吸血姫とサタン印の聖職者
石動天明
第一章 664
夜は当然の事として、日中でさえ太陽の光の射し込まない薄暗い森の、更に奥深く踏み入った場所に、その小屋はあった。
素人が作ったような簡素な小屋は、一日か二日、どうにか雨を凌げれば充分というくらいであり、とても数日に渡って寝起きするような場所とは思えない。
奇跡的に雪が降っていないというだけで、空気が凍て付いて軋んでいるような小屋に、一人の男がいた。
冬——
都市部でさえ肌を斬り裂く寒波に襲われている。その程度の防寒ではたちまち動けなくなるであろう森の、風を通さない事など何一つ考えていない掘っ立て小屋の中で、男は薄い衣を何枚か羽織っているだけであった。
それなりに防寒をしている事は、襟元に巻き付けた僧房や、獣の毛を使った手甲脚絆でそれと分かる。男は僧侶のような姿をしていたが、その首と四肢に使っているものは動物の毛皮を剥いだものであった。又、頸には掌程の大きさの水晶玉を紐で繋いだ、大きな数珠を掛けており、破戒僧である事が分かる。
山に籠る前にはしっかりと剃り上げていた頭には苔の如く髪がまろび出て、顔にも無精髭が浮かび上がっていた。頬は刃物で削いだように落ち、唇は紫色に変色している。
破戒僧は両の手をがっしりと組み合わせて、紫色の唇から常にぶつぶつと呪文のようなものを唱えていた。キリスト教に於ける祈りの合掌と同じ形だが、仏教にもこの形をした合掌はある。外縛印と呼ばれるもので、手の内側に月の光を頂くものだ。そして唱えているのは真言陀羅尼、古代インドにてバラモンが唱える祈祷の文句である。
僧は小屋の中央に座し、祈祷を続けて一週間になろうとしていた。正確には、この夜に七日目の祈りが終わろうというのだった。
僧が陀羅尼を止めるのは、小屋の四方に張り巡らされた結界を直す時だけだ。この僧が結界に使っているのは、四本の燭台である。燭台にはそれぞれ獣の姿が彫刻されており、立てられた百目蝋燭が小屋の中で明かりと、仄かな暖となっていた。
結界とは、或る空間を他の空間から切り離す事を言う。戸を立てたり、ものを置いて道を防いだり、極端に言えば、地面に枝で線を一本引くだけでも結界になり得る。それは物理的に空間を隔離する事だ。そして物理的に隔離された空間には、外の人間は容易に踏み入る事は出来ない。
この僧が使っているのは、霊的な結界である。火はあらゆる宗教に於いて、善悪は兎も角、智慧の象徴である。智慧とは即ち、超常のものより与えられし進化の鍵だ。太陽の光、月影に次いで聖なるものが、智慧の火である。
そして獣は、人を守るものだ。智慧の鞭を以て獣を守護者として従えるのである。或いは害を成し得るものを、光を用いて調伏せしめるのだ。
つまり、聖なる火と守護獣の威を以て成す、悪意ある霊への結界だった。
しかし、恐らくこの結界を見る者は、その姿が異相であると気付く。何故ならば燭台に彫り込まれた獣の正面が、内側を向いているからだ。本来ならば眼に見えない悪鬼や怨霊に向けられる鋭い視線は、守るべきものである僧の方へ向けられている。
霊的な結界は、霊的な外敵から内側の人間を守るものだ。番犬は門の外を見ていなければ意味がない。これでは寧ろ、外敵を内側に引き込んでしまう。
それで良い。
それで良いのだった。
ゆらゆらと、炎の姿が風になぶられている。百目蝋燭の火は、なかなか消え難い。どの蝋燭も、等しく、間もなく燃え尽きそうになっていた。僧は長年鍛え続けた時間間隔を把握するタスクで、次の蝋燭の替え時を待っている。
と——
とん、とん、
戸を叩く者があった。
僧が正面を向けている戸だ。建付けは悪く、横に数センチスライドさせるだけでも、非力な人間には難しい。
「もうし」
風に交じって、そういう声がした。
か細い女の声だった。
「わたくしは旅の者です。長旅で疲れてしまいました、どうぞ、この戸をお開け下さい。何卒、お願い申し上げます」
――来たか。
僧は思った。ここは、長旅に疲れた者が立ち寄るようなレストハウスとは対極にあるものだ。この山を登っても御来光とはいかない。どんな日であっても、登る必要性を感じない山だ。
いるとすれば、肝試しに来た莫迦な学生か、遺体を捨てに来た殺人犯。 それか或いは――
「開いております。どうぞ、お入り下さい」
僧は言った。すると戸が音もなく横に動き、辛うじて留められていた風が吹き込んで来た。僧は、ただでさえ薄い僧衣の内側に、風がナイフのように突き立つのを感じた。しかしこの程度の冷たさは、真冬の極寒の地での滝行に比べればどうという事はない。
戸の前に立ったのは、見目麗しい女だった。すらりとした長身に、膨らんだ胸元とヒップ、きゅっと括れた腰。身に着けているのは山小屋には似つかわしくない、ノースリーブの真紅のドレス。正面からでは表情をすっかり隠してしまうような、鍔の広いブレードハットは夕陽の色。上腕の中頃から指先までを、ワインレッドのサテンの手袋が覆っている。小屋の床に上がったのは高いヒールで色は艶めかしい紅色。
人ではない、物の怪だ。
誰が見てもそう思うだろう。しかし誰が見ても、そうは思えないだろう。彼らにとって理屈は関係ない、そうやって存在するものだからだ。彼らに実態はない。物質的な肉体を持っていたとしても、物質的な存在ではないからだ。
僧は恐らく、自分が稀代の文豪として名を馳せようと、彼らの姿を描写する事だけは永遠に不可能であろうと知っていた。彼らを表現し切る事は今の肉の身に於いては出来ないし、又、それを読み取る者も肉の身に於いては存在しないからだ。
「感謝致します、お坊さま……」
物の怪である女は、赤い唇を裂くようにして、蕩けるような言葉を発した。俗世の者ならば空気の振動だけで射精してしまうだろう。僧は堪えた、厳しい禁欲が、物の怪の誘惑への抵抗力を育てていた。
女は戸を閉めると、男の正面にやって来て、跪いた。そうして正座をして、三つ指を突き、深く頭を下げた。
「お坊さま、大変申し上げ難いのですが、わたくし、酷く空腹に御座います。何か食べ物をお恵み下さい」
「当方は破戒せしと雖も仏道を歩める者。申し訳ないが、食物の類は持ち歩いておりませぬ。托鉢ならば、下界にてなさるがよろしいかと」
僧は厳しく言った。並の男ならば、自分が餓死しそうになっていても、最後に懐に残った食べ物を差し出してしまうだろう。
又、僧はこうも言った。
「願い事をするに、帽子を被ったままは失礼。脱ぎなさい」
「それは出来ません」
「何故」
「わたくしの素顔を見た者は、どのような人間であれ、発狂してしまうからです」
「何故?」
「余りの醜さ故に」
「当方は物事の表面しか見ぬ俗世の凡夫とは異なります。私は物事の本質を観る。構う事はない」
「ありがたきお言葉。……されど、そのように申した方の多くが、偽りを口に致しました。わたくしの本質も亦、我が顔と同じく醜いものでしょうか」
「人の本質に、醜いものはありませぬ。人の本質は空なれば、美しくも醜くもあり、醜くも美しくもない。如何なるかは、そこもと次第……」
「あな嬉しや」
女はそう言うと、ゆっくりとブレードハットを脱ぎ始めた。帽子の中に仕舞われていた長い髪が、するりと夜の空気の中を滑ってゆく。
僧は——男は、生唾を飲んだ。醜い所ではない、世界中を探しても見付からないような、美しい女だった。
左右対称な眉と眼、通った鼻梁、黄金比の下に作られた輪郭。非の打ち所がないとはこの事だった。どんな男も女も魅了せずにはいられない、そして決して手の届かない、夢の中にしか存在し得ないような美貌だった。
「如何に? お坊さま……」
「其方は美しい……」
「嬉しい――」
女は赤い唇を吊り上げると、男に膝でにじり寄り、しな垂れかかった。冷たい両手が、男の肩を抱いた。山籠もりで冷え切った耳元に、女の熱い言葉が注がれる。
「抱いて……わたくしを、滅茶苦茶にして下さいまし……」
男なら、女であっても、抗い難い誘いだった。死神に魂を引かれた老人でも、たちまち屹立させて一〇回は果てずに死ねないような甘い誘惑だ。だが、だからこそ男は、ぎりぎりの所で僧である事に踏み止まれた。
「正体を現したな、物の怪め」
僧は自分と女の胸が触れ合うのを妨げていた、外縛印の両手に意識を集中した。
――
僧の身体に蓄えられていた、法力とでも呼ぶべきものが、その手の中に集束する。僧の身体に集まったものだけではない、内側を向いた異形の結界に集められた、善い気、悪い気、それらを内包して総括する自然の気のエネルギー全てが、男の合掌の中に集ったのだ。
唵とは、阿吽の事だ。阿吽とは、世界の始まりと終わりの事である。即ちビッグバンのエネルギーだ。
それが男の印の中で爆発し、物の怪である女を吹き飛ばす!
――その筈だった。
「愚か者め……」
女が囁いた。体勢は変わらず、僧にしな垂れかかったままだ。僧は動揺した。何故、この物の怪の女は自分の力で弾け飛ばないのか? 何故、自分の逸物は数十年に渡りしていなかった勃起をしているのか? 変わったのは、女の口調だけだった。
「既に六六四人の聖職者の精気を喰ろうた我に、貴様如き尻の蒼い小僧の霊力が効くものか。寧ろ丁度良いスパイスじゃ……」
女は血のように赤い舌で唇を舐め上げると、男を床に押し倒した。七日間の行に於いて培った最大級のパワーを失った事、それが通じなかった動揺で、身体が動かなかった。いや、それ以上にこの女の身体から立ち昇る媚薬が如き力が、男に抵抗を許さなかった。
「強い精力を厳しく律し、抑制し、聖力へと昇華させて来た高潔な修行僧……お主らの溜まりに溜まった濃ゆいのを、たっぷりと味わわせて貰うぞ……!」
女は大の字に寝そべらせた男の、脚の間に顔を持って来ると、僧衣を突き破りそうに怒張したものに手をあてがい、蛇のように指先をくねらせた。
結界を作っていた火が、ふと消えた。
その日も
だからと言って、自分にしかラブレターを渡す相手がいないというのは、幾ら何でもおかしい。男共に魅力がなさ過ぎる。
「おっ、相変わらずモテモテだねぇ……」
にやにやしながら手元を覗き込んで来る
「それもこれも君が悪い」
琴音は宍道に言った。自称・身長一五三センチの琴音は、自分よりも二十数センチ高い所にある宍道の顔に指を突き付ける。はっきり言ってしまうと、決して美男子とは言えない顔立ちだった。
角ばった顎には薄っすらと無精髭が浮いている。乾燥し切ったがさがさの薄い唇と、潰れた獅子鼻。付け根が餃子のようによじれ、カリフラワーのように膨らんだ耳朶。短い髪は切り揃えたという感じではなく、乱暴にハサミを入れたという感じで、その上、寝癖を直そうともしていない。これだけならまだ良い、何故ならばリップクリームを塗るなり櫛を入れるなりポマードを使うなりすれば治るからだ。
どうしようもないのが、眼だ。人は大抵、顔が左右非対称なもので、片方を衝立か何かで隠して見ると全く違う表情を見せる。しかしその差がそう大きくないので、余り気にならない。
この柳生宍道の場合は違った。右眼は二重瞼でぱっちりとしていて、そこだけ見れば女の子のようかもしれない。しかし左眼が一重で刃物のように細く、時には完全に瞑っているようにも見える。
そうした頭部が載っている身体は、なかなか見事なものだった。太い頸は、同年代と比べるとやたらと広い肩から生えている。特注のブレザーに隠されているが、大胸筋の膨らみも凄まじい。ズボンもまるで土管だが、ベルトは最後の穴まで締められている。太腿の径が大き過ぎて、ウェストとは別に履く事が出来ないのだ。だから、膝から下は空間が余り気味になる。
本当ならば登下校時の靴は指定のローファーなのだが、サイズがないのでスニーカーを使っている。バンズのベルクロの白で、三本のマジックベルト。一番大きな二九センチだが、欲を言うのならばもう〇・五上のサイズが欲しかった。
その宍道と琴音は、端的に言えば野獣と美女だった。
琴音は背こそ一五二センチと低いが、可憐な容姿の持ち主だ。清楚な黒いロングヘア。猫のように大きな瞳。小さな鼻。桜色の唇を開くと覗く、兎のような前歯。それらが作り出す艶っぽい大人びた表情。
それでいて起伏の少ないボディラインが、同性からの支持も集めてしまう。と言っても、ボックススカートの後ろは丸く実っており、寸胴っぽいラインを作り出す制服のお蔭で隠れてはいるのだが、太腿周りは筋肉で良く育っていた。
意外にも力持ちで、他の女子が――可愛い子ぶって――持てないでいる荷物などを軽々と運んでしまうようなさっぱりとした面も、人気の秘訣だ。
「何で俺が悪い事になるんですかね。ちゅーかよ、別におたくがラブレター貰って、悪いとは言ってないだろうによ」
「いーや、君がもう少し女子にアピールしてモテないのが悪い。もっと言えば、君を含めた男連中全て、わ・る・い」
「どうしろってんでぇ」
「チャラいか、根暗か、私の見た分にはそれくらいしか男がいないんだよ。普通にモテそうな清潔で爽やかな人がいない。だから女の子は皆、私か
「失礼な奴……」
宍道が困ったように頭を掻いた。すると二人が後にした昇降口の下駄箱の所で、
「うわっ」
という声と共に、何かがぼろぼろとこぼれる音がした。振り向いてみれば、一人の女子生徒が、さっきの琴音と同じように、下駄箱から溢れたラブレターを受け損ねていた。
「土屋さん、おはよう」
「お、おはよう、水埜さん! ……それと、えっと……」
「んじゃ、俺、行くわ」
宍道は琴音と、自分の名前を思い出せないでいたもう一人……土屋
「ラブレター? お互い、大変だね」
「水埜さんも貰ったの?」
「うん。ヴァレンタインが近いからかな」
「ああ……」
優衣は、手袋をした手を擦り合わせながら言った。手首をファーで覆っているが、茶色い革の手袋は、男物のようだ。細い優衣の腕からは想像がし難いが、彼女の手はかなり大きい。それに、細いと言っても華奢な訳ではない。骨格に沿ってびっしりと密集した筋肉のお蔭で、身体が細く締まって見えているのだ。
一方で手が大きいというのは、空手部に所属している優衣の手は、長年に及ぶ鍛錬の為に角質化して、指が太く、逞しくなっているからである。
顔立ちで言えば、特別に目立つ方ではない。ブスではないのは見て分かるが、琴音程にはっきりとした美少女というのでもなかった。何となく垢抜けない、何処にでも良そうな、朴訥とした感じがある。髪は頭の上に引っ詰めて纏めていた。
「でも、何で私? 水埜さんみたいに美人なら兎も角……」
「土屋さんもモテるじゃん」
「えー? モテないよう」
「いや、女の子に……」
「あははっ、それこそないってば」
優衣はラブレターを拾い上げると、空っぽの鞄の中に詰め込み、琴音と共に教室を目指した。
「私、こんなだよー? 女の子として見て貰えない事のが多いってば」
「そうかな。私は可愛いと思うけど」
「へ?」
「土屋さんの事、可愛いと、思うけど?」
優衣と並んで歩いていた琴音は、つぃと首を傾げるようにして言った。傾けられた琴音の顔は写真のように美しく、何処となく力の籠った黒い瞳に、優衣は射竦められてしまいそうだった。言葉を発するのに、無防備に開かれた唇から見える白い前歯に、何かいけない事を誘われている気分だった。
「な、ナンパは、水埜さんらしくないな……」
「ナンパなんてしてないよ。事実」
「怖いなー、水埜さん。そうやって女の子を誑し込んでるんだ」
「嫌な言い方するね……」
「喋り方も、エロいし……よーし、水埜さんは、これからエロ師匠だ」
「エロ……って」
「何だか――噂の吸血鬼みたいだね」
「――え?」
琴音が足を止めた。二人はもう教室の前まで来ていたが、優衣がドアを開けようとしながら、立ち止まった琴音を振り向いた。
「どうしたの、水埜さん」
「吸血鬼……って、あの? ブラム=ストーカーの? ドラキュラ伯爵って奴?」
「んー……私、実はそれ良く知らないんだよね。ああ、でも、そうじゃなくて噂のっていうのはさ……まぁ、ネットの噂みたいなものらしいんだけど」
優衣は簡単に説明した。
曰く――
古くから存在する、吸血鬼の一族がいる。
彼らは時代の闇に潜み、誰にも知られないように生き延びて来た。
しかしそうした日陰暮らしに嫌気が差した一派が独立。
保守派と全面戦争を繰り広げ、その多くが倒れたが、生き残った者が一人だけいた。
その吸血鬼の末裔が、現代に蘇って活動を始めているという。
「良くあるお話だね……」
「うんうん、だよね。でも、ここからが面白い……っていうか、興味深くて」
しかし一人ではどうする事も出来ない吸血鬼。
その末裔は自分の敵である聖職者を喰らう事で寿命を延ばして来た。
そして吸血鬼はある結論に達する。
一定数の聖職者を喰らう事で、自分はあらゆる弱点を克服し、完全無欠の生命体に成れるというものだ。
その数は、悪魔を意味する数字である、六六六。
「数の根拠が弱いね……」
「所詮は噂だからね。誰かが勝手に言った事だろうし。でも、最近、ニュースで頻繁に見ないかな? お寺とか神社、教会……それと、新興宗教団体の信者が、死んだとか殺したとか、捕まったとか何とか……」
「……ああ、確かに。若しかしてそれが、その吸血鬼って奴の仕業って事?」
「ネットの噂ではね」
「与太話としては面白かったよ。小説でも書いたら?」
「いやぁ、私、文才はからっきしでさ」
優衣はにひひ、と、眼を三日月状に歪めて笑いながら、教室のドアを開けた。まだ比較的早い時間なので、人はさほど集まっていない。先に教室に入っていた宍道が、窓際の自分の席に着き、大柄に似合わぬ大人しい様子で文庫本を捲っていた。タイムリーな事に、吸血鬼をテーマとした現代小説を読んでいる。
「そう言えば、水埜さんと、彼……」
「柳生くん?」
「そうそう、柳生くん……二人って、幼馴染なんだっけ?」
「そうだよ」
「ふぅん……じゃあ、伝えて置いてよ」
「何を?」
「気を付けてねって」
「?」
「だって柳生くん、確かお寺の息子さんでしょ?」
「言ったっけ、俺、そんな事……」
宍道は太い指で額をぽりぽりと掻いた。
放課後――
本校舎の裏から、体育館棟と旧校舎への渡り廊下が伸びている。体育館棟の脇に広場が作られており、その東屋で、宍道と琴音は向かい合って座っていた。
「さぁ? でも、何処かで言ってるんじゃない?」
琴音は携帯電話と睨めっこしながら言った。画面にはイケメンキャラクターと疑似恋愛出来るアプリケーションが映し出されている。基本的には、何人かいるキャラクターの内、一人を選んで会話をしてゆく方式だが、選択肢や好感度によってストーリー展開が変わる。そして面白いのは、選択肢にそのキャラにとって理不尽な発言や行動があるにも関わらず、それを選んでも尚、ヒロインを決して見捨てたり傷付けたりしないイケメンたちである事だ。
「いやぁ、リアリティないわー」
と、言いながらも、琴音の顔は何処となく幸せそうだ。
それは兎も角、宍道の話である。
優衣から聞いた話だと、吸血鬼は聖職者を狙っている。だから、一応は聖職者、つまり僧侶の家系である宍道に、冗談交じりにではあるが、気を付けるように言ったという事だ。宍道は、話した事が余りない優衣が、自分の素性を知っている事に疑問を抱いたのだ。
「まぁ……言ってるかもなぁ」
宍道は殊更に自分のパーソナリティを明かさない。入学間もない自己紹介の時も、簡単な事しか言わなかった。自分が寺の生まれという事も、進路に関して説明しなければならない担任教師以外には明かしていないと思っていた。
ただ、殊更に言い触らさないのと同じように、殊更に隠す事でもない。親の仕事は何かとか、将来はどうする心算なのかとか、雑談程度でも質問されれば隠すでもなく答える。
父親は市内にある寺の住職で、自分はその跡を継ぐのに、僧侶の資格を取るべく大学へ進学する。大学で仏教全般の歴史や文化、自分の宗派の教義や儀式などを勉強しながら、本山に入って修行して、僧侶として認められたら、実家に戻って父の跡を継ぐ。
簡単にそういう事を説明したし、今時の人なら、それで理解して貰える。
何度かそういうやり取りをする事があり、何度目かで宍道の方が説明するのに飽きて、既に言っているような振る舞いをした事もあった。だから、優衣に直接話していなくても、何処か別の方向から彼女の耳に入った可能性はあると思うのだ。
「でも、俺にゃ関係のない話だろうぜ」
「関係ない?」
「狙われてるのは、聖職者……要は僧侶とか神父、牧師、神主ってトコだろう? 彼女の言うように、最近、そこら辺で何やら物騒な事が起ってはいるが、何にしたってトラプルに巻き込まれているのは、本職……と言ったらあれだが、きちんと資格を取った人間じゃないか。俺のような未だ沙門である身の人間じゃあない」
沙門とは、仏教用語の一つで、修行者という意味である。元はサンスクリット語のシュラマナ、努力する者という意味で、それが転じて修行者全般を差す言葉になった。これは、身分や立場などに関わらず、誰に対しても使われる名称である。
一方、僧侶は出家した修行者の事だ。出家とは、身分を捨て、何らかの教団に属して修行する事をいう。出家は、二五〇〇年前の、仏教発祥当時のインドにあっても二〇歳を超えねばその資格を得られなかった。
自身の属した宗派や教義によって、沙門は僧侶となる。しかしその資格がなければ、沙門を自ら名乗る事は出来ても、僧侶である事は出来ない。
宍道はまだ高校生だ。得度によって自身の宗派に僧籍――僧侶としての戸籍――を登録してはいても、僧階――僧侶としての階級――は持っていない上、出家もしていないので、僧侶ではなく沙門でしかない。
件の吸血鬼事件の被害者が、資格を持った僧侶や神父、牧師、神主などであるのならば、その資格のない宍道がターゲットにはならないだろうと、宍道は言うのだ。
「――どうかな」
「どういう意味だい?」
「君が、それで、納得されるような器かって事だよ」
「器? よせやい、俺は担ぎ上げられちまうのは嫌いなんだよ」
そう吐き捨てると、宍道は鞄を持って立ち上がった。琴音もそれを追う。
東屋から出た二人は、中庭に敷かれた石畳の上をとんとんと蹴りながら、本校舎の裏に当たる東門から外へ出た。複雑な事に、極星高校の正門は裏通りにあり、裏門が表通りに面している。
そこから駅まで歩こうとしたのだが、校門前のバス停の少し先に、一台の車が停まっていた。ホンダのフィットで、色は黒だ。宍道はげっと言う顔をした。
「
琴音が言う。宍道は渋々といった感じで、黒いフィットに近付いて行った。車の横に立つと、助手席側の窓が開いて、一人の女性が運転席から声を掛けて来た。
「お迎えに上がりましたよ、若」
「だってさ、若さま?」
くっく、と、悪戯っ子のように笑う琴音。人前では感情の起伏を敢えて少なく振る舞っている琴音が、こういう表情を浮かべるのは身内の前だけだ。他の生徒、特に彼女を慕っている人物が見れば、宍道に対して怒りを覚えるかもしれない。
「若はよしてくれ……」
宍道は溜め息を吐いた。寺の一人息子で将来が殆ど約束されているのは良いが、同じ教区や組の住職や坊守、自分の寺の檀家や信徒、それに加えて常連の理髪店やお医者やらにそういう期待を背負わされ続けるのは、なかなかのプレッシャーだ。あまつさえ、時代劇じゃあるまいに、“若”などという呼び方をされると、娑婆では気恥ずかしい事この上ない。
「それより、迎えって? 何か急用なの?」
「はい、“
暁枝と呼ばれた女性はそう言って、後部座席のロックを解除した。がちゃり、という音が鉄の扉の向こうから聞こえたので、宍道は仕方なく乗り込む事にした。先に琴音を乗せ、その後に自分が乗り込んでゆく。
「こちらに眼を通して置いて下さい」
暁枝はダッシュボードから取り出した一枚の地図とぺら紙の束を、後部座席の宍道に手渡した。ニュートラルに入れていたギアをドライブに戻し、ブレーキからゆっくりと足を離す。クリープ現象で車体が前に進み始めた。
暁枝は、琴音とは又違った美しさを持つ女性だった。明るい色の髪を肩まで落とし、前髪は左側に流すようにしている。眉が大きく垂れているので、常に困ったような表情を浮かべているように見えた。しかし、幅広な唇はV字に持ち上がり、普段から余裕綽々といった笑みを湛えている。
身に着けているのは、紺色の作務衣だった。作務衣とは僧侶の作業着のようなもので、ズボン状の下衣と、内側を紐で結ぶ合わせの上衣から成っている。冬物らしく裏地はフリース素材だった。運転するのに支障が出るので今は革靴を履いているが、足袋に草履というのが似合う格好である。
「何の地図?」
「ここ数ヶ月の間、国内で有力な霊能力者が襲われています。そのリストと、彼らが襲われた地点を地図に印して置きました」
暁枝のフィットは東門前から少し直進して、西門前の通りに左折して入り、正門前を通って大通りに戻った。本校舎の道路を挟んだ向かいにはテニスコートとバスケットコートが併設された敷地があり、極星高校の学生がここで部活に勤しむ。
表通りに戻ると大工町の交差点で左折し、駅までの道を直進した。コンビニや銀行、スナック、料亭、百貨店、老人ホーム、雑貨屋……古くからやっている店、シャッターの下りた店、新しく建てている店、新旧入り混じった、何となく薄ら寂しい通りだった。
宍道はその間、リストと地図を眺めていた。宍道でも知っているような――と言っても恐らく優衣のような娑婆の人たちは知らないだろうが――、高名な拝み屋や祓い屋、エクソシストの名前がずらりと並んでいる。
彼らの多くは何らかの宗教法人に所属していたが、モグリの霊能者の名前も目立った。寧ろ、名前が通り、且つ、実力が高いと噂されるのは、そうした無所属の者たちの方である。
特に、リストの最後にあった、破戒修験僧・
リストには一三人の名前が載っており、地図と照らし合わせてみると、印は北海道から東北、そして首都圏に向かって一本のラインを形成していた。
「これ、例の吸血鬼って奴?」
「ご存知でしたか、流石です!」
暁枝は、優衣が琴音に話したのと同じような事を、宍道に改めて説明した。但し、優衣が“聖職者”と言った所を、暁枝は“霊能力者”と強調した。
宗教などの聖職に携わる者であっても、霊能力を持つ者は多くない。現代では希少であり、殆ど存在しないと言ってしまっても差支えはない。それに聖職者と言ってしまうと教師や医者までも含める事になる。
教師の傍らに退魔師として活動したり、悪霊の生じ易い病院を自分の結界としている者もいないではないがいないではないが、何れにしても、吸血鬼が狙っているのは強い霊能力者であるという事だ。
「話では、六六六人の強力な霊能力者を喰らう事で、その吸血鬼は太陽や十字架などのあらゆる弱点を克服するそうです。現在判明しているのは六六四人、つまり、後二人で、吸血鬼の目的は達せられるという事です」
「随分と頑張ったもんだな……現代に六六六人もそういう連中がいるって事にも驚いたけどさ、アングリマーラでもあるまいに、人間の命でスタンプラリーとはね」
「勿論、ここ何年かの話ではありませんから。数十年、恐らく一〇〇年近い単位で、吸血鬼は霊能力者を喰らって来たという事でしょう。数十年に一人くらいは、強力な霊力を持った者が一人や二人は生まれるでしょうし」
「ますますもって頭が下がるな。吸血鬼の寿命ってのがどれくらいのものかは分からないが、時間がたっぷりあるってのは羨ましい事だ。こちとら、恋愛の一つも出来ねーってのによ」
宍道が地図を折り畳んで言うと、横から琴音が脇腹をつついて来た。
「恋愛の一つもしたいなら、身なりや素行を正しなさいよ……」
「それくらいに忙しいって話だろーが。……それで? 暁枝さんも、俺がこいつに狙われるって言いたいの?」
「私も?」
「琴音が言うんだよ、俺が狙われるかもって」
「その可能性は大きいと思いますよ」
「あんたまでそんな事……」
「若は、一〇〇年に一人の“
「だからそれさ……」
宍道が眉を寄せて言い掛けた所で、車が信号で停止した。駅前のスクランブル交差点での事だった。縦横無尽に行き来する町の人々の姿を眺めてみる。
宍道はシートに背中を預けると、小さく吐息を漏らした。
「やるっきゃない、か」
偉大な先代の跡は大変だねぇ、と、心の中で呟きながら、宍道の唇は小さく持ち上がっていた。
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