チョコレートレイン

花 千世子

チョコレートレイン

 眠れない。


 私は、ため息をついてごろんとベッドの上で寝返りを打った。


 五年前までは自分がいつもつかっていたベッドだけど、三ヶ月ぶりに寝るとなんとなく落ち着かない。


 そのせいで繊細な私は、こうして目がさえてしまっている。


 ……というわけではなく、むしろ『特技:どこでも眠れること』な私にとって、眠る場所など問題ではない。


 眠れない本当の理由は、わかっている。


 昼間の母との会話が、ずっと頭から離れないのだ。


 そう考えた途端に、私の脳内にふっと昼間の母とのやりとりが再生される。



 ソファでダラダラとテレビを見ていたら、買い物から帰ってきた母がマイバッグから長ネギを取り出しつつこう言ったのだ。


『さっき、冴木さえきさんとこの奥さんに会ったのよ』


『へー。そうなんだ』


『冴木さんとこの息子さん、結婚するんですって』


『え? 冴木が?!』


『そう。お母さん思わず、うちのあんずもそろそろかしら、なんて見栄はっちゃったけど、今になって虚しくなってきたわ』


『冴木が……結婚……』


 私はそう呟いたまま、テレビの内容も母の小言も何もかも耳に入らなくなった。


 冴木が結婚する。


 その言葉だけが、何度も何度も耳の中で響いていた。



 私は再びため息をついて、ベッドを降り、勉強机の上のスマホで現在時刻を確認。


 深夜一時四十五分。


「まだ、間に合うか」


 私は小さく呟いてから、「バカバカしい」と笑ってベッドに戻る。


 布団に入って目を閉じた瞬間。


 瞼の裏に浮かんだのは、冴木の笑顔だった。


 何度も何度も打ち消しても、思いの出の中の冴木はしつこく笑顔を浮かべてくる。


 私は布団を跳ね上げるように起き、自室に戻ってフリースやダウンジャケットを着こんで、マフラーをぐるぐるに巻いて靴下は二重履きで、カバンを持ってそっと部屋を出る。


 父や母にもし見つかったら、『コンビニ』と言えばいいかと思っていたが難なく家を出ることに成功。


「ずいぶんとあっさり出られたな。これはもう、行けということか」


 そう自分に言い聞かせて、自転車にまたがる。


 頬に当たる二月の風は、痛いくらいだ。


 向かう先は、最寄りの三七みな駅。


 目当ては、『チョコレートレイン』だ。



 高校時代、もう十年も前のことになるけれど。


 クラスの女子の間で噂になった『チョコレートレイン』というものがある。


 それは、二月十四の深夜二時十四分にしか走らない。


 その電車に乗ると、自分が戻りたい過去のバレンタインに行くことができる。


 そんな、魔法みたいなことあるわけない。


 高校時代の私だって、そう思ったのに。


 それなのに、私は今こうして、駅に向かっている。



 ずっとずっと、後悔している十年前のバレンタインデー。


 このまま墓場まで持っていこうかと思っていた後悔。


 それなのに、昨日の母の言葉で、私は過去を変えようなんて夢みたいなことを考えている。



 最寄りの駅に着くと、やけに駅が明るかった。


 自転車を駐輪場に止めると、私は吸い込まれるように改札へ続く階段を上がる。


 改札口には、駅員がいた。


 この時間には電車は走っていないはずなのに。


 私は恐る恐る改札に近づく。


「お客さん、チョコレートレインに乗りたいんですか?」


 突然、声をかけてきたのは駅員だ。


「え?! あ」


 私は答えようとして、固まる。


 だって、駅員だと思っていた人は、顔が猿だったからだ。


 猿みたいな顔、じゃなくて完全にこれ、猿!


 だけど、体は人間。


 え、なにこれ、どういうこと?


 頭の中が真っ白になって、逃げるという選択肢すら見つからない私に、猿駅員は言う。


「チョコレートレインは、本当にバレンタインデーに後悔している人しか乗れないよ」


「後悔?」


「そう。後悔。どうしても過去に戻りたい、戻らなければ一生後悔する、そんな人を選んでチョコレートレインのドアは開く」


「そうなんですか……」


 私はそう答えてから思う。


 ああ、これたぶん夢だ。


 それじゃなきゃ猿が喋る理由がわからない。


 猿駅員は、腕時計をちらっと見てから口を開く。


「お、来たみたいだね」


「え? 電車が?」


「そう。いってらっしゃい」


 猿駅員はそう言うと、私に手を振った。


      

 気がつけば、私は駅のホームに立っていた。


 移動した覚えがないけれど、ここは確かに代わり映えのしない最寄りの駅のホーム。


 古びた木製のベンチも微妙なラインナップの自動販売機もあの頃のままで、懐かしさがこみあげてくる。


 だけど、その懐かしさもすぐに驚きで吹き飛んだ。


『一番線、チョコレートレインがまいりまーす』


 ホームで駅員の声が聞こえたから。


 線路のほうに視線を向けると、電車がこちらに走ってくるのが見える。


 チョコレート色した車体だ。


 電車が停車し、ドアが開く。


 中は真っ白で何も見えないけれど、ここは十年前につながっているのかもしれない。夢の可能性のほうが高いけれど。


 どちらにしても、乗ってみたいという気持ちが勝って、ゆっくりと車内に入る。


 車内に入った瞬間、甘い香りがした。


 それから、モノクロの景色に色が浮き上がるかのように、目の前に座席や乗客が現れる。


 中は、ごくごく普通の車内。


 しかも、車窓の外が明るい。


 おかしいな、さっきまで深夜だったはずなのに。


 まったく状況を飲み込めないでいると、目の前にどアップの顔。


「なーにしてんの? 座らないの?」


「わあ!」


 驚いて後ずさりをした私を見て、つられて驚いているのは……。


 整った彫りの深い顔立ちに、スラリとした長身、手足が長く、他校の生徒からもダサと評判のデザインの母校のブレザーを着ても、オシャレに見えてしまう人物。


 中、高と友人だった冴木剛(さえきつよし)だ。


「冴木、なんでこんなところに……ってゆーか、なんで制服? コスプレなの?」


「は? コスプレ?」


 私の言葉に、冴木は首を傾げる。


「え、だって高校の制服なんか着ちゃって」


「高校生だから当たり前だろ? 大丈夫かー?」


 冴木はニコニコと笑いながら、こちらを見る。


 ああ、この笑顔ももう十年ぶりだ。


 私がそんなことを考えていると、冴木が急に視線を車窓のほうに逸らす。


 それから独り言のように呟く。


「そんなに見つめられると、照れるの通り越してイラッとする」


「はいはい。ごめんなさいねー。ってゆーか、見つめてないけどね」


「冗談だよ! まーったくたちばなは素直だなあ」


 なんだか楽しそうに笑って、それから辺りをキョロキョロする。


「とりあえず、あそこの席空いてるから座ろう」


「座ろうってゆーか、私は何がなんだかわからないんだけど」


 私はそう言って、冴木の後ろ姿を追いかけるべく足を出してぴたりと動きを止める。


 なんで、自分はスニーカーじゃなくて黒のローファーを履いてるんだ。


 もしや……そう思って自分の服装を確認。


 真冬のぐるぐるもっこもこの防寒装備ではなく、黒色のダッフルコートに、笑えるくらいにだっさいブレザー姿だった。


 左肩には高校指定のスクールバッグも下げている。


「本当に、十年前に戻ってきちゃったの?」


 小さく呟くと、冴木が口を開く。


「ねえ、顔、青いけど大丈夫?」


「ああ、うん。大丈夫……だと思う」


「なんか分からないけど、とりあえず座ったら?」


 既に冴木は座席に腰かけ、自分の隣をぽんぽんと手で軽く叩く。


 隣に座るの、なんか恥ずかしいなあ。


 だけど、ここで立っているのも不自然だし。


 私は冴木の隣に座ったけれど、その間にはカバンを置けるくらいのスペースがある。


 さすがにこれ以上は詰められない。車内がガラガラで良かった。


 乗客が少ない田舎だったことにホッとしつつ、コートのポケットを漁ってみる。


 桜色の携帯電話が入っていた。


 当時使っていたガラケーだ。黒猫のストラップもついてる。


 全部、あの頃のままだ。


 懐かしい気持ちに浸りつつ、今日の日付を確認。


 本当に十年前の二月十四日。時刻は十六時七分。


 ……ってことは、帰りの電車の中ってことか。


「ねえ、冴木、次って新高城しんたかしろの駅だよね?」


「うん。そうだよ。なんで? 降りるの?」


「ううん。違う。聞いただけ」


 私は首を左右に振ってから考える。


 そっか。じゃあまだ、降りる駅まで時間はある。


「なーんか、今日の橘、変だなあ」


 冴木はそう言ってから顎に手を当てて何やら考え始めた。


 そして、ぽんと手を叩いてから続ける。


「あ! そうか、恋か!」


「安易な答えを導きだしたね~」


「安易とはなんだ、安易とは! 高校生とは青春をするものだろ! 高校生と言えば、青春と言えば高校生。青春と言えば、恋愛!」


「なんか冴木、おっさんくさい」


「そんなわけないだろう! 俺はぴちぴちの十六歳だ!」


 冴木はそう言うと笑いだす。


 バカみたいに明るいキャラは、当時のまま。


 なんだか安心するような、気が抜けるような……。


 私は恐ろしく整った冴木の横顔をちらっと見てから口を開く。


「中学の頃は根く――真面目なキャラだったのにね」


「いま、根暗って言おうとしたろ!」


「言ってない言ってない」


「いーや! 俺のこの地獄耳にはしかと聞こえたぞ!」


「しつこいなー。しつこい男は好かれないよ?」


「え? そうなの? 好かれないの?」


 冴木は真面目な顔に戻り、こほんと咳払いをする。


 そして、彼は足元に視線を落としてぽつりと呟く。


「そういえば、むかし兄貴も『しつこい男は嫌われる』とか言ってたな……」


「え? なに?」


「いや、なんでもない。ま、橘と言えども一応、女子からの意見だし、注意しよう。しつこくしない、って」


 冴木は拳をぐっと握り、大きく頷く。


「一応ってのが気になるけど、私の言うことまともに聞かなくていいよ。どうせ」


 そこまで言うと、私は黙りこんだ。


 だって、このすぐ後、私は、冴木にひどいことを言うんだ……。


 そんな奴の言うことなんか、聞かないほうがいい。


 冴木に酷い言葉をぶつける私なんかの意見なんか、まともに取り合うことはない。


 彼にぶつけた酷い言葉。


 それこそが、十年前の私の後悔。


 この日以降、冴木とは口を利いていない。


 だから、十年ぶりに冴木に会って、普通に話しかけてくれて、うれしくて舞い上がってしまった。


 でも、もうすぐ、あの時が……後悔するべき時間がまたやってくる。


 私はスカートをぎゅっと握る。


「なんだ? やっぱり具合いが悪いのか?」


 冴木が心配そうにこちらを覗き込んでいる。


 その顔が本当に私を心配してくれるんだと伝たわってくるからこそ、変えなきゃいけない。


 今から、過去を変えなきゃ。


 私は心に誓い、大きく頷く。



 十年前の私は、この帰りの電車のたった三十分の間に、冴木にバレンタインのチョコを渡そうと決意をした。


 その緊張と、それから冴木に彼女ができたと知った悲しみから、彼に酷い言葉を放ってしまったのだ。


 チョコを渡すことは後回し。


 ますは、酷い言葉を放つのを消すのが先だ。



「あ、そーいえばさ」


 私がそんなことを考えているとも知らずに、冴木はコートのポケットから携帯を取り出す。


 きた!


 私はちらっと見えた冴木の携帯のストラップを見て、胸がずきりと痛んだ。


 間近で見るのはもう二度目だし、遠目で彼を追っていた高校三年間、ずっとこれを見てきたから慣れたと思ったのに。


 まだ慣れない。


 目の前で揺れる、有名テーマパークのキャラクターのマスコットのストラップ。


 そのマスコットは、星の形のプレートを抱きしめている。


 プレートに書かれてあるのは、Mというイニシャル。


 冴木剛のイニシャルでもない、もちろん私の橘杏のイニシャルでもない。


「これ、真里(まり)さんにもらったんだよ」


 マリ、M。


 そこで私は理解したのだ。


 バレンタインなのに、手ぶらだということ。


 男子が買いずらいはずの、かわいいキャラクターのストラップ。


 しかも、ストラップには、誰とも知らないイニシャル。


 マリさんという名前の女性。


 そこで私は答えを導きだした。


 こいつ、彼女ができたんだ。



 だから、バレンタインのチョコも断りまくってきたんだ、きっと。


 去年は大量にもらってたくせに。


 私は、自分の可能性が粉々に壊れたと判断した。


「いいだろー! 欲しいって言ってもやらねーぞ!」


 満面の笑みで言う冴木に無性に腹が立ってこう言い放った。



『うっわ! 気持ち悪い! もう近づかないで!』



 ……と。最低だよ、十年前の私。


 この後、冴木は私に近づいてこなくなったし、私も謝る機会がなくて、そのまま話さなくなり、今に至る。


 結婚まで、しちゃったんだよね。


 ここで私が、どう発言しようが、未来は変わらないかもしれない。


 だけど、マイナスの印象をつけたまま終われない。


 失恋確定だけど、友だちだという関係は終わらせたくないんだよ。


 終わらせちゃいけないんだ。


 それが十年後も後悔としてずっとずっと残っているんだから。


 私は意を決して、顔を上げ、冴木を見てこう言う。


「おめでとう」


「え? なにが?」


 冴木はきょとんとした顔で私を見る。


 傷心中の身にそこまで言わせますか。


 そう考えつつも、私が口を開こうとした時。


「これ、さそり座のマークなんだって」


「え? さそり座?」


 私はそう言うと、ストラップに顔を近づけた。


 ああ、確かによく見ると『m』とは違う。


 なんか尻尾みたいなのついてる。


「そう。俺、さそり座だから。真里さんがデートでネズミーランドに行ってお土産にくれたんだ」 


「真里さんって誰?」


「え? あれ? 言わなかった? 兄貴の彼女」


「は? 冴木の彼女じゃなくて?」


「は? なんで俺の彼女なの?」


 首を傾げた冴木に、私は思わず笑いだした。


 なんだ、彼女じゃなかった!


 お兄さんの彼女かー! 紛らわしい!


 私が笑っているのに、冴木は「え? なになに?」と不思議そうに聞いてくる。


「ねえ、冴木」


 私は涙を拭いてから聞いてみた。


「なんで今日は手ぶらなの? チョコ、いっぱいもらったんじゃないの?」


「聞かないでくれ」


 冴木はそう言うと、ガックリと肩を落とす。


 なんだ、なんだ。


 私が哀愁漂う冴木の横顔を見ていると、彼は小さな声で言う。


「ずいぶん前、いや、先月か。告ってきた女子をフッたんだよ」


「それで?」


「その女子って、なぜか知らんが女子の間で人気あったらしくてさ、『なんでフルの! 最低!』とか色々な女子に言われて」


「ああ、フッたほうがなぜか悪者にされちゃうパターンね」


「そう、それそれ。そのことで、恨まれ、おまけに『八股かけてる』なんて根も葉もないうわさ流されてるみたいでさ」


「あー……。酷いな、それ」


「だから、チョコは、なんか義理っぽいの一個と、遊びでもいいからってメッセージつきのチョコが一個で」


「噂ってこわいなあ」


「八股どころか、俺は女の子と付き合った経験すらないのに!」


 冴木はそう言って大きな大きなため息をつく。


「まあ、顔がいいのも良いことばっかりじゃないってのは、よくわかったよ」

 

「橘、なんか他人事っぽいなー」


「いや、だって事実、他人事だし」


 それに冴木は結婚するから、これから先は安定して本命チョコが供給されるよ、とはさすがに言えない。


 ああ、これで私の後悔は消えた。


 だけど、冴木とはこのまま友だちで、ずっと友だちという記憶で終わるんだ。


 それでいいはずなのに、後悔はもう消えたはずなのに。


 やっぱり心はモヤモヤしたままだ。


 小さくため息をつくと、冴木が思い出したように言う。


「中学二年生の二学期に席替えで、俺と橘、隣の席になったことあるだろ?」


「ああ、そういえばそうだったね」


「隣の席になって少ししてから、俺がノートの隅に描いてた落書き、褒めてくれたよな」


「え?! あれって落書きだったの? そうは思えないほどクオリティの高い絵だったけど……」


「落書きだよ。しかも、当時俺が勝手につくったオリジナルの設定のキャラだったからな。結構、恥ずかしかった」


「あの悪魔みたいな絵を見た時、『こいつ、見た目に反して心に闇、抱えてるなあ』と思ったけどね」


 私が笑うと、冴木は苦笑いをしながら口を開く。


「あれは、悪魔じゃないよ。猿のキャラだよ」


「え? 猿?」


「そう。猿をモチーフにした化け物。あんな顔して、電車の運転手って設定なんだよ」


 そこまで聞いて、私は猿の駅員を思い出す。


 まさか、まさかね……。


 私がそう考えた時、突然、車内アナウンスが響く。


『次の駅でチョコレートレインに乗ったお客様は終点となります。次の駅まで、あと十分です』


 なに……この車内アナウンス。


 まるで、私だけにされたみたいな……。


 私は、車窓の外を眺めている冴木に聞いてみる。


「さっきの車内アナウンス、聞こえた?」


「え?」


 冴木は驚いたような顔をしてこちらを見た。


 そして彼は続ける。


「さあ、俺は、何も、知らない」


 歯切れの悪い冴木の言動にひっかかりを覚えながらも、私は考える。


 あと十分で、私は降りなきゃいけない。


 たった十分。


 でも、これが最後のチャンス。


 どうしよう。


 もう、告白してしまおうか……。


 でも、そんな勇気はない。


 あれこれと考えていると、私は思い出す。


 そうだ、今日はバレンタインだ。


 そもそも、十年前の私は、冴木にチョコを渡すために帰りの時間を合わせたはずだ。


 私はカバンの中をガサガサと漁る。


 あれ、チョコが入ってない。


 カバンの中を隅々まで探し、カバンのポケット、制服やコートのポケット。


 チョコを隠せるような場所をすべて探してみたけど、チョコはどこにもなかった。


 ……家に忘れたんだ。


 冴木にチョコを渡すという気合いだけ入れて、肝心のチョコを忘れてくるなんて、まぬけ過ぎる。


「どうした? なんか落とした?」


「ううん。なんでもない」


 私はそう答えつつも、かなり焦っていた。


 このままじゃ、冴木に何も渡せない。


 言葉で告白をする勇気がないから、チョコに頼ろうと思ったのに。


 もう、頼みの綱がない。


 時間だって、もうない。


 私は、このまま冴木に自分の想いを伝えられずに、未来に戻っちゃう。


 それだけは嫌だ。


 冴木が結婚をしたら、私は一生この想いを伝えられない。


 高校時代が、また後悔に塗りつぶされる。


 そこまで考えてハッとした。


 だけど、冴木にここで告白して、フラれたら、友だちに戻れないかもしれないんだ。


 フラれて、気まずくなって、そのままお互いに話さなくなって結果的に、友だちでいられなくなるのは嫌。


 それなら、黙っておいたほうがいい。


 冴木に酷いことを言ってしまった、という後悔は消えたんだ。


 欲を出して、これ以上、過去を変えるのはやめよう。


 私はそう結論を出し、顔を上げる。


 すると、冴木がじっとこちらを見ていた。


「どうしたの?」


「いや、橘はさ」


 冴木がそこまで言いかけた時、車内アナウンスが響く。


『お待たせいたしました。間もなく到着いたします。チョコレートレインのご乗車、ありがとうございました』


 アナウンスが終わったと同時に、目の前が真っ暗になった。



「おい、橘」


 その声に目を開けると、すぐそばに男性が立っていた。


 ガタンゴトン、という規則的な音、ほどよい温かさ、窓の外から見えるのは懐かしい景色。


 ここは間違いなく電車の中だった。


 私は完全防備のもっこもこの格好をしている。


 そして、目の前に立っている男性は彫りの深い整った顔立ちの、


「あれ? 冴木?」


「そうだよ。橘、次で降りないのかよ」


「次、どこの駅?」


「三七駅」


「あ、最寄りの駅だ。降りなきゃ」


 そう言って、ふと車窓の外を見て疑問を抱く。


 私が駅に来たのは深夜だったのに、なんで外は明るい――しかも昼間っぽいんだろう。


 あれ? でも、さっきまでは夕方だった。


 ああ、あれは十年前だったからか。


 ん? 待てよ。ここはどこだ?


「ねえ、冴木、今、何歳?」


「二十六歳だけど?」


「そうだよね」


「……年齢を聞くだなんて、もしかして、アルツハイマー?!」


 冴木がそう言って笑う。


「失礼な。ちょっと聞いただけよ」


「そうか」


 冴木はそう言って、窓の外に視線を向ける。


 おかしいな、何か、引っ掛るような……。


「まあいいか」


 そう呟いて、私はさきほどの、チョコレートレインのことを思い出す。


 

 さっきの高校時代の出来事は、夢だったんだろうか。


 ってゆーか、どこから夢だったんだろう。


 だけど、私の思い出の中には、確かに高校時代の三年間、冴木と友だちだった記憶が刻まれている。


 同時に、酷い言葉を言って、友だち関係を壊した記憶が薄れかけていた。


 そこまで考えて、私はふと疑問に思う。


「ねえ、冴木、電車で出かけてたの?」


「え?! ああ、うん、ちょっと」


 冴木はそれだけ言うと、私から視線をそらした。


 ……随分とタイミング良く電車で会ったなあ。


 冴木の服装は、電車で出かけるにしては随分とラフというか、ほぼ部屋着にダウンジャケットを羽織っただけのようだ。


 同じく、私もほぼ部屋着だし、本来なら電車に乗るような格好ではない。


 それに、さっきのチョコレートレインでの車内アナウンスに私が『聞こえた?』の言葉に対しての驚きよう。


『聞こえなかった』じゃなく、『知らない』という返事。


 それって、冴木も、チョコレートレインに……。


 なんて、考え過ぎか。


 私がそうであってほしいと思ってるだけなんだ。  


 

 電車を降りて振り返ると、電車は見慣れた赤い車体だった。


「チョコレートレインじゃないや。そりゃそうか」


「いま、チョコって言った?」


 ホームを歩きながら、冴木が聞いてくる。


「内緒」


「今日は二月十四日。バレンタインだよ」


「そうだねー。私には関係ないかな」


「あげる人がいないなら、俺にくれてもいいんだけど?」


 冴木がそう言って立ち止まってこちらを見る。


「はあ?!」


「橘からチョコ、もらったことないし」


「あんたねえ! もうすぐ結婚するんでしょ! 私じゃなくてその人からもらいなよ!」


 そう言った声が思ったよりも大きくなってしまい、通り過ぎていく人がちらちらとこちらを見ていく。


 肝心の冴木は「結婚? 俺が?」と言ってから笑いだした。


「何がおかしいのよ」


「いや、だって、結婚するの俺じゃないから」


「え? でも、うちのお母さんが冴木さんとこの息子さんがって……あ!」


 そこで私はもう一つの可能性を思い出す。


 そうか、冴木にはお兄さんがいるんだっけ。


「兄貴だよ。真里さんと今年の春に結婚するんだ」


 私は何も言えなかった。


 安心し過ぎて、涙が出そうだ。


「俺は結婚もする予定がないし、チョコをくれる彼女もいない。だけど、橘こそ」


 冴木はそこで言葉を切って、足元に視線を落としてから続ける。


「結婚するんだろ?」


「は?」


「お袋が聞いたって。『橘さんとこのお嬢さんもそろそろ』ってさ」


「いや、そろそろってなに?! 私だって冴木と同じ。結婚どころか彼氏もいない」


「本当に?」


 冴木がそう言って顔を上げてちらとこちらを見る。


「うん。本当。お母さんの見栄っぱりなところあるから……」


「そうか、それは良かった」


「何も良くないよ」


「あ、ああ! そうだな」


 冴木が安心したような笑顔を見せた。


 ああ、好きだなあ。


 そんな気持ちがじわじわとこみあげてくる。


 言うなら、今しかない。


 告白するなら。


 せっかくバレンタインなんだからチョコを渡したい。


 だけど、あいにく財布と鍵とスマホしかない。


 そんなことを考えていたら、自然と言葉に出る。


「ねえ、駅の近くにカフェできたでしょ。あそこのチョコレートケーキ食べに行かない?」


「え?」


「私、奢るから」


 そう言ってから、恥ずかしさのあまりマフラーで鼻と口を覆う。


 冴木は目を何度もぱちくりさせてから、そわそわしたように答える。


「うん。じゃあ、お言葉に甘えて」


「よし! じゃあ行こう、急いで行こう!」


 私がさっさと歩き出すと、「え! ちょ、はええよ!」と冴木が慌てて着いてくる。


 改札に続く階段を登ろうとしたところで、私は足を止めた。


 駅のホームの隅に、駅員がいたのだ。


 顔が猿の駅員。


 猿駅員は、私に気づくとにっこり笑って、そして煙のようにふっと消えた。 

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