第二章 665

 町の小さな教会で、シスターが掃除をしていた。


 聖堂の祭壇には、円光を背負った十字架が掲げられている。ステンドグラスは室内の明かりを受けて、様々な色に煌いていた。入口から祭壇までカーペットの敷かれた道が出来ており、そこを挟むように二人掛けの椅子が四基ずつ並んでいた。


 入口の隅の方に、懺悔室がある。電話ボックス程度の大きさの箱を、内側で二つに仕切っており、片方にはカーテンが被せられていた。仕切り板の中頃は格子状になっており、声が通り易くなっている。その名の通り、自らの罪を教会の者に対して明らかにし、懺悔する為の部屋だ。


 間違われる事があるかもしれないが、カーテンが引かれている入り口から入るのは教会の人間だ。懺悔する人間にとって、懺悔する相手は神である。だから、教会の人間のパーソナリティを知ってしまう事は出来ない。


 と言っても、この教会で働いているのはこのシスターのみで、自ずと壁の向こうの正体は分かってしまう訳だが。


 聖堂内の清掃を終え、懺悔室を清めようとカーテンを持ち上げたシスターだったが、不意に気配を感じた。仕切りの向こうに立つ何者かがいる。


 ――こんな時間に?


 とは思ったが、神はいつでもその懐を開いている。来る者があれば拒む事はない。


「よろしいでしょうか……」


 女の声だ。酷く熱っぽい。若しかしたら体調が悪いのかもしれなかった。 それなのに懺悔に訪れるとは、何と敬虔な人なのだろう。


 シスターは応じた。


「何でしょう」

「聞いて下さい、シスター。わたくしは、人を殺しました」


 ショッキングな告白だった。しかし驚いたり、恐れたりしてはいけない。一番怖がっているのは罪を犯した板の向こうの人間だ。


「はい」

「何人も、何十人も、何百人も……かつては、親や兄弟、友人でさえ手に掛けた事があります」

「ええ……」


 宗教者は相手の語る声が途切れるまで、どのような意見も発してはならない。例え沈黙されても、その沈黙を受け入れる器量を持っていなければ務まらない。


「初めは、ほんの些細な諍いでした。それがいつの間にか、一族を上げて総出で、血で血を洗うような戦争に発展してしまいました。愛しかったあの人も、仲の良かったあの子も、全て、全て殺さざるを得ない状況になってしまったのです」

「――」

「わたくしは争いから逃げました。自分の殺した命に背中を向けたのです。そして、いつか再び、自分も同じ目に遭う事になるのではないかと、恐ろしくなりました」

「ええ……」

「だから、殺しました。自分を、彼らと同じ目に遭わせようとする者を、殺して、殺して、殺し続けました……。今も、殺し続けています。自分の恐怖に敗けない為に……自分の欲望を満たす為に……」

「――」

「わたくしは救われるのでしょうか? 報われるのでしょうか? この手を染めた血が、洗い流される時は来るのでしょうか? 教えて下さい、シスター……」

「――」


 シスターは息を吸い、言った。


「良く、それだけの罪を告白して下さいました……」

「――」

「貴方の勇気は、きっと神の御許へ届いた事でしょう。貴女は救われます」

「――」

「勿論、地上での報いは辛いものとなる事と思います。ですがそれも、全ては救われる為の試練であり、贖罪の荒野……それを乗り越えた時、貴女は神の手で救済されるのです」

「あな嬉しや」


 次の瞬間だった。


 シスターは仕切り板の向こうで、言い知れぬ力が膨張してゆくのを感じた。そして咄嗟に床を蹴り、後退していた。


 刹那、シスターの胴体があった空間を、仕切り板を突き破った二つの腕が穿っていた。腕をすっぽりと覆う赤いグローブが、まるで血の棘のようにして迫ったのだ。


 バックステップで懺悔室から飛び出したシスターの表情は、聖母の如く穏やかな表情から一変して、悪魔に向かって剣を振り下ろす天使のように凛々しいものになっていた。


「安いものよの、人の作りし神は……」


 懺悔室の向こうから、そんな声がした。現れたのは、赤いブレードハットを被った、赤いドレスの女だった。一目見て分かる、それは、人間とは違う空気を纏っていた。


「吸血鬼……」

「そのように呼ぶらしいの、人は、我を」


 女吸血鬼は帽子を取り払い、床に放った。毛髪の一本一本にまで、血が通っているような赤い髪だった。ぎろりとした瞳も、血を練り込んだように赤い。真っ赤な唇を吊り上げ、紅の舌をまろび出させると、じゅるりと音を立てて口の周りを舐め上げた。


 シスターは、自らの下腹部が疼くのを感じた。――吸血鬼の醸し出した淫らな空気に、遺伝子の中のおんなが引き寄せられているのだった。だが、その事は既に知っていた情報だった。


「――ほう」


 吸血姫は、自分に対して鋭い視線を向けたシスターに、感心したような吐息を漏らした。性器に吹き掛けられれば、男女の隔たりなく達してしまうような熱い吐息だ。


「良く堪える……」

「貴女の事は聞き及んでいました……」

「我も同じじゃ……だからこそ、お前に逢いたかった……お前を喰らいたかったのじゃ」


 吸血姫はゆったりとした動作で、右腕を前に突き出した。そしてシスターを指差すと、言葉には出さすに唇の動きだけで伝えた。



 ――お前で六六五人目……。



 すると、吸血鬼の指先から、眼に見えないエネルギーが迸った。シスターは横に飛んでそれを躱した。周囲にはどのような被害も出ていないが、若しも逃げずに受け止めていたら、自分の心臓は停止していたかもしれない。シスターは思った。


 気功とか、オーラとか、そんな風に呼ばれているようなものだった。


「逃げるな……取って喰いはするが、痛みは与えない心算じゃ。抵抗さえせねばな」

「ならば――」


 シスターは立ち上がると、身に着けていたローブを一息に脱ぎ捨てた。すると禁欲的な衣装の内側に、刺激的で淫靡なボンデージに似た衣装を纏っている。剥き出しの太腿にはごついベルトが巻かれ、どちらも拳銃のホルスターとなっていた。前にせり出すバストを抑え込む正面のファスナーは、大きな十字架の形をしている。腕にもナイフのスロットを括り付けていた。


「面白い……!」


 吸血姫はシスターに向かって歩み寄った。しかしその余裕ある佇まいに、同じく優雅みやびに対抗する理由はなかった。シスターは両脚のホルスターから拳銃を引き抜き、照準を付けると直ちにトリガーを引いた。


 オートマチックのハンドガンだ。銃身には炎の天使ウリエルの聖名が刻まれている。弾頭も純銀製で、銃身を通る際には聖名の持つ聖なる力でその聖性が強化される。


 薬莢が排出され、床を叩く。硝煙の匂いが堂内に立ち込めた。吸血姫の身体は、たちまち蜂の巣になった。赤い衣装から、赤い液体が迸って教会の中を汚してしまう。


「ぐ……」


 二丁拳銃の弾丸を撃ち尽くしたシスターは、ハンドガンを放り投げると、両腕のナイフを引き抜いた。刀身はやはり純銀製で、大天使ミカエルの聖名が刻印されている。右のナイフを順手に、左を逆手に持って、吸血鬼に突撃した。


 全身から血を流していた吸血鬼だったが、目前まで迫ったシスターに対して顔を上げる。真っ赤に染まった顔の中から、一層赤い瞳が覗いていた。


 しゅ、と音を立てて空気が裂ける。吸血鬼の左腕が突き出されたのだ。


 シスターは吸血鬼の身体の左側に滑り込みつつ、上腕の内側を逆手に持ったナイフで斬り裂いた。人間で言えば動脈を斬られ、血が霧のように噴射する。


 シスターは身体を起こしつつその場で半回転し、浴びせるようにして右の後ろ回し蹴りを炸裂させた。ブーツの踵も純銀で覆われているのだ。蹴りは吸血鬼の下顎を吹き飛ばした。


 吸血鬼が右腕を振り上げる。その指先を左のナイフを切り落とし、振り上げた切っ先を鎖骨の窪みに突き刺した。下顎を失った怪物が、奇怪な悲鳴を上げる。シスターは右手の中でナイフを半回転させ、咽喉元に突き立てた。そのまま床に押し倒して、咽喉を掻き切ろうとする。


「……あ……ぁ」


 吸血鬼が血を吐きながら何かを訴えた。胸の上に乗り、両膝で両腕を踏み付けたマウント状態の今、生殺与奪はシスターにあると言って良い。聖職者は、例え咎人だろうとその言葉を無視してはならない。


「お……し……て、く……ぇぇ……」

「――」

「あふ……ぁ、の、こと……ば、は……う――ぅ、ぞ……な、の、か?」

「――」

「わ、たし……は、すく、わ……ぇ、あ、い……の、か!?」

「――」


 シスターは言った。


「人ならば、或いは。しかし貴女は魔物……」

「――」

「魔物は神の懐へはゆけない」

「そうかい」


 シスターは答えた途端、踏み付けていた吸血鬼の身体の上に倒れ込んで行った。しかし彼女の身体がうつぶせになった時、既にそこに吸血鬼の姿はなかった。


 呆気に取られるシスターを、無傷の吸血鬼が見下ろしている。


「我が血の味はどうじゃ……? 空気に触れるとたちまち気化し、生物の身体に入り込んで発情させる。あれだけ血をばら撒けば、赤ん坊だって精通するじゃろう。尤もお主、性欲と無縁の生活を送って来たようじゃし、その感覚が理解出来なかったのじゃろうな」


 吸血鬼はシスターの頭を掴んで上体を引き起こさせると、後ろから腰を抱く形になった。片手を首に回し、もう片方の手を脚の付け根に差し込んでゆく。


「や、やめなさい……!」

「痛くはせん……気持ち良くするだけじゃ……」


 かぷりと、シスターの耳に噛み付いた。そうして息を吹き込むと、ぞくぞくとした感覚が、女聖職者を襲い始める。吸血鬼は唇に鋭い歯を当てて血を出すと、シスターの首筋にキスをした。自分の血のキスマークだ。


 ただの人間が同じ事をやっても、特に意味はない。しかし、あやかしや魔物と呼ばれるものにとってのマーキングは、相手の存在を完全に自分のものとする意味合いがある。これをやられると、印章を刻まれた人間はもう終わりだ。相手に対し完全に隷属させられてしまう。


 吸血鬼は服の上から、シスターの身体をまさぐった。そうした刺激に慣れていない聖女は、自分の主となった妖魔のテクニックにになってしまう。


 だが、シスターにはまだ最後の砦と呼べるものがあった。ボンデージ風の衣装の中心を飾る、十字架のファスナー。胸の中心に抱いた聖なるクロスは、魔物にとっては最大の弱点である。それに触れなければ皮膚を晒す事もないと高を括っていた。


「可愛い……」


 吸血鬼は隷属の目論見を見抜くと、クロスの形をしたファスナーをずり下ろした。革素材のコスチュームの内側から、汗で蒸れた白い乳房が現れた。


「なっ……」

「当てが外れたの、シスター。私はこれでも六六四人の聖なる能力者を喰らって来た……今更こんなちんけな十字架で、逃れられると思っていたのか? 可愛いのぅ……もっと可愛がってやる」


 吸血鬼はシスターの身体を味わい尽くした。聖なる教会の、神の代理人たる十字架の前で、妖魔と聖職者が淫らに交わった。互いの体液を相手の身体に塗り込む、蛇のような交尾だった。聖女は快楽に溺れて堕落した。


 朝が訪れると、吸血鬼は戦いが始まる前に放り投げたブレードハットを被り直した。ステンドグラスが太陽を透かして、カラフルな影を床に落とす。照らし出されたのは、神に尿を引っ掛けるような姿勢で横たわる、邪淫に身をやつした聖女だ。


「最後に訊きたい事があるのじゃが」


 吸血鬼は言った。シスターは虚ろな眼で天井を見上げながら、ぬらぬらとした唇を動かした。


「この辺りで、一番の霊能者が誰か知っておるかの? ……出来る事なら若い男……そう、あんたと同じように、異性と肌を合わせた事のない童貞ぼうやが良い。若くて強い僧侶……そんな男こそ、私が完璧な肉体となるのに相応しい生贄じゃ」


 朦朧とした意識の中で、シスターはどうにか答えた。


「く……くろ、い、ぬ……」

「くろいぬ?」

「“黒衣こくいの獣王”……」


 吸血鬼はシスターの傍に跪くと、彼女の額に手をあてがった。そうする事で、彼女の頭の中を覗く事が出来るのだった。生物を肉体と魂に分けた時、性質的に魂に近しい存在であるからこそ、出来る芸当だった。


 シスターの記憶は、実際に会ったというものではなかったが、その少年の事が記号として記録されていた。“黒衣の獣王”と呼ばれる少年沙門……その略称として使われているのが“黒犬”という名前であった。歳はまだ一五、六歳。吸血鬼の望む条件に、最も近しい人物だ。


「ありがと。約束通り、気持ち良くしたまま、食べてやるぞ」


 裸体のシスターを持ち上げると、吸血鬼は口を大きく開けた。






「差し当たって、これだけの準備をしましたわ」


 式月しきづき真理亜まりあは、デスクの上に並べられたものの前で、腕を広げて見せた。


 髪に緩くウェーブを掛けている。優しい顔立ちもあって、羊のような印象を与えた。彼女の前では全てを投げ出して胸の中に飛び込み、乳の匂いの中で惰眠を貪ってしまいたい欲求に駆られる。


 しかし彼女がした“準備”の並んだデスクの前では、そんな気持ちも吹っ飛んでしまうかもしれない。


 デスクには、拳銃やマシンガン、コンパクトなボウガン、サバイバルナイフ、両刃剣、斧やブーメラン、果てはモーニングスターや棘付きメイスなど、極めて物騒なものが所狭しと並べられていた。


 宍道は流石に眉を顰めた。急に呼び出されたと思ったら、まさか大量の武器がお出ましになるとは想像もしなかったのだ。


 式月グループと言えば、世界に誇る日本有数の大企業である。あらゆる方面に事業を展開し、家電や生活用品などの国内シェア率で五〇パーセントを誇っている。電化製品だけを取っても、海外でアダルトグッズの代名詞として使われるくらいには有名な会社だった(式月で製作・販売している訳ではない)。


 又、極星高校を始めとした多くの学校法人のスポンサーともなっており、学費の免除・軽減や教育の充実などを行なっている。


 真理亜はその会長の娘の一人であり、極星高校の生徒会副会長だった。宍道たちの一年先輩で、来年度には生徒会長の座がほぼ確定しているようなものである。


 宍道と琴音が呼び出されたのは、国道沿いにある式月の別宅だ。会長である式月総一郎が常にいる訳ではなく、住んでいるのは真理亜と数名の家政婦たちであった。


 地下室は、豪奢な作りの屋敷の中で、殺風景な部屋である。打ちっ放しのコンクリートに囲まれ、学校の教室くらいの広さがある。壁際にはパソコンが数台並び、エージェントが画面と向き合っていた。その部屋の中央に置かれたデスクに、大量の武器が載っているのだ。


「これだけの準備って……」

「勿論、対吸血鬼の武器、ですわ!」


 宍道はその内の一つ、ブローバック式の拳銃を手に取ってみた。兵器にしては不釣り合いな銀の光沢を持っている。


「純銀か……」

「ええ」

「純銀のモーニングスター……」


 琴音がそれを手に取った。持ち手にはハンドガードが取り付けられており、チェーンは鉄球の中から引き延ばす事が出来た。


「これで吸血鬼なんてイチコロ! ですわね、宍道さま?」

はよして下さい。……それに、使いませんよ、こんなの」


 一頻り、純銀製の武器を手に取ってみたものの、宍道はそう言った。


「ど、どどどど、どうして?」

「そりゃ、こんな物騒なものに使われるより、おたくのような美人さんのネックレスになりたかっただろうからさ、こいつらも」

「まぁっ!」


 真理亜はぽっと顔を赤くして、その場にしゃがみ込んでしまう。琴音はその真理亜の傍までやって来ると、「いつもの冗談です、本気にしちゃ駄目」と囁いた。


 真理亜は咳払いをしながら立ち上がると、宍道に向かって言った。


「で、でも、備えあれば患いなしと言いますわ。相手の力がどれくらいか分からない限り、それなりの対策はして置くべきかと」

「だからってこんなものは役に立ちませんよ。確かに俺は、ガキの頃から城門流きどりゅうを仕込まれてはいます。凡その体術、武器術はお手の物ですが、だからこそ、こんな付け焼刃は出来ません。第一、純銀が有効なのはその純性のお蔭で、俗っぽい言い方をすればとかって奴が伝わり易いから、ってだけの理由です。しかし俺たちは、ハナからその心算で自分の武器を磨きます。いきなり渡された純銀の剣より、何年も使い込んだ木刀の方がが入り易い……」


 宍道は純銀の剣を持ち上げた。両刃の西洋剣で、刃の幅が分厚く、相手を叩き潰す為の剣だった。柄を両手で握り、


「む――」


 と、意識を集中した。


 すると、宍道の足元から蒼白い光が発生し、渦を巻いて剣を握る両手に巻き付いた。刀身が蛍光灯のように蒼く輝く。本当ならば、真理亜やエージェントたちには見えない筈の光だったが、純銀のお蔭で宍道の霊力が倍増され、素人にも目視可能な程に膨れ上がっているのだ。


「むぅっ」


 だが更に強く刀身を発光させると、水が注ぎ過ぎたコップからこぼれるように、光が大きく弾けた。光を失った刃には、小さくではあるが亀裂が走っている。伝導率が高過ぎて、本体の限界を超えた力を蓄えてしまい、耐える事が出来なかったのである。


「勿体なーい」


 琴音はひび割れた剣を見てそう言った。


「でも、これは気に入ったから貰って良いですか?」


 自身の助力を無用のものとされ、しょんぼりとする真理亜に、琴音が声を掛ける。彼女が手に取っていたのは、掌に隠して使う、棒状の暗器だ。指輪から軸が伸びており、その軸が太い針の中央に突き刺さっている。


「どうじょ……」


 唇を尖らせていじける真理亜。


 琴音はにこにこ顔で暗器を譲り受け、彼氏からのプレゼントの指輪のように身に着けた。掌に太い針が乗る形になり、指に対して垂直にして握ると、手の中に隠す事が出来る。又、人差し指と中指、中指と薬指、薬指と小指の間から先端を突き出させて、実際に使う時のシミュレーションをしていた。


「……尤も」


 そんな様子の琴音を見て、宍道が提案する。


「俺好みの武器を作ってくれれば、貰ってやらない事もないですけど……」

「た、例えば!?」


 真理亜は眼を輝かせて、宍道に駆け寄った。抱き着かれそうになるのをするりと躱すと、琴音に呼び掛けて地下室から出てゆこうとする。


「後で図面を送りますよ。ま、その時をお楽しみにって感じです」

「わ、分かりました! ……でも、本当に大丈夫なんですか? 吸血鬼の事は!」

「ご心配なく。予定と作戦は考えない性質ですが、まぁ、何とかなるでしょう」


 背中越しに手を振って、宍道は地下室からの階段を上り始める。その後ろに琴音が付き、真理亜に小さく会釈して同じように階段を上って行った。






 土屋優衣は、学校から駅まで、軽くランニングをしながら帰っていた。


 空手部の練習は夜八時頃まで続き、それから部員で食事をして、お開きになった。本当は余り推奨される事ではないが、教師の人柄の良さから黙認されている所があるし、食費が浮くとなれば参加しない部員もいない。


 近くの焼き肉屋で、満腹になるまで食べた。稽古で汗を流した後の肉とご飯の組み合わせは最高だった。優衣は細身だがそれなりの健啖家で、山盛りのご飯を何回かおかわりした。並の男子生徒ならばえずいてしまうくらいの量を、ぺろりと平らげたのだ。


 そしてアイスクリームでお腹の中をクールダウンさせると、腹ごなしにと言って駅までの二キロ半をランニングで帰る事にした。


 シャッターの下りた店が目立つ上市の通りハーモニーロードだが、その事を隠すように、商店街はイルミネーションを輝かせる。クリスマスもお正月も終えているので、ヴァレンタイン商戦の為だろうか。寂れた通りをきらきらとした光で無理に着飾っており、その間をライトを煌々と光らせた車が行き来する。


 優衣はジャージで走っている。極星高校のジャージは、地味な紺色の上下だ。しかし背中に大きく校章が刺繍され、上着の左胸と長ズボンの右脚には本人の苗字まで縫い込まれてしまっているので、自分のを使っているとすぐに何処の誰か分かってしまう。


 商店街を抜け、銀行と工事中のビルに挟まれたスクランブル交差点を超えると、公孫樹坂に入る。極端に勾配がある訳ではないし、駅に向かうのなら下りだが、その平坦でも急でもない坂が意外に曲者だ。


 公孫樹坂を降りると、もう駅前だ。優衣は、坂の名前の由来となった大銀杏の前で一息吐いた。十字路に跨る歩道橋の傍だ。道路の向かいを見てみると、昔はビル一つが丸々書店だったものが、一階がコンビニ、二階と三階が学習塾、そこから上が何だか良く分からない、単なる雑居ビルに変わっていた。駅ビルの中に同じ系列の店があるので、撤退したのだったか。


 ――色々、変わってるんだな。


 優衣はウェストポーチからペットボトルを取り出して水を飲んだ。通学時には指定された鞄とサブバッグというように決められているが、部活動に所属するものは通学鞄でなくとも構わないとされている。


 優衣は登下校の飲み物や携帯電話などはすぐに取り出せるようにウェストポーチに入れている。空手衣やジャージ、或いは制服、又、置き勉していて殆ど空っぽである事の多い鞄は、大きめのリュックサックに仕舞いこんでいた。


“登山家みたい”


 と、面白がられる事が時折はあるのだが、別に嫌ではなかった。登山家は自分の身を守りながら登攀しなくてはならない。それはつまり、準備のプロフェッショナルという事だ。


 その優衣は、大銀杏の横の歩道橋のもう一つ向こう、駅の二階コンコースに続く歩道橋に向かおうとしたのだが、はたとそれに気付いた。


「あれは……柳生くん?」


 大銀杏の横の歩道橋の上、手すりに背中をもたれさせて、何をするでもなく夜空を見上げている柳生宍道を発見した。何となく虚ろな様子に、嫌な予感を覚えた優衣は、歩道橋を一気に駆け上がった。


「あ?」


 宍道がそれに気付いたらしい。ランニングでも息を切らさなかった優衣が、白い息を吐きながら必死の形相で自分を睨み付けているのを。


「土屋……」

「だ、駄目だよっ!」


 優衣は叫んだ。


「自殺なんて駄目だからね!」


 そう言って飛び掛かって来る。宍道は急な言葉に頭が回らなかったが、優衣の身体を咄嗟に避けると、しまったという顔をした。


 勢い付いた優衣は、宍道を取り押さえようとしたそのまま、橋の手摺りを飛び越えてしまいそうになったのだ。


「ば、莫迦っ」


 宍道はリュックの肩のベルトを掴んで、優衣が落下するのを喰い止めた。優衣の身体は、上半分、手摺りからはみ出しており、頭部とリュックの重量で落っこちてしまいそうになっている。

 宍道は両手を肩ベルトにやり、「ぐぬっ」と、手首を返して力を込めた。服の内側で背中の筋肉が隆起し、瞬発的に発揮されたパワーが、優衣を橋の上に引き戻した。


 どう、と、二人は縺れ合うようにして倒れ込む。やって来た通行人が、迷惑そうな顔をして二人を一瞥し、跨いで行った。


「何やってんだ、おたくは……」

「いやぁ、ははは……助けようとした心算が、助けられちゃって」


 優衣が頭を掻いた。


「助けようと?」

「若しかして自殺しようとしてたんじゃないかなって、ほら、飛び降りてさ……」

「そんな事、するかよ」


 宍道が呆れながら立ち上がり、優衣に手を貸した。そこで優衣は、宍道の姿が制服ではない事に気付いた。


 宍道のイメージなど、制服かジャージかしかなく、私服の事など想像もしなかったから、少し面食らった様子だった。宍道は、身体にぴったりと合った黒い革のライダースジャケットを身に着けている。黒いデニムのパンツを履いていた。靴はいつもの爽やかなバンズのスニーカーではなく、ごついショートブーツだ。


 上着も、シャツも、ベルトも、ズボンも、ブーツも、黒い。夜の闇に紛れるこの姿の宍道を、どうやって発見出来たのか、又、宍道だと断定出来たのか、不思議であった。


「柳生くんって……」

「ん?」

「ロックとか、やる人?」


 優衣はエレキギターを掻き鳴らす真似をしてみせた。


「嫌いじゃないけど。でも別に詳しくはないよ」

「そっか、じゃあ……バイクとか乗る人だったり?」

「アメ横で買った私服だよ」


 宍道は説明が面倒になったようで、そう言った。


「ああ、そう……」

「それより、早く家に帰ったら? 補導されちまうよ……」


 宍道は右手に巻いた腕時計を見た。金が差し色に入っているが、メインカラーは黒だった。ファッションに関して、黒を何より重視する性質であるようだった。


「それは、柳生くんだってそうじゃん」

「俺は色々とやる事があってね……」

「やる事?」

「うん」

「若しかして、噂の吸血鬼退治?」

「――」

「なーんちゃって。いる訳ないよね、吸血鬼なんか」

「……琴音……いや、水埜にその話したのは、おたくだって聞いたけど」

「え? ああ……それは、何て言うか、水埜さんが、何となくだけど吸血鬼っぽいイメージあるなって」

「琴音に?」

「うん。だって格好良いじゃん、水埜さん。クールビューティっていうのかな。綺麗だし、いつも冷静で、何でも完璧にこなしちゃう。それで人を魅了するし……。だから、吸血鬼ってよりは、ヴァンパイア? みたいな……貴族っぽいというか、お伽噺のナイトっぽいというか」


 宍道はくすりと笑った。あれは、周りの人間にはそう思われているのか。後で教えてやろう。


「柳生くんって、そんな風に笑うんだ?」

「え?」

「今まで、殆ど話した事なかったから、見た事なかったな、そういう顔。ふーん、そっかぁ。物静かで大人っぽいと思ってたけど、何となく無邪気な感じね!」

「――」


 宍道は優衣に指摘され、急に気恥ずかしくなり、顔をわざと顰めてそっぽを向いた。自然と持ち上がりそうになる唇を、分厚い掌で隠してさえいる。


「手……」

「手? 今度は何だい?」

「柳生くんも、空手をやってるの? ほら、私と同じ……」


 優衣は自分の拳を見せた。少女らしからぬ太い指を、小指から折り畳んで親指で閉める。すると、綺麗な丸い拳が出来上がった。空手の打撃に使うのは、人差し指と中指の付け根だ。サンドバッグやミットに向かって突きの練習をし、正しい位置で打撃しているのならば、その部分の骨が削れて平らになり、表面は角質化してゆく。


 男女差が指の太さや掌の大きさに現れていたが、宍道の手も同じようなものであった。


「テレビのヒーローの真似事さ。良くあるだろ」


 宍道は、空手の型にしては大振りなモーションを、幾つかやってみせた。両腕を大きく回したり、掌を頭上に掲げてみたり、勢いはあるが実戦的な型ではない。歌舞伎の見栄を、カンフー映画のスピードでやっているようであった。


「好きなんだ、そういうの」

「男の子なら皆、好きさ。多くの人が卒業する中で、俺はそのタイミングを逸しちまった」

「良いじゃん、良いじゃん。子供の頃から変わらないもの、一つくらい持ってたってさ!」


 ぱちりとウィンクして、優衣は言った。変わってゆく町並みを歩く人間が、好きな事やものを変えてしまわないでいたって、誰もバチを与えたりはしない。


「なーんか、君の事、誤解してたみたい」

「誤解?」

「うん。柳生くんって、何て言うか近寄り難い感じがあったんだ。水埜さんにもそういうのはあるけど、柳生くんのは彼女とは違って……自分を消してるって感じ。誰も自分に近付かないでって。でも、実際に話してみると、結構、普通に話してくれて……何て言うか、人は見掛けによらないなって」

「大して話した事もないのに、もないわな。それに、見てくれの事は余り言わないで欲しいね。ご覧の通り、ウマい面じゃないものでよ」

「そんな事ないよー。確かにヒーローものの主演みたいなイケメンではないけど、野性的っていうか……大人っぽくて渋いよ」

「好意的に受け取って置くよ」


 宍道は右手を胸の前に出し、軽く頭を下げた。左手でも同じ事をやっていれば、丁度、合掌の形になる。


 優衣がどきりとしたのは、使ってもいない左腕の存在を感じさせた、宍道の整った右手の型だった。もう一対で完璧になるという事を予想出来るという事は、その片割れだけでも何らかの意味合いを持った形を作っているという事である。宗教的な形にこういう例えが当たるかは分からないが、パントマイムで見えない壁や重たい荷物を表現する、それを研ぎ澄ませてゆくとそうなるのではないかと思った。


 と、


「……土屋さん?」


 不意に後ろから声を掛けられた。女の子としては低めの声は、水埜琴音のものだった。


 振り返れば、やはり琴音がいる。彼女も制服から着替えていた。

 琴音はいつも、実直なまでに制服を身に着けている。黒っぽいボックススカートは膝上五センチ。ブラウスの襟元を飾るリボンはゴムを使わずカラーの下でしっかりと結ぶ。ブレザーの袖からカーディガンは出さないし、ボタンもしっかりと閉めている。靴下はダサかろうが何だろうが、フォーマルである灰色のハイソックスをぴったりと脚に合わせていた。


 それに加えて黒髪の美少女という完璧な記号。カタログにしか存在しないような着こなしの優等生。


 その反動なのか、琴音の私服を見た優衣は、宍道の時と同じように意外に思った。


 大きめのサイズのスタジャンは、袖が白で、身頃は鮮やかなブルー。胸には十字架に茨を巻き付けたようなマークが縫い込まれており、背中の刺繍は金色の鳥、鳳凰だった。

 キュロットスカートを履いているが、スタジャンの裾で見え難いベルトは蛇をあしらったバックルをしていて、やけに厳つい。オーバーニーソックスに足を通し、太腿には赤色の細いベルトを二本ずつ巻いていた。踝までのブーツもなかなかのごつさで、普段の清楚な感じはなりを潜めている。

 いつもはストレートな黒髪を大きめのリボンで頭の上に結っているが、優衣とは違って顔のサイドに余らせた髪を垂らしていた。


「何してるの、こんな時間に……」

「それは多分、こっちの台詞なんだけど……えーと、その……」


 優衣は自分を挟む形の宍道と琴音を見比べて、言った。


「お二人はひょっとしてこれから暴走族ぞく集会あつまりにでも行かれるので……?」

「は――?」


 それに吹き出してしまったのは宍道だ。


「とんだヴァンパイアだな、琴音……」

「何の話?」


 琴音が首を傾げた瞬間、宍道は、それを感じた。琴音もきっと分かっている。そして意外だったのは、優衣もそれに気付いていた事だった。


「この感じ……」


 ぽつりと、鋭い眼をした優衣が呟く。その視線が、気配の主のいる頭上に向けられようとした。


 宍道は優衣の身体に覆い被さるように飛び出し、琴音は優衣に駆け寄って両手で素早く両方のこめかみを掴んだ。


 その一瞬、その場では二つの戦闘が交錯していた事になる。


 一つは、いきなり頭部に手をやって来た琴音に対し、優衣が反射的に正拳を繰り出していた事。そしてもう一つは、夜空から降下した赤い流星が、宍道の身体を包み込んでその場から離脱してしまった事だ。


「かふっ……」


 琴音は胸を押さえて息を吐き出した。優衣の拳によるものだ。


 その優衣は、その場で倒れ伏している。琴音は膝で優衣ににじり寄り、彼女の様子を確認した。気を失って眠っている。そのような方法を取ったのだから当たり前だが、という事は、気絶した後に反撃したという事だ。


 琴音がやったのは、両手に集めたを相手のこめかみから頭蓋骨に流し込んで、一時的に意識を遮断するというものであった。宍道には及ばすとも、琴音も多少は心得がある。


 猛スピードで落下する赤い流星が、霊能力者を狙う吸血鬼である事は間違いない。だから宍道を攫って、そのまま飛び去ったのだ。


 だが周りにいた自分は兎も角、優衣にまで被害が及ぶかもしれない。又、優衣のような娑婆の人間を巻き込む事は、基本的にはタブーとされている。だから優衣の意識を奪おうとしたのだが、思わぬ反撃に遭ってしまった。


「呼吸が……」


 気を注ぎ込んで気を失わせた刹那、琴音はバックステップで、繰り出された優衣の正拳を回避した。その心算だったが、優衣の反撃に気付いたのが、彼女が拳を打ち込もうというまさにその瞬間だった。反射的な防衛だったので、琴音が攻撃の気を読むのに遅れたのだ。


 紙一重よりも更にぎりぎりの所で、琴音は攻撃を躱した。いや、躱し切れなかったのかもしれない。優衣の拳は琴音の服に触れ、その威力で呼吸がし難くなってしまった。


「宍道くん……」


 琴音は深く息を吸い、若干押し込まれていた胸骨を肺を膨らませて押し返し、正常な呼吸を取り戻した。そして、宍道の連れ去られた空を見上げたのだった。

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