大いなる物語のプロローグは、概して穏やかなものである。約束されたエピローグに向けて、イブラヒム・パシャの「ひとカラ」はクライマックスを迎える。
フランソワ一世。イブラヒムをしてスレイマン一世を彷彿とさせる、とまで言わしめる。それは何も性分だけの話ではないだろう。人は人を知る。スレイマンとの友誼は、なにも人品にのみ由来するものでもあるまい。
かれの主君に対する合わせ鏡のごとき「名君」を前にし、否応なしにイブラヒムの「ひとカラ」は盛り上がる。それはもう、絶好調というべきである。そこから導き出される結末は、どうしようもないくらいの破滅、あるいは破綻である。
ある「偉大なる」人間の実態は、世間の評価から甚だしく乖離する傾向にある。これはもう、世の中が「わかりやすい物語」を、まるでわかりやすくない現実に対して求める以上、どうしようもない。
イブラヒムは、フランソワより提示される「わかりやすい物語」を前に、内心では反駁をする。だが、あえてそれを表面化はさせていない。根拠は政治的判断、とすべきだろう。「そう認識してもらえたほうが便利」なのだ。
この物語は、読者に問いかけをもたらしている。イブラヒムにもたらされる「あの結末」が、果たして彼の意に沿うものなのか、どうか。
異論は尽きないだろう。だが、あえて自分はこう言明したい。
「そこに evet はあったのだ」と。
日本では最近ようやく注目され始めたばかりでまだあまり情報は多くないと思われるオスマン帝国の話ですが(舞台はたまたまフランスですが、主人公で語り手のイブラヒムはオスマン帝国の宰相です) そういう歴史ものとしての硬さはなく、あえてライトなノリで言ってしまうと、可愛い可愛い私のご主人さまスキスキ❤な従者(作品の雰囲気をぶち壊してしまっていたらすみません……)の語りです。
確かに歴史の描写は多く、この頃のフランスの状況やスレイマニエ・モスクについて知っていた方が面白いと感じられそうですが、絶対知っていなければならないなんてことはなく、歴史なんて自信がないよーと思われる方ほど「ああ……この人本当にスレイマンという皇帝が大好きなんだな……」と思いながら読んでいただきたいと思います。
オスマン帝国はイスラーム国家なので例示にはムハンマドが用いられますが、使われたエピソードも、ツイッターを席巻する猫画像よろしくムハンマド猫大好きエピソードで、イメージしやすいものではないでしょうか。
そうかー、イブラヒムにとってはスレイマンはネコなのか~。(大いに誤解を招く表現)
スレイマンを思うイブラヒムの気持ちは頼もしくもあり、可愛らしくもあり、どこか危なっかしいです。
でも、その気持ちを貫いてほしいと思います。
だって、固いきずなで結ばれた主従が世界を変える物語だなんて、ロマンしかないじゃないですか。
フランス王に見せつけてやれ!