第三章 666
宍道が連れてゆかれたのは、駅からは遠く離れた山奥の工事現場だった。
漸く一階から三階までの骨組みが出来上がった程度の建物の内部は、足場や鉄骨が血管のように交錯している。外側はカバーで覆われているが、頭上の足場の隙間から、紺色の空と冴えた金色の月を見上げる事が出来た。
仰向けに倒れたまま動けないでいる宍道の足元に、赤い影が集まり、人の形を作った。当然、自分を攫った流星の正体が、人間である筈がない。赤いドレスを纏った美貌の女ヴァンパイア……吸血姫だ。
自分を見下ろす赤い瞳に、宍道は呑まれ掛けていると感じていた。若い肉体が、閾値を超えた色香にオーバーヒートしそうになっている。これまでに六六五人の霊能者を喰らって来た吸血姫の纏う空気に、当てられているのだった。
――手……動く。脚も、大丈夫だ。頭も冴えている……俺は無傷だ。
にも関わらず、吸血姫に対して抵抗出来る気がしなかった。自分の舌でも噛み切らねば、再び動き出す事は出来まいと思われた。
「意外と呆気ないものよの……」
吸血姫は言った。ブレードハットを取り払い、宍道の身体の横に跪く。
顔に掛かった赤い髪を、耳の後ろに掛けるようにして手で払った。
「坊やの噂は聞いたぞ、“黒衣の獣王”……」
「――」
「“獣王”とは、あらゆる動物の王……即ち人間の事、そして中でも神に近しい王の事。つまり、釈迦やイエスのような悟りを得た聖人の事を差すそうじゃの。坊やは、彼らに並ぶ聖人か?」
「……生憎と、悟りとは程遠い……ようだぜ」
宍道はどうにか言葉を絞り出した。腹の底で気を練り続けていなければ、正気を保つ事さえ難しい。こんな状態で人前に出れば、見境なく女を犯して回ってしまうだろう。身体の火照りと共に、妖魔の力に抑え付けられている事が幸運だった。
「そうだろうの。ここが、こんなになっておる……」
吸血姫は、宍道の下腹部に手をやった。固い生地のズボンが、風船のように膨らんでいる。しなやかな女妖魔の指先で撫でられれば、すぐに果ててしまうくらいだ。若く精力に満ち満ちた身体にとって、それは抗い難き欲求の一つである。
「片方の期待は、裏切られてしまったようじゃ……」
「期待……?」
「ええ、私を殺す……」
「――」
「――殺す程に激しい、命の削り合い……」
「戦いたいのか、あんた……」
宍道に問いに、吸血姫は妖艶に微笑んだ。宍道の頭を持ち上げさせると、地面にじかに正座をした自分の膝を、横から滑り込ませた。脚が、頭部に対して垂直になる形で、膝枕をしたのだ。手は相変わらず少年の逸物を布の上からこねくろうとしている。
「私の一族は戦いと共に生きて来た。相手は餌である人間たち……そして同じく魔族や妖怪の類と。あんたも
「――」
「だが、或る時、和平を望む者が現れた。もう戦うのはよそう、これから我々魔族は、繁殖し過ぎた人間たちに追い詰められてゆくだろう。これからは人間から我々の生活を守る為、団結しようではないか」
「――」
「でも私たちは受け入れなかった。誇り高き吸血の一族が、人間如きに怯えてなるものか! 刃向かった傍流の一族、奴らに協力した他の魔族や妖族との戦争が始まった。結果、多くが死んだ。生き延びたのは私だけじゃった」
「――」
「だから私は生きなくてはならん。悪魔と
「――」
「戦いたいのか、と、訊いたね。ああ、本当を言うと戦いは好きさ。相手の身体を引き裂き、骨を砕き、血とはらわたを啜る、最高の娯楽さね。それが、誇り高き吸血鬼の貴族としての生き方だと教わった。でも、今の私は危ない橋を渡る訳にはいかないのさ、一族の為にもな……」
吸血姫は宍道のベルトを外し、ズボンのファスナーをずり下ろした。ボクサーパンツの裾を少しだけ下げると、ぐんっと若く猛々しいものが跳ね上がって来る。“獣王”の名に相応しい、見事なものだった。
吸血姫の眼が赤く塗れ、しなやかな指先が少年に触れようとした。
「待って……」
宍道は弱々しく言った。
「痛いのは、嫌いだ……」
「痛くしやしないさ、気持ち良くするだけさ」
「なら、そうだな……せめて、もっと、こう、ロマンティックにしてくれ」
「――」
「男の方から、こんな事を言わせるなんて、あんた、ドSだな……」
頬を赤らめた宍道が、尖らせた唇ごとそっぽを向いた。吸血姫は少年の事を可愛いと思った。見た目はまるで野生の獣だが、中身はまるで少女漫画に憧れる純情な子供だ。
「これが欲しいのかい……」
吸血姫は、右手と、少年の先走りでぬめった左手で相手の顔を挟むと、ゆっくりと自分の顔の位置を低くして行った。赤い唇が、少年の視界いっぱいに広がってゆく。
「ブレスケアはして来たよ……」
宍道の方も吸血姫の肩を抱くようにして、彼女を引き寄せた。
二つの唇が重なった。吸血姫は長い舌を伸ばして、宍道の口腔を掻き回そうとした。宍道が自らを絡めてゆく。二人の舌は、口の中で唾液塗れになりながら絡み合って行った。
吸血姫は知っている。ここまで密接な接触をされてしまったら、どんな人間であっても助からない。男だったら睾丸が破裂するまで射精するし、女だったら怖い程に粘ついた花蜜を吹き出して白眼を向く。それだけの快感を与えられたら、もう廃人も同然だ。
そしてその多幸感の中で、彼らは吸血姫の糧となるのだ。悪魔と交わした契約が完了し、一人の女吸血鬼は吸血姫へと、吸血姫はサキュバスへと堕天深化する……!
――かと思われた。
「な……」
吸血姫は宍道の唇と触れている自身の唇が、炙られたような熱を帯びているのを感じた。いや、正確には舌だ。宍道と絡めた舌が、燃えるように熱いのだ。それに伴って、口の中にまで火が飛び込んで来たようである。
「貴様……」
「ちと下品だが……」
宍道はにぃと唇を吊り上げた。そうして、唇を離そうとした吸血姫の身体をがっちりと押さえ込み、より強く口付けをした。ディープキスというより、顔面を相手の口の中に突撃させようとする勢いだった。
そうして口と口との間に逃げ道を失くし、宍道は、
げぇっぷ!
と、腹の底からげっぷをした。
吸血姫は、赤い眼をきゅーっと収縮させて、身体を痙攣させ始める。宍道が身体を解放すると、宍道の胸を両手で突いて押し飛ばし、地面に転がって悶え苦しんだ。
涙と鼻水を流し、口からは泡まで吹いている。糞便を垂らし、身体を滅茶苦茶に動かして激しく咳き込んでいた。
逸物をパンツに押し込み、ズボンを直した宍道は、自分の口の前に手をやり、はぁ、と息を吐いて、それを鼻に近付けてみたりする。
「ブレスケアはしてたんで、なかなか、気付かなかったようだな……」
すると、物静かだった工事現場の外から、近付いて来る低い唸りが聞こえた。カバーを突き破るようにして骨組みの中に飛び込んで来たのは、一台のオフロードバイクだった。一二五ccと排気量は小さいが、車高は高めで、それなりにパワーのあるマシンだ。運転しているのは、蒼いスタジャンの少女……琴音だった。
「おぅ、お疲れ……」
「世話を焼かせないでよ」
ヘルメットを脱ぎ捨てた琴音は、タンクに取り付けていたスマートフォンを外して見せた。画面には地図が映っており、琴音のスマフォ自体の位置を示すマークと、もう一つの赤いマークが重なっている。宍道はジャケットの前を開き、内側から発信機を取り出した。
「悪い悪い。だが、ナイスタイミングだぜ」
「……くっさ! ちょっと、喋らないでくれる!?」
琴音は自分の鼻を摘まんだ。宍道がげんなりとした顔をすると、一度は手を放してみるのだが、やはり、強烈な口臭に我慢出来なくなってしまう。
「お前……何を、何を喰った!?」
涙目の吸血鬼が、口の端から泡を飛ばした。喋れるだけの気力は取り戻したようだが、まだ膝が笑って立ち上がれない様子だった。
宍道は、指折り数えて、懇切丁寧に答えた。
「白髪ネギ塩ラーメンニンニク一五パーセント増量に、胡麻味噌餃子同じくニンニク一五パーセント増量、別の店でレバニラ定食大盛とレバニラ単品、ニンニク薫る鶏のから揚げ五個とトッピングにラッキョウをたっぷりと乗せて、駅地下の焼き鳥屋で買ったでネギマとレバー、その後ニンニク成分配合精力剤……生姜焼き定食で臭みを消してバランスも良い」
「なっ……坊主のくせに、何て生臭な……」
「好きなんだよ、
とぼけた様子で笑う宍道。その後ろで、琴音が鼻を摘まんでいる。
五辛とは、仏教の修行に於いて、摂取してはならない五つの辛味を持つ食べ物の事だ。
ネギ、
ニラ、
ニンニク、
ショウガ、
ラッキョウ、
が、これに当たる。
仏教の修行は、煩悩を削ぎ落とす事だ。煩悩は無明から生まれるが、無明は肉の身体を持っているからには逃れられないものである。生物は、煩悩である所の男女の愛欲が合って生まれるものなのであるからだ。
その煩悩を消す為に厳しい修業を積むのだが、それはつまり肉体、精力を削ぎ落とす事に他ならない。五辛の例に挙げた食べ物は体力を付けてしまうので、避けなければならないのである。
「明治維新後、廃仏毀釈から逃れる為に泣く泣く肉食と妻帯を認めた事で、仏教者が国家公務員の地位から転落してから百余年……今時、肉を喰わねー坊主なんかそうそういるかよ。草さ生き物、野菜も肉も同じ生き物なんだ、差別は良くねーぜ」
「この……!」
「それに、今日日、中坊だって好きなあの子とチョメチョメくらいしてらぁな。“黒衣の獣王”の名前なんかにまんまと乗せられずに、適当に真面目な奴を選んで置けば良かったものをよ」
「貴族の誇りを、よくも下賤な手段で穢したな……許さん!」
吸血姫は立ち上がると、髪の毛を逆立てて、悪鬼の形相で宍道に迫った。
貫手が宍道の頭部を狙う。次は胸だ。下から掬い上げるように顎を狙った。耳の穴に指を突っ込んで、脳を掻き回そうとする。次は眼だ。
宍道はのらりくらりと、吸血姫の攻撃を躱した。頭を傾け、右に左に逃れ、ウィービングで潜り抜ける。眼を狙った吸血鬼の貫手を、手首を掴み上げる事で停止させた。そして、そのまま、指先に気を這い上げさせて、手首をねじ切ってしまった。
「おのれぇ!」
吸血姫は後退すると、自らのドレスを破り捨てた。眩いばかりの白い裸体が露わになる。たわわな乳房が夜の空気の中に揺れた。それに見惚れさせる間もなく、吸血姫は自身の毛穴から血液を噴射した。
吸血姫の血は空気に触れた瞬間気化する。問題は噴射された量だ。吸血姫は自分の肉体にある全ての血液を排出し、工場の中に赤黒い霧を発生させた。
「不味い……」
琴音が口元を覆う。この霧に包まれたらたちどころに虜にされてしまう。琴音は自分のマシンに駆け寄り、アクセルを吹かしてマフラーから排気ガスを噴き出させた。
「無駄さ、そんな事は! お前たちはもう終わりだ、生臭坊主と売女、涸れ果てるまでまぐわうが良い」
霧から声がした。
「だ、誰が売女……」
「良いのか」
宍道が言った。
「そんな事をして……」
「黙れ、生臭! お前の言う通り、お前以外の聖職者を喰らえば、それで私は弱点を克服出来るのじゃ! 確かに、十字架や太陽に対して、些か鈍くなっていたように、お前から漂うニンニクの匂いにもぎりぎりまで気付けなかった……。しかし、二度も同じ手が通用すると思うな!? 今度こそ完璧な肉体を以て、貴様に復讐してやる!」
「違う、人の話はよーく聞きな」
「何……?」
「良いのかって訊いたのは、俺の事じゃない。おたくの事さ。おたくの腹の中にゃ、俺がたっぷりと空気を仕込んでやったんだぜ。そう、ニンニクたっぷりのくっせぇガスをな!」
気付いた時には遅かった。赤い霧の何ヶ所かが、異臭と共に消滅してゆく。吸血鬼の細胞は、太陽の光や十字架に触れたり、ニンニクなどの強い匂いを浴びると消滅してしまう。原理としては吸血鬼の血液がたちまちに気化するのと同じだ。その気体の状態で、同じく気体である宍道の、ニンニク臭いガスを纏っている事になる。
赤い霧が苦しむようにうねり、再び一ヶ所に留まって、吸血姫の肉体を形成した。その表情は、宍道に口の中にガスをねじ込まれた時と同じだ。寧ろ、口から食道に掛けてだったニンニクガスが、気体から凝結した事で全身にまばらに散らばっているのだ。細胞が死滅してゆく苦痛に、吸血姫は喘いだ。
「舐めるな……小僧!」
吸血姫の美貌の半分は、強酸を浴びせられたように爛れていた。今まで浮かべた中で、一番恐ろしい表情だった。その全身が、内側から何発も打撃を喰らっているかのように、ぼこぼこと跳ね回る。そして、吸血姫が細い腰を大きく反らすと、胴体から塊のようなものが飛び出した。
ニンニクガスに犯された細胞を、一つ所に集めて排出したのだ。だが、それは驚異の生命力を持つ吸血姫にとっても苦肉の策だった。体重の半分近くを、自ら切り捨てたのである。
「敬服するぜ……。琴音!」
琴音は、バイクの後ろに括り付けていたケースを叩いて開き、中からぐるぐる巻きにされたチェーンを宍道に手渡した。
宍道はチェーンを伸ばすと、カウボーイよろしく振り回し、吸血姫に向けて投擲した。
「そんなものでぇ……私を捕らえられるとでも……!」
チェーンが吸血姫の身体に絡み付く。例え純銀製のチェーンであっても、気体になれば逃れる事が出来る。だが、ガスにやられ、弱り切っている吸血姫には、それさえも許されなかった。
「不動真言を編み込んだ鉄鎖……
柳生家お抱えの鍛冶師が造った、特注のチェーンだ。材質自体は何という事はない鉄なのだが、精錬過程で五大明王法を修し、不動真言を組み込んでいる。宍道は生まれて間もない頃からこの羂索を扱う修行をしていたので、彼の力に反応し易くなっていた。
ものとしては、六六五人目の犠牲者であったシスターが使っていた、ウリエルの聖名を刻んだ銃と同じである。いや、素材を考えると、ウリエルの銃の方が神格で勝る。実際にこの羂索とウリエルの銃を並べてみれば、銃の方に軍配が上がるだろう。
決してシスターが未熟だった訳ではないし、あの聖なる銃が弱かった訳でもない。但し機転という意味に於いて少年が一枚上をゆき、吸血姫が弱っていた事で羂索で捕らえる事が出来たのだ。
実際、吸血姫は羂索によってボンレスハムのように搾り上げられ、鉄鎖の分子原子間から鈍く伝わって来る不動真言に苦しめられている。
不動真言とは、不動明王の法力を借りる時に唱える陀羅尼である。不動明王は世界の真理である大日如来の化身として、慈愛では救い得ぬ悪を救うべく、心を鬼にした武人の表情で現れる。五大明王法とは、その不動を中心に、四体の明王で陣を組んで行なう、最強クラスの鎮護法であった。
魔の者にとって神や仏は敵であるが、妖魔に慈しみと愛は通じない。それ故、武力によって制圧せざるを得ないのだ。
「おたくの聖職者スタンプラリーは幕引きにさせて貰う。残念だったな、コンプリート景品の不老不死はお預けだ」
宍道は羂索をぐいっと引っ張った。吸血姫はそれに抗う体重を持っていない。ふわりと宙に浮き、鎖に引かれて宍道の方へと飛んでゆく。
宍道も跳んでいた。鉄鎖を自分の身体に巻き付けるように引きながら、前方に向かって横回転しつつ跳躍。そして引き寄せた吸血鬼の胴体に、稲妻が轟くような唸りと共に、強烈な後ろ回し蹴りを叩き込んだ。
引き寄せられ、そして、突き飛ばされる。吸血姫の身体は独楽のように回転し、羂索を振りほどきながら鉄骨に激突した。
羂索を回収した宍道は、吸血姫の戦意が消えてゆくのを感じた。
「宍道くん……」
琴音が声を掛ける。ねぎらいの言葉を期待して宍道が振り向くと、琴音は口臭スプレーを持っていた。
「そんなに匂う……?」
「めっちゃ臭い……」
宍道は、「カッコ悪ぃの」と呟きながら、スプレーのノズルを口に入れ、しゅっとひと吹きした。強力なミントの香りに、噎せ返ってしまう程だった。
「……少しはマシになったかな」
「ああ、そう」
「……で? あいつは、やったの?」
「こいつを喰らわせてやったからな」
宍道は、吸血姫を蹴り込んだ足を持ち上げた。ブーツの底に、複数の車輪の模様が、幾何学的に描かれている。仏陀……悟りを得た者の特徴の一つに、偏平足で足の裏には聖なる法輪の模様が刻まれているというものがある。それを模して造られた悪魔払いの道具だった。
「ぅ……」
が、吸血姫は低く呻くと、またぞろもぞもぞと動き始めた。白い裸体の胸元には、ブーツの底の法輪が見事に浮かび上がっている。法輪は白い肌の上で赤々と輝いており、そのたびに吸血姫は苦悶の声を浮かべていた。
「まさか……あんたのような、生臭坊主に、この私が……斃されるなんてね……しかも、ガキ……」
「別に好きで名乗ってる訳じゃねぇが、周りに言わせりゃ、“黒衣の獣王”らしいからな。そう簡単に敗けちゃいられねぇさ」
「く……それで、早いとこ、私を祓っちまった方が良いんじゃないのかい。確かに儀式は完璧じゃない……が、それでも六六五人だ。この程度の刻印、暫くすれば、何の問題もなく動けるようになる」
「刻印を消せるって言われなくて安心したよ」
「何……」
「行くぞ、琴音。仕事は終わった、帰ろうぜ」
「な――」
吸血姫は面喰らってしまったようだ。琴音も、彼女と同じ顔をしている。宍道は飄々と、ケースからもう一つのヘルメットを取り出して被ると、琴音が乗って来たバイクに跨り、イグニッションキーを回した。ぶぉん、と、エンジンが唸る。
「待ってよ。あれに、とどめを刺さなくて良いの!?」
「俺はこれでも沙門だぜー。悪い奴とは言え、命をそうそう奪えるかって話さ」
「それじゃあ、あいつに殺された六六五人は!? いや、犠牲者はきっとそれ以上いる筈……」
「あいつを殺せば生き返るのか? 違うだろ。それにあいつは人間じゃない。人間の法で裁く事は出来ねぇぜ」
「でも……!」
「奪った六六五人の命分以上、人の役に立つような生き方をすれば良いんじゃねぇの。時間はたっぷりあるんだろ、吸血鬼さんよ」
「――あはっ、あははははははははははっ!」
吸血姫は哄笑した。
「何だい、それは。情けでも掛けた心算? 生臭坊主の割にゃ、良い格好をするじゃないかい。あんたみたいな小僧に言われて改心するくらいなら、一人二人殺した時点でやめてるよ!」
「回復したら、また人間を襲う気か? 残念だがそれは無理だ。俺がおたくに刻んだそれは、俺とおたくの契約の証。人間を襲えないって内容の呪い……或いは、祈りさ。おたくにとって、どういう意味のスティグマになるかは分からんがね」
宍道は琴音に、後ろに乗るように促した。琴音は吸血姫の方を睨み付けていたが、やがて諦めたように、地面に放り投げたヘルメットを拾い上げ、宍道の後ろに跨った。
「ま、何はともあれ、おたくの目標が達成される事を祈ってるよ。どういう形になるかまで、責任は持てないけどさ」
クラッチを繋げた宍道は、ブレーキを緩め、ゆっくりとバイクを走り出させた。琴音が飛び込んで来た場所から、今度は緩やかに走り出してゆく。マフラーから吐き出される白い煙が、何処までも尾を引いていた。
明け方まで、吸血姫はその場に残されていた。胸の刻印はいつまでも消えなかったが、その聖なる力を抑え込む事に吸血姫は成功していた。恐らく、今までと同じように能力を駆使する事は出来るだろうし、再生を邪魔する力もないようだった。
刻印の機能はただ一つ、吸血姫が再び人間を襲うような事があれば、直ちに力を発揮して彼女の身体を蝕むというもの。物質界よりも精神界に近い身体を持つ妖魔にとって、マーキングによる呪縛の効力には抗う事が出来ない。
――考えてみれば。
吸血姫は思った。
自分は何の為に不死身を求めたのだろう。太陽や十字架やニンニクを克服しようとしたのだろう。
けれど、自分一人が生き残ってどうするのだろう。太陽を克服した、完璧な生命体である自分は、果たしてそのモチベーションを保てるであろうか。
何故、生きるのか。
何故、生き続けたのか。
何故、生き続けなければならないのか。
数百年の時を越えて来たのに、その答えを、吸血姫は持っていなかった。
決して死なないのならば、死による種族の断絶を防ぐべく行なう生殖行為さえ、不要のものとなる。
まさかここまで来て、アイデンティティの危機に衝突するとは、夢にも思わなかった。
やがて、朝が来る。
鉄骨の隙間から、朝陽が射し込んだ。完璧ではない肉体は、太陽を浴びれば水膨れのような症状を発し、完璧に近い故に長い時間を掛けて苦しみながら消滅する。
だが、吸血姫の身体に異変は訪れなかった。それこそが異状であったが、吸血姫は自分の肉体が完成した事を知った。
六六六人目は取り逃がしたのに、どうして?
吸血姫には分からなかった。契約の内容は、高い霊能力を持つ者を六六六人殺して捧げる事だ。吸血姫にとっての六六六人目は、自分自身であった。宍道に刻まれた法輪による呪縛に屈し、朝陽が昇るまで何の対策もしようとしなかった――その事で、彼女は自身の吸血鬼としてのアイデンティティを殺したのだ。
精神界にある妖魔を祓うのには、霊力や法力などといった精神的なエネルギーが必要だ。それを霊能力というのならば、妖族や魔物も、強力な霊能力者であるという事が出来る。
当初の望み通り、完璧な肉体となりはした。しかし、彼女自身が持っていた吸血鬼としての存在は、この世から消滅してしまったのである。
二重三重の、アイデンティティクライシスだった。
そんな吸血姫の脳裏に、ふと、柳生宍道の言葉が浮かび上がった。
“奪った六六五人の命分以上、人の役に立つような生き方をすれば良いんじゃねぇの。時間はたっぷりあるんだろ、吸血鬼さんよ”
どうせもう、人を襲って殺す事は出来ない。ならば、それも悪くはない。今までの自分を否定する心算はないが、彼の言う通り、時間ならたっぷりとある。一〇〇年以上悪人に興じて来たのだから、次の一〇〇年間を人の役に立つように生きても良い。
女は立ち上がり、鉄骨の森を抜け、朝陽に身を曝した。
冬の朝の、肌を切り裂くように鋭く、けれど陽の光を広げ伸ばしてゆく、爽やかな風が吹いた。
「結局、あれ、使わなかったな……」
「あれ?」
「真理亜さんに貰った、あれ」
「良いじゃねーの、武器は使わないに越した事はないぜ」
翌朝、宍道と琴音が揃って登校すると、気怠そうな様子の優衣と出くわした。
「うす」
と、挨拶もそこそこに教室に向かう宍道。優衣も簡単に手を持ち上げて返した。
「おはよう、土屋さん」
「おはよ、水埜さん……」
「調子悪そうだね、どうしたの?」
「いやー、実は昨日さ……」
琴音は、気絶した優衣を駅のバスターミナルのベンチに横たえ、スマートフォンで暁枝を呼び出した。バイクは暁枝が持って来てくれたもので、彼女と入れ替わるように、宍道を追った。
暁枝は優衣が眼を覚ますまで、彼女の身体に毛布を掛けて冷やさないようにしながら、見守っていた。そして眼を覚ました優衣をバスに乗せて、自宅まで帰らせたのである。
しかし優衣は、その直前の事を覚えていない。琴音が注ぎ込んだ気が、一種の記憶障害を引き起こしているのだ。
「駅前でいきなりぶっ倒れちゃったみたいなんだよね……」
「それは災難だったね」
「まぁ、昨日の焼き肉が原因じゃなかったみたいだから、良かったけど……」
「焼き肉?」
「うん。空手部の練習後にね。めっちゃ美味しかったから、あたったなんて事になったら先生にも皆にもお店の人にも悪いしさ」
「――だからか」
琴音は頷いた。焼き肉をたらふく食べて、全身に店内の匂いを纏っていたから、琴音が鼻を摘まむ程の宍道の匂いの前で、優衣は平気でいられたのだ。尤も彼女は憶えていないだろうが。
しかしあの吸血鬼も哀れなものだ。まさか、敗因がニンニク臭いげっぷになるとは、想像もしなかったであろう。そもそも不文律として、聖職者は肉や匂いの強いものを食べないという事がある。
「うん?」
「いや、何か焼き肉食べたいなって……」
「うぇ? 若しかしてまだ匂ってる?」
「ううん、そんな事ないよ」
「そっか、良かった。……そーだ、それじゃあ、今度、一緒に食べに行く? あー、でも、水埜さんって柳生くんの幼馴染みでしょ? 彼はお坊さんだし、お肉とか駄目なのかな」
「宍道くんはまだお坊さんじゃないし、そーだとしても私とは関係ないよ。それに、彼自身、肉も魚も食べるからさ」
「えぇ!? 良いの、それ――」
「
琴音はそう言って笑った。
優衣が首を傾げている。
琴音は簡単に説明した。
「要は、
吸血姫とサタン印の聖職者 石動天明 @It3R5tMw
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