【女子プロレス小説】小さいだけじゃダメかしら?――ASK HIM!

ミッチー・ミツオカ

第1話

 スポンサーの企業名が印刷プリントされた青色のコーナーマットに、力無く青白い顔色で力無くもたれ掛かる茶髪の対戦相手を、岩のようなごつごつとした肉体とは対照的なをした少女はもの悲しげに見つめていた。腰に手を当て、仁王立ちで反撃を待っていたが、対戦相手の目の奥には既に生気が感じられない。

 もうこれ以上の進展は望めない――諦めの表情をみせた少女は、相手の髪を鷲掴みすると首投げフライングメイヤーでマット中央に寝かせ、大蛇が獲物を仕留めるかの如く肩口から、素早く太い腕を巻き付け一気に締め上げた。既に抵抗する力も意思も残っていない対戦相手の先輩レスラーは、あっという間に彼女の上腕を叩いて降参ギブアップの意思表示をする。

 試合は10分も経過しないうちに、剛腕少女の勝利が確定した。だが、圧勝ともいえる彼女の勝利にもかかわらず、ギャラリーの視線は実に冷ややかだった。プロレスを初めて生観戦する初心者ビギナーらしき観客以外、彼女の勝利を讃える拍手を送る者がいないのがその証拠だ。

 工事用の車両が往来し倉庫が建ち並ぶ一角にある、資材置場にも似たこの場所は小さいながらも、上級者マニアが多く集う会場としてファンや関係者にも知られており、ここで歓声が貰えれば興行を打つ団体や闘っている選手は、を頂いたといっても言い過ぎではない――彼女の一直線なファイトぶりは、観戦歴の長い猛者連にはお気に召さなかったようだ。

 まばらに聞こえてくる拍手に送られ控室に戻っていく勝者は、もう一度振り返り観客の方を見る。何とも皆つまらなそうな表情だ。試合内容が悪いのか、対戦相手のレベル不足なのか。もしかすると自分自身にレスラーとしての技量が欠けているのかも――そう考えると、ますますどうしていいのか分からなくなった日野ひの祐希ゆうきは、じっと自分を見つめる客の視線が恐ろしくなり、急いでバックステージへと引き下がっていった。

 リング上では、アイドルチックな衣装の若い女性リングアナウンサーが、次の試合に出場する選手の呼び出しを開始するところだった――


 お待ちどおさま、という店員の声と共におんなふたりが座るカウンター席へ、白い鉢に盛られた熱々のラーメンが運ばれる。ひとつは澄み通ったスープが綺麗な塩ラーメン、もうひとつは白濁したスープの豚骨ラーメンだ。彼女たちは同時にいただきますと手を合わせると、湯気で一杯の器に遠慮なく顔を突っ込み麺を思う存分啜った。

「七海さん――どうしたらいいんでしょうね、自分?」 

 今夜の興行が終了し、選手たちがそれぞれ帰路に着くなか祐希は、本日のメインを務めた先輩レスラーの赤井七海を、遅めの食事に誘い、今自分が抱えている悩みを聞いてもらっていた。人に相談する時点で、ある程度結論は決まっている――なんてよく言うが実際のところ祐希には、解決の糸口すら見いだせずにいた。だからこそ経験豊富で何よりも自分と同じ、武道経験者であるプロレスラー・赤井の助言を聞きたかったのだ。

祐希ゆーも遂に“新人”卒業か。デビューしてしばらくは只、一生懸命にファイトしていれば出来不出来に関係なく拍手を貰えるけど、月日が経ってくると自分に対し、お客さんの求めるものが大きくなると簡単にはいかなくなるのよね」

 七海はかつて自分も通過してきた道を振り返り、独り言のようにつぶやいた。

 今でこそ《東都女子プロレス》のエース、常にトップコンデンターの地位にいる赤井七海だが、デビューして最初の数年は武道経験者特有のによって、なかなか芽が出ない時期があった。

「こっちがガンガン前に出て行っても、向こうが攻撃を嫌がって避ければ空回りしているように見えるし、第一を対戦相手にも観ているお客さんにも見せるのが抵抗があったわ。ゆーもそうでしょ?」

 祐希はただ黙って首を縦に振り、七海の問い掛けに返事をする。

「自分――格闘技色の強いプロレスが好きだったんスよ。ゴツゴツとした打撃戦やグラウンド技のテクニカルな攻防に惹かれて“自分も将来やってみたいな”って思ってましたけど……実際見るのとやるのとでは大違いで」

 祐希は苦笑いをしてラーメン鉢を覗き込みながら、自分のプロレス体験を語りだした。

 彼女は幼い頃に、習い事のひとつとして通っていた柔道の町道場で、指導者によって非凡な格闘センスを見い出され、中学や高校には地域で《強豪校》と呼ばれる所へ進学し、日々の厳しい稽古により己の強さに磨きをかけたその結果、中総体やインターハイ等全国規模の大会に出場し好成績を収めるほどのとなった。

 プロレスとの出会いは、高校時代に柔道部の夏期合宿で友人が持ってきた、男子の格闘系プロレス団体のDVDがきっかけだった。それまでも何度かテレビでちらりとプロレスの映像は観たのかもしれないが、あくまで自分のやっている事とは別物と意識し記憶していなかった。食堂に置かれた薄型テレビに映し出された試合は自分たちの行う《格闘技》の試合にも似た緊張感あふれるもので、この奇妙な《格闘スポーツ》に祐希は一瞬で虜になった。そしていつしか、当面の《将来の夢》だった柔道整復師への道を後回しにし、リングの上で大観衆を前に闘う《修羅の道》を志すようになったのだった。

「一度はみんななのよ――自分がリングでやりたい事とお客さんが求めているものにズレがあると、どうしたらいいのか悩んじゃうよね……私も昔はそうだったもん」

「今や東都女子《不動のエース》である七海さんが…… それでどうやって克服したんですか?」

 赤みがかった長い髪を気にする事なく、魚介系の出汁が効いた塩スープの底に沈む、中太麺を七海はずずっと音をたて、一気に口の中に頬張る。

「自分らしく闘う事――かな。無理にファイトスタイルを変えたり過剰なキャラクター付けをしても、お客さんから騒がれるのはホンの一瞬だしね。それだったら好きな事やって長くないプロレス人生を楽しく過ごした方がいいよね? 拍手や歓声なんて試合を頑張ったご褒美みたいなもんよ」

 納得したような、でもちょっぴり不満げな面持ちで《先輩》からのアドバイスに耳を傾ける祐希。彼女の体育会系特有のバカ真面目さに、思わず吹き出しそうになった七海は、祐希のラーメン鉢に自分の叉焼チャーシューをそっと浮かべた。

「……何スか、これ?」

「プロレスについて深く悩んでいる後輩へ、先輩からのプレゼント。そのうち《答え》は自ずと出てくるから、焦っちゃダメよ」

 そういうと七海は、鉢に残っていたスープを全部飲み干すと、カウンターテーブルに置いてあったレシートを手に取りレジへ向かう。どうやら今夜のラーメン代を奢ってくれるようだ。

 自分から無理を承知で誘い、有難い《助言》をいただいた上に食事代まで払ってくれる大先輩に、ますます頭が下がらない祐希であった。だが、これからの自分の《進むべき道》が見えず、悶々とした不快な気持ちは胸に引っ掛かったままだった――


――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 


 古代ローマ神殿をイメージしてデザインされた、金色のプレートが中央に輝く紫のチャンピオンベルトが、これから対戦する相手、そして観客たちに対して「誰が東都女子で一番強いのか」を無言でアピールする。だが当の所持者の身体のサイズに全くフィットしておらず、権威を示すために腰に巻いているのではなく、彼女がベルトにといったほうが観る側も納得するだろう。

 東都女子プロレス認定王座《プリンセスオブメトロポリタン》現王者である《能天気ダイナマイト》小野坂ユカが、ショートボブの茶髪を振り乱しながら笑顔で四方のコーナーへ駆けあがり、この会場に足を運んでくれた――そしてメインイベントまで席を立たずに観てくれているに対し両手を振って感謝の意を表した。団体内で最も背が小さく体重の軽い彼女ではあるが、プロ意識とプロレスに対する熱い想いは、ここに所属しているどの選手にも負けない自信がある。

 目の前に立っている今日の対戦相手は、ユカがデビューして1年後の入門ながらもビジュアルの良さと、どんな攻撃にも耐えうるディフェンス力の高さで人気を上げてきた《微笑みの重戦車》龍咲真琴りゅうざきまことだ。黒光りするロングヘアーと少々垂れ気味の瞳はどこかおっとりとした印象を抱かせるが、一旦こうと決めたらテコでも動かない意思の強さを持っていて、本日のタイトル戦も本人の猛アピールにより王者・ユカが指定した査定試合や、タッグマッチを含む数回の前哨戦をクリアし、ユカはもちろんの事、東都女子のファンたちにも頑張りが認められやっと漕ぎつける事ができた――もっとも、この「下剋上」的な状況シチュエーションを設定し、一番楽しんでいるのはユカ本人だったりするのだが。

 勝手気まま・自由奔放なプロレス生活を送り、これまでタイトルとは無縁だったユカだったが、友人で《絶対王者》と呼ばれていた赤井七海の欠場により、急遽組まれた王座決定戦において現在は別の団体で活動する、かつてユカを指導した先輩レスラー・浦井冨美加との死闘を征し勝利した事でとなり、同時にエースとしての責任感が芽生えたのだった。

 過去の防衛戦では、前王者である七海や浦井とのリマッチが行われ、興行的にも観客の満足度も高かったものの、同期やキャリアの長い選手との闘いが続き、早かれ遅かれ飽きられてしまうと考えたユカは、次の挑戦者は自分よりキャリアの浅い、《スター》までの境界線ボーダーラインが見え隠れしている有能な選手だと決めていた――その第一弾選手が龍咲真琴だった。

 身長タッパもあり、前髪を横一文字に切り揃えたロングヘアーという日本人形的なで徐々に人気の出始めている彼女を、更にステップアップさせ自分や七海に続く東都女子の《人気商品》となってもらうためユカは一肌脱いだのだ。

 ゴングが鳴るや否や、龍咲は気合い十分の表情でチャンピオンへ一直線に猛突進、ワンピースの白いリングコスチュームの挑戦者チャレンジャーは白羽の矢の如く、自分より小さなユカの身体に体当たりし彼女を遠くへ吹き飛ばす。軽量のユカは成す術も無く勢いよくエプロンの端まで転がっていった。

 まどろっこしいチェーンレスリングではなく、小細工無しに「ベルト獲り」を自己主張してきた龍咲に、転倒時に打った頭を振り意識を取り戻しながらも、心の奥底から湧き上がるワクワク感が抑え切れず笑顔を隠せないユカだった。

 片膝をつき立ち上がろうとしたユカだったが、すぐさま駆け寄ってきた龍咲に頭部を掴まれ乱暴に引き起こされると、奇声と共に鋭角な肘打ちを二発三発と休みなく顎部辺りへ打ち込み、ユカに攻撃の隙を与えまいとする。独特なチャンピオンの攻撃リズムに持って行かれないよう立て続けに攻め続ける――これがキャリアの浅い龍咲の導き出した《作戦》だった。

 ブレーンバスター、振り子式背骨折りペンデュラム・バックブリーカー、ネックブリーカー・ドロップ……身長を生かした高低差のある技を喰らい手も足も出せない王者に、血気盛んな挑戦者は休み無く次々と攻撃を加えていった。その鬼気迫る表情に普段から彼女を応援しているファンはもちろん、他の観客たちも龍咲のベルト獲りを後押しするかのように大声援を送るのだった。


 ――まこさん、表情に余裕がないなぁ。途中でスタミナ切れなきゃいいけど


 セコンド業務のため他の選手同様、リング周辺で身体を縮ませてふたりの闘いを目で追っていた祐希が呟く。会場に蔓延する押せ押せムードに飲み込まれて観客たちが気付かない、龍咲の瞳に浮かぶ焦りの色を読み取ったのだ。

 実際の所、龍咲真琴の持ち味はプロレスリングの定石セオリーに則って進めていく、長期戦も可能な至ってクラシカルなスタイル。だが今日の試合では大技を取っ替え引っ替えするとした、普段の彼女とは真逆な落ち着きのなさが浮き彫りとなっていた。

 つまり、王者である小野坂ユカの手中にはまった――という事だ。

 この試合タイトルマッチの前に組まれた、前哨戦といえる数回のタッグマッチに於いて実はユカは龍咲に敗れている。それも今のようなハイスパートな技の畳み掛けでだ。自分の理想とするレスリングではなく、相手に休みを与える事無く攻め続ける、怒涛の波状攻撃こそユカからベルトを獲る方法――と勘違いさせたのだ。こうして百戦錬磨の王者ユカは自分が敗ける事で、己の持ち味よりも体力的にキツくても確実にベルトを獲れる(かもしれない)方を選択させたのだった。


「まんまとユカのてのひらに乗せられた――ってわけね」

 息を潜め、微動だにせずリング上の事の成り行きを見守る祐希の、傍にやってきた七海がぽつりと呟く。祐希は彼女の姿が視界に入り慌てて空間を作った。

「やっぱりわかりますか――友達だから、ですか?」

「同じだけプロレスラーだからよ。ユカは相手の持ち味を奪った事でひとつ優位に立ったわけだけど、それでも相手が試合でのを知っていたなら策略なんてちっぽけなもんよ。だけどがむしゃらだけが取り柄のなら――」 

 そういうと七海は龍咲を指差した。己の小さな身体に攻撃を受け続け、リングの上で四つ這いになり痛みに顔を歪めるユカを前にし、一歩も踏み出せずに腰を折り荒い呼吸をして立ち止まる龍咲。顔からは滝のように汗が流れ落ち、あれほど爛々と輝いていた瞳もすっかり曇っていた。遂にスタミナが切れたのだ。

 ここが攻め時なのに――気持ちは逸るが身体がいう事を聞いてくれない。龍咲は自分の浅はかさを恨んだが時既に遅し、疲労と倦怠感で重くなった身体に鞭打つ間に王者が行動を開始した。中腰になり低くなった龍崎の頭部を腕で挟みヘッドロックでユカは絞り上げる。張り詰めていた警戒心も解け耐性の低くなっている身には単純な技だがこれが実によく効く。頭の中で駆け回る痛みから逃れようと龍咲は、彼女の股に手を入れ持ち上げると定石通りに、バックドロップでマットに叩き付けようとするが、そんな事くらいお見通しなユカは少しも慌てる事もなく、自ら後方回転し着地すると龍咲の顎を両手で掴み、背中に両膝を立てそのままキャンバスへと倒れた。脊髄に走る激しい痛み――彼女は背骨折りバック・クラッカーを喰らったのだ。

 この一撃で形勢が逆転されてしまった龍咲には、もうユカを追い込むだけの手立ても体力も無くなった。気持ちだけが焦り何ひとつ、反撃する事が出来ない歯痒さに苛まれる。

 「立てっ!」というユカの厳しい声に、ふらふらと身を起こした彼女を待っていたのは正面のコーナーから飛翔し、自分の方へ向かって来る小さな王者の姿だった。ユカはコーナーポストからダイブすると空中で前方回転した後片足をぴんと伸ばし、龍咲の胸板を突き刺すように蹴り飛ばす。彼女のファンがいうところの《ライダーキック》が見事に炸裂すると、大きな龍咲の身体はくの字に屈し後方へと転がっていく。

 おぉぉぉぉっ!

 観客たちは一斉に歓声をあげた。

 最早為す術のない龍咲に、とどめを刺すべくユカは彼女へ正面から密着すると、自身の必殺技である北斗原爆固めノーザンライト・スープレックスで投げ、相手の身体を白いキャンバスへとめり込ませたのだ。今でこそ使い手も多いこの技だが、繋ぎ技でなく確実にフィニッシュを決める事のできる者は数少ない。身体が小さいユカにとっては、背後からのスープレックス技よりも仕掛けやすく且つ、見映えや観客に対しての説得力もある大事な技なのだ。一寸も身体を動かす事の出来ない挑戦者は、黙ってレフェリーが叩き奏でるスリーカウントを聞くしか他はなかった。

 試合終了のゴングが打ち鳴らされるや、下でセコンド業務に付いていた祐希はすぐさまリングの中へ滑り込み、敗者である龍咲の元へと駆け寄ると、ダメージが大きい頭部から首の辺りにかけて保冷剤を当てて患部を癒す。つい先程まで一緒だった先輩の七海は王者・ユカの側に付き、チャンピオンベルトを腰に着けたりと甲斐甲斐しく世話をしている。

 あれだけ大技を連発し攻め続け、一時は「ベルト移動か?」と観客たちに思わせた龍咲だったが、結局終わってみればユカが最後に見せた猛攻だけが印象に残る試合内容となった――それもたった三つの技だけで。


 ――何時いつもよりもユカさん、大きく見える……これが王者の風格ってやつなのか?


 龍咲を介抱しつつ祐希は王者の方に目を向けた。セコンド業務中のため自分の視線が下からだという事もあるが、ユカの身体に纏わり付く大量の汗が、天井にある大きな照明装置の光線を受けきらきらと輝いてみえる。疲労の色は隠しようがないが彼女はそれでも、自身のトレードマークである太陽のような明るい笑顔を作り、応援してくれた観客たちに向けて目一杯振る舞って、観ている者の気持ちを幸福ハッピーにさせる。

 最後まで観戦して下さったお客様を満足させ帰路に就かせる。これがメインエベンターの務めというものよ――直接言葉に出さないが、音声ではなくその立ち振舞いや態度で祐希はそう言われているような気がした。

 祐希の全身にぶわっと震えが走る。

 寒さではなく極度の興奮によるものだ。この感覚、以前にも感じた事がある――彼女は必死になって記憶を掘り起こした。


 そうだ。プロレスラーになる前に初めて、東都女子ここでユカの試合を見た時だ。


 ユカは第二試合か三試合目に出場していたにもかかわらず、常に客席からの視線を気にして攻守共に気合の入った試合を見せ、同期らしきパートナーや対戦相手の先輩たちをも喰ってしまう活躍ぶりで、結局負けてしまったものの興奮して全身が熱くなり、周りの観客たちと一緒に夢中で拍手を送ったのを思い出した。

 大声援に応え、四方の客席に手を振っているユカの視線と偶然合う。時間にすれば数秒もないが祐希にすれば大変長く感じられた。会場の音も周りの景色も全てフェイドアウトし、リング上にはユカと自分のふたりだけの時間が流れる。普段からそして練習の時ですら、一対一で視線を向けあうなどキャリアの離れた彼女らには有り得ない事だった。この団体で最年長のキャリアを誇るユカにはいつもかしこ誰かが声を掛け、彼女を慕う人間からは囲まれていて下っ端である“若手”の祐希からしたら、と気軽に話し掛けてはいけない、というイメージを勝手に作り出していた。だが当の本人は近寄ってくる人物の、年齢や地位でバリアを作ったりはせず、基本的にどんな人間でもウエルカムである。特に自分と同じプロレス好きなら尚更の事だ。

 口元をきゅっと締め、無言で王者と見つめ合う祐希。ユカは何事か?と一瞬驚いた表情をみせたが、すぐに満面の笑みを浮かべ隣りにいる七海に二言三言会話をすると、別方向から聞こえる声援に応えるべく、彼女から視線を外し移動をした。

 短いながらも大先輩と“視殺戦”を交えた祐希。視線が外れた途端、緊張が解けどっと疲労感が全身にのし掛かったが、それと同時に幸せな気持ちにもなり自然と口元も弛んだ。そんな不思議な感覚に取り付かれている祐希に、親友の世話を終えた七海が声を掛ける。

「何してんの、ゆー?」

 七海の声に我に返った祐希は、慌てふためき「あっ、えっ?」と言葉にならない返事を繰り返すのが精一杯だった。普段の真面目で礼儀正しく、かつ冷静沈着な祐希からは想像できない激しく狼狽える姿に、七海は驚くと同時に笑いが込み上げてきた。

「ほら、まこちゃんに肩を貸して、控室まで送ってやって頂戴」

 七海の指示によって普段の姿に戻った祐希は、早速龍咲の腕を自分の肩に廻してゆっくりとリングを降りていった。観客から送られる労いの拍手の中、肉体的・精神的な疲労でふらふらの彼女に歩幅を合わせ、他の選手の誘導によって控室までの通路を歩いていく。

 試合会場ホールを抜けバックステージに戻ると、選手や団体職員など人の数はそれなりにいるが会場の中のような、大声量の野太い歓声や身体が火照るほどの熱気はそこにはなく、急に現実に戻されたような不思議な感じになる。この場所にいるのが身内ばかりだと確認した龍咲は、自ら祐希の肩から腕を外しそれまでの疲労困憊ぶりが嘘のように、しっかりとした足取りで歩きコスチュームの姿のまま床に座り込むとふぅ、と一息付いた。

「いやぁ、やっぱ上手いわユカさん。たった3手よ? あれだけでお客さんの視線を自分の方へ持っていくんだもん。勢いだけじゃあの《っこい怪物バケモン》には勝てないわよ、ゆーちゃんもよぉく覚えておく事ね」

 そんな、自分なんてまだまだですよ――そう祐希は言いかけるが、見れば龍咲の目は薄らと涙が浮かび上がっていた。

 人生初の王座戦タイトルマッチを終え、その重圧から解き放たれた彼女は余程緊張していたのだろう。心の箍が外れた途端に緊張感は涙へと形を変え、瞳から零れ落ちようとしていたのだ。そんな龍咲の姿を見たらおいそれと、自分を見下したようなつまらない返事を返すなんて絶対に出来ない、と思った。だから頭の中で言葉を選んで選び抜いて、彼女の意思に沿うような返事を真っ直ぐに、そして力強い口調で発した。

「ありがとうございます。次に機会が巡ってきたらユカさんを、私が倒します」

 実際はそんな機会チャンスがいつ、巡ってくるかなんて想像する事すらおこがましい程キャリアは当然、東都女子のファンたちからの人気も低い祐希だったが、地力の強さは団体にいる誰もが知っている。だから後輩の頼もしい返事に龍咲は、満足気に首を縦に何度も振った。

「何してんの、ふたりとも?」

 七海が控室に戻ってきた。どうやら親友ユカの世話から解放されたようだ。その表情には疲労感が漂っていて、余程過剰なファンサービスをユカが行い、彼女がそれを制すのに精一杯だった事が容易に想像できた。

「お疲れ様です。ゆ、ユカさんは一緒じゃないんですか?」

「あーユカはね、今隣りの部屋で元川さんに絞られている所」

 東都女子の代表である元川氏にあれこれと厳しく注意され、小さい身体をより縮ませてしゅんとするユカの姿を想像すると、不謹慎ながらも「可愛いな」と思ってしまう祐希であった。

「――それでユカからの言付。タイトルマッチ手当貰ったんで、ふたりとも焼肉へ一緒に行かない? って」

 龍咲と祐希は互いの顔を見合わせると、七海の方へ同時に向いて「行きますっ!」と大きく返事をする。そんなかわいい後輩たちの、己の食欲に素直な態度を見て七海は、嬉しいやら呆れるやらでもう笑う他なかった。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 いつものように五分も経過しないうちに、祐希の眼下にはフィニッシュホールドである裸絞めを極められて、すっかり伸びてしまった対戦相手が横たわっていた。

 客席からは僅かばかりの拍手と、マニアたちからの批判の声――彼女の憂鬱の日々は、終わりが見えないまま今日も続いていた。

 バックステージやオフ日など、仕事プロレス以外で仲間たちと会うのは楽しいし安心感もある。しかしいざ試合が始まるや、どうしたら自分のファイトを見て驚きや興奮の声をあげさせる事ができるのか? と、悩みが解決しないまま時間だけが過ぎていく。

 強いだけで試合自体にメリハリがない。

 ハラハラしないから観ていてつまらない。

 東都女子を支持しているマニアたちからはそういう声も飛ぶが、祐希はその批評に甘んじようとは全く思わなかった。プロレスラーが何が悪いのか? それに相手のレベルに合わせて手加減するだなんて、それこそ対戦相手にも観る人にも失礼ではないか? フィジカルの強さを前面に出す自分のファイトスタイルを曲げてまで人気なんて得たくない。祐希は外野からの声に辟易し意固地になっていた。

 気の乗らないファイトを続けていたある日、とうとう団体代表の元川に呼び出されてしまう。

 めったに立ち寄る事のない、事務所のいちばん奥にある彼の部屋に通された彼女は、元川から開口一番こう告げられた。

「お前、少しの間休んでいろ」

 どこも身体はおかしくないし、怪我だってしていないのに「休め」とはどういう事なのか? 納得がいかない祐希は元川に食って掛かったが、そんな彼女の怒りを受け流すかのように涼しい顔で説明を始めた。

「一部の選手の間から不満がでてるんだよ。もう祐希とは闘いたくありません、とな。どういう事か分かるか? お前と試合をしても一方的すぎて面白くないよって意味だ。そりゃあ人間だから勝負が掛かれば勝ちたいのはわかる。だけど興行である以上ならない時だってあるんだ。だがいつもお前の“負け試合”には余裕があり過ぎて、相手が損しているように見えて仕方がないんだよ」

 代表の意見はもっともだ。しかし勝敗がどちらに転ぶにせよ、自分に納得のいく負け方・勝ち方をしたい祐希は反論する。

「お言葉ですが代表。リアリティのある勝敗を見せたかったら対戦する相手にも、それ相当の努力と鍛錬が必要だと思いますが? プロレスのに何の不満はありませんが、こればかりは絶対に譲れません」

 元川は眉間に皺を寄せ困惑の表情を浮かべると、部屋にある布張りのソファーに力無く腰を下ろした。おおよそ分かっていたが、ここまで祐希が強情だともう手に負えない。

「思ってた通り硬いな……入りたての頃の七海を見てるようだよ。とりあえずしばらく休んでよぉく頭を冷やす事だな。出場して欲しい時にまた連絡するよ」


 元川とのを終えて去り際に、白一色で面白味のない彼の部屋のドアに一礼した祐希は大きな溜息をつく。

 解雇クビではない――が試合ができない以上、お金の入ってくる道筋が途絶えてしまった祐希は少し顔を曇らせた。東都女子プロレスのである彼女は会社から給料を貰っているが、試合をする事で得ていた特別手当――ファイトマネーが入らないので基本給の金額だけでは生活が出来ない。余所の団体で試合をしたくとも東都女子が選手たちのブッキング業務を受け持っているので無理だし、そもそも人気の無い祐希に声を掛けてくれる団体もなかった。彼女はいわゆるとなったのだ。

 首を力無く下げ、重い足取りで団体事務所のあるビルから外に出た時、聞き覚えのある声がした。

「よぉ、頑丈少女っ!」

 こんな色気のないあだ名を付けて喜んでいるのは、祐希が知る人物でひとりしかいない――

「ユカ……さん」

 小野坂ユカだ。可愛い後輩が事務所に呼ばれたと聞いて、わざわざ駆けつけてきたのだった。

「クビじゃないよね、クビじゃないよね?」

「そういう事を、公衆の面前で大声で言わないで下さいよ。解雇ではないですが――」

 祐希は事務所での元川との会談を、この小さな大先輩に説明した。出場停止だと聞いてユカは安心したが祐希は浮かない顔だった。

「うん、まぁ元川さんの言う事もわかるよ。プロとしての最低限の心構えっていうのかな? そういうのはさ。だけどわたしは断然ゆーの意見を支持しちゃうけどね。しっかり練習して、どんな当たりにも負けない身体を作るのがプロレスラーってもんでしょ、絶対」

 火傷しそうな程熱い口調で語るユカの姿が、祐希には実に頼もしく心強かった。自分と似たような思想を持つ者の応援に、この人の後輩で本当によかったな――彼女はそう感じた。

「誰だよ、そんな軟弱な事言ってるヤツは……さてはあの娘かな? 今度スパーリングの機会があったら泣くまでシゴいてやろっと。ひひひ」

 前言撤回。こんな怖い先輩を絶対敵に回してはいけない。獲物を見つけた肉食獣のようなユカの目つきにぶるっと震える祐希であった。

「ま、冗談はともかくとして、ゆっくりリフレッシュできるいい機会じゃない。それでゆーはどうするつもり?」

「試合もできないのに寮に閉じ籠っていても悶々としそうですし、しばらくの間実家に戻ってみようと思います」

「それがいいよ……じゃあ暫しの間お別れだね。あ、練習も欠かさずに続けてね? それとこれ――」

 そういうとユカは、肩に掛けている鞄の中から茶封筒を取り出し祐希に手渡した。少し重みの感じる封筒の中には、結構な金額の紙幣が入っていた。

「七海からの餞別……って別に辞める訳じゃないか。生活するのに困るだろうからって彼女、僅かだけど受け取ってほしいって」

 そこまで私は、先輩たちに目を掛けられていたのか――! 嬉しさと申し訳無さで遂に感極まった祐希は、人目も憚らず肩を震わせ嗚咽を漏らした。

「いい? 誰からも注目されなくても、わたしたちはゆーの事を見守っているし応援している。だから――辞めようなんて思わないで? ちゃんと東都女子ここに戻ってきて。これがわたしと七海の願いよ」

 瞳から溢れ出る涙がアスファルトの道路へこぼれ落ちる。止めようとしてももう無理だった。だけど先輩からの励ましの言葉にちゃんと返事をしなければと祐希は、鼻水をすすり上げ顔を上げた。

「ありがとうございます。きっと私、わたし――」

 これ以上言葉が続かない。だけどその気持ちだけはユカの心にも十分に伝わった。歳上ならではの賢明さもあり、時には幼児のような純粋さもみせる不思議な先輩・ユカは、大きな祐希の身体を抱くと優しく肩を叩き、涙まみれでひどい顔になった後輩の、気の済むまでずっと励ましたのであった。


 翌日、早朝――誰からの見送りを受ける事も無く、日野祐希はキャリーバッグひとつだけを手に選手寮を出た。終わりのわからないがいつまで続くのかわからないが、とにかく休場前よりも身も心も大きくなってここに戻ってこよう。祐希はタクシーの中、寮周辺の馴染みの風景を朧気に眺めながらそう決意した。

 ちらりとスマートフォン画面に表示される時刻に目を移す。あと20分もすれば、彼女を故郷へと運ぶ列車が最寄りの駅のホームに到着するはずだ――

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