第5話

 火照った頬に当たる、冷たい空気が心地良く感じる季節――

 目の前の見慣れた風景が、脚を動かす度にどんどん後ろへ遠ざかっていく。家も電柱も街路樹も、そして趣味や健康維持のために同じコースを走っている顔見知りのランナーたちも。

 全てを遙か彼方へと置きざりにし、風のように疾走する祐希。頭の中は真っ新となり、リズムを刻む自分の靴音と呼吸音が耳に入ってくるだけだ。いわば《無》の状態――彼女はこの瞬間がたまらなく好きだった。

 退院してから既に二か月を過ぎようとしていた。腹部の縫合跡は若干気になるが痛みも無く、彼女の体調は傷を負う以前の状態に戻り、欠場中に溜まった鬱憤を晴らすかのように基礎練はもちろん、ウエイトトレーニングやリングでのスパーリングにもつい熱が入り、やり過ぎだとみると傍にいるユカや七海から注意が即座に飛ぶ。

「焦らないでゆー。遅れを取り戻したい気持ちはわかるけど、怪我したら元も子もないからね。着実に行こう」

 長いプロレス人生の中で酸いも甘いも噛み分けたふたりの先輩。怪我による欠場から己の体調を回復させる術も、それぞれに一家言を持っているに違いない。祐希はそんなありがたい先輩たちのに感謝しつつも、少しばかり過保護すぎやしないか? と正直うんざりしていた。その結果、外へ出ていく回数も自然と増えていく。道場の中はともかく、走っている時だけは誰にも束縛されず自由を感じるからだ。

 回数が増えれば走る距離も延びていく。調子が良ければ脚の速度をあげ、疲れると走るペースを落としたりの繰り返しで、よくボクサーや格闘家がスタミナや足腰強化のために行うなロードワークというよりは、一般の人が健康維持のために行うジョギングに近いもので、散歩の延長と言ってもいい。道場では密度の濃いフィジカルトレーニングを2~3時間ほど行った後に、気分転換として近所を走ってくるといった感じだ。

 銀色の特急列車が重厚な音を響かせ、川の上に架けられている鉄橋を走り抜けていく。

 祐希はすっかり色の抜け落ちた土手の芝生へ腰を下ろし、来る途中に自販機で買った、スポーツドリンクのキャップを捻って乾いた喉へ流し込んだ。有酸素運動による新陳代謝で熱を放ち続ける身体に、冷たい液体が隅々まで染み渡って一気にクールダウンさせる。その心地良さに彼女は「はぁ~っ」と幸せそうに吐息を漏らした。

 突き抜けるような空の青さが心地良い、冬の足音が近付いている秋の昼下がり。祐希は眼下に映る穏やかな川の水面を、そして河川敷のグラウンドで行われている、中学校の野球部の練習の様子などを何気なく眺めた。

 周りの時間が緩やかに流れ、時折吹く冷たい風が顔の側を掠めていく。

 このリラックスした空気に祐希の表情も柔らかくなる。野球部員の発す掛け声や、白球を叩く金属バットの高い音がヒーリングミュージックの如く、日々の練習や寮での日常生活などで積もったストレスが彼女から取り除いていく。いつしか祐希は初めて東都女子の道場があるこの街へ――使い古した大きなスポーツバッグを手に、大きな期待と若干の不安を胸にここへやって来た時の事を思い出していた。

 いま考えれば後先考えずに随分と冒険したな、と思うけれど取り敢えず一歩でも、前に踏み出さなければ《プロレスラー》なんて夢のまた夢、もしかしたら地元で部活の顧問の伝手によって、企業に就職か整体師の道へ進んでいたかもしれない。それはそれで素晴らしい生き方だけど、卒業によって闘争心を満足させるには、様々な競技会や四年に一度のオリンピックではなく、月に何度も試合のあるプロレスで。だからいくら身体がキツいと溢しても心の充実感は半端ではなく、他の何物にも変えられない。

 なりたかったものになれた幸せ――祐希の心の中は幸福感で満たされていた。

 河川敷のグラウンドでは試合形式の練習が始まり、先輩らしき大柄の部員がまだ幼ささが残る顔のピッチャーが投げた直球ストレートを見事に捉え、白球は高く遠くへと飛んでいく。本塁打ホームランと思われた打球だったが、守備の必死の頑張りでどうにか二塁打に止める事に成功する。祐希は興奮のあまり思わず芝生から立ち上り歓声をあげた。

「ここで何してるのよ、ゆー?」

 聞き覚えのある声が祐希の耳へ飛び込んだ。

 彼女は首を回して後ろを見ると、寮の持ち物である古い自転車に乗っている、同期の蒼井カンナの姿があった。以前は嫉妬剥き出しの試合を祐希と行った事もあったが、今では互いの実力を深く認め合いプロレスラーとしても、また友人としても極めて良好な関係を築いていた。

「何ってカンナ……ロードワークよ。見てわからない?」

「どう頑張ってみても、サボッているようにしか見えないんですけどねぇ」

 カンナのひと言に一瞬、ふたりの間の空気が凍り付く。

 だが強張っている彼女らの表情もすぐに緩み出し、真面目くさって顔を合わせているのも馬鹿らしくなって、どちらからともなく笑い声が口から零れ出た。

 ひとしきりふたりで笑い合うと、大きく深呼吸してまたカンナが話し出す。

「ま、息抜きしたくなる気持ちも分からなくはないけど。終始先輩たちが付きっ切りじゃ……ね」

 祐希は敢えて返事こそしなかったが、その顔に貼り付いた薄ら笑いだけで全てが理解できた。

「カンナは夕飯の買い出し?」

「そう。当番の先輩から食材が足りないから、って買いに走らされていた所」

 そういってカンナが荷物カゴに入っている、野菜や肉などでぱんぱんに膨らんだレジ袋を指差した。材料から察するに今夜は鍋物のようである。

「そういえばもうすぐだなぁ、私の食事当番」

「マジ、ゆー? 今度はもうちょっとマシに作れよな」

「カレーライスなら、みんなだと思ったんだけど」

「余分にスパイス入れ過ぎ! 下手さ加減にも程があるわ」

 青かった空には朱色が差し始めていた。

 周りに甲高く大きな笑い声を響かせて祐希とカンナは、寮のある方角へ来た時とは逆に、ふたり並んで真っ直ぐな土手道をゆっくりと歩いていった。



 道場に設置されているリングの上では、年上の先輩レスラーが弱り顔をしていた――ここは太平洋女子プロレスの道場。三階に団体事務所が入っている五階建ての青い小ビルの二階部分に、普段所属選手たちが汗を流す練習場所がある。

 仰向けになって胸を上下させ、汗で顔をぐちゃぐちゃにしながらも闘志剥き出しの瞳で、リングから去ろうと腰をあげる先輩を睨みつけ、絞り出すように声を出し呼び止めようとする愛果の姿がそこにあった。

「まだです……もう一本お願いします!」

 もう何度もスパーリングをしたのだろう。彼女のピンク色の練習着は縒れてボロボロになっており、所々解れている箇所もある。相当自分を追い込んでいるのだろう。しかし相手をさせられる選手は堪ったものではなく、愛果のに辟易としていた。

「どうした、何があったの?」

 騒ぎを見かねて太平洋女子のトップ選手である、水澤茜みずさわあかねが行っていたマシントレーニングを中断してリングへ飛び込んできた。彼女が愛果とのスパーリングを拒んだ選手の方を見るも、本人は首を振り肩を竦めて「分からない」とボディランゲージで答えるだけだった。

 リングの上に残された愛果は大きく深呼吸を繰り返し、目には薄らと涙を浮かべている。水澤は彼女を見た途端に、自分の限界リミットを超えようと必死に藻掻いているのだと瞬時に感じ取った。

 現在いまよりも未来あしたはもっと強くなりたい――

 そんな愛果の姿に、かつて《強さ》を求めて形振なりふり構わず突っ走っていた、過去の自分を重ね合わせる水澤だった。

 今でこそトップ選手・団体エースとして落ち着いた姿をみせる彼女だが、かつては団体を問わず格上の選手をみるや、闘う事で己の商品価値を高めてきた。強引なやり口に陰では《狂犬》などと揶揄されたがその結果、スター選手が次々に引退し低迷していた老舗・太平洋女子を再び業界の盟主へと返り咲かせ、水澤目当ての新世代のファン層を獲得するまでに至ったのだった。

 四つ這いになって呼吸を整える、愛果の側にきた水澤は膝を折り、視線の高さを合わせると穏やかな口調で彼女へ語りかける。

「……倒したい奴がいるのね?」

 水澤の問い掛けに、愛果は無言で首を縦に振った。

「それで己の限界値を高めようとこんな無茶な事を」

「ダメですか?」

 愛果は咎められたと思い、少しムッとした表情を見せる。こいつ、上等じゃないか――水澤はそんな彼女の態度にニヤリと笑みを浮かべた。

「どうしても、というなら一度だけあなたに付き合うわ。だけどそれ以上はダメよ、身体が悲鳴を上げているもの。強くなる以前に身体を壊して引退、って事になりたくないでしょ?」

 さすが伊達にキャリアは積んでいない。

 全て見透かされている事を知った愛果は渋々ながら「はい」と返事をする他は無かった。あと一度だけ――現在のでは決して試合で当たる事はない、雲の上の存在である水澤との、限られた時間の中行われるスパーリングで、自分自身が心底から納得できるみたいな物を掴みとらなければ、と思った。

「……お願いします」

 意地と底力で愛果は勢いよく立ち上がると、体勢を低く構え相手の攻撃に備える。普段は空中技など派手で難易度の高い技を、フィニッシュにする水澤だがグラウンド技術も一級品で、タイトルマッチなど大一番の序盤には積極的に寝技を仕掛け、対戦相手の実力をする事もある。

 水澤は、冗談っぽく口で試合開始のゴングを鳴らすと、それまで笑っていた目元も鋭く変化し、素早く愛果との距離を詰めてテイクダウンを奪った。不意にマットへ寝かされた愛果は水澤の降参技サブミッションを防御しようと行動するが、技を仕掛けるスピードがコンマ数秒速かった。自分の脚を絡め逃げられないようにすると、愛果の足首を非可動域へ無理に曲げる。

 脳天へ突き抜けるような痛みで、愛果の表情が一気に歪んだ。だが激痛を口に出さず、フェイスロックをすべく水澤の顔に手を掛けようとするも、既にそれを彼女は技を離して背中バックを取ると、逆に愛果へフェイスロックで極めて上体を弓形に反らせた。

 頬骨と背骨――ふたつの患部から同時にあがるに、愛果もついに声を上げた。

 、と自分で言ったにもかかわらず、水澤は愛果が何度も呻き声をあげようともスパーリングを止める事をせず、彼女が諦めずに立ち向かってくる度に身体のありとあらゆる箇所を絞め、拉ぎ、捻って抵抗する気力を奪っていった。圧倒的な手数の多さに愛果ではなく、まるで水澤自身の稽古のように思えてくる。人体はここまで変形させられるのか? と思うほど不自然に身体をねじ曲げられ、屈辱的な体勢を取らされようと彼女は、それでも頑なに降参ギブアップの意思表示だけは拒み続けた。決して陰る事のない瞳の中の輝き、そして根性の強さに満足気な表情を見せ、水澤は身体に絡めた手足を解き、愛果とのスパーリングを終了した。

 はぁ……はぁ……はぁ……

 リング上で大の字になり、大きく喘ぐ愛果。

 一度たりとも反撃する事も出来ずに、終始水澤の下になって極め続けられ動く事も儘ならないが、自分なりにを掴んだという達成感が、まだ幼さの残るその顔に滲み出ていた。愛果は肉体の疲労以上に満足感でいっぱいで、しばらく顔からにやにやが消えなかった。そして堪えていた幸福感が堰を切るや、高ぶった気持ちが笑い声へと変わり息が続くまで、誰もいなくなった道場でひとり笑い続けるのだった。


 ――次は絶対に小野坂ユカの腰から、あのベルトを奪い取って、私が王者になるんだ!


 団体エースである水澤茜直々のスパーリングによって、あれほど超えるべく藻掻き苦しんだの前に立ち塞がっていた見えない壁は、知らぬ間に超えてしまったようだ。彼女の迷いのない表情や笑い声がそれを証明していた。



「――とにかく休場でお騒がせした分、現時点で最高のパフォーマンスをお客さんにお見せします」

 名の知れた派遣会社の事務所や語学教室などが入る、都内の中規模ビルのワンフロアに事務所を構える東都女子プロレスのオフィスの一角では、女子プロレス専門サイトによる祐希のインタビューが行われていた。近日に開催される興行に向け、そして自身の復帰戦への意気込みを記者を前に語る彼女の姿は堂々としたもので、以前のような自信の無さから来る気の弱さは微塵も感じられなかった。

 立場が人を変える――とはよく言ったもので、既にユカや七海などと並ぶ興行の売りのとなってしまった今、若手の頃のように甘い事を言っている場合ではなく、東都女子のとしての責任が求められるようになった。それがセミやメインへの起用であったり団体の広告塔としての役目であった。

 祐希は何故こんな地味なプロレスをやっている自分が、人気が出たのかは未だに分からないでいたが、ともかく団体のために出来る限りの事はしよう。と持ち前の生真面目さをフル可動させる。最後に同伴のカメラマンが、興行ポスターを手に笑みを浮かべる祐希を撮影し、今日の取材は終了した。

「はい祐希さん、お疲れさまでした!」

 記者のおつかれの声に、祐希の緊張で凝り固まっていた肩の力が抜けた。彼女はオフィスの出入口まで記者たちを送ると、彼らが乗るエレベーターの扉が閉まるまで深々と頭を下げる。


 ――それにしても、最近は事務所ここへ訪れる回数が増えたなぁ


 祐希は給湯室の近くに備えられているコーヒーメーカーから、温かいコーヒーを注ぎ入れてひと息付く。彼女は以前このオフィスで、代表の元川から退屈な試合を続けたため、懲罰として自宅待機を言い渡された事もあり、あまりいい思い出のない場所であるが、最近ではインタビューされる回数も増えこの場所を使うので嫌なイメージは払拭されつつあった。

 オフィスの中はパソコンのキーボードを叩く音やマウスをクリックする音、休みなくかかって来る電話の着信音などが溢れかえり活気が満ちていた。次回大会まで日にちも近く、チケット等の問い合わせの電話が次々と掛かってくるのを見て、祐希はあまりこの場に長居するべきではないと思い、プラスチック容器の中に少し残っていたコーヒーをぐっと飲み干すと、足早に給湯室から離れる。

 寮へ帰るべく通路を歩いていると、ある部屋から聞き覚えのある声の主たちが口論しているのが僅かながら聞こえた。語気や口調から察するに決して穏やかではない様子だ。オフィスに設けられている元川代表の部屋。そして中にはあの小野坂ユカがいる。ふたりは何を巡って激しい口論をしているのだろうか?

 突然「もういいっ!」との叫び声と共に、ユカが部屋から飛び出してきた。普段あまり目にしないスカート姿の彼女――仕事ではなく個人的プライベートな理由でここにやって来たらしい。ユカの顔は明らかに怒っていた。

 通りかかる祐希と一瞬視線が合った。お互いに気まずい空気が流れる。

 どちらもどんな顔をすればいいのかと表情筋が強張るが、先に動いたのはユカの方だった。元川との話し合いが決裂し納得のいかない顔の彼女は、先に乗り込もうとしていたエレベーターを祐希に譲り、自分は階段で下まで降りていってしまう。どこかで独りになって、煮え返るような気持ちを落ち着かせたかったのだろう。エレベーターの扉が閉まる直前、どんっ!と狭い階段通路の壁を叩く凄い音が、祐希の耳に入った。



 超満員フルハウスとなった試合会場は、東都女子のファンたちで溢れかえっていた。用意していたおよそ二百もの観客席はびっしりと埋まり、団体側は急遽若干数の立ち見席を追加するほどであった。

 今宵の観客たちが望むはふたつ。まずはおよそ二ヶ月の間休場していた日野祐希の復帰戦。欠場前に地方都市で行われた、赤井七海との挑戦者決定戦がマニアの間で高い評価を得ていて、その試合が団体が運営する動画配信サービスや、ファンがスマホで撮影した映像が動画共有サイトなどでアップロードされ、それを観たファンたちからは祐希への期待が以前にも増して高まっていたのだった。

 もうひとつは老舗・太平洋女子から前大会より参戦している、《危険な果実》愛果の今後の行方だ。前回のビッグマッチでプリンセス王者・小野坂ユカの相手として抜擢され、あと一歩の所まで追い詰めた彼女の姿はファンにも好印象で、ユカとの再戦または他の東都女子の選手との対戦が熱望されていた。果たして今宵の大会で何か進展があるのか、観客たちはまだ誰もいないリングを見つめ興奮を抑え切れずにいた。


「いけっ、祐希!」

「負けるなカンナ!」

 会場のあちこちから熱を帯びた声援が飛び交う。

 リング上では、日野祐希が対戦相手を首投げでキャンバスへ寝かせ、ヘッドロックでぐいぐいと締め上げていた。技を仕掛けている彼女の表情は真剣そのものだが、普段通りに闘える喜びに何処か嬉しそうにみえた。

 祐希が復帰戦に選んだ対戦相手は、同期の蒼井カンナだった。

 気心が知れた者同士、遠慮なくぶつかり合えるというのがその理由だ。カンナ自身も前回の敗戦を糧にトレーニングを積み重ねており、所を観客へアピールしたいと考えていた。ここで祐希に勝利して弾みをつけ、あわよくばタイトル戦線へと食い込めれば――という思惑もある。

 カンナは祐希の下になりながらも、彼女の腹に固めた拳を複数回叩き付け脱出を図る。この攻撃が功を奏したのか、嫌がった祐希が遂にカンナを束縛していた腕を離してしまう。反撃のチャンスだ。

 素早く立ち上がったカンナは、リングに腰を下ろしたままで体勢の整わない祐希へ、積もった鬱憤を晴らすかのようにミドルキックを何発も叩き込む。不格好な蹴りだが逆にそれが観客たちへ、彼女自身の「勝ちたい」という感情を伝えていた。

 雨のように降りかかるキックの連打にじっと耐える祐希。顔にさえ入らなければ何発だって大丈夫だ――彼女はそう考えていた。事実カンナの蹴りにスピードが無くなってきたのを見計らって、不用意に放った蹴り足を摘むと身体ごと引き寄せ、彼女を後方へ高く大きく投げ飛ばしダメージを与えた。

 祐希は頭部を押さえ痛がるカンナの髪を掴み、強引に引摺り起こすとお返しとばかりに胸元へ重いチョップを一発、もう一発と連続で刻み入れカンナの体力を奪っていく。目を剥かんばかりの衝撃を受け続ける彼女の、瞳の色が次第に曇っていくのがわかった。

 祐希はカンナの身体をロープへ振り、条件反射的に戻ってくる相手の喉ぎりぎりの部位に己の、鍛えた腕を殴るように水平に叩き付ける。彼女のクローズラインがヒットした衝撃でまたカンナはマットの上へ倒れた。しかし祐希はまだフォールへは行かない。人差し指を高く突き上げ「もう一回」とアピールすると、観客席からは大きな歓声が沸き上がった。

 しかし祐希の二度目の攻撃は失敗した。再びクローズラインを喰らわそうとしたものの、今度はカンナが上手く体を入れ替えて回避に成功。逆に対角線のコーナーマットへ投げ祐希を固定すると、鋭いドロップキックを顔面へ目掛けて叩き込んだ。

 力無く前方へ転倒する祐希――カンナに勝機が巡ってくる。

 相手の身体を起こし逆羽交い締めリバース・フルネルソンの体勢を取ると、気合と共に祐希の重い身体を真後ろへ投げ飛ばす。人間風車ダブルアーム・スープレックスが見事に決まった。マットへ腰や背中を激しく打ち付けた祐希は苦悶の表情を浮かべるが、カンナの攻撃はそれだけに留まらない。投げ切った後も腕のロックを離さずそのままフルネルソンで締め続けたのだ。肩や首が圧迫され息苦しくなった祐希は両足をばたつかせるが、相手も必死になって締め上げているせいか、そう簡単には脱出ができない。


 ――くっ……がっ!


 ぐっと歯を食い縛り、持てる全ての力を振り絞って祐希は、カンナの羽交い締めから脱出を試みた。下半身に力を入れゆっくり立ち上ると、僧帽筋を隆起させて腕のロックを外していく。祐希の筋力はカンナの想像以上で、絶対に外すまいと思っていたが少しずつ意思とは関係なく、腕がこじ開けられていくのを見て戦慄する。そして――とうとう勝利への生命線であった、逆羽交い締めが外されてしまった。

 唖然とするカンナと、安堵の表情をみせる祐希。また勝敗の行方は振り出しへと戻る。

 自らロープへと飛んで加速し、祐希に対し打撃技を狙うカンナだったが、それは既に予想済みだった。戻って来るのをみるやカンナの身体をリフトアップし、彼女を高く宙に浮かせた。そして落下してきた所で身体を肩に担ぐと力一杯なマットへ叩き付ける。祐希の豪快な雪崩落としアバランシュ・ホールドが炸裂した。

 目を剥いて半分戦意を失いかけているカンナに対し、攻撃の手を緩める事なく祐希は試合を終わらせるため、彼女の上体を起こしフィニッシュホールドである片羽絞めの体勢に入る。型にはまれば絶対に勝負を決められる自信のあるこの拷問技は、今回も勝機を逃さなかった。鍛えられた太い腕が頸動脈を絞め、胴を脚で締め付けられて弓反りにされたカンナには最早降参するしか選択肢はなかった。


「……痛ててっ。相変わらずね、ゆーの馬鹿力は」

 レフェリーから勝ち名乗りを受けている祐希の隣で、マットに膝を付きダメージを逃すため頭を振っていたカンナが呟く。しかし《勝者》祐希の口から出るのは反省の言葉ばかりだ。

「駄目よ、全然身体が試合についていってない。もっといっぱい闘って試合勘を取り戻さなきゃ」

 長期休場が響いたのか、傍から見れば満点に近いような試合内容であっても、闘っている本人にしてみれば納得のいかない試合だったらしい。聞けば所々で対戦相手に、攻撃の機会チャンスを与えてしまうような隙を、無意識に作ってしまっていた事が駄目なのだという。久しぶりの試合出場で緊張していたせいか、攻守のタイミングが若干ずれてしまったのも、自己評価に厳しい祐希には減点対象だ。

 カンナが握手を求め手を差し出す。

「焦らずにひとつづつ問題をクリアしていけば、ユカ先輩からのベルト獲りも夢じゃないって……アンタが私の同期だって事、すごく誇らしく思うよ」

 祐希は差し出された手を握ると、そのまま自分の身体へとカンナを引き寄せハグをした。復帰戦を無事に闘い終えて、重圧感から開放された彼女の表情はとてもリラックスしていた。

「私もそう思う。いつの日かウチらふたりでメインでタイトルマッチ、やろうよ絶対」

 祐希の言葉を聞いて会場中からは、感動と賞賛の拍手が数多く送られた。

 ファンは皆彼女に期待している――難攻不落・変幻自在な王者ユカの牙城を崩せる最有力候補が、現在この日野祐希だけなのだと。カンナの身体から伝わる想いと、観客たちの割れんばかりの拍手が、祐希の中で燃えている闘志の火を更に熱く、激しくさせていくのだった。


 メインエベントのタッグマッチでは、招聘した無名外国人選手を相手に小野坂ユカが激しくも楽しい闘いを繰り広げている。自軍コーナーには普段通り親友・七海が頼もしげに待機し、いつもと何ら変わりのない風景が展開されていた――

 大会数日前オフィスで、元川代表との騒動があったとはいえそこはプロのレスラー、客前に出れば個人的感情は別にして、普段と同じように立ち振る舞う事ができる。実際観客は彼女のファイトを楽しんでいたし、七海もいつものユカだと思いコーナーから激を飛ばしていた。

 しかしユカの心は此処に在らずで、経験の賜物か身体や表情が勝手に反応し、誰から見ても違和感ない闘いをみせていた。まるで心と身体が別離しているような、奇妙な感覚が終始ユカに付きまとう。

「ユカっ、あぶない!」

 切羽詰まった七海の声に呆けた顔で反応するユカ。

 目の前には対戦相手の太い上腕が迫っていた。距離的にもう逃げ場がない状態にユカはどうすることもできず、相手のクローズラインを真正面から被弾する。軽量である彼女の身体は弩級の衝撃を前に、木の葉のように舞上がり回転しマットへ激しく叩き付けられてしまう。

 その巨体を大の字になったユカに被せ、悠々とフォールする外国人選手をみて慌ててカットに入ろうとする七海であったが、すかさずタッグパートナーが邪魔に入り彼女の助太刀を阻止する。結局七海は何もできないまま、黙ってユカのフォール負けを見ているしか他はなかった。

 この出来事に会場から落胆の溜息と、相手の強さに対する驚愕のどよめきが次々に巻き起こる。特にユカが直接ピンフォールを取られるなど、暫くぶりのだっただけに観客たちからの衝撃は大きかった。キャンバスに座り患部を押さえ項垂れるユカと、肩を抱いて彼女を励ます七海の姿がとても痛々しく見える。


「――どうしたんです? ユカさんともあろう人が、こんな所でつまづいちゃって」

 タッグながらも、ユカのフォール敗けでざわつきが止まらない会場に、更に追い討ちをかけるように不快な声調と発音で煽る、女の子の声がマイクによって流された。

 会場の入退場口に立つ、幼い顔に似つかわぬ灰色のスーツの女性――観客のひとりが彼女の名を叫ぶ。

「た、太平洋女子の愛果だ!」

 ファンの予想通り愛果は会場に現れた。前回の王座戦以降、彼女のの行動が注目されていたが、今日此処に現れたという事は東都女子の至宝・プリンセス王座奪取を当面の目標に定めたようだ。

 観客たちからの声援とブーイングが、半々で飛び交うなか愛果はゆっくりと、会場を見渡す余裕さえみせて薄桃色の《四角いジャングル》へと歩いていく。

 リング上で向かい合うユカと愛果――

 不快感を露にして、愛果へ突っ掛かろうとする七海を制し、決して彼女から視線を外さないユカ。

「ユカさん、今日は直接返事を聞きに来ました――貴方の持つプリンセス王座、もう一回挑戦させてくれませんか?」

 愛果の言葉にユカは一瞬驚くが、悟られないようすぐに笑みを浮かべ平然を装う。

「愛果ちゃん。あなたからのラブコール、待ってたよ。あんなにベルトを護るのに苦労した王座戦は初めてだったからね。だけど――」

 そこまで言うとユカは、バックステージにいる日野祐希の名を叫んだ。リングコスチュームの上から団体ロゴの入ったTシャツを着た祐希は、ユカの呼び掛けに応えリングインする。

 リングの中で睨み合う現王者ユカに愛果、そして祐希――プリンセス王座を巡って形成された三角形トライアングルに、七海は此処に自分の居場所がない事を瞬時に感じ、リング下へと自ら降りていった。

「さて。これで役者は全て揃った、ってわけだ。うーん楽しいねぇ」

 頼もしげなふたりの勇姿を見比べ、気疲れと敗戦のショックで疲労困憊だったユカの顔に笑顔が戻る。

「それで、私とのリマッチの返事はどうなったんですっ?!」

 なかなか答えを出さないユカに、業を煮やした愛果がつい語気を強めてしまう。

 感情的になった彼女を見てニヤリとするとユカは、持っていた王者の証であるチャンピオンベルトを天へ掲げると、そのままキャンバスへ乱暴に投げ捨てる。三角形の中央へ無造作に置かれたベルト――愛果と祐希は「信じられない」と云わんばかりの表情で互いに顔を見合わせると、同時にユカの方を向いた。

 マイクを数度握り直し、自分の心の中で覚悟を決めたユカは口を開き話し出す。


 ――――――――――――――――――――――


 ユカの話に試合会場が騒然となる。

 リング上の愛果と祐希も、そして此処にいる誰もが驚く他無かった。 

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