカかお前はっ!――でも、まぁ良かったよ。ユカがまだ日本にいてくれて」

 最後のの部分は、気付かれないよう小さく呟いた元川だったが、ユカがそれを聞き逃すはずがなかった。

「な・あ・に、聞こえないよぉ?」

 大きな声でわざと聞き返すユカに、気恥ずかしさの頂点に達した彼は、最初とは全く違う事を言って誤魔化す。

「祐希の晴れ姿を見れて、って言ったんだよ!」

「素直じゃないんだからぁ――まぁいいでしょ。そういう事にしておいてあげる」

 ニヤニヤしながらじっと、自分の顔を見つめるユカに元川はちょっと辟易し、彼女の小さな頭を鷲掴みしくるりとリングの方へ向ける。

 四角いジャングルの中では、祐希と愛果が激しい関節の取り合い、グラウンドでの攻防が繰り広げられていた。


「――どう思う、ユカ?」

 元川に意見を求められたユカは、じっとリング上のふたりの動きを目で追う。

 相手の腕や足関節を取ったり取られたりする、プロレスという競技を知らない者からすれば至って地味な攻防だが、最高のフィニッシュへと繋げるための大事なゆえに疎かにはできない。

「青臭い――ね」

「おいおい当然だろう。奴等のキャリアから考えれば」

 彼女がふたりを馬鹿にしているものだと思い、元川は擁護に回るが実はそうではなかった。

「でもそれがいいの。余計な事を一切考えず、目の前の敵に向かって一直線に突き進む――今のあの娘らにしか出来ない、純粋ピュアなレスリング勝負。素敵じゃない」

 若さゆえ、場数の少なさゆえに一切のブレがない、きわめて馬鹿正直な闘い方にユカは好感を持ったようだ。

「仮にこの次、ふたりがシングルで闘ったら今のような純真さは無くなり、いろいろと策略を巡らしたりしてを温存しちゃうでしょうね。それはそれで面白いけど、今の彼女たちには似合わないよ」

 己の膝を支点にして愛果が、祐希の攻撃の源である腕を思いっきり拉いだ。呻き声と弓形に反った彼女の腕が隅々の観客たちにまで、自分の腕が折られんばかりの痛覚をダイレクトに伝達する。

 痛みに耐えながらも祐希は、愛果を乗せたまま身を引き摺って何とかロープを掴み、執拗な腕殺しから逃れる。だが痛めつけられていた腕は動かすのが困難で、彼女はひとつ武器を失う事となった。

 祐希の片腕を事に成功した愛果は、ベルト戴冠までの道程を相手よりも一歩先んじたと感じたか、彼女に自分の得意技を仕掛ける合間に、絶妙のタイミングで弱点に攻撃を加え反撃するチャンスを与えない。腕殺しに警戒するあまり、集中力は掻き乱され、祐希は反撃の糸口も掴めずにいた。

 完全に愛果の術中にはまった。袋小路に追い詰められた今、ここから脱出するのは到底不可能な事のように思えた。

 だけど――やるしかない。東都女子最強の証であるプリンセス王座を腰に巻くために、そして何よりも目の前にいる最強の敵である愛果を打ち負かすために!


 うぉぉぉぉ!


 叫び声と共に、祐希は痛めている方の腕で、愛果の下顎へ肘打ちを抉るように叩き込む。通常時より攻撃力は落ちているかもしれないが、それでも体重ウエイト差で何とかカバーできる。

 攻撃が顎に被弾した途端、愛果の意識はふわりと遠退いた。半分以下の威力しか出せないというのに何という衝撃インパクト――祐希のフィジカルの強さに彼女は舌を巻く。

 一発、もう一発と祐希は見えない壁をぶち破るかのように、思うように力の入らない腕を武器に前へ突き進んでいく。これに呼応するように愛果も負けじとエルボーバットで立ち向かう。序盤の息詰まるグラウンドの攻防から一転して乱打戦へと様相は急変した。

 ごつごつとした、原始的なリズムの単純な攻撃だが、洗練された現代プロレスにはない野蛮性バーバリズムに、観客たちは己の奥底で眠っていた野生の魂が反応し、血は滾り、感情は雄叫びとなって試合会場アリーナの中に轟いた。

 これこそがプロレスだよ――元川は沸き上がる興奮と感動で目を潤ませた。


 祐希の猛攻に何とか応戦している愛果だが、想定外の圧力に押され、次第に危機感を抱くようになった。


 こんなはずじゃ――アイツはマジで化物かよ?


 次の一発で絶対に、マットへ這いつくばらせる。愛果はそう覚悟を決め、大きく腕を振りかぶり祐希に目掛け、渾身の力で肘打ちを叩き込まんとする。

 きらりと祐希の目が輝いた。

 加速のついた愛果の肘打ちをぎりぎりで回避すると、体勢を整える隙を与えずに彼女の胴を両腕でロックし、地面から引き抜くように岩石落としバックドロップでキャンバスへ激しく叩き付けた。

 祐希の逆転劇に、大きくどよめく観客たち。

 本部席で観戦する元川もユカも、口を開けたまま放心状態となった。

 急角度で投げ落とされ、頭部を強打した愛果は、なかなか起き上がる事が出来ないでいた。一方の祐希も同じで、無理強いして腕を使ったために、患部から稲妻のように走る激痛に顔を歪め腰を落としたままであった。

 我に返ったユカは、机に置かれた記録用の時計を見る――既に試合開始から十五分を超えていた。闘いの女神は、どちらへ微笑むかをまだ決めかねているようだ。


 血液が流れる度に腕が疼く。患部は紫色に変色し、少し動かすのにも躊躇してしまうほどだった。バックドロップで引き寄せた勝負の流れも、追撃が出来なければ水の泡と化してしまう。祐希は額に汗を滲ませ己の身体と対話をする。


 動け、動けったらチクショウ――!


 動かない腕に檄を飛ばす祐希。ここまできて停滞は絶対に許されない。気持ちが焦れば焦るほど、注意は散漫となる悪循環へと陥っていく。

 突然どんっ、と押し出すような強い衝撃に襲われた祐希は、驚く間もなくふらふらと蹌踉よろけ、セカンドロープとサードロープの間からリングの外へ転落した。ダメージから回復した愛果が、彼女の背中へドロップキックを放ったのだ。

 彼女は睨みを利かせ、ぐるりと周りを見渡し観客たちを煽る。彼らも心得たもので次に披露されるであろう、愛果の美技をリクエストするかのように大きくどよめいた。

 意を決し愛果は駆け出した――場外で朦朧としている祐希に向かって。

 ロープの間を難なく潜り抜け外へ飛び込むと、セカンドロープを掴んで更に自分の身体を加速させ、愛果は弓矢の如く一直線に祐希の胸元へアタックする。

 空中殺法の基本技ともいえるトペ・スイシーダが炸裂した。

 祐希は愛果もろともリングサイド席の中へ突き飛ばされる。周りにパイプ椅子が散乱する中、愛果は天井に向かい歓喜の雄叫びをあげ、観客たちもそれに反応し彼女の名をコールし続けた。

 レフェリーによって場外カウントが数えられる中、意気揚々とリングへ戻る愛果とは対照的に、大ダメージを負った祐希は床に仰向けになったままで、しばらく立ち上がれないでいた。

 慌ててセコンドの選手たちが駆け寄り、彼女の痛めている腕の患部にコールドスプレーを噴射し急速に冷却する。筋の隅々にまで染み渡るスプレーの効果で、腕の炎症が少しだけだが和らいだ。

 掌を数回握って力の入り具合をチェックする――若干肘や肩にかけて痛みは走るが、まだしばらく闘えそうだ。場外カウントが10を越えた辺りで、祐希はすくっと立ち上がり再びリングへと一直線に歩み出した。

 ロープ越しで待つ愛果の視線は、ずっと彼女を捕えて離さない。無論リング下の祐希だって同じだ。


 さぁ、続きを始めようじゃないか。

 時間はまだ十分にある。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る