鬼の月・鬼庭左月斎

前田薫八

鬼の月

 いくつもの旗が翻っている。その旗には、丸に三引両、日の丸に扇、連子に月、竹輪に三つ盛笹、右三つ巴の家紋がそれぞれ描かれていた。幾旗の下にはまるで蟻のように鎧兜を身につけた武者が蠢いていることだろう。


 蘆名、佐竹、岩城、石川、白河結城といった東北の群雄である。その群雄たちの旗を、観音堂山という小高い山の上から鬼のような形相で見ている人物がいた。風向きが変わり、旗が翻った瞬間、その鬼の口がニヤリと笑った。



「連合軍の兵数は三万。迎え撃つ我が軍は七千、でございますか。これは、難儀な戦になりそうですな」



 鬼の後ろには三日月をかたどった前立てを身につけている若い男がいた。その男も鷹のような眼つきで鬼と同じ方向を見ている。



「どう見る」



 鷹が鬼に尋ねた。鬼の顔が急に厳しくなった。ギョロリとした大きな目玉が、旗が蠢く原野を睨みつけていた。



「普通に考えましたら我が軍は圧倒的不利。連合軍の連携がうまくいかないと楽観的に考えましても、状況を覆せるほどの材料ではなさそうですな」


「陣形はどうだ」


「連合軍は数におごっております。陣形というより、数で押し切るつもりなのでしょう。これほどの差があれば、陣形など無意味。ただ平押しに攻められれば、数の少ない我が軍は崩れ去るしかないでしょうな」


「では、我らの負けか」


「なんの。この状況でも、我ら伊達軍の勝ちでございますよ。なぜなら、この鬼庭左月斎がおりますのでな」



 鬼、この年老いた老人、鬼庭左月斎は笑っていた。圧倒的不利。それでも、この状況を楽しんでいるようでもあった。その様子を見て、鷹、まだ年若い伊達政宗は一緒に笑った。左月斎がいれば、本当にこの戦にも勝てる。そんな気分になった。





 鬼庭左月斎。またの名を、鬼庭良直という。鬼庭家の系譜を遡ると、藤原家の後裔、斉藤別当実盛に行き着く。この実盛は七十二歳のときに起こった源平合戦の際に、



「老骨と侮られては心外」



 と白髪を黒く染め上げ、平氏軍総崩れの中、殿軍を務めて戦死したほどの勇将である。孫の斉藤実良は下野那須、現在の栃木県那須郡に移り住んでいたが、伊達郡茂庭村に縁があって居を移した。ここで周辺の村々を荒らしていた大蛇を退治し、領民に請われて領主となったという。その武勇を鬼と讃えられ、名乗りを『鬼庭』としたことが鬼庭家の発祥である。


 その鬼庭実良の噂を伊達家初代当主であった伊達朝宗が聞きつけ、実良は伊達家に召抱えられることになった。そして、伊達家が十七代当主伊達政宗になった際、鬼庭家には鬼庭左月斎がいた、ということなのだ。


 左月斎は政宗以外にも、十四代当主伊達稙宗、十五代当主伊達晴宗、十六代当主伊達輝宗と四代に渡って伊達家を支えてきている。まさに伊達家にとって稀代の重臣といえるだろう。


 その左月斎が七十三歳のとき、伊達家に最大の危機が訪れた。奥州の中で急激に成長しだした伊達家を恐れ、奥州の群雄が連合して伊達家に立ち向かってきたのだ。その中心にいた五家が、先ほどの蘆名、佐竹、岩城、石川、白河結城であった。特に蘆名と佐竹の力は強く、連合軍の主力をなしていた。


 伊達家はこの連合軍と雌雄を決するべく、阿武隈川支流の瀬戸川付近、現在の福島県本宮市の辺りで激突した。この瀬戸川に架かる人取橋付近で戦ったことから、この戦いは人取橋の戦いと呼ばれている。





 左月斎と政宗が連合軍の様子を観察していると、辺りはすぐに暗くなってきた。今日は十一月十二日。暦の上ではすでに冬であった。日が落ちるのは早い。今は晴れているが、周りはすでに雪に覆われていた。今日か明日、また吹雪になることだろう。


 連合軍の動きが鈍くなってきた。陣を張り、所々で白い煙が立っている。おそらく、夕食の支度をしているのだ。その煙を見て、左月斎は頭に被っていた黄色い綿帽子を外した。



「この様子ですと、戦いは明日になりそうですな」


「夜襲の心配はなさそうだな。夜襲は基本的に数の少ない方がやるものだ。数を頼みにしている蘆名や佐竹がやるとはとても思えん」


「かといって、油断は禁物ですぞ」


「わかっておる」



 政宗はゆっくりと落ちていく陽を見ながらこの戦いのことを考えていた。蘆名、佐竹、それに追随する自分の意思の見えない魑魅魍魎。自分の覇道を邪魔するものは、全て悪鬼羅刹に思えた。



「それがしが蘆名や佐竹なら、今日の夜のうちに夜襲をしかけるな。攻め口としては、あそこと、あそこか」



 政宗は観音堂山の麓を二箇所指した。木々が生い茂っていて身を隠しやすい。しかも、事前の調査ではいくつもの獣道があった。その獣道をたどっていけば、すぐに観音堂山の山頂にまで攻めることができるだろう。


 政宗の慧眼に感心した左月斎だったが、それ以上に政宗の胆力に惹きつけられた。



「ほう。殿でしたら、数で勝っていても夜襲をしかけると?」


「敵も大軍が夜襲を仕掛けるとは思わないだろう。その油断がある。さらに、数の少ない敵のほうが夜襲を準備しているかもしれない。そこにこちらから先に攻めてかかれば、混乱は必至。昼間の戦を待たずにこちらの勝利は決まったようなものだ」


「さすがでございますな。さすがは殿です」


「何を言う。これも左月斎から教わったことではないか」


「そうでしたかな」



 左月斎はさも知らなかったふりをして頭をつるりとなでた。老齢であるため、兜や鎧を身につけることはできない。だが、それ以上に長年培ってきた経験や知識があった。その全てが、政宗に受け継がれている。



「今指差したところは兵を増やしておけ。夜は冷える。わずかばかりなら酒を出してもかまわん」


「御意に」



 政宗は左月斎に指示を与えるとそのまま本陣のほうへと下がっていった。その様子を、左月斎が薄暗い日差しの中でじっと見つめていた。




 その夜に軍議を開いた。その中心にいるのは、伊達家当主伊達政宗の他に、鬼庭左月斎、片倉小十郎、伊達成実といった重臣たちであった。鬼庭左月斎の隣には左月斎によく似た、しかしまだ老人とも言えない大人が座っていた。左月斎の息子である、鬼庭綱元である。綱元も小十郎、成実と同様に政宗の信頼する重臣の一人であった。


 様々な意見が出る中、鬼庭左月斎はじっと黙って若い重臣たちの意見を聞いていた。四代に渡って伊達家を支えてきた左月斎の一言は重い。下手に口を開けば、若い活発な意見がそがれてしまう。そのことを懸念して黙しているのだった。


 そして、一通り意見が出揃ったのを見計らい、左月斎は口を開いた。場の空気が停滞した瞬間を狙った、これ以上ないほどの絶妙なタイミングだった。



「殿、これで意見は出揃ったと思われます。いかがいたしましょうか」



 政宗は左月斎の目をじっと見た。左月斎も政宗の視線を真っ向から受け止める。



「まだ、左月の意見を聞いておらぬが」


「はっ。片倉殿、成実殿の意見。至極もっとも。何の異論もござらぬ。両者の意見を基本とし、細部は現場の指揮官に任せるのがよいかと」


「左月にしてはあっさり認めたな」


「いえ。わしの意見が通るようでは、今後の伊達家は衰退の一途でしょう。年老いたわしのようなものは殿の言葉に従うのみ。それ以外に何がありましょうか」



 左月斎のこの言葉の意味は大きかった。左月斎と言えば伊達家でもっとも発言力のある重臣の一人だ。その左月斎でも、政宗を中心とした小十郎、成実のような若いものの意見を尊重する。これで小十郎や成実よりも長い間伊達家に尽くしてきた家臣たちも、二人の意見を聞かざるを得ない。これは一種の政治行動だったのだ。


 政宗は深く頷き、皆を見渡した。



「では、小十郎、成実の意見を採用する。軍議はこれにて解散。明日は大戦となろう。しっかりと休むように」


「ははっ」



 皆が軍議の場から去った後、左月斎は一人で政宗の陣を訪れていた。夜気を吸い込むと肺の奥がきりきりと痛む気がした。



「殿」


「左月か」



 政宗はすでに床几を用意し、眠る準備を始めていた。政宗は戦陣では横になって寝ない。いついかなるときでも咄嗟の判断ができるように、具足を身につけたまま床几に座って眠るのだった。そんな政宗は、この左月斎の急な訪問にも嫌な顔一つしないで対応した。



「こんな夜更けに来るとは、何か人に聞かれたくないことでもあるのか」



 政宗は左月斎の床几を用意させた。左月斎は一礼し、用意された床几に勇ましく座った。



「一つ、確認したいことがございます」


「何だ」


「殿の、草のことでございます」


「……黒脛巾組のことか」



 黒脛巾組とは、政宗が創設した忍者集団である。忍者といえば伊賀や甲賀のような山岳地帯の傭兵集団という色合いが濃い。山岳を信仰や修行の対象とした神道、密教、修験道が深く関わっているのが忍者という集団だ。そして、政宗が生まれた米沢には目と鼻の先に出羽三山があり、優れた修験者も大量にいた。政宗はその修験者を忍者、黒脛巾組として雇っていた。



「その黒脛巾組を使った例の話、進めていただけたでしょうか」


「抜かりない。だが、本当にうまくいくのだろうか」


「それはわかりませぬ。しかし、何もしないよりかはましかと」


「確かにな」



 左月斎は蘆名や佐竹の連合軍が攻めてくると知ってすぐに、一つの献策をしていた。それは政宗の黒脛巾組を使った工作活動だった。だが、もともと左月斎は忍者という影の集団の活動に詳しくはない。もしかしたら、というわずかな可能性を賭けた献策だった。



「左月斎はよく細かいところにも気がつく。おぬしがいなくなったら、伊達家はすぐに崩れ去ってしまうだろうな」


「何、そんなことはございません。わしなど、戦術は小十郎殿の足元にも及びませぬ。勇気なら成実殿。まだまだ未熟ですが、内政ならば息子の綱元がなかなかやるようですしな。わしがいなくなっても、伊達家は天下への道を進んでいくことでしょう」


「そうだとしても、それがしにはまだまだおぬしが必要だ。父が殺され、遠藤基信も死んだ。父の遺臣として残っているのは、おぬしくらいなものなのだ」


「その時代には、その時代の人間が生きる方がいいのでございますよ。年寄りなど、若い力の肥やしになるくらいがちょうどいいものです。年老いた頭の固い連中が力を持っている家に、どれほどのことができますか。それがまさに、今殿を攻めようとしているあの連中どもでございます」


「それがしたちの時代は、それがしたちで造れ、ということか」


「その通りでございます」



 左月斎はニヤリと笑った。この若い伊達家の当主が成長するこの瞬間こそ、左月斎は生きている実感を得られる瞬間だった。年老いた細胞がまた一つ、若返った気がした。



「また左月に教えられたな。それがしはまだまだ甘い。だが、まだまだ強くなる。奥州を伊達家に染め上げるまで。日の本を全て手に入れるまでに」


「だからこそ、こんなところでは負けてられませぬぞ」


「まったくだ」



 政宗と左月斎の話はそれで終わった。余計な会話はこの二人に必要ない。それほどの信頼関係が二人にはあった。



 左月斎が政宗の陣を出ると、夜空は驚くほど澄み渡っていた。真っ赤な三日月が夜空に浮かんでいる。



「赤い三日月、か」



 左月斎はその赤い三日月を背にして、ゆっくりと雪の上を歩いた。不安定ながら確かに自分が立っているという雪を踏んだ独特の感覚が左月斎の足の裏から伝わってきた。



「まるで、鬼の月のようじゃな」



 鬼の月は、静かに左月斎の背中を見守っていた。




 夜が明けた。十一月十三日の朝がやってきたのだ。昨夜の澄み渡る夜空が嘘のような吹雪だった。だが、連合軍はそんなことは気にしなかった。各所で怒号が上がると、地響きが吹雪の中に響き渡った。その声を聞き、伊達軍も一斉に動き出した。


 人取橋の戦いは始まった。先に動いたのは連合軍だった。前日のうちに前田沢に布陣していた連合軍は数を頼みにして伊達本陣に向かって押し寄せてきた。伊達軍もそれを見て出撃し、ついには人取橋付近で両軍が激突したのだった。


 戦闘は連合軍の有利に進んだ。その連合軍の一隊が、政宗本陣に突入した。政宗は三日月をかたどった前立てをつけている。連合軍からしたらこれほどわかりやすい目印もないだろう。



「大将だ。撃てぇ」



 何十発もの銃声が政宗の耳に届いた。政宗のすぐそばを銃弾が飛び去っていく。それだけでなく、実際に矢を一筋、銃弾を五発受けた。幸い、鎧兜に当たったために致命傷にはならなかったが、政宗の近くにそこまで連合軍の兵が押し寄せていたのだ。


 この窮地を救ったのは片倉小十郎だった。小十郎は政宗の三日月の前立てを譲り受けると、



「政宗はここだ。蘆名や佐竹にこの政宗が討てるものか」



 と言って敵をひきつけ、政宗を安全なところまで逃がしたのである。その後の小十郎は無事に政宗のもとまで戻ってきたが、小十郎がここまでしなければならないほど伊達軍は追い詰められていた。


 その頃、もう一人の重臣である伊達成実は奮闘していた。劣勢にもかかわらず一歩も引かず、まさに猛将いえるほどの働きを連合軍に見せ付けていた。だが、それも戦況を覆すほどの戦果とは言えなかった。




 何とか危機を脱した政宗のもとに、左月斎が駆け寄ってきた。政宗の前に跪き、



「ここは危険でございます。一度退き、大勢を整えるのが肝要かと」



 と進言した。政宗は左月斎の目をじっと見て、その瞳の奥を見通した。



「……仕方あるまい」



 政宗は歯噛みしながら軍配を握り締めた。悔しさで軍配に爪が食い込むほどだった。もともと無茶な戦だった。本来ならば無茶な戦をしている時点で戦略的には失敗だ。だが、急激に成長した伊達家を支えていくには避けられない戦いでもあった。それがわかるだけに、ここで撤退するのは爪が割れるほど悔しかった。この戦いを乗り越えなければ、天下どころか、奥州統一も夢のまた夢であろう。


 その政宗の気持ちがわかったのか、左月斎の目がカッと見開かれた。



「殿、殿軍はわしにお任せください」


「できるのか」


「何。これでもまだまだ若いものには負けませんぞ」



 左月斎はニヤリと笑った。その笑顔は政宗が見た中でも一番の笑みだった。


 政宗は迷ったが、この状況で左月斎の他に殿軍を任せられる人物がいるとも思えなかった。ここは左月斎の経験に賭ける。それしかなかった。



「では、左月にこの軍配を預ける。これで存分に采配を振るうがよい」


「有り難き幸せ」



 左月斎は政宗から恭しく軍配を受け取ると、自分の兵を集めた。昔から左月斎を慕ってついてきてくれた兵たちだ。見知った顔も多い。



「畏れ多くもわしが殿の軍配を預かった。皆の者、わしの下知に従え」



 おお、と雄たけびが辺りに響いた。左月斎と長年付き合ってきた兵であるためか、左月斎の心情が手に取るようにわかる。皆、左月と同じようにギラギラとした鬼のような眼つきになっていた。



「殿、今のうちに退却を」


「左月、必ず戻ってこいよ」


「言われるまでもありませぬ」



 政宗は馬に跨り、後方へと走っていった。何人かの騎馬武者が政宗についていく。


 左月斎はその政宗の後姿を眼に焼き付けた。これが、おそらく最後に見る政宗の姿なのだ。



(生きて再び殿の姿を見ることはまずない。ならば、一人でも多くの敵をこの手で葬り去るまで)



 左月斎はいつも乗っている輿に乗った。老体の左月斎はすでに馬に乗ることもできず、兜も重いため黄色の綿帽子を被っていた。手勢はわずか六十騎。左月斎の死を決した気持ちが伝わったのか。その六十騎は鬼の軍団となった。


 左月斎は政宗の軍配を持ってぐるりと輿の周りを見渡した。その目には鬼の軍団となった左月斎の兵がいる。その一人ひとりの顔を、しっかりと覚えた。



「生きて帰れると思うな。死ぬ覚悟のあるやつだけわしについて来い。進めぇ」



 左月斎の輿は前に進んだ。輿を担いでいる人足も左月斎に長年従った武者である。左月斎が輿の右を叩けば即座に右に曲がり、左を叩けば左に曲がる。息の合った動きはまるで曲芸を見ているかのようだった。


 その輿を中心に鬼の軍団が連合軍に襲い掛かった。吹雪の中から急に現れた鬼の軍団は、連合軍にとってまさに黄泉の国からの使者だった。


 勢いに任せて攻め寄せていた連合軍に、左月斎の部隊は真っ向から激突した。いや、連合軍の勢いすら殺し、逆に連合軍を押し返してすらいた。



「進めぇ。進めぇ。退路はないぞ。前に進めぇ」



 雪で前がまともに見えていないはずだった。だが、そこに敵がいれば前に進んだ。連合軍は左月斎の部隊に次々と討たれていき、ついに左月斎の部隊は首級を二百もあげることになった。切捨てにした数はさらに多いことだろう。


 この左月斎の勢いに連合軍もたじろいだ。日が落ちてきたこともあり、連合軍はその日の攻撃を諦め、退却を始めるほどだった。そこに一人奮戦を続けていた成実の部隊も合流した。連合軍は壊乱を始め、武器を捨てて後方に退却していった。



「まだだ。伊達家に仇なすものは、このわしが、鬼の左月が相手になるぞ。敵はどこじゃぁ」



 その姿は、まさに鬼だった。連合軍はこの吹雪の中で、確かに鬼の姿を見た。




 日が沈んでも左月斎の奮戦は止まらなかった。左月斎の周りにはすでに数騎もいない。輿を担いでいる人足も矢に討たれ、左月斎は徒歩で行動していた。左月斎自身も刀は刃こぼれし、返り血を浴びて黄色い綿帽子が赤く染まっていた。いつ怪我したのか、片足を引きずるように闇夜を移動していた。


 そのとき、左月斎の前に連合軍の新手が現れた。連子に月の家紋が描かれている旗を持った、岩城家の武士たちだった。



「岩城常隆の家臣、窪田十郎、見参」


「岩城の武士か。そこをどけ。わしは、ここで立ち止まるわけにはいかんのじゃ」



 左月斎は手に持っていた刀で窪田十郎を斬りつけた。だが、疲労と怪我の影響か、左月斎の斬撃はあっさりと避けられてしまった。よろめいた左月斎に、窪田十郎は手に持っていた槍で突いた。鎧も兜も身につけていない左月斎だ。槍はあっさりと左月斎の胸を貫いた。



「う……ぐっ」



 左月斎はそれでも倒れず、胸に刺さっている槍を握り締めた。そして、憤怒の形相で窪田十郎を睨みつけ、刀を振り上げた。



「まだ……。まだじゃぁ。伊達家を、こんなところで終わらせんぞぉ」



 これには窪田十郎も驚き、槍から手を離して後ずさりしてしまった。だが、いつまでたっても左月斎の刀は振り下ろされなかった。窪田十郎は恐る恐る左月斎に近づいてみると、左月斎は刀を振り上げた体勢のまま息絶えていた。その姿は、鬼の名に恥じない姿だった。


 窪田十郎はいつまでも動かなくなった左月斎と対峙し、ようやく左月斎の首を獲ったのはそれから四半刻も経ったあとだった。





 左月斎の決死の活躍もあり、政宗は何とか後退することができた。連合軍も一時撤退している。だが、所詮は一時的な撤退である。明日になれば再び今日以上の猛攻を仕掛けてくることだろう。


 政宗は床几を用意させ、倒れこむように座った。じっと吹雪の中の暗闇を見ている。その中から、いつものように左月斎が戻ってくるような気がしていた。だが、いつまで経っても左月斎は戻ってこない。それどころか、小十郎、成実といった政宗にとっての両腕である二人も戻ってこなかった。



(どうした。小十郎、成実)



 歯ガ擦り切れるかと思うほど噛み締めながら政宗は待った。だが、時間は無情に過ぎていくばかりだ。今までこれほど孤独な時間を過ごしたことがあっただろうか。もしかしたら全てを失ったかもしれない。何が覇道だ。何が天下だ。小十郎、成実を失って得られた天下にどれほどの価値があるというのか。こういうとき、側に左月斎がいればどれほど頼もしかったことか。



(左月……。帰ってきてくれ……)



 そのとき、本陣の外がにわかに騒がしくなった。



「左月か」



 本陣の中に倒れこむように入ってきたのは、左月ではなく、片倉小十郎だった。



「小十郎。無事だったか」


「な、何とか。成実もこの吹雪の中、自分の場所を守っております。まことに見上げた心意気でございます」


「うむ。うむ。成実も無事か」



 二人が無事とわかり、政宗は涙が出るほど嬉しかった。だが、不安もあった。まだ左月斎の安否がわからない。できれば皆が無事であってほしかった。だが、現実はそれほど甘くなかった。



「鬼庭左月斎殿……。生き残った左月斎殿の兵に聞きましたところ、左月斎殿は岩城の武者に討ち取られたようです。立派な、最後だったとか」



 政宗は思わず立ち上がった。左月斎が死んだ。そんなはずはない。信じたくなかった。



「左月が……。死んだ……」



 政宗は茫然とした眼つきで小十郎を見つめた。



「それは、本当なのか」


「数人の兵が見ております。まず間違いないかと」



 政宗は天を仰ぎ、拳を握った。ここで取り乱しては大将失格だ。これも左月斎に教わったことだ。大将はいかなるときでも冷静であれ。たとえ誰が死のうとも、泰然自若として皆のことを考えなければならない。



「そうか。ご苦労だった。明日も厳しい戦いになるだろう。まずは休め」


「はっ。ありがとうございます」



 小十郎は素直に下がっていった。明日の戦いのことも考えなければならないが、まずは休息をとることだった。疲れていては、頭はまともに働かない。優れた案を出すためにも、休息も立派な戦術行動なのだ。


 一人になった政宗は、わずかに涙を流した。その涙は、誰に見られることもなく、足元の雪を溶かした。




 政宗はその夜から連合軍の攻勢に備えた。一度は左月斎の猛攻で退いた連合軍だったが、それで終わるはずはなかった。いつ襲ってきてもおかしくはない。政宗は激しい緊張の中、一夜を明かした。


 しかし、夜が明けると、そこは信じられない光景が広がっていた。隣にいる小十郎も夢でも見ているかのようにその光景を眺めていた。



「連合軍が……消えた」



 三万もいた連合軍が、一夜にして消えていたのである。それはまるで魔法のようであった。



「これは、どういうことでしょう」



 小十郎にも何が起こったのかわからず、政宗に答えを求めた。政宗はしばらく考え、一つの答えに行き着いた。



「そうか。左月が、やってくれたか」


「左月斎殿? いや、しかし、左月斎殿は確かに昨夜……」



 政宗は小十郎の言葉を手で制した。



「そうではない。左月の思いが我が軍を勝利に導いてくれたのだ。左月が残してくれた、思いが、な」



 この連合軍の撤退は不自然だった。連合軍は勝てる戦を捨てたのだ。そこには、左月斎が最後に残した仕掛けがあった。あの黒脛巾組を使った左月斎の献策だ。左月斎は黒脛巾組を使い、連合軍に流言を流すことを勧めたのだ。その効果は様々なところで発現した。


 まずは政宗が撤退した夜のこと。佐竹家の武将である小野崎義昌が家臣に刺し殺されるという事件が起こった。原因は不明だが、黒脛巾組が暗躍したことは容易に想像ついた。


 さらに、佐竹家の本国に関東の北条が攻めてくる、という噂が流れた。小野崎義昌の件もあり、佐竹家の陣で急速に不安感が高まった。このために佐竹家は早々に撤退を決定。連合軍の主力の一角が抜けたのだ。そうなると連合軍の主力は蘆名家となる。だが、蘆名家が中心となり戦えば、被害は蘆名家が一番多く蒙ることになるだろう。それでは伊達家を倒せたところで益が少ない。蘆名家も佐竹家に続くように撤退していった。


 主力の佐竹家、蘆名家が抜けた連合軍は烏合の衆だった。もはや頼るべき幹はない。そうなればまともに伊達家と戦うものは一人としていなかった。


 これが、一夜にして連合軍が消えた理由だった。だが、その原因を作ったのは鬼庭左月斎が残した、伊達家を救いたいという思いだった。


 左月斎はこの人取橋の戦いで伊達家を二度救った。一度目は政宗が撤退するときに殿軍として、二度目は黒脛巾組を使った工作活動として。左月斎の必死の思いが、奥州の名家である伊達家を生きながらえさせたと言えよう。


 政宗は連合軍が引き返してくることも考え、数日その場にとどまった。その数日のある日、随分と澄み渡った夜があった。夜空にはあの日のように赤い三日月が浮かんでいた。



「左月……。見ていてくれ。それがしは、日の本一の大将になる。伊達家は、天下の伊達家になるのだ」



 政宗は三日月を象った前立てを被り、刀を空の赤い三日月に向けて掲げた。



「鬼の左月こそ、伊達家一の忠臣なり」



 鬼の月が、政宗の刀に宿ったようだった。


                                                    (了)

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鬼の月・鬼庭左月斎 前田薫八 @maeda_kaoru

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