悲劇への前奏曲

大いなる物語のプロローグは、概して穏やかなものである。約束されたエピローグに向けて、イブラヒム・パシャの「ひとカラ」はクライマックスを迎える。

フランソワ一世。イブラヒムをしてスレイマン一世を彷彿とさせる、とまで言わしめる。それは何も性分だけの話ではないだろう。人は人を知る。スレイマンとの友誼は、なにも人品にのみ由来するものでもあるまい。

かれの主君に対する合わせ鏡のごとき「名君」を前にし、否応なしにイブラヒムの「ひとカラ」は盛り上がる。それはもう、絶好調というべきである。そこから導き出される結末は、どうしようもないくらいの破滅、あるいは破綻である。

ある「偉大なる」人間の実態は、世間の評価から甚だしく乖離する傾向にある。これはもう、世の中が「わかりやすい物語」を、まるでわかりやすくない現実に対して求める以上、どうしようもない。

イブラヒムは、フランソワより提示される「わかりやすい物語」を前に、内心では反駁をする。だが、あえてそれを表面化はさせていない。根拠は政治的判断、とすべきだろう。「そう認識してもらえたほうが便利」なのだ。

この物語は、読者に問いかけをもたらしている。イブラヒムにもたらされる「あの結末」が、果たして彼の意に沿うものなのか、どうか。

異論は尽きないだろう。だが、あえて自分はこう言明したい。

「そこに evet はあったのだ」と。