第2話 必要な弱さ
それにしても、だ。 傍系の王子と小姓として始まった私たちの関係は、オスマン帝国の皇帝と大宰相の力関係という、たやすく他 国を巻き込むものになった。フランスは、私たちの“熱愛”を望む。スペインとオーストリアは亀裂を望むだろう。スウェーデンは? ポーランドは? ため息が出てくる。即位以前から続いてきた、そして既に噂が広がって しまった関係を隠すよりは、むしろ積極的に利用し、情報操作をしてきた。私とスレイマン様は誰よりも強い 絆で結ばれているがゆえに帝国は盤石、その証拠に我らがともに挑んだ戦いはどれも圧勝だったではないか……と。
だが、実際には常に関係が良好というわけでもない。更にはそれを悪意で広めようとする者もいる……恐らく朝廷内に。スウェーデン、か。一見遠いようでイスタンブルの珈琲店から容易く噂が伝わる距離だ。イスタン ブルの開放性と国際性の恐ろしさをこういうときに感じる。
「まあ、スウェーデンは置いておいて……そなたたちの馴れ初めは?」
またフランス王の俗っぽい質問が始まった……。
何故そうくるのだ。しかもこちらが答える前に勝手に答えた。
「カッファだろう?クリミアの」
「……お詳しいですね」
「いや、そのくらいは国際的な常識だ」
国際的な常識……。思わず絶句してしまった。ならばもう聞かないでくれ……。
「そうですね……スレイマン様はあの頃も、皇帝になっても相変わらず素直な良い子です」
そう口を滑らせた私は、相当酔いが回っていたのだろうか。 クリミアで孤立無援だったスレイマン王子の、澄んだ目がありありと浮かんだ。
フランス王は笑って言った。
「そなたにとっては、今も愛しい16歳の王子のままか?」
そう言われて私も平然と笑った。
「ええ。私の気持ちはあの頃から何ら変わっておりません」
そう、私のスレイマン様への屈折した思いは、今に始まったことではなく、あの頃からなのだから。
「結局惚気ではないか……。だが、そなたには及ばぬが、私もスレイマンが好きだぞ?」
そう言うフランス王に笑って頷いた。
「存じ上げております。スレイマン様も同じでしょう」
この二人は、君主同士であることが残念な程親しい。立場上友人と呼べる者が皆無に等しいスレイマン様は、 フランス王からの手紙をいつも楽しみにしている。勝手なやりとりをされては困るので私が検閲まがいのこと をしているので、同盟を超えた個人的な友情はよく知っている。そして、それは私の歪んだ愛情よりも、スレ イマン様にとって救いとなるものであろうと。
「そうだ、そなたは違和感がないか?」
フランス王は、唐突に同意を求めた。
「何についてですか?」
「“偉大なるスレイマン大帝”、“全ヨーロッパを震撼させたトルコの脅威”、“騎士の中の騎士”“壮麗王”……」
「ああ、つまり、生身のスレイマン様とはかけ離れていると?」
「そういうことだ。オスマン帝国を敵視する者でもスレイマン“大帝”は名君だと言う」
その通りだ。スレイマン様は帝国の民には比類なき名君と映るらしく、敵対する者でも、マルタ騎士団長のよ うにあの方を“騎士の中の騎士”などと呼ぶ者もある。あの方の誠実さ、公正さ、美しさが“スレイマン大帝”、 “壮麗王”などと呼ばれる所以だ。そして私とヒュッレム皇妃が名君の目を曇らす奸臣と妖婦であるという見方 も、どの国でもだいたい同じだ。イスタンブルの珈琲店での言論統制を図ったのはスレイマン様なのに、いつのまにか私が唆したことになっている。私は反対した側なのに。まあ、構わないが。そういう汚れごとを引き受けるのが私の役目なのだから。
「それで、どのように違和感を覚えられるのですか?」
「そうだな……確かに、スレイマンは優れた人間だ。だが、完全無欠の強き王者というよりも……時々大人げなく て危ういところがないか?私はむしろ、そういうところに人間味を感じるのだが」
それは私も同感なのだが、それを言うならフランス王も大人げなくて危うい。敵前に飛び出して捕虜となり、 母親を通して私に助けを求めたではないか。だが、私はフランス王のそういうところに人間味を感じる。
「そうです。スレイマン様は、君主として必要な弱さを備えておられると思うのです」
「君主として必要な弱さ?」
フランス王は私の言葉に首をかしげた。
「あるいは、人間として必要な弱さと言えるかもしれません」
「人間にとって、弱さとは必要なことなのか?」
「さあ、わかりません。ただ、先ほど、庭で猫を見かけたときに、そのことを考えたのです」
「何故、猫と今の話が結びつくのだ?」
「預言者ムハンマドと猫という話があるのです」
敬虔なカトリック教徒であるフランス王は興味深げに目を上げた。
「猫はお好きですか?」
「無論、可愛いではないか」
「ならば、この話はおわかりになると思います」
そうして私は語り始めた。
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