第4話

 季節はすっかり秋へと移り変わったものの、まだまだ夏のそれを思わせるような眩しく強く、そして熱い直射日光が大きなサッシ窓から降り注いでいた。窓の外を見れば市街地に車が走り電車が定期的に往来して、何も変わらないごく普通のが営まれているのに、窓の内側――空調の整った病室の中では生活感というものが全く感じられず、ただ日が昇ったり落ちるのを黙って待つだけの日々が過ぎていくだけだった。快適とは決して言えない、飾り気のないベッドへ横になって、すっかり張りと艶を失った腕に点滴がたっぷりと時間を掛け一滴、また一滴と流れ落ちていく様を祐希は、容器と連結するチューブを凝視したままで表情はもちろん身体を動かす事はなかった。


 彼女は今、団体の選手寮ではなく都内の病院にて入院を余儀なくされている。団体発表ではと記載されているのみで、症状や怪我の程度など詳しい事は全く触れられていない。入院怪我といえば普通に想像できるのは、職業柄下半身の部位――例えばアキレス腱や膝靭帯の断裂、それに半月板損傷や足首の骨折といったところだろうか。だがその程度ならばきちんと団体側もファンへ知らせているはずだ。今回症状を発表されなかった理由、それは練習中の事故ではなく全くのプライベートで、それも暴力沙汰に巻き込まれて刺傷するという、にわか信じ難い不幸アクシデントに見舞われたからだった。


 王座戦の中止が団体から発表された朝、新聞の事件欄には小さいながらも、驚くべく記事が掲載されていた。


 □□通りでけんか 20代女子プロレスラーが刺傷

 1×日午後11時20分頃、S区◯丁目□□通り付近の路地で帰宅途中の会社役員・元川瑛二さん(46)が、20代前後の若い男性3人に絡まれ暴行を受けた。揉み合いの際に元川さんと一緒にいた女子プロレスラー・日野祐希さん(22)が、男の取り出した刃渡り約5センチの果物ナイフで左腹部を刺され重傷を負った。その後男たちは通報によって駆け付けた警官たちにより、傷害の疑いで現行犯逮捕された。


 まるでサスペンスドラマか漫画のような、急転直下な展開にファンたちは驚きを隠せないでいた。どうして? 何故? と疑問符ばかりが頭の上を飛び交うだけで、待望のタイトルマッチが中止になった憤りをぶつける所もない。だがそれはである祐希も同じであった。


 その日の夜、祐希は元川に連れられて彼の行きつけという、中華料理店へ遅めの晩飯を食べにいった。先日行われた七海との挑戦者決定戦に勝利したとして、彼女から前々よりリクエストがあったので元川は律儀にもそれに応えたのだった。

 普段は選手寮のみんなとちゃんこ鍋やカレーライスなど、お手軽で家庭的なものしか食していない祐希にとって、目の前のテーブルに次々と出される、漢字の読み方が解らない高級中華料理たちは彼女を驚かせるのに十分だった。たまに街に出たときに食べる中華料理といえばラーメンや焼き餃子、それに天津飯などで、目の前に胡麻油や香辛料の香りたつが出てくる度に、向かい側に座る元川にラーメンは無いんですか? と何度も小さな声で尋ね、それが可笑しくて彼を大笑いさせ夕食ディナーはより楽しいものになった。

 食事も終わり帰宅する際、お腹が一杯なのでと祐希は歩いて帰る事を提案した。後々それが間違いだったと痛感させられるが、元川も何の疑いも無く彼女の誘いに乗った。往来する車のヘッドライトや色とりどりのネオン看板が煌々と輝いて、華やかだが何処か危険な雰囲気を醸し出している飲食店の並ぶ路地をふたりは談笑しながら歩いていると、前方から祐希と似たような年齢の男性三人が横並びでふたりを避ける事無く向かってくる。一見大学生風だがとても勉強しているようには見えず、教養と道徳概念の無さがそのまま顔に現れているような彼らは、右へ左へと移動し避けようとする祐希らを追いまわし、薄暗くひどい臭いのする雑居ビルの隙間へと強引に誘導した。

 下衆な笑みを浮かべ、大声で脅す彼らの言っている事は半分も聞き取れなかったが、元川の持っているお金が欲しい事だけは祐希でも理解できた。時折男たちに叩かれながら、怯えた表情で背広の内側から財布を取り出し、持っているだけの現金を彼らに渡す元川の姿を見て、祐希はむらむらと怒りが込み上げてきた。情けない態度の元川に、ではない――自分たちが怪我の危険リスクと向き合って闘い稼いだお金を、どこの馬の骨とも知れない馬鹿に黙って持って行かれる事が腹立たしいのだ。

 遂にキレた祐希は、彼の財布から奪った現金を持っている男の手首を掴み、力一杯に捻り地面へなぎ倒すと元川の金を奪い返した。図体がでかいとはいえ、と舐めていた彼らは逆に抵抗された事に驚く。


 やめろ、冷静になれ――


 やむを得ない事態とはいえ暴力沙汰が、表に出る事を恐れ必死に祐希を宥める元川だったが、一旦頭に血が昇った彼女を誰も止める事は出来ない。格闘技者としての本能なのか、電流のようにぴりぴりと感じる緊張感と、肚の底からじわりと湧き上がる高揚感にどこか嬉しそうな祐希は、元川を後ろに下がらせ男たちの方へ向かっていった。

 拳を固め殴りかかってきた男に対し彼女は、勢いを利用して背負い投げで道路へ大きく投げ飛ばす。受身もろくに知らずアスファルトで固く舗装された地面に、背中や腰を強打してしまい呼吸するのもままならない彼は、陸に上がった魚のように口をぱくぱくとさせ悶絶する。

 仲間の惨劇を目の当たりにし、もう一人が怯んでいる隙を付いて、今度は払い腰で地面へ叩き付けるとそのまま開襟シャツの襟を掴み、送り襟締めで一気に締め落とした。相手に過度な殴打や骨折などをさせてしまうと、女性とはいえプロのレスラーである以上、傷害罪となるおそれがある為相手を痛みや失神などで動けなくさせて、一気にこの場から逃げ去ろうというのが祐希なりの考えだった。

 口を開けたまま呆然とする男を無視して、呻き声をあげ地面に倒れている彼の仲間ふたりを横目で確認すると、道路にへたり込んで動かない元川を立たせてこの場から去ろうとする祐希。ネオンと街灯で照らされた表通りへ飛び出そうとしたその時、左腹部に何か刺されたような痛みが走った。

 自分の名を叫ぶ元川の口――だが声は聞こえない。

 元川の財布から金を奪ったあの男が、何故か自分をみて真っ青になって震えている。一体何事かと思い祐希は痛む方へ目を向けた。自分が着ている、おろし立ての水色のブラウスの上から、どす黒い染みを付けて家庭でよく見るような果物ナイフが突き刺さっているではないか。パニックに陥った彼が、普段から威嚇用として隠し持っている果物ナイフで、反射的にに祐希の腹を刺したのだ!

 まるで安っぽいサスペンスドラマのような事の顛末に、刺されてしばらくはが沸かなかった祐希だったが、だんだんと大きくなっていく下腹の刺し傷の痛みと、どんどん流れ出る血液を見てこれは今、自分の身に起きている紛れもない現実なのだと理解した途端――泣き叫びながら表通りへ走っていく男の後ろ姿を見たのを最後、そのまま目の前の景色が暗転していき気を失った。


 早急に病院へ搬送され緊急開腹手術を行った結果、普段から鍛えぬかれた腹筋と皮下脂肪のおかげで、傷は幸い大腸などの内臓部分までは到達しておらず、ひとまず命には別条がなかったが、せっかく七海との激しい死闘の末に掴んだ、ユカとのプリンセス王座戦を泣く泣くキャンセルせざるを得なかった精神的ショックが大きく、あれほど太陽のように明るかった祐希も病室でひとり塞ぎ込むようになってしまった。プロレスがやりたくなくなった――わけではないが、以前のような日野祐希のファイトが出来るのかどうかが、不安で不安で仕方なくベッドの上で自問自答を繰り返す毎日が続いていた。

 彼女が事件に遭遇してしまった責任は全て自分にある、と感じている元川は急遽ユカや七海とも話し合い当面の間――プロレス活動が自力で再開できるまでの、しばらくの間祐希を休場させる事に決めた。以前はの意を込めて休場させた元川だったが今回は違う。本当に彼女の今後のプロレス活動、もっといえば精神的ショックから立ち直って、普段通りの生活が送れるようになる事を願っての休場だった。


 祐希が入っている個室の扉を誰かがノックした。検診の時間にはまだ時間があるのに誰だろう? と彼女は訝しい表情で扉の方を見ると、そこには背広姿の男性が立っていた。

 お見舞いに訪れた元川だ。

 見慣れた顔に祐希の表情は和らいだが、それでも通常時に比べればまだまだ固い。

「代表……」

「事情聴衆以来だな。どうだい体調の方は?」

 優しい口調で元川が尋ねるも、祐希は点滴の針が入った腕を見せ、笑顔ものを作るだけで何も答えない。

 そうだよな、俺は彼女に嫌われて当然だ――祐希の態度に腹を立てる事もなく、むしろそれがだと、ごく自然に受け入れる元川だった。全く感情の見えない、彼女の顔を見るのが忍びなく、無意識に彼は祐希から視線を背けてしまう。

「……これまでが順調にいきすぎてバチが当たったんですよ、きっと」

 祐希は寂しそうな顔で自虐的にそう呟いたが、その言葉には同意できない元川であった。あの事件さえなければ今この瞬間も祐希はリングに立ち、もっと勝ち星を上げられただろうし、悲願だったタイトルマッチだって万全の状態で迎えられたはずだ。

 それもこれも全部自分のせい――元川は悔やんでも悔やみきれない。

「軽い気持ちで祐希、きみひとりだけを誘い食事へ出掛けた事を後悔している。もっと大勢で行ったのならこんな風にはならなかったのかも、と思うと今でも自分に腹が立つよ」

 せっかく親御さんから預かった大事な娘に、命にかかわるような大きな傷を負わせてしまった事で自責の念にかられ、元川は下を向いて奥歯を強く噛み締めた。

「代表……そんなに自分を責めないでください。正直代表から食事に誘われた時、やっと自分は認められたんだって思ったんですから。それに結果的にですが、相手に刺されてしまったのもとして自分がまだまだ甘かっただけです」

 意気消沈している彼を励ますため、ではないが「認められた事が嬉しかった」と祐希の口から聞いて、僅かばかりだが元川は彼女から気持ちになった。鼻の奥がつんとし少しでも気を抜くと涙が溢れそうになる。

「君はやっぱり――強いな。俺じゃ全然敵わないよ」

 弱々しい元川の呟きを聞いて、祐希は初めて笑顔をみせた。いつものように少し照れながらも、真夏の太陽の下に咲く向日葵のような、満面の笑みを――


 ユカや七海、それに他の東都女子の所属選手の近況報告に、団体としてのこれからの活動プラン等々、元川は思い付くまま手当たり次第に祐希へ話した――彼女が聞こうが聞いていまいが関係なしに。

 最初はぴくりとも反応しなかった祐希だったが、彼の熱量の高い話がノンストップで耳へ入ってくるうちに、次第に白かった肌に血の気が戻り始め、頬も紅潮し出しだんだんと元川の話に引きずり込まれていく。それまで事件のショックで気持ちが沈んでいた祐希が、元川の発する“プロレス熱”に煽られたのか、自分の内側で燻っていたが再び紅く、熱く燃え上がろうとしていた。

「た……タイトル戦の相手は決まったんですか?」

 祐希が入院して二週間、病室にはプロレス専門誌や試合のDVDなどを一切持ち込まず、《闘い》というものから自分を切り離していた女が、ついに自身の仕事――プロレスの情報を欲しだした。

「現在先方と交渉中だが、大会場でのビッグマッチに相応しいような、フレッシュな有望選手をブッキングする予定だ。いつものようにユカの我儘だけどな」

 タイトルマッチという重要な試合に、重傷とはいえを開けてしまった事に祐希は、悔しくて申し訳ない気持ちで一杯だった。ビッグマッチまで残りひと月を切り、自分の代わりに誰がユカと闘うのかで聞いてみたくなったのだ。

「余所の団体の選手、という事だけは教えてやるが、相手の名前まではユカとの約束で残念だがまだ言えないな。もし大会までに退院できたのなら、セコンド業務ではなく、ちゃんと席を用意するから自分の眼で確かめる事だな」

 結局相手までは教えてもらえず、え~っ?! と落胆の叫びをあげてむくれっ面になる祐希に、活力が戻りつつある事を確認できた元川はほっとひと安心した。

「とにかく今は、きちんと身体を直す事に全力を傾けるんだ。闘うのはそのずっと後でいい。俺もユカたち皆も、祐希がリングに戻ってくるのを信じているからな」

 あまり長居すると傷に差しつかえるだろうからと、座っていた丸椅子から腰を上げ、病室から出ようとする元川。そんな彼を扉の方まで見送ろうと、祐希はベッドから降りようとするが、元川は優しく肩を押さえそれを拒否する。

 去り際に彼は背広のポケットから、ピンク色の可愛らしい洋封筒を祐希に手渡した。宛名と差出人の文字がとても稚拙で、子供から送られてきた事が容易に想像できた。

 見舞いを終えた元川が部屋を去り、再びひとりぼっちになった祐希は彼から手渡された封筒を開く。中には欠場中の祐希を励ます内容の文章が記された手紙――ファンレターが同封されていた。

 手紙の送り主は以前に、彼女からサインをもらった事のある女子小学生で、拙いが自分への想いに溢れた文章を読んでいくうちに、祐希は送り主の顔やサインを書いた事も全て思い出した。

 事件の事は、新聞を読んでいた父親から教えられた彼女はどうしても祐希に「頑張ってください」と伝えたくて、友達にも書いた事のない肉筆のを初めて送ったのだという。小学生ゆえに字はお世辞にも上手いとは言えないし、所々おかしな文章になっている箇所はあるがそれでも彼女が、祐希を元気付けようとする熱い気持ちは、文字のひとつひとつから十分に伝わってくる。


 日野選手、必ず体をもと通りになおして東都女子プロレスのリングに帰ってきてください。そしてチャンピオンベルトをとってください――


 手紙の最後の一文を読み終えた祐希は、何かが頬を伝っているのに気が付いた。感激のあまり無意識に瞳から大粒の涙が零れていたのだ。参ったな――と半笑いを浮かべ指で涙を拭ってみるが、次から次へと滴り落ちてきて止める事ができない。遂に我慢できず祐希は両手で顔を覆い隠し、暫しの間肩を震わせて嗚咽した。


 ――そうだ。こんなファンが私にはついていたんだ。腹を刺された大好きなプロレスも、その先のタイトルマッチも諦める訳にはいけないんだ! 絶対復帰して前以上に強い日野祐希を、彼女のためにも見せてやるっ!!


 決意に燃えた彼女の目に、迷いの色は全くない。

 あれほど祐希の心に深く突き刺さっていた、刺傷事件の忌まわしい記憶も復帰意欲の強さの方が勝り、辛く悲しいネガティブな思い出は自然と浄化されていく。


 後日、再び見舞いに訪れた元川が見たものは、点滴台と一緒に病院内にある階段という階段を、額に汗を浮かべ黙々と登り降りする祐希の姿であった。復活への第一歩が始まったのだ――



 某市、市営文化体育館――

 白熱した試合が、途切れる事なくセミファイナルまで続き、メインで行われる東都の至宝・プリンセス王座を懸けてのタイトルマッチの残すのみとなった。選手権試合開始に先立ち、リングアナウンサーから立会人ウィットネスとして紹介された、白いカーディガンを羽織り黒のブラウスとパンツというエレガントな服装をした祐希が、元川にエスコートされリングサイドに設けられた本部席にやって来た。四方の壁に取り付けられた大型ビジョンに映し出される、久しぶりに公の場へ現れた祐希の姿に、特別リングサイド席に陣取っている者は当然、二階席にいる観客まで全てが歓喜と激励の拍手を送った。

 傷もすっかり癒え無事に退院する事ができ、道場で復帰に向け本格的にトレーニングを開始したのが、ほんの一週間前だというのもあり以前よりも、少し痩せ身体も幾分細くなっていたが、拍手を送る観客たちに笑顔で応える祐希を見る限り、体調面・精神面共々すこぶる良好のようだ。


 最初に入場してきたのは挑戦者の愛果まなか――業界いちのメジャー団体・太平洋女子プロレス所属で現在、同世代のライバルたちを差し置いて重要な試合に起用されたり、生まれ持ったアイドル並のルックスゆえ他団体からのブッキング依頼も多い、将来有望な《逸材》である。

 可憐な顔を歪め持ち前の負けん気と根性で闘う彼女の姿は、年季の入った男性客は当然の事、若年層の女性客をも虜にし早くも《次期エース候補》と、多くのマスコミやファンたちの口から飛び出すほどだ。

 入場通路の側に座る、観客たちから送られる歓声に笑顔で応え、決戦の場であるリングに向かって、セミロングの茶髪をなびかせ駆けていく愛果。とはいえ本拠地ホームではなく敵地アウェイのリングで、それもタイトルマッチという大舞台で闘うという事に関し、緊張や恐怖心を抱いている様子も無く至って平常心で、の東都女子ファンからのブーイングも過剰に意識せず、わざわざ敵地にまで詰め掛けてくれた太平洋女子のファンや、どっち付かずの女子プロレスファンたちに愛想を振る舞う彼女の姿に、本部席に座る祐希は自分と歳もさほど変わらない愛果が持っているを感じ、また彼女から視線を外す事の出来ないに只々驚くばかりだった。

 愛果がリングに上がったのを見届けたかのように会場はぱっと暗転し、照明がリング周辺に灯ると、今度は先程よりもアップテンポな入場曲が館内に大きく響き渡る。入場ゲートに設置されている小ステージで、黄金色に輝くプリンセス王座のベルトを肩に、ポーズを決めて観客を煽る小野坂ユカ。今夜の主役の登場で、会場内の空気が明らかに変わった。

 会場人気はである愛果も引けを取らないが、やはりそこは本拠地と敵地との違いで、東都の看板を背負う王者・ユカが愛果から必ず王座を守ってくれる、と強く願うファンの気持ちがびんびんと伝わってくる。リング上での闘いの直前に繰り広げられる、目に見えざる熱い闘いに触れた祐希の心はいつしか、一観客として胸が高まり血も滾るのであった


「ゆー、楽しんでる?」

 リングサイドの観客たちとふれ合いながら、薄桃色のキャンバスが張られたリングへと登る直前、ユカは本部席にいる祐希へ話し掛けた。急に声を掛けられた彼女は普段のように、思わず席から立ち上がってしまう。リングと客席とを隔てているフェンスを挟み、ふたりが向かい合う姿はまるで視殺戦のように見える。

「いいねぇ、このシチュエーション。ホントはリングの上でやりたかったけど、残念ながら今夜の相手はゆーじゃないの。まぁ見ててよ、きちんと愛果からタイトル防衛して、今度こそリングの上で向かい合いましょう」

 そう言うとユカは祐希の方へ手を差し出した。祐希もユカに向かい手を差し出しふたりは固い握手を交わす。彼女たちの顔にほんのり笑顔が浮かんだ。


 ビッグマッチ仕様の水色のドレスを着た、女性リングアナウンサーが選手たちの名をコールし始めた頃、元川が隣の席にいる祐希に話し掛けた。

「どうだった祐希?」

 冗談ぽい調子で祐希に尋ねるが、彼女は先程握手した手を見つめたまま、その顔には全く表情がなかった。

「……あのユカさんが緊張していた」

「そりゃあ緊張の、ひとつやふたつ位するだろう。これだけの大観衆の中だものアイツだって」

 違うんです――と否定しようとしたその時、試合開始を告げるゴングが力強く打ち鳴らされ、元川に反論するタイミングを祐希は失ってしまった。


 ――あれは不安と焦りから来る緊張に違いない。ユカさん自身でも上手く彼女を自信が無いんだ、きっと。だとしたらこの試合、白熱した闘いになるのか退屈な凡戦に終るかどちらかだ。的中して欲しく無いけど。


 冷や汗で濡れて冷たかったユカの掌の感触を、握手した方の手を見ながら祐希はひとり思い出し、耳をつんざくような大歓声の中小さく呟く。

 リングの中ではユカと愛果、それぞれが自分にとってのベストポジションを得るために、付かず離れずの微妙な距離感を保ったままマットの上を時計回りで動いていた。しかしお互いが3分以上も未接触のままで、全く試合が進展しないのに観客たちが痺れを切らし始めたのを、場内の空気で感じ取ったユカは意を決し、愛果の懐へ飛び込んでいった――


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 一時間後――

 大会も無事に終わり、レスラーたち全員が帰路について誰も残っていないはずの選手控室で、ユカはコスチューム姿のままで椅子に座り首を垂れてうなだれていた。

 普段ならば絶えず傍にいるはずの七海もここにはおらず、彼女は正真正銘のとなっていた。膝の上に置いている東都女子の至宝・プリンセス王座の、ベルトの中央に貼られた黄金色のプレートも、心なしか輝きを失い色褪せてみえる。

 コツコツと低い靴音をたて、誰かが選手控室に近付いていく。

 人気の感じられない、ユカひとりだけが居る部屋の扉をそっと誰かが開けた――祐希であった。


「ユカさん――」

 久しぶりに耳にしたからの呼び掛けに、ユカの表情が僅かに柔らかくなる。それまでの誰も側に寄せ付けなかった、彼女の心をとり囲んでいるも祐希には全く関係ない。彼女は何の遠慮も躊躇もなく、真っ直ぐとユカの元へと歩いていくと近くにあるパイプ椅子へ腰を掛けた。

「七海先輩はどうしたんです?」

「……先に帰った。ほら、わたしって感情がすぐ態度に出ちゃう方じゃない? だから七海、気を利かせてひとりにさせてくれたんだと思う」

「子供みたいですね、ユカさん」

「ホントそうだよねぇ」

 実感の籠った、ユカのぼやきが引き金となってふたりは爆笑した。薄暗い室内照明の控室の中が、一瞬で明るい雰囲気へと変わる。

 部屋の空気が弛んだところで、祐希は早速今夜の王座戦の話を切り出した。

「――強かったですね、愛果選手」

「うん、強かった」

「正直な話、対戦相手に選んでって思いませんでした?」

「舐めてた……かなぁ。流石メジャー団体で鍛えられているだけあって、雑味のない真っ直ぐな動きをしていた」

 思い詰めた――というよりは、子供がイタズラを仕掛けるも失敗してしまった時のような、悔し恥ずかしそうなユカの表情。

 前回までの防衛戦は苦楽を共にした先輩や同期、それに自団体の後輩とばかりで正直、対戦相手の顔ぶれに飽きてきた所だった。だから次回挑戦者であった祐希がタイトルマッチに出られなくなったのを機会に、外の世界に対戦相手を求めてみたくなったのだ。しかし、ユカ自身が思っていた以上に相手のレベルは高く、彼女が約5年のキャリアで得た経験に近いものを、内部競争が激しい自団体で先輩や同期、それに後輩らと闘う事で元々持っている才能を、より研磨された愛果はまさに難敵であった。

 まだ歳も若いのに、ベテラン選手のように攻め際や引き際が実にはっきりとしていて、こちらがチャンスとみて攻め立てればエスケープしていくし、逆にピンチから逃れようとすればしつこく追い駆けてくるという厄介さで、ユカが普段から得意としている空中殺法は尽くブロックされて決定打とならず、また必殺技である北斗原爆固めも巧妙な愛果の誘導で、本来繰り出すべきタイミング以外の場所で出してしまうという失態も犯してしまった。今日の試合の中で唯一、ユカが愛果に勝っていたのはグラウンドの技術ひとつのみ。デビュー前にさんざん叩き込まれたこの技術のおかげで、勝利までのを相手に踏み込ませない事が出来たのだ。

「コーナー最上段からのセントーンもかわされ、起死回生のトペも自爆、頼みの綱のノーザンも決め手にならないんじゃ一瞬、という最悪の事態が頭を過りましたよ、私」

「相手が想定外の強さだったから。最悪それも仕方ないかなぁ、ってちょっと思ったよ? でもわたしだって仮にも団体のトップだもん、お客さんに良い所を見せられないままで負けたくないな、って」

 ユカは試合中終始焦っていた。似て非なるプロレスを行う歳下の愛果を相手に、東都女子イチの《プロレスの達人》と謳われる彼女が最後まで自分のペースを掴めなかった――いや掴ませてのだ。技術と負けん気がぶつかり合う、お互いの持ち味が全部出てスイングしていただったように一見みえたが、当事者からすれば《逸材》愛果を前に、終始後手へ廻らざるを得なかった厳しい試合だった事が、彼女の表情に滲み出る疲労の色から読み取れた。

「そうだったんですか……あのフィニッシュの仕方も十分納得ですね」

「うん、お客さんには申し訳ないけど。どちらが強いか弱いかは一先ず置いておいて、このベルトを死守する事を最優先させたの」

 今までユカがリングの上で築き上げてきた、観客からの信頼と評価を落とす事にもなりかねない、言わばひとつの最終手段――賭けだった。

 本人の実力云々ではなく、確実にベルトを持ったまま帰る方法。それは一瞬の隙を突いての《丸め込み技》であった。愛果が王座獲りの為に選んだフィニッシャー・岩石落とし固めバックドロップホールドで鋭角にマットへ叩き付けた瞬間、完璧な受身バンプでダメージを最小限に抑えたユカは、素早く身を捻って切り返すと上四方固めの体勢で押さえ込んで、彼女を動けなくすると強引にスリーカウントを奪ったのだ。王者を追い込むだけ追い込んだ愛果であったが、王者・ユカの苦肉の策により目前だった東都女子王座奪取も水の泡と化してしまったのだ。歓声とブーインクとが入り雑じる微妙な空気の中、疲労困憊で勝ち名乗りをレフェリーから受けるユカを横目に、何度もキャンバスを拳で叩いて悔しさを露にする愛果の姿が、本部席から試合を観ていた祐希には特に印象的に映った。

「でも……このままじゃ終われませんよね、ユカさん? ファンはもちろん自分のためにも」

「愛果もきっとそう思っているはずよ。もう一度王座戦チャンピオンシップをやらせろってね。でも闘うのはわたしじゃない――」

 ――って? ユカの言葉に祐希は疑問を感じ、彼女の小さな顔を二度見する。

「どういう……事ですか?」

 尋ねられたユカはいつものように、善からぬ企みを思いついたような笑みを浮かべた。そして何も言わずに自分の人差し指を祐希の方へ向ける。


  彼女の言わんとする事を一瞬で理解した祐希は、驚きと興奮の入り混じった表情でユカの顔をじっと凝視するのが精一杯だった――




 ――ちくしょう、王座獲得まであと一歩だったのに!


 都内にある太平洋女子プロレスの道場へと戻る車中、愛果は後部座席で悔し涙に暮れていた。多団体時代ゆえにチャンピオンベルトの意味も価値も下がっていく近頃、これほどまでに王座獲りに固執する選手も珍しい。おそらくは他団体のものでも何でも、奪えそうなタイトルは数多く獲って自身のプロレスラーとしてのを高めていこうという思考のようだ。特に所属している太平洋女子は、業界で一番選手を抱えているためにレスラー同士の競争が激しく、一介の若手選手である愛果には何時チャンスが巡ってくるか分からない。それだけに今回の東都女子のタイトルマッチには是が非でも勝たなければならなかった。故に指先まで触れかかった念願のプリンセス王座がユカの狡猾な押さえ込みで、駄目になってしまった事が今でも悔しいし諦めきれない。


――だめだ。こんな気持ちのままで戻っても、ウチのリングでの激しい生存競争に勝ち抜く事なんて出来っこない。ここはひとつ会社に頭を下げてもう一度、東都女子のリングで闘えるよう頼んでみよう。


 試合後からずっと愛果の胸の中を巡っていたストレスは、思考を切り替えた途端霧が晴れるように治まった。それと同時に安堵と疲労による眠気が急に彼女を包み込み、身体が鉛のように重くなり両瞼も自然と落ちていく。

 愛果は何気なく窓の外の景色を眺めてみた。高速道路を走る車の側面に見える大小様々なビルの窓の光や、広告看板たちが放つ人工的な色彩の光が彼女の眠気を緩やかに誘い、気が付けばシートに身体を預け暗く深い睡眠の海の中へと落ちていた。

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