第6話

 はぁ、はぁ、はぁ――


 道場までの距離がこれほど遠く感じたのは初めてだった。一方的に焦る気持ちと身体がちぐはぐに感じ、もっと速く進めないのかと自分自身でもどかしくなる。

 困惑と怒りが入り雑じる祐希の気持ちとは裏腹に、まだ選手寮を出てから最初の角を曲がった場所だ。闇夜を青白い光でぼんやりと照らす街灯が、余計に彼女の中にある不安を煽っていく。ポケットに入れたままのスマートフォンには、元川代表からの着信履歴が何十件と刻まれていたが、祐希はそれをあえて無視する事にした。



 あなたたち二人で王座決定戦を行ってほしいの――


 これまで幾度となく、王座防衛を重ねてきた東都女子の顔・ユカの口から出た言葉に、ユカ打倒のためにへ意気込んでやって来た愛果の顔から血の気が引いた。自分は絶対に再び闘えるものだと信じていただけに、彼女の発言はとても信じ難いものだった。そして同時にユカが東都女子の王者としての責任から、とも思った。

 愛果は隣に立っている祐希の方を見る。やはり祐希も驚きを隠せない様子だったが、外様の彼女とは違い、僅かだがユカのこの行動へ至るまでの前兆を見ていたせいもあって、愛果とは異なりある程度は納得しているところもあった。

「ユカさん、逃げるんですか? 自分が私より弱いって事を自覚して、この大事なプリンセス王座を放棄するんですか?!」

 納得がいかない愛果は、勘に触るような言葉を並べてユカを煽るが、逆にそれが後輩である祐希の逆鱗に触れてしまい、怒り心頭の彼女に胸ぐらを掴まれてしまう。その際に愛果の着ている、ブラウスのボタンが放物線を描いて弾け飛んだ。

「てめぇ……言っていい事と悪い事があるだろ! そんなにやりたいんだったらなぁ、今ここで潰してやってもいいんだぞ?」

 普段の温厚な彼女とは違い、完全に頭に血が上った祐希は「鬼」以外の何物でもなかった。殺気を周囲に振り撒き愛果へ怒鳴り散らす彼女を、あの七海でさえ羽交い絞めにするのがやっとで、いつまでも彼女を止める事が出来る自信はまるで無い。

「うるせぇ、下っ端は黙ってろ! 私はユカさんと話してんだ。お前じゃねぇよ」

 食って掛かる祐希のしつこさに愛果も遂にキレた。

 奥歯を噛み低く唸りながら、互いの髪の毛を掴んで睨み合うふたりの間に空気が流れているのを感じ取った、周りにいる全ての選手が彼女らを分けようと、大慌てでリングの中へ雪崩れ込んだ。

 髪を掴んだまま、空いている方の手で頬を幾度と張り合う愛果と祐希。

「やんのか、コラ!」

「上等だ、やってやるよ!」

 人の波が左右へ交互に移動する。両者による乱戦がエスカレートしている様子だ。怒りで顔を真っ赤にして、腫れた頬へ更にビンタを張っていくふたりに、興奮した観客たちは贔屓の選手へ声援を送る始末だ。

 しばらく楽しそうにこの混乱ぶりを眺めていた、「事の発端」の張本人であるユカだったがそろそろ頃合いとみたのか、いがみ合う両者の間に入ると一発づつ、頭に血の昇ったふたりにビンタを張って気持ちを落ち着かせた。風船のように膨れ上がった頬のふたりは我に返ると、振り上げていた腕を静かに下げ、制止する選手たちの為すがままとなった。

「ふたりともやる気満々じゃん。よーし王座決定戦、これで決まりね。来月開催のホールのメイン、ふたりに任せたよ!」

 そういうとユカは、自分の関知しない所で物事が決められ怒り心頭となっている、元川代表がこちらへ向かって来るのを見て、慌ててリングから降り逃げるようにバックステージへと消えていった。

 リングに残された愛果と祐希、それに七海をはじめとする東都女子の面々は一連のユカの行動に対し、ぽかぁんと口を開けこの状況を受け入れざるを得なかった。


「何処へ行った、ユカは?!」

 元川が滅多に入らない選手控室へ飛び込んできた。

 皆既にリングコスチュームから私服へと着替え終わり、「選手の着替え中に代表が控室へ闖入!」などという某スポーツ紙の見出しになるような大事にはならなかったが、それよりも彼にとってはもっと大変な事態が起こっていた。

 小野坂ユカが試合会場から、黙って姿を消していたのだ。

 所在確認のため意を決して控室へ足を運んだものの、ユカが使用したと思われるロッカーには何も入っていなかった。彼はこの場に残っていた選手たちに尋ねてみるが誰一人としてユカの姿を見ていないという。着替えもせず試合用のコスチュームを着たまま、正規の通用口を通らずに会場から出ていったらしい。

「七海、ユカの居そうな場所を知らないか?」

 元川は同期で一番の親友である七海に尋ねる。しかし実際に居場所を知らない彼女は、「わかりません」と答えるしかない。七海自身も、先にバックステージへと消えたユカが、控室で待っているものだと思っていたからだ。それを聞いて元川は残念そうに溜息をつく。

「七海、ユカって携帯の番号はひとつだったよな? 俺のアドレス帳に登録されている番号を、さっきから何度も掛けているんだが全く繋がらないんだ――ったく、何処へ行ったんだよ」

 普段は滅多に怒りを顕にする事の無い元川が、控室の空気を通して手に取るように七海たちにも伝わってくる。彼の怒りは仕事上の問題などではなく、ユカとの意志疎通が出来ない苛立ちから来ていた。元川も事前に彼女から「タイトル返上からの王座決定戦開催」を聞かされていれば何の問題はなかった。だがチャンピオンであるユカが勝手に王座を放り出してしまい、王座決定戦開催をアナウンスしてしまっては完全なである、というのが彼の考えだった。

 元川が話す《興行会社の理論》はある程度理解を示していた七海であったが、どうしてもユカ本人の気持ちが気になって仕方がない。

「それで――ユカを見つけてどうするつもりなんですか?」

「決まってるだろ。 厳重注意に減俸だよ!自分勝手な行動がどれだけ会社に迷惑をかけているかって事を、イヤって程教え込まなきゃならん!」

 自分の思い通りにならず激昂し続ける、元川の姿に七海は幻滅し、団体を愛する気持ちで共に結ばれていた筈だった互いの、心の距離もどんどん離れていく。

「ユカがそこまでした理由わけって、元川さんにも原因があるんじゃないですか? 理由を言わなきゃわたし達、絶対に動きませんから」

 強い口調で楯突いた七海――元川の顔色が変わった。

 愛すべき団体も当然大切だが、やはり親友であるユカの事が最優先事項なのだ。

 それまでだと思っていた七海からの予期せぬ反撃に、それまで控室の中を威圧していた彼の気が、波のように徐々に退いていくのが明らかに感じられた。いくら隠し通そうとしても、ユカとは隠し切れなかったようだ。だが彼女たちにその理由を話す事は男の意地として、最後まで避け通そうとする。目は宙を泳ぎ、真っ赤な顔をしてぶるぶると身体を震わせる、元川の姿をみて七海はちょっと、と不謹慎ではあるがそう思った。

「ユカと俺との間に個人的な問題があるのは事実だが、今ここで全てを話す事はできない。ただ、心底彼女の身を案じている事だけは信じてくれ。心配なんだ。頼む……みんなで、ユカを捜してほしい」

 それまでの高圧的な姿とは違い、深く頭を下げ小さく声を震わせて、すがるような態度で選手たちに懇願する元川の姿に誰も言葉を発する事が出来ず、控室の中は時が止まったかのように静寂が支配する――そして数秒後、重い空気を払拭するような活気に満ちた乾いた音が響き渡った。

 七海が両手を叩いて祐希をはじめ、残っている選手たちに注意を促したのだ。

「……聞いたよね? 一刻も早くみんなでユカを捜し出すのよ。とりあえず今の所は理由は聞かないでおくわ、どうせユカが後から喋ってくれるだろうし」

 彼女は悪戯っぽい笑顔で元川の方へ目配せをするが、顔いっぱいに冷汗をかいて俯いたままの彼には、七海にいつも通りの強気な返事で応える元気も無い。選手たちはユカの居場所を探し出すべく、呆然と立ちすくむ元川を尻目に次々と控室から出ていった。


 文字にできない、様々な雑音がいつ止む事もなく飛び交う街の中、祐希は懸命になって歩き回る。飲食店に本屋、そしてマンガ喫茶――祐希は以前、ユカに連れて行ってもらった場所や、彼女なら行きそうな場所を重点的に捜索する。しかし思い当たる場所へ足を運ぶものの全て空振りに終わり、依然ユカの居場所を発見する事が出来ないでいた。それは他の仲間たちも同じで、時折スマートフォンに入ってくる七海からの電話で分かった。

 一見穏やかだが、言葉の端々に苛立ちを滲ませる七海の声。それが祐希にとってはとても心苦しかった。

 この眠らない街の中で、一体ユカはどこにいるのだろう?

 もしかしたら、我々のこの滑稽な姿をどこか温かい場所で見ていて、ほくそ笑んでいるのかもしれない――己の内なる声に不安や懐疑、怒りが次々と沸いてくる。そんなマイナスの感情に囚われてしまう事を恐れ、祐希は冷静さを保とうと必死になって早足で雑踏の中を駆けていく。

 約一時間程繁華街を散策してみたものの、ユカ発見へと繋がる成果も進展もなかった祐希は、仕切り直しとばかりに一旦寮へ戻ってみた。

 誰もいない大きなダイニングルーム――普段ならば誰かしらがここにいて、練習でどんなに疲れていても明るい笑顔で迎えてくれる。そんな環の中心にいたのが小野坂ユカであった。薄暗い蛍光灯が照らす青白い光の下、テーブルに頬杖を付きながら祐希は、鳴りもしないスマートフォンを眺め此処にはいない彼女の事を思っていた。


 ――何処にいるんですか、ユカさん?


 色々な想いが頭を過り、ふと感傷的センチメンタルな気分に浸っていたその時、テーブル上のスマートフォンが着信音を撒き散らして激しく機体を震わせる。液晶画面に現れた発信者の名は祐希や、東都女子のみんなが待ち望んでいたであった。

「ユカさんっ! 今何処にいるんですか?!」

 恫喝するかの勢いで居場所を聞き出そうとする祐希。しかしスピーカーからは呼吸音は聞こえども未だに彼女からの返事はない。

 スマートフォン越しに長い沈黙が続く。

 祐希がしびれを切らせ、苛立ちをぶち撒けようとした瞬間、ユカからの返事が耳へ飛び込んできた。

「道場……あなただけには、ちゃんと話をしたいと思ってるの」

 ユカの真っ直ぐな――はっきりとした声調トーンに、これは只事ではないと感じ取った祐希は、すぐに向かいますと短く答えると、スマートフォンを尻のポケットへねじ込み急いで寮を飛び出していった。


 東都女子の道場までは選手寮から歩いて約10分。普段ならばもあってか然程距離を感じた事はなかったが、気が動転しているこの状態では実際の時間よりも長く遠く思える。不自然に呼吸が上がり足も縺れながらも祐希は何とか小ビルの一階にあるトレーニング施設――東都女子プロレス道場へとたどり着いた。

 誰もいないこの時間には、閉まっている筈のガラス張りのドアの鍵が開いていた。鍵を管理しているのは団体代表である元川だが、きっとユカが事務所から黙って拝借したのだろう。中扉の隙間からは室内照明の光が漏れていて、彼女はこの中に居ると思うと祐希は何時になく緊張する。

 ゆっくりと引き戸である中扉を開けていくと、普段祐希自身が目にする光景が目の前に広がった。綺麗に磨かれたウエイトトレーニング器具に真っ白な練習用のリング、そしてその中には――小野坂ユカが立っていた。白いニットのセーターにデニム地のセミロングスカートという、見た目によく似合った幼い格好だ。

 もっとバツが悪そうに、申し訳なさそうな表情をしているのかと思ったが、自分の胸の内でここ数日間抱えていたを全て清算できたのか、きわめて穏やかな笑顔でユカは祐希の方を見つめる。

「ここを――東都女子を辞めちゃうんですか、ユカさん?」

 誘導尋問などという、回りくどい質問の仕方が出来ない祐希は一番聞きたい質問を、そのままユカへぶつけてみた。

「辞めないよ。ただ少しの間リングから離れたいだけ」

 東都女子象徴アイコンである彼女から出た弱気な発言。小野坂ユカらしからぬ返事に「信じられない」と云わんばかりな表情をする祐希は、彼女の両肩をがしっと掴み左右に振った。だがユカの身体は祐希のなすがまま、柳のように揺れるだけで抗う気配すらない。

 ユカの《休場》への決意が固いのを悟った祐希は、そっと彼女の両肩から手を離した。最大の理解者が自分の側からいなくなる、という寂しさが波のように心へ押し寄せてくる。

「やっぱりさ――団体の象徴、なんて大それたポジション、小さなわたしには似合わないんだよねぇ」

「何バカな事を! そんな自信のない事言わないで下さい」

「七海の後を継いで、このプリンセス王座のベルトを腰に巻いてみたけど、のようなわたしにゃ荷が重すぎたわ」

 明るい口調ではあるが、ユカの口から弱気な言葉が次々と飛び出す。

 普段ならばだと捉えられてもおかしくない内容だが、この特殊な環境下では彼女自身のと受け取るのが自然であろう。とにかくユカの精神状態は限界まで疲労していたのだ。

「――あの時、事務所で元川さんと喧嘩していたのは」

「そう。“三ヶ月休ませて欲しい”って駄々こねたんだけどやっぱりね、メインエベンターが抜けたら困るって正論翳されて。いま東都女子も上り調子だしさ、彼の言ってる事も分かるのよ、旗揚げ当初からの付き合いだしね」

「――――」

「だけどこっちだって慣れないに四苦八苦しながらも、次代のメインエベンターたちを育成してきたのに何の見返りもない。これって不公平だと思わない、ねぇ?」

 絶対の信頼が置ける後輩、だからだろう。祐希を前にユカは一方的にを捲し立てた。それはどれも祐希にとっては合点のいくものだったが、一方で何かひとつ破片ピースが欠けているようにも感じた。

「ユカさん、いちばん大事な事を隠してません?」

「何をよ」

 祐希からの質問に、ユカは不機嫌な顔をする。

「休みたい理由ですよ。口では相手の事を誉めてましたけど、あの時愛果の奴に大苦戦して“今のわたしじゃ敵わない”とショックを受けたからじゃないですか?」

 ――――!?

 彼女の顔色が瞬時に変わった。

 これまで誰にも言わず、ぐっと胸の奥底に閉じ込めていた苦い思い――それを祐希から指摘されたユカの瞳からは、ずっと隠していた悔しさや自分の不甲斐なさが、涙へと形を変えて止めどなく溢れだした。

 どんっ!

 至近距離からのユカの体当りが、祐希の分厚い身体へ衝突する。衝動的に仕掛けたのだろう、体重差を考慮すれば相手が絶対に倒れる筈のないこの技を、祐希は抗う事もせずリングの上へふたり一緒に倒れた。

 マットに背を付け仰向けの体勢で、自分の上に乗っているユカを眺めみる祐希。リングコスチュームではなく普段着の彼女が、馬乗りマウントになっている姿はとても不自然に映った。

「ゆーの言う通りよ。愛果あいつはわたし以上にプロレスの天才。もしわたしが彼女より場数を踏んでなかったら、確実にあのベルトは獲られていたに違いない――悔しい、もの凄く悔しいっ!」

 東都女子いちの《プロレスの達人》と称されるユカが、キャリア3年未満の歳下の選手に嫉妬する姿は異様にみえた。だが自分自身に厳しく、レスリングに対する向上心を常に持つ彼女ならば、それも十分にとも祐希は思った。

「だけどさ――それがなんだよね。対抗馬もなくいつまでも、トップランナーでいる事なんて絶対にあり得ない。似たような技能スキル個性キャラクターを持った娘が現れて必ず自分の地位ポジションを脅かしに来る、それがってもんなのよ」

 身体の上にのし掛かられ、身動きの取れない祐希は黙ってユカの《プロレス論》を聞く他はない。思えば彼女がここまで自分の意見を一生懸命に、他人に説いた事があっただろうか?――少なくとも自分の同期や直近の先輩へ、バカ話はすれどもユカが講義レクチャーした、という話を聞いた事がなかった。

「一度弱気になった王者は、もう同じ相手とは二度も勝利はできない。会社は再試合リターンマッチを組みたがっていたけどもう御免だった。若い愛果に負けるのが嫌、とかじゃなくて前と同じ――の試合を見せる事が、今のわたしじゃ出来ないと判断したから」

 マットに背中を付け、下になっている祐希を押さえる両腕につい力が入る。

「それでユカさん――元川代表に内緒で私と愛果との《王座決定戦》を決めちゃって、怒られる前に会場から逃走したと」

 暫くの間言葉が止まる――道場の中では備え付けの自販機が、低いモーター音をたてて唸っている。

「――ホント言うとね、もうどうしていいのか分からないの。会場を飛び出してそのままトンズラしちゃおうか? とも思ったけど、元川さんあのひとに何も伝えず行っちゃったら大事になるに決まってるし」

 困り果て疲れ切ったようなユカの表情。

 散々駄々をこねて爆発した子供のように、全てを放り投げ衝動的に逃げ出したはいいが、時が経ち冷静になるとやはり会社や残された選手たちの事が気になってしまう。そんなユカに祐希は優しく、そして的確な言葉をかけた。

「もっと自由に生きてくださいよ、でいいんです。ユカさんが休んでいる間は、私たちや七海さんとでフォローしますから――あ、でも今日の事は元川さんにきちんと謝っておいた方がいいですよ?」

 祐希の両肩が急に軽くなる。それまで彼女の身体を強く押さえ付けていた、ユカの腕から力が抜けたのだ。自暴自棄になり混乱気味だった彼女の気持ちの中で、ようやく整理がついたようである。

 突如、ごそりと壁の向こうで物音がした。

 ユカと祐希は立ちあがり、恐る恐る音が聞こえた方向へ顔を向けると、そこには見慣れた顔が腕組みして立っていた――赤井七海であった。

「もしかしたら――と思って頃合いを見て来てみたけど、やっぱり此処にいたのね。もうちょっと逃亡場所の選択肢は無いの?アンタって娘は」

 チクリと憎まれ口を叩きつつも、ようやくユカに会えた喜びで笑みをみせる七海。そんな彼女にユカは、何を喋っていいものか言いあぐねていた。

「えーっと、あの……心配させてごめん」

 迷惑を掛けた申し訳なさと長年の付き合いから来る照れ臭さで、暫くの間をおきユカは下を向いて、最低限の謝罪の言葉をようやく口にした。

 ぎゅっ――

 何も言わず七海はユカを、胸元へ引き寄せると優しくも力強く抱擁をした。その姿はまるで、行方不明になっていた愛玩動物ペットを、安全無事に保護できた飼い主のように見える。ユカは頬を赤らめ彼女の腕の中で為すがままとなっていた。突然目の前で、繰り広げられた百合的な光景に唖然とする祐希。

「ユカが無事でホント良かった。私が一緒に付いていって元川の奴ととことん話し合うから、あなたは心配する事はないのよ」

 普段祐希や、他の選手たちにみせるクールなイメージとは違う、甘ったるくで乙女ちっくな七海の態度――どれ程ユカとの親密度が高いのかが一目瞭然だ。祐希は自分とふたりとの間に、決して乗り越えられない壁を感じて思わず後退りをしてしまう。

「な、七海さん。いつから……ここに?」

 七海は決して動じる事なく、胸元へユカの顔を埋めさせたまま祐希の方を向いた。

「そうねぇ――ゆーがユカに押し倒されていた時から、かな」


 ――それってほぼ最初からじゃない!


 ユカに無理矢理マットに寝かされて、まるで漫画みたいにイケメン男子から強引に身体の自由を奪われるが如く、上から押さえ付けられていた姿を思い出し祐希は、急に恥ずかしくなって赤面する。

「さぁユカ、早速今から一緒に事務所に行きましょ。えっ、この時間に開いてるのかって? ふん、元川の奴がわたしたちの到着を首を長くして待ってるわ」

 七海はそう言うと、幼子のようなユカの手を引きリングを降りていった。ユカは一度だけちらりと祐希の方を振り返ったが、その後は二度と視線を合わせる事無く親友の誘導に従って道場を後にした。ふたりの関係を知る者にとっては至って普段通りの光景――であるが、祐希の胸の中には何か割り切れない、モヤモヤとした気持ちがリングに漂ったままのユカの残り香と共に、こびり付いたままであった。



「――ふぅん、そんな事があったんだ」

 鉛色の寒空の元、温かい缶コーヒーを飲む手を止め、非常階段の手摺にもたれ掛かる祐希に、愛果が話しかけると彼女からは「うん」と短い返事がかえってきた。

 前回の大会では、セコンドを巻き込んでの大乱闘を繰り広げたふたりだったが、そこは同年代で似たような立場のふたり。台本ブックではない本気の喧嘩を観客の前で行った結果、すっかり打ち解けて意気投合してしまったのであった。


 結局、その夜を徹して行われた元川代表とユカ(と七海)との話し合いによって、正式に東都女子の至宝であるプリンセス王座の決定戦が決まり、晴れて?ユカは王座を降りる事となった。だが彼女の方も「著しく団体の和を乱した」として、という制裁を課せられてしまうが、これはユカにとって願ったり叶ったりのペナルティーで、やや強引ではあるがこうして、ユカの要望はほぼ受理されたのであった。

 祐希と愛果は、一週間後にホールで開催されるプリンセス王座決定戦の、公開調印式のため東都女子プロレス事務所に来ていた。事務所の一角に設けられた会見場で、マスコミ各社が派遣する記者やカメラマンたちの前、この試合に賭ける情熱を競い合うかのようにふたりは、殺気立つ睨み合いや辛辣な舌戦などを繰り広げ、時には力強く時には可憐なポーズをカメラマンの注文に応じて撮影させるなど、来るべき王座戦へのプロモーション活動を行った。

 生真面目な性格の祐希からすれば、かなり大胆とも言える行動であるが、会見場の中に本来なら存在すべき人物――小野坂ユカが自分の側にいない事が、苦手だったプロモーション活動を積極的に行うきっかけとなっていた。普段なら自分をヘルプしてくれる、ユカの《参謀役》というべき先輩の七海もこの場にはおらず、いずれ来るであろう東都女子のトップふたり無き後のシミュレーションとも言えた。

「――絶対的なエースであった小野坂選手の欠けた穴を、キャリアのまだ浅いあなた方ふたりは埋められると思いますか?」

 チャンピオンベルトを持つ元川を中心に挟み記念撮影をしている最中、ある記者から少し意地悪な質問が投げ掛けられた。

 一般的な女子プロレスファンたちの認識では、東都女子=小野坂ユカ&赤井七海、が大多数であるなか、今度のホール大会はそのユカは欠場、七海もメインを降格という圧倒的不利な状況に加え、目の肥えたファンたちからは注目を集めているがまだ、キャリア三年以下である東都女子・太平洋女子の《将来のエース候補》である愛果と日野祐希によるメインエベント、しかも団体の至宝を賭けて争われる王座決定戦というまで付いてしまったこの試合に、不安視をしない認識者などはいないだろう。この場に居る誰もが思っているをぶつけられた、祐希の返答に注目が集まった。

「確かに――不安が無いと云えば嘘になります。今までこの団体を築き支えてくれた偉大な先輩方が、自分の試合の後に出てこない事に心細さを正直感じます」

 祐希の発言に、少数の記者たちから蔑むような笑みが溢れたのを、愛果は見逃さなかった。お前たちじゃ無理だ、失敗するに決まっている――そんな声が聞こえてきそうで、肚の底から込み上げてくる怒りをぐっと堪え、彼女の発言の続きを待った。

「だけど、これが現実なんです。やれるかやれないか? ではなく、わたしたちで! ユカと七海さんの時代だっていつまでも永遠に続くわけじゃない。だったらわたしたち下の世代が彼女らがいなくなった後の、リング上の景色を描いていかなきゃいけないじゃないですか。そんな東都女子の《未来予想図》のひとつが今度のホール大会なんです! 絶対に観る人の期待は裏切りません、これまで以上に楽しく激しいプロレスを見せていきますので、応援の程どうぞよろしくお願いします!!」

 はっきりと、力強く自分の思いの丈をこの会見場にいるマスコミ陣、更に質問をしてきた記者に向け、語り終えた祐希は深々と一礼をした。自己アピールが下手で引っ込み思案なあの祐希が、ここまで熱くPRする姿をみて元川はもとより、彼女を知る記者たちは思わず面食らってしまう。そして数秒間の沈黙の後――彼女のスピーチに心打たれた全ての人から応援や激賞の拍手が送られた。

 信じられない光景に目頭の熱くなった元川は「よくやった」と云わんばかりに、隣にいる祐希の脇腹を肘で軽く突く。ちくっと刺すような痛みに身体を捩らせながらも彼女も嬉しそうに笑った。


「あんた、やっぱり強いよ。あの重圧プレッシャーの中でよく堂々と、あんな大それた事を言えるよね。実はさ――わたしもちょっと感動した」

 記者会見終了後、愛果はふたりきりで話したくなって、祐希を事務所のあるフロアの外に設置されている非常階段へ誘った。途中で廊下にある自販機で缶コーヒーを2本買い、強めの北風が吹き抜ける非常階段の踊り場に着くや、祐希にそれを投げ渡す。踊り場を囲む手摺に彼女たちは並んでもたれ掛かり、コーヒーを飲みながらいろいろと話をした。己の近況や互いの団体事情、そして一番大好きなプロレスの事も。

 数ケ月前のビッグマッチで、小野坂ユカのプリンセス王座防衛戦の相手に彼女が選ばれるまで、愛果の存在を知らなかった祐希はこの場で初めて、情報などに惑わされない彼女の性格やプロレス観などを知り、同じく愛果もゴツゴツとした身体からは想像できなかった、気質な性格を知って親近感を抱くなど、お互いにとって実に有意義な時間であった。

「他の所はどうか知らないけど、東都女子うちはマジでユカさんと七海さんので持っている零細団体なの。だけど――誰だか知らない奴に、本当の事を面向かって言われるとムカつくじゃん? だから一発カマしてやったのよ」

 祐希の、如何にも不機嫌そうな表情と大胆な発言に愛果は大笑いする。それと同時に「自分が団体を守っているんだ」という責任感を、直に感じて羨ましくも思った。

「いいな、そういうの。太平洋女子ウチなんて選手層が厚くわたしら中堅には陽が当たらなくて。でもその代り、練習する時間はたっぷりあるし、外の団体へ軽々と出ていけるもあるわ――リングの下でセミやメインの試合を見る度に、『いつか見てろよ、すぐにそこまで昇り詰めてやるからな』なんて思ってる。そういうのっておかしい?」

 祐希は首を横に振って、彼女の意見を肯定した。

「全然! 愛果は正しいよ。やっぱり私らってにあったんだよ。こんなに気持ちが通じ合う相手なんてそうそういないもん」

「何だか、ユカさんの掌の上で踊らされているような気がするけど……やっぱこれも宿命さだめなのかもね、わたしのレスラー人生の最初の転機として」

 全て悟ったような愛果の顔がおかしくて、笑いながらぱんぱんと彼女の背中を叩く祐希。

「じゃあベルトを獲るのは愛果か私か――勝負ね」

 どちらも自信に満ちた表情のふたり。

 顔を見合わせると今日一番の大きな声で笑い合った。

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