第3話

 真夏特有の熱く強い日差しが、カーテンの隙間から差し込んでいるのにもかかわらず、青色のタオルケットをすっぽり頭から被ったまま祐希は、一向にベッドから出ようとする気配はない。テレビの上の置時計の針は既に午前11時を廻り、いちばん上に配置されている12時の文字盤へと向かい進んでいた。

 本日は試合もなく練習もお休み。久しぶりの休日を祐希は、選手寮のベッドの中でひとり過ごしていた。同じ部屋で生活しているルームメートふたりは、この貴重な休みを一分一秒でも無駄にしたくないようで、爆睡する彼女を放っておいて休日を満喫すべく、さっさと寮を飛び出してしまっていた。

 一定のリズムで寝息をたて、時折右に左にごろりと寝返りを打つ祐希。ここ最近ハードな闘いが毎大会続いていた事もあってか、その身体に大量に蓄積した疲労が元々から出不精だった彼女を、ますます寮の外へ出る事を遠ざけていた。皆のように短い休日にわざわざ疲れた身体に鞭を入れて、外へ繰り出しては買い物やスイーツの食べ歩きなどに費やすなど無駄のように思えたのだ。それだったら一日中部屋で寝ていたほうが、どれほど肉体的にも経済的にも有益だろうか――すっかり「引き籠り」の思考と化していた祐希であった。

 廊下からぺたぺたと、軽快にスリッパで走ってくる音が聞こえたかと思うと、いきなり部屋の扉が乱暴に開けられた。

「ゆー、あんたいつまで寝てるのよ!」

 部屋へ闖入してきたのはユカだった。あまりの騒々しさに恐る恐る、タオルケットから首を出して彼女の方を見る祐希。

「ふわぁ~っ。どうしたんですか? こんな朝早くから」

「朝早く……? ってもう昼前よ。こんなにガンガン日光が入ってきてるのに、よく平気で寝られるわね」

 祐希のとんちんかんな発言に、ユカは既に呆れ顔である。

「そういうなもんで」

「バカ言ってないでさっさと起きるっ!」

 いつまでもベッドから起き上がろうとしない祐希に、苛々が頂点に達したユカは強硬手段として乱暴気味に、彼女の身体からタオルケットを引き剥がした。中から現れたのはお気に入りのロックバンドのTシャツを着て、下半身は何と桃色のショーツのみという恥ずかしい格好だった。人前にもかかわらず平気そうな顔をしているのは此処が男子禁制のだ、という安心感だからだろう。

 祐希はベッドの上に放ってあったジャージ地のショートパンツを、もぞもぞと尻を動かし寝ころびながら穿くと、ようやくベッドから降りた。

「おはようございます、ユカさん」

「ゆーさぁ……わたしに叩き起こされるようになったら、もう終わりだよ?」

「以後気を付けます。ちゃんとドアに鍵を掛けて」

「そっちじゃねーわ」

 ふたりは部屋を出て、一階の広間へと向かう。普段は練習生を含む10名前後がこの選手寮で生活をしているが、完全オフ日である今日に限って人の気配が全く感じられない。因みにキャリアの長いユカは特に寮で生活する義務はないのだが、道場がここから近い事や皆とわいわい騒ぐのが好きな性分故、入門以来ずっとこの選手寮で暮らしているのだった。

 長いテーブルが6脚程度並べられ普段ここで皆が食事などをする広間には、ぽつりと銀色のボウルとガラスの小鉢が置かれていた。祐希がボウルの中を覗き見るとどうやら冷や麦のようである。

「どうしたんです? こんなに沢山冷や麦を」

「ほら、暑いしさっぱりした昼食がいいなと思って。棚にあった貰い物の冷や麦を全部茹でたのよ、七海もいないしヒマだったからさ」

 そういうとユカは小鉢に麺つゆを注いで祐希に手渡す。分葱や生姜などの薬味もちゃんと、他の容器に盛られており準備は万端だ。ボウル一杯に張られた水の中で涼しげに浮かぶ冷や麦をユカと祐希は、黙々と麺をつゆに付けて啜るを繰り返す。美味い不味いではなく、冷たい麺がつゆと共に喉を流れ落ちていく、何とも言えない感覚を夏という季節と一緒に味わうのだ。

「でも、珍しいですね。ユカさんが七海さんと一緒にいないなんて」

 ふたりでいてこそ自然である、彼女たちの片割れがいない事に祐希は質問してみるが、ユカはその点に触れられたくないのか、いきなり麺を口いっぱいに頬張り「答えられません」と無言でアピールをする。 頬っぺたを麺で膨らませてハムスターのような表情をするユカに対し、先輩らしからぬ幼い行動に呆れ返りながらも何処か憎めない。まぁいいか、そんな日もあるよね――祐希はそう思う事にして再びボウルの中から冷や麦を取り出していると、何故かユカは不機嫌そうな顔をしているではないか。

「……置いていかれた」

「へっ?」

 少しばかりの怒りを含ませ、小さな声で口籠るユカに祐希は驚いた。やはり何かがあるようだ。

「七海がさぁ……一緒にジムへ行こうって言ってたのにさ、わたしを置いてひとりで出て行っちゃうんだよ? ひどいと思わない?」

「その時、ユカさんは何してたんですか?」

「……爆睡してた」

 わ、笑っていいんだよね?――祐希は腹の底から込み上げてくる笑いと、先輩の手前笑ってはいけないという理性との間で、脂汗を額に滲ませ葛藤する。それはどんな闘いよりも辛く苦しい時間であった。

「大体七海も起こしてくれればいいのにさ……結局自分が一番大事なのよ、あいつったら」

 学校に遅刻した中学生の言い訳のようなユカの弁に、祐希の我慢も限界に近付いてきた。このままでは吹き出しちゃう、誰か早く来てぇ――平然を装う彼女の表情筋がひくひくと動き悲鳴をあげそうになっていた。

 大爆笑寸前だったその時、絶妙のタイミングで広間の扉が開いた。

「ただいまぁ……おっ、ユカとゆー。ここにいたの?」

 七海がジムから戻ってきたのだ――手には白いレジ袋をいっぱいぶら下げて。

「ななみぃ~」

 ユカは彼女の名を叫び椅子から立ち上がると、すぐさま親友の元へ駆け寄って抱きついた。室内にはクーラーが付いているとはいえ、汗でべとべとのユカが纏わりついてかなり暑苦しそうな七海。

「ゆー、ちょうどいいや。ジムの帰りにアイスいっぱい買ってきたから冷蔵庫に入れといて」

 そういうと色々な種類のアイスがぎっしり詰まったレジ袋を祐希に手渡す。寮で生活する人数分買ってきたらしくかなりの重量だ。言われた通り広間にある大型冷蔵庫の冷凍スペースに詰め込んでいると、ユカが横入りしすぐさまメロン型の容器をしたシャーベットを持っていく。

「えへへ。わたしはこれが一番好きなのだ~」

「へぇ、何かイメージにぴったりですね。子どもっぽい所が」

「なにおぅ!」

「はいはい。ユカは黙って食べましょうね――ふぅ~、この冷たい喉越し最高っ。やっぱり夏は冷たい麺に限るわね」

 子ども扱いされてぷりぷりと怒るユカを宥めながら、先程までふたりで食べていたテーブルの上の冷や麦を啜る七海。祐希は御相伴にあずかってソフトクリーム型のバニラアイスを頂いた。

「七海さん、ユカさんがって文句垂れてましたよ」

「なぁに言ってんのよ。ユカが約束の時間になっても、起きてこないから先に行ったんじゃない」

「お、起こしてくれたっていいじゃん」

「あんたは子どもか! 成人式をとうに済ませたいい大人が全く……」

 母親と子供の会話を思わせる彼女らのやり取りが楽し過ぎて、祐希は身を揺らして大笑いすると共にその仲の良さを羨ましがったりもした。自分が邪魔者のように思えてしまい、どうも同じ場所に居る事が躊躇われてしまうのだ。そんな祐希に七海はふと視線を向ける。彼女はバニラアイスを食べ終えてコーンの部分を齧っている最中だった。

「あ、そうそう。それでね、ジムの帰りに事務所に顔出してきたんだけど――ゆー。そろそろ覚悟しておいた方がいいわよ?」

 平坦なトーンで不安を煽るような彼女の言い方に祐希は、また自分が何か元川代表の気に障るような事をしたのではないか? と心配でしかたがない。

「わ、わ、私何かヘマでもしましたか?」

「さぁ~ね? 焦らなくても直に分かるわよ――良い話か悪い話かは」

 祐希は救いを求めるかのような視線で彼女を見るが、七海は意地悪そうに微笑むだけでこの件については、一切口を開こうとはしない――むしろ不安に怯える様を楽しんでいるようにも見える。完全に蚊帳の外となってしまったユカは、双方の表情を見比べては訝しげな顔をするのであった。


 謎かけのような七海の発言は、すぐさま祐希の身にとなって降りかかった――

 話を聞いてから数週間後、いち地方の小都市で開催された興行に於いて突如として、尊敬する大先輩・赤井七海とのシングルマッチが組まれたのだ。専門誌や公式HPでもこのカードは事前に発表されておらず、祐希にしてみればまさに降って湧いたような話であった。というのも、開催6日前までの公式発表では全く別の対戦カードが組まれていたのだが、思うように前売りが捌けず営業的に苦戦していた。そこで初めて東都女子の興行を買ってくれた興行主プロモーターの顔を立てるため、機が熟するまで温存していたこのを急遽組み入れたのだ。

 しかしが全く無かったわけでもなかった。東都女子の会場に足を運ぶ観客たちの支持がここ最近、めきめきと急上昇している祐希だが、大都市はともかく地方へ行ってもその人気が通用するのか? という心配はあった。一家言持つマニアたちが集う、都内の会場では集客できるカードであっても、団体を問わず「わが町」へ年に数回やってくるプロレスを、楽しみにしている人々が集まる地方都市では全く入らない事もよくあるのだ。元川は祐希の日頃の頑張りと七海との対戦で“スター”へと化ける可能性に賭けてみた――この大博打は見事に的中し、前日までの前売り分と当日券が飛ぶように売れたのだ。聞けばこの地方在住の観客のみならず、遠方からもこの一戦を観戦しに、様々な交通手段を駆使してやってきた強者もいるらしい。元川が思っている以上に、祐希は既に集客能力のあるレスラーへとなっていたのだ。

 何はともあれ、プロモーターの顔を潰さずには済んだのだった。

 

 会場である公共運動施設内に、綺麗に設置されていたパイプ椅子がど派手な衝撃音と共に水しぶきのように飛び散った。瓦礫のように散乱する椅子の中に埋もれているのは――祐希だ。客席へ彼女を投げ入れた張本人である七海は、観客たちが逃げ惑う中厳しい表情で祐希が立ち上がってくるのを待っていた。しかしダメージの蓄積でなかなか起き上がる事のできない彼女に、痺れを切らした七海が髪を掴んで無理矢理に引き摺り起こすと、椅子の中へ飛び込んだ際に出来た裂傷で額が切れ血が滴り落ちる。

 プリンセス王者である小野坂ユカを差し置いて、メインで組まれた時間無制限で競われるこの一戦は、人気上昇中である祐希へのなどといった生易しいものではなく、開催は未定だが次回王座戦への挑戦者チャレンジャーを決める、彼女だけでなく対戦相手の七海にとっても非常に重要な試合であった。2年前に新設された際に王座決定トーナメントを勝ち抜いて初代王者となり、不本意ながらもユカに明け渡すまでは彼女の代名詞的な存在ベルトだっただけに、王座への思い入れは団体内の誰よりも強く熱い。だからこそ上り調子である後輩の追撃を完全に断ち、再び黄金のベルトを腰に巻くべく七海は祐希に対し、変に手心を加える事無くユカや他団体の猛者たちと対戦する時と同じように、妥協なきハードヒットな攻撃をガンガンと喰らわせていくのだった。

 本来は反則であるナックルパートを、祐希の額の傷へ躊躇無く撃ち込む七海。その厳しい攻撃もさるながら、勝利への異常なまでの執着心が彼女を鬼へと変貌させ、止めに入ろうとする若手選手たちも恐ろしさのあまり近寄る事が出来ないほどだ。

 大ダメージを受け困憊としている祐希には、もう反撃する力も残っていないのか? 七海の鬼神の如く攻撃に耐えきれず、その闘志は萎えてしまったのだろうか? いや、彼女はじっと耐え攻撃の機会を狙っていた。確かに肉体的なダメージはあるがそれ以上に、デビューしてから絶えず追いかけてきた《目標》であった赤井七海に勝利したい、という気持ちの方が上回り多少の痛みなど感じている暇などない。七海本人にその気はなくてもという少し見下された存在ではなく、死力を尽くし倒すべき敵として認識されて初めて、自分は彼女と対等な立場となった気がした。

 既に1ダース近く額に打ち込まれた七海の拳。彼女はこれで最後と言わんばかりにぐるりと周りを見渡し、観客の反応を確かめると弓を引くように腕を大きく反らせる。


 ――今だっ!


 この僅かな隙を突いて祐希は、七海の腹へ重い蹴りを入れた。無防備な腹部に爪先がめり込んだ途端彼女の動きが一瞬止まる。そして間髪入れずに自分の鮮血で赤く染まる額を七海の頭部へ、何の躊躇なく力一杯ぶち当てた。傷口は更に広がったかもしれないが、フルスイングの頭突きヘッドバットを喰らった七海は大きく吹き飛びパイプ椅子の海の中へと崩れ落ちる。額を押さえ痛がる彼女の姿を祐希は、肩で大きく息をし暫しの間見つめていた。

 呼吸が整った頃合いを見計らい、頑丈少女は動きだし七海の赤味がかった長い髪を無造作に掴み強引に場所を移動させる。床に散らばっている椅子を蹴散らし嫌がる七海を無視して冷たく硬いコーナーポストの所まで到達すると、髪を掴んだまま思い切り鉄の塊に額をぶち当てた。ごんっ! という小さく鈍い音がし、頭部への衝撃で動けなくなった七海はがくりと膝を折ってその場にうずくまる。その間に悠々とリング内へと戻った祐希は、拳を握り四方の観客に向け、肚の底から大声で叫んだ。絶対、七海あいつを倒してやるんだ――そう云わんばかりに。

 祐希の手加減なきラフ攻撃を受け、足取りも重くリングに帰還した七海は、ロープにもたれ掛り大きく深呼吸をした。その間も頭の中では、如何にして彼女を仕留めるか策を巡らせていた。身体能力フィジカルや技もこの東都女子全選手の中でもトップクラスである彼女に部分は生憎見つからない。しかし格闘技者として最も根底の部分にある執念と根性が優れば、勝利の女神がもしかしたらこちら側に微笑んでくれるかもしれない。七海は覚悟を決めた。

 落ち着きを取り戻した七海は、相手を罵倒する言葉を叫びながら祐希の身体へ、変幻自在の蹴りを叩き込んでいった。祐希は懸命に両腕でブロックをするが、七海の脚は鞭のようにしなりガードする腕の向こう側へと、まるでだと嘲笑うかのようにヒットしていく。それは一撃で相手の動きを止めるような重い蹴りではなく、じわりじわりと何発も身体に叩き込んで痛みを蓄積させ動けなくさせる蹴りだった。


 ――やばい、打撃のダメージが浸透して身体が痺れてきた。このままだとやがて闘志も削がれ、相手の思惑通りになってしまう。何か善後策を打たないと!


 切れ目のないキックの雨を浴びせてくる、七海との間合いを外すのは、鋼の肉体を誇る祐希をしても困難を極めた。蓄積した身体の痛みと過去の対戦で植え付けられた恐怖心、射程範囲中に入る一歩がなかなか踏み出せないのだ。


 ――どうした? しっかりしろ日野祐希っ! お前に怖いものなんて無いだ。蹴りのひとつやふたつ喰らったって、簡単に壊れるほどなわたしじゃないっ!


 頭の中で何度も何度も、同じ言葉を唱え続けて自分を鼓舞する祐希。消えかかる闘志を再び熱く激しく燃やし、血肉に自信とパワーを送り込む。その時、廻りの空気を切り裂いて猛スピードで向かって来る、七海の蹴りの音が耳に入った。進行方向を予想するに左側頭部の辺り――確実に意識を苅りにきている。祐希は腕で頭部を保護しつつ、意を決して素早く間合いを詰めた。

 勝負を終わらせんとする七海の放つ側頭部狙いのハイキックが、振り切らんとする手前でその蹴り脚をキャッチ、同時に彼女の頭を掴んで固定すると祐希は身体を後ろに捻り七海の身体を高い軌道で投げ、マットへ頭部をめり込ませる。

 捕獲投げキャプチュードが炸裂した。格闘技色の強いプロレスを好んで観ていた学生時代、祐希の最も好きだったこの技が殺気に近い匂いを放つ、七海のアグレッシブな攻撃を前にして咄嗟に出たのだった。かつて憧れとしていたファイトスタイルで、同じような志向を持つ七海と現在一騎討ちをしている。プロレスラーとしてこんな嬉しい事はない――祐希は頭を振ってマットから立ち上がらんとする好敵手を待つ間、ふとそんな事を思った。

 両足がしっかりとキャンバスを噛んで、全身を起こした七海へ掴みかからんと祐希が前進した。もう一発スープレックス等で彼女をマットへ叩きつけ、思い切り首や肩を締め上げれば絶対に勝てるはずだ。短絡的だが彼女にすれば確実な勝利の方程式が、かつての柔道少女を突き動かす。

 どすっ!

 祐希の鳩尾へ突き上げるような激痛が走り、彼女は思わず歩みを止めてしまう。スープレックスで喰らった首へのダメージに耐えながらも、七海がカウンター狙いのニーリフトを叩き込んだのだ。もともと打撃系格闘技の経験者で、プロレスラーになった現在でも時間をみつけてはキックボクシングのジムに通い、自分のの精度を高める努力を続ける彼女の膝蹴りが効かぬはずはない。勢いに乗りかけていた祐希をこの一撃で止めてみせたのだ。

 患部を押さえ屈む祐希の首に手をかけ固定すると一発、更にもう一発と連続で膝を突き刺していく七海。どてっ腹へ打撃が食い込む度に祐希の身体は浮きあがる。左右へ身をよじり膝地獄からの脱出を試みるが、首へのロックが恐ろしく固く振り解く事が出来ない。

 連続膝蹴りのダメージが祐希の顔色に表れたのを確認すると、七海は首のロックを解除し正面方向のロープへ振った。力無く背中でロープをバウンドさせて祐希が戻ってきた所に彼女は飛び上がり、右の膝を下顎部に目掛けて突き出す。祐希は反射的に掌で相手の攻撃を往なさんとするが、意外にも右膝は途中で失速し攻撃箇所へ被弾する事はなかった。

 虚を突かれて僅かの間、思考がフリーズした祐希の頬骨へ衝撃が走る。七海は二段蹴りの様に逆方向の膝頭を彼女の顔へぶち当てたのだ。振子の要領で勢いの増した膝蹴りを受けた祐希は、目の前が真っ暗になり真後ろへ倒れていった。

 大の字でダウンする祐希に被さると七海はレフェリーに対し、大声でフォールカウントを要請する。

 ひとつめが数えられた。目を閉じたまま動かない祐希。

 ふたつめのカウントが数えられても、彼女の身体は全く微動だにしない。険しかった七海の表情も勝利を確信したのか、少し柔らかくなっているように見える。

 レフェリーが最後のカウントをマットに叩き入れようとしたその瞬間、それまで動く気配のなかった祐希が気合と共に、右肩を上げてフォール負けを何とか回避した。勝利が目前まで迫っていた七海は愕然とし放心状態となっていた。

 よろよろと身体を左右に揺らし、必死に立ち上がろうとする祐希を見て我に返った七海は、すぐさま首に腕を巻きつけ、自分の肩に相手の腕を掛けて勢いよく持ち上げた。このまま後方へ倒れればブレーンバスターとなるが、七海はここから相手の身体を抱え正面に、そして頭部を砕かんばかりにマットへめり込ませる。七海の必殺技フィニッシャーのひとつである変形パイルドライバー、ファルコンアローが決まった。

 これを返されたらもう後はない――エビ反りになった祐希の身体を固める、七海の腕にも必要以上に力が入る。「絶対に負けるはずがない」という自信と「もしかしたら……」という不安とが交互に彼女の頭をよぎり、その表情はますます強張っていく。しかし残念ながらこの攻撃もフィニッシュになり得ず、祐希はカウントスリー寸前で身体を跳ね上げて、いつ終わってもおかしくないこの勝負をぎりぎりの所で繋ぎ止めていく。

 落ち込んでいる時間はない。一度で駄目なら何度でも、と七海は再び祐希を担ぎ上げファルコンアローの体勢に入る。もう一度この技を喰らえば今度は確実に試合は終了してしまう――そうはさせまいと祐希は、真上に自分の身体が持ち上がった瞬間、身を捻って七海の背後へと着地した。


 ――このチャンスを、絶対逃してはなるものかっ!


 真正面に落ちるべく祐希を見失い唖然とする七海が、正常に対戦相手の位置を認知するまでの僅かな隙に技を仕掛けなければ、祐希に勝機はない。だから一番自信のある、相手を仕留められる技を咄嗟に選択した。右腕をぐるりと首に巻きつけ、七海の脇から左腕を差し込んで持ち上げ瞬時に頸動脈を締めた。元は柔道技である片羽絞めタズミッションの完成だ。もちろん立ったままでも極める事ができるが、祐希はグラウンドの状態に持ち込み大腿部を使って胴締めボディシザーズも同時に極め、絶対に逃れられないよう念入りに七海の身体へと絡みつく。徐々に血の気が失せていくのを自分自身でも感じながら、七海は残された力を振り絞って祐希の技から逃れるべく、必死で抵抗し踠き足掻いた。

 四方を取り囲むロープに手か爪先が届きさえすればまた闘える――そう思い彼女は腕や脚を懸命に伸ばすが、リングほぼ中央というポジション故に距離がありすぎて絶望的だった。勝利を諦めずに抗う七海に対し祐希は、仰向けの状態から身体を回転させうつ伏せにして更に締めあげた。彼女の腕が、そして自分の肩が頸動脈をますます圧迫し、血液中の酸素が脳へ行き渡らなくなった七海は、目の前に三本あるロープの一番下を凝視したまま瞳からふっと光が消えた。最後の最後まで「ギブアップ」と彼女の口から自己申告する事無く、遂に失神してしまったのだ。

 七海の指先から力が抜けたのを見たレフェリーは危険と判断し、至急彼女の身体から祐希を剥がして容体を確認、そして介抱する。しばらくして目を閉じ眠るように小さく息をする七海を見て、当のレフェリーや慌ててリングに駆け込んできたセコンドの選手たちは「彼女は大丈夫だ」とほっと胸を撫で下ろした。この非常事態に観客は称賛の拍手も、怒りのブーイングも忘れ黙り込んでしまい、騒がしいリング内とは真逆に会場は静寂に包まれた。

 “敗者”七海の周りに多くの人間が集まっている中、彼女との死闘を制し次期王座戦への挑戦権を勝ち取った祐希は、リングの隅でロープに腰掛けひとりぼっちでリング上の騒ぎを他人事のように傍観していた。


 ――私が心底悪役ヒールを演じられたなら、倒れている七海先輩に向かって嫌味や罵倒のひとつでも吐いて会場をブーイング一色に染められるのに……やっぱり私はプロレスラー失格なのかなぁ。


 ネガティブな思考が頭の中を過ぎる度に祐希の目に涙が浮かぶ。せっかく元川代表や七海にお膳立てしてもらったこの晴れ舞台を、にしてしまった罪悪感でかつてプロとしての方向性に悩んでいた祐希の弱気な一面が現れ出した。

「バカ野郎、おまえ勝者だろ? もっと胸を張って堂々としろ!」

 聞き覚えのある声が祐希を叱咤する――セコンドに肩を借りふらふらになりながらも、マイクで怒鳴っている七海の姿がそこにあった。

 試合中はあれほど殴ったり蹴ったりされて憎くてしょうがなかった彼女だが、試合終了のゴングが鳴れば道場や寮でみせるへと戻る。だが無事だったとはいえ彼女が力無く失神した姿を、そうしたのが自分自身であるというでなかなか七海の側へと寄る事が出来ないでいた。

 いつまでも躊躇している祐希の姿に苛立った七海は、とうとう若手選手の肩から腕を外して自分の脚でしっかりと歩き――脂汗を垂らし見るからに辛そうな表情で、一歩一歩祐希の方へ近付いていくと優しく彼女の身体を抱き締めた。

 七海の汗の匂いと体温を直に感じ、祐希の顔から不安の色が消え安堵の表情へと変わる。

「ったく……いつまで経っても変わらないんだから。もっともっと強くなりなさいよ、プロレスだけじゃなく度胸ハートの方も」

「なるべく努力……します」

「ちょっとシャクだけどユカとの試合タイトルマッチ、精一杯頑張ってちょうだいね」

 七海からの激励に祐希が頭を垂れ、両手で彼女の手を握り態度で応えると、それまで水を打ったように静まり返っていた観客席から一斉に、掌が痛くなりそうな程の大きな拍手が送られた。観客たちは一連の七海の行動によって祐希の勝利をようやく受け入れる事ができたのだ。

 地方どさ回りの興行で組まれたとは思えない――後でネットや映像ソフトでこの試合の事を知り、現地で観られなくて地団駄を踏んでしまうような、互いに死力を振りしぼって争われたに近い色合いの好勝負を演じた、偉大なるふたりの女子プロレスラーに対し、感動や興奮をした観客たちからの称賛と感謝の拍手はいつまでも止むことはなかった――



「――ここまで導いてくださった、尊敬すべき先輩である七海さんを撃破できた今、私が恐れるものは何もありません。現在チャンピオンベルトを持っているのはユカさんですが彼女の王座に挑戦という気持ちはなく、むしろ私がユカさんからの挑戦を位の心構えでいます」

 地方興行から都内に戻ってから数日後、東都女子プロレスの事務所内に設営された記者会見場では試合の結果を受け、秋口に開催される大規模会場でのビッグマッチにマッチアップされたプリンセス王座戦、王者・小野坂ユカ対挑戦者・日野祐希に関しての記者会見が執り行われていた。

 団体代表である元川の司会の元、落ち着いた色合いのスーツに身を包んだユカと祐希は次々と飛ぶ各マスコミの記者からの質問に答えていた。元からの性格ゆえサービス精神たっぷりに受け答えするユカとは違い、奥手で話下手な祐希は何度も言葉をつっかえながらも何とか自分らしい発言を述べる事が出来た。上記の発言は他人に悪口を言う事が殆どない祐希の、王者ユカに対しての精一杯のであった。彼女の事を知らない記者はこの発言に失笑していたが、逆に祐希の実力をよく知る者たち――特に隣に座っているユカはこれを聞いて、思わず背筋を伸ばし身を正してしまうほどだった。

 記者たちからの質疑応答が終り、ふたりはカメラマンたちの前に立ち元川を中央に、右側には黄金色に輝くベルトを肩に掛けた余裕の表情のユカ、左側には緊張の面持ちで拳を固めファイティングポーズをとる祐希が立ち、シャッター音と眼が眩むようなフラッシュの中、リクエストに応じ幾度もポーズや表情を変えての記念撮影が行われた。早ければ当日中にもウェブニュースに、遅くても3日後に店頭に並ぶ専門誌には彼女らの、王座戦に賭ける意気込みや決意などが掲載され女子プロレスファンの元へと届くだろう。

 しかし僅か数日後――ツイッターやSNS等で勝敗予想が語られ出し、徐々に王座戦への盛り上がりを見せ始めたその矢先、突然団体より発表されたニュースにファンたち誰もが目を疑い、驚き、信じられずにいた。


《日野祐希、怪我の為予定されていたプリンセス王座戦は中止》――

 

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