読者の意識には制限がある
私はあまりテレビは見ないほうだ。それでも食事の時間に小説は書けないし、私はなぜか食事中に人と会話するのをひどく嫌うので、そのときばかりはテレビを見ることもある。中でもわりと真剣に視聴するのが、とある番組の、芸能人が俳句を披露してその才能をランキング付けする、というものだ(ほぼ名指し)。
これは非常に勉強になる。
自分の感性を見つめなおす良い機会であると同時に、語彙力を身につけることができる。ご覧になったことのない方は「こんな言葉、日常的にゼッタイ使わんわい!」とかツッコミを入れながらメモ帳を用意すると、たぶんタメになる。
当番組では、上手い人もいれば下手な人もいる。
上手い人はやはり感性に優れていて語彙も豊富だ。そこから物書きとしてのスケールアップを望めるのではないかなと思う。
しかし「初心者の俳句の時間だから、別の番組に替えちゃえばいいかぁ」というと、そうではない。何故なら、俳句自体が拙い内容であったとしても、そこに先生からの手直しがあるからだ。
そこでよく注意される内容として『言葉の重複』がある。俳句では五・七・五の限られた文字数のなかで書きあげなければならないので、意味の重複した言葉は文字数の邪魔になるのだ(あえて重複させる技法もあるのかもしれないが、著者はそこまで俳句に詳しくない)。
これは小説においても同じことが言える。
web小説では、字数による制限を設けられない場合が多く、自由に文章を書き連ねる事ができる。
それは実際的な文字の無制限を錯覚させるが、実はそうではない。文章が長すぎれば、読者はそれだけで辟易としてくるものだ。内容自体が面白ければ、どんどん次を読み進めていくだろうが、その面白さを演出する上で、無駄な表現というのは省いていかなくてはならない。
ここで言った無駄というのは、演出として不要な部分である。必ずしも近しい表現を重複・反復させることが間違いと言っているわけではない。そのシーンにおいて重要な主張したい事柄というのは、あえて重複・反復させることで、読者に鮮烈なイメージを刻みこむこともできる。
しかし情感をあおらない『読み流して欲しい文章』において、意味の重複は邪魔になる。たとえば「針のような光」といったら、それは「光」という主語をもつと同時に「小さい」とか「鋭い」とかいった意味合いをもってくる。人間の脳はかしこいので、これをなんとなく読み進めていても無意識的にそれを補完してイメージすることができるのだ。
なので「針のような小さい光」とか「針のような鋭い光」といった表現を用いると、これまた人間の脳というのは賢く「くどい」と感じてしまう。なんとなく冗長な雰囲気を感じとり、辟易としてくるのだ。
表現以外の場面でも、主語の連続が読者をうんざりさせてしまう事がある。「私は――」、「私は――」、「私は――」といった具合に、『誰』、あるいは『何』に動きがあるのかを逐一書いてしまうと、「いや、誰が動いてるかくらい分かるわい!」と思われかねない。前後の文章や場面の流れを意識しながら書くと、このような問題は解決できる。逆に主語が不足すると「誰が動いてんねん」と読者を困惑させてしまうし、推敲する自分も困惑するので注意したい。
これらがタイトルに挙げた『読者の意識には制限がある』ということである。はっきりとした文字数制限が提示されていなかったとしても、読み手が無意識的に求める制限があるのだ。この文章の流れでは、雰囲気では――と、状況を自分のなかで明確にしながら、不要な部分は省き、必要なところは補完していく。
実際、推敲をしていると結構このような『意味の重複』を含んだ文章が多いことに気付くだろう。
かくいう私も今回指摘した点で失敗しているところが多い。
なので他作品を読んでくれた方がいれば「あそこしつこいよ、やり直し!」と注意していただきたい。すぐに直します……。
創作について考える 笹野にゃん吉 @nyankawa
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