ep15.塩チャーシューラーメン
香水を買って残ったのは、千五百円という微妙な額の金だった。涼はわざわざラッピングしてもらった香水の入った袋を無造作に左手に下げたまま、財布の中身を確認していたが、ふと思いついたように顔を上げた。
「ラーメン食おうぜ」
「店あったっけ?」
「駅の北側にあるんだよ。塩チャーシューが七百円」
「奢りだろうな」
「勿論」
七百円のラーメンを二杯。千四百円。
使い切るには丁度良いのかもしれないが、ラーメンなんて普段から食べているものだし、女の子らしさからは遠いような気がする。五万円の最後がそれでいいんだろうか、とちょっと俺は疑問に思った。
涼は停めていた自転車のカゴに袋を入れて、後輪の鍵を解除する。銀色のフレームは、きちんと手入れしているのか綺麗だ。自転車通学じゃないから、汚れることも少ないのかもしれない。俺は砂埃にまみれた黒い自転車を駐輪場から引きずり出す。
「味噌ねぇの?」
「あるけど、食ったことない。俺、塩派だし」
先導するために涼が先に漕ぎ始める。俺はその後ろを、前輪がぶつからないようにしながら追いかける。
「充は?」
「醤油派」
「じゃあなんで味噌のこと聞いたんだよ」
「別にいいだろ」
前を行く涼の背中越しに、カゴの中の袋が左右に動いているのが見えた。
「美味いな」
「だろ?」
丼の中に色の薄いチャーシューが二切れ乗っている。煮卵と海苔、刻みネギまで入っているので、ボリュームは良い。これで七百円は結構お得だろう。
カウンターテーブルだけで構成された狭い店内は満席だった。奥の厨房からは威勢の良い掛け声が聞こえてくる。出来上がったラーメンを提供するためにカウンターを右往左往する店員は満面の笑みを浮かべていた。
「今日はスムーズに入れてよかった。休みの昼間とか、結構並ぶんだぜ」
「お前、一人で来るのか?」
「そうだけど」
涼はチャーシューを口に入れながら言った。つくづく、男らしい性格をしている奴だと思う。というよりオッサンか。
「ラーメン好きなのか?」
「別に。早く出てくるし、ハズレがあまりないから」
オッサンだ。俺の親父と似たようなことを言っている。
暫く黙って麺をすすっていると、涼がまた口を開いた。
「あの夢を捨てられなかったのは」
思いの外小さな声だったので、俺はそれを聞き逃しそうだった。箸を止めて、隣に座る涼を見る。涼の目はラーメンの器の中に注がれたまま動かない。
「女の子になれたら、色々な素敵なものが何もしなくても手に入る、って思ってたからなんだよ」
俺と涼の間には、あの香水の袋が置いてある。匂いはしないが、ラーメン屋には不釣り合いのものだった。
「俺は女の子になりたかったんじゃなくて、何もしないで色々なことを叶えたかっただけなんだ。だから本気でその夢を叶えるつもりもなかったし、努力もしなかった」
魔法みたいな話だ、と思った俺は視線を元に戻す。箸を持ち直して、音をあまり立てないようにして麺を啜った。
「五万円は何もしないで手に入ったから。親から貰った小遣いの中から三百円払っただけ。俺の努力じゃない」
涼もラーメンを啜る。二人分の静かな音が、他の客の立てる音に混じっていく。
半分ほど食べてから、涼は水を飲んで一息ついた。
「俺の中の
俺はチャーシューを齧りながら、涼の言葉を頭の中で繰り返す。
誰かが自分の夢を叶えてくれる。確かにそれは理想的だし、俺も少なからずそんな願望は持っている。でも大抵の場合、それは起こらない。そんなものを待っているくらいなら、違うことをしたほうが効率的だ。
でも涼の中の
「さっき、金足らなかったじゃん」
涼はスープと湯気で原型を失った海苔を口の中に入れる。相変わらず視線は上がらない。
「結局、何かは諦めなきゃいけないんだなって思ったら、急に何もかも馬鹿らしくなってさ。それで、男用の香水にした」
俺にはその転換の理由はよくわからなかった。でも、何もしなかった夢の代償なんて、そんなものなのかもしれない。俺達は無邪気な夢を見るには、ちょっと足し算や引き算が得意になりすぎている。
「充にあげるよ」
涼が不意に顔を上げて、俺を見た。
「この香水、御礼にあげる」
「俺、香水つけないけど」
そう言いながらも俺は、袋に手を伸ばして手元に引き寄せていた。指先についたラーメンの油が袋に擦れてしまったけど、仕方がない。そもそもさっきから、俺達が啜った麺のせいで、細かな汚れはついてしまっている。
「でもくれるなら貰う」
「うん、ありがとう」
御礼を言われることをした覚えはない。俺はそう言おうとして涼の顔を見たけど、そのまま黙ってしまった。
ラーメンを食べながら、涼はどこか淋しそうに笑っていた。
「
俺は涼が、ピアスを買った時に言った言葉を思い出していた。「甘くて綺麗で可愛くて、見ているだけで幸せな砂糖菓子みたいな女の子」。
目の前にいるのは紛れもなくいつもの涼だった。でも、俺は一瞬だけそこに涼とは違うものを見た。涼の中で眠り続け、そして目覚めること無く終わる砂糖菓子みたいな女の子を。
「本当は諦めたくなかったよ」
その時の涼は紛れもなく「夢見る女の子」だった。最初で最後の女の子の笑みは、俺が脳裏に焼き付ける間もなく、すぐに消え去ってしまった。
俺は何を言えば良いのかもわからないまま、ラーメンを頬張る。でも、もう味なんかわからなかった。涼のあんな顔を見るために、俺はここに来たんじゃない。そのために、涼と一緒にいたわけじゃない。
自分でもよくわからない苛立ちを抱えたまま、俺は器に視線を落とす。このスープの下に、あの女の子が沈んでいれば良いのにと思いながら、無心に箸を動かし続けた。
シュガーガールは目覚めない 完
シュガーガールは目覚めない 淡島かりす @karisu_A
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