猫と預言者
崩紫サロメ
第1話 フォンテーヌブロー
「もう少し時間はあるだろうか、イブラヒム・パシャ」
フランス王がそう聞いてきたのは、もう夜も更けてのことだった。“もう少し”とは今からなのか、それともまた 明日以降のことなのだろうか。私が答えずにいると、酔いも回ってか上機嫌なフランス王は構わずに続けた。
「フォンテーヌブロー宮殿を見て欲しいのだ」
「フォンテーヌブロー宮殿?」
「まだ完成はしていないのだが、フランスで最大の宮殿となるはずだ。左右対称構造のその宮殿の真価は大きさではなく、その内装と宝物庫だ。レオナルド・ダ・ヴィンチが既にこの世にないことは悔やまれるが、イタ リア美術の粋を集めたものになる。イブラヒム・パシャもイタリアから中国に至るまでの美術品を集めている のだろう?」
「はい。東西の文化の美しき混交こそがイスタンブル、そしてオスマン帝国であると思いますゆえ」
「ならば、見て来てくれ。そして、スレイマンに見たままを伝えてくれ。きっと羨ましがる」
得意げに言うフランス王に、つい笑いが込み上げてしまった。
「……何だ」
そう言いつつも、さほど不快ではなさそうにフランス王は言った。
「いえ、そのスレイマン様も同じようなことを言っておられたと」
「それは?」
「イスタンブルにアヤソフィアを超えるスレイマニエ・ジャーミーなるモスクを作ろうとしておられます。そ れだけでなく、自慢の蒐集品を陛下にお見せしたいと、得意げに言っておられました」
「スレイマニエ……スレイマンのことか」
フランス王は楽しげに笑った。 フランス王フランソワ 1世、そしてオスマン帝国皇帝スレイマン 1 世。 盟友であるこの二人はどこか似ている。 芸術を愛し、哲学を愛し、それでいて大衆的ものも含め、あらゆるものに興味を抱く。 華やかなものを好み、見栄を張るが、上品な華やかさであり、その見栄の張り方はどこか子どもっぽく罪のな い印象を与える。他の王が何かをひけらかしたら、傲慢な、或いは見苦しい印象を与えるであろうに。 フランス王は、天気の話でもするように続けた。
「それで、そなたとスレイマンは相変わらず見ている方が恥ずかしくなるような熱愛ぶりなのか?」
私は思わず杯を置き、目を伏せた。別に動揺しているわけではない。
フランス王がこういう人であることには慣れている。
……しかし、見ている方が恥ずかしくなるような……とはいつ何を見たのだ……。
確かに、スレイマン様は即位して間もない頃、同じ新宮殿内にいながら、私に毎日何通も何通も手紙を書き送ってこられた。皇帝が執務中にそのように私信を送るものではございません、と当時小姓頭であった私は諫めたが、「だが、会いたいからと会いに行ったり呼び寄せたりすると、互いの執務に支障が出るだろう。手紙は合理的ではないか」とのたまい、また手紙を送り続けた。無視すると結局内廷の私の部屋まで乗り込んで来られるのだから、私もそのすべてに返信した。
思えばあの頃スレイマン様は25歳になっておられ、私たちが出会って10年近く経っており、毎日毎日何を書くことがあったのだろうと呆れるが、今まで地方官としてずっと一緒にいた私たちにとって、イスタンブルの新宮殿は広すぎた、というのが控えめないい方だろうか。いずれにしても、皇帝と小姓頭の数時間おきの手紙を取り次がなければならなかった宦官たちは“見ている方が恥ずかしくなるような熱愛ぶり”と噂したくもなっただろう。
そんな私が奴隷の身から20代のうちに帝国大宰相にまで登りつめたため、外国の者すら私のことを
「スウェーデン大使がちらりと口にしたのだ。そなたとスレイマンの間に幾何かの葛藤があると」
フランス王は、たわいもない噂話を続けるのかと思ったが、少々深刻な口調で切り出した。スウェーデンが……ポーランド王室とは姻戚関係にあるスウェーデンが……となれば、当然政治的な問題に違いな い。
「フランスは、同盟国の皇帝と大宰相の不和を望まない。そして、友人としてはそなたたちのどちらもが傷つかぬことを望む」
軽薄な口調から断固たるものに切り替わるとき、この人が王であることを改めて感じる。
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