五章 戦いの時

 全日本スピードスケート選手権大会の前日になった。午前中はスケート場で練習をして、午後になると自宅を出発する予定だ。瑠佳はスピードスケートの用具が入った鞄を肩に掛け、スーツケースを持ってリビングから玄関に向かった。

「行ってらっしゃい」

 母が笑顔で見送ってくれた。瑠佳は振り返る。どうせ期待はしていないだろうと思った。

「行ってきます」

 瑠佳はスニーカーを履いて、父と玄関を出た。何か言いたげの瑠奈に気付いたが、声は掛けなかった。


 父の送迎で長野市まで向かう。瑠佳は無言で後部座席に座っていた。車内には父親の好きなロックバンドの曲が流れていた。


 口を開いたのは父の方だった。

「昔は転んでばかりだった瑠佳が今では強化選手だもんな。成長したよな」

 瑠佳はルームミラーに映る父と一瞬目が合った。

「でも、このままだと来シーズンは強化選手から外される」

 瑠佳は深刻そうに俯いた。

「もしそうなったら、その次のシーズンにまた強化選手になればいいさ」

 父は前向きだった。しかし、瑠佳は同じように考えられなかった。結果は気にしないようにしようと思っても大会を前にすると気になってしまう。そして、瑠奈の事も。

「瑠奈にこれ以上差を付けられたくない」

 瑠佳にとって瑠奈はライバルだ。例え今の自分を瑠奈がライバルと思っていなくても。

「瑠佳と瑠奈は昔から競い合ってたもんな。瑠奈も昔から瑠佳には負けたくないって言ってたしな」


「でも、今はそんな事言ってないんだろ?」

 瑠佳は顔を窓の外に向ける。今の自分と瑠奈では差があり過ぎた。彼女の眼中に自分は無いだろう。

「いや、ついこの前も言ってた」

 瑠佳は驚いて運転席に座る父の方に顔を向けた。

「本当だぞ。二人は永遠のライバルだな、きっと」

 瑠佳は思わず目を開く。

 父は笑いながら雪が残る山道を運転していった。


 約三時間で長野市まで来ると大会の会場の近くにあるホテルに向かった。

「もうすぐ着くぞ」

 父の声が聞こえてカーナビの音声案内が終了すると瑠佳は窓の外を見た。視界に十階建ての灰色のホテルが飛び込んでくる。鞄から白い携帯電話を取り出すともうすぐ着く旨のメールを俊弘宛に送った。

 駐車場に車を停めると父とホテルの中に入って行く。ロビーの中には従業員や宿泊客で賑わっていた。中央にあったココア色のソファーに視線を向けると俊弘が座っているのが見えた。瑠佳はスーツケースを引きながら彼の元へ行く。父は俊弘に挨拶をした後、チェックインの手続きをしに行く。それが終わるとエレベーターに乗って宿泊する部屋に向かった。


 翌日の朝になり、瑠佳は目を覚ます。起き上がるとカーテンの隙間から朝日が差し込んでいるのが見えた。カーテンを開けると窓は結露して曇っていた。

「おはよう」

 父の掠れた声が耳に届いた。

「あ、おはよう」

 瑠佳は振り返って父の方を向いた。

「着替えたら朝ご飯食べに行くぞ」

 着替えを始める父を見て、瑠佳は無言で頷くと服を着替える。


 朝食後、瑠佳は俊弘と合流して車で大会の会場に向かった。

 今日は午前に公式練習、午後に開会式がある。実際に競技が行われるのは明日と明後日だ。


 太陽に照らされて銀色に光る建物が会場だった。屋根は下弦の月のように湾曲しているのが特徴だ。此処に来るのは十月下旬に行われた大会振りだ。開幕戦だったその大会の後、休養する事になってしまったのだ。彼にとって全日本スピードスケート選手権大会は今シーズンで二回目の大会となる。


 施設内に入り、更衣室でウェアに着替えてリンクに赴く。

 其処では出場選手が最終調整していた。中には見知った選手の姿もある。選手は大学生が多く、殆どが瑠佳より年上だ。去年初出場した時は瑠佳が最年少だった事をふと思い出す。


 スケート靴を履くと体をリンクに慣れさせるために滑り始める。鼓動が高鳴り、顔が強張った。


 すると視界に一瞬見覚えのある少年の姿が映る。リンクから出て行く彼をもう一度見た。少年はサングラスを外す。顔が見えると確信した。彼は福士ふくし和喜かずのぶだ。和喜は瑠佳の一学年下の中学三年生。瑠佳と同じく長距離が得意でお互いライバル同士だった。彼と一瞬目があったが、すぐに前を向いて滑る。


 公式練習が終わり、夕方に開会式が行われた。その後、滑走の順番や組み合わせを決める抽選が行われた。タイムが良い順に八人ずつAグループ、Bグループというようにグループ分けされ、抽選が行われる。明日の種目は短距離の五〇〇メートルと長距離の五〇〇〇メートルの二種目だ。

 抽選の結果、五〇〇メートルでは鎌田かまたという選手と一緒に滑る事になった。初めて聞く名前だ。所属の欄を見ると大学名が書いてあったので、大学生だという事は分かった。


「鎌田選手ってどんな選手か知ってますか?」

 瑠佳はホテルへ向かう車に乗りながら隣の運転席に座る俊弘の方を見た。

「鎌田選手は昨シーズンからスピードスケートに転向した選手だ。転向前は自転車競技をやっていたらしい」

 瑠佳は鎌田の経歴に少しばかり驚いた。スピードスケートから自転車競技に転向した選手は聞いた事あるが、その反対は聞いた事が無い。

 スピードスケート歴は瑠佳の方が圧倒的に長い。きっと勝てる。自分にそう思い込ませようとするが少し自信が無かった。

 五〇〇〇メートルで一緒に滑る菅原すがわらは二学年上だが、格下だ。いつもは自信を持って挑める相手なのに此方も自信は持てない。


 ホテルに辿り着くと夕食を摂り、入浴を済ませると瑠佳は無言でスケート靴の刃を磨く。

 ちょうど終わるとベッドの上に置かれていた携帯電話の着信音が鳴り響いた。画面を確認する。瑠奈からのメールだ。

『無理しないでね。健闘を祈ってる!』

 メールを見て思わず顔が綻んだ。彼女からのメールは何だか嬉しい。少しだけ励まされた。

『ありがとう。瑠奈に負けないように頑張るから!』

 返信すると枕元に携帯電話を置く。部屋の電気を消すとベッドに潜り込んだ。




 五章まで読んで頂き、ありがとうございました。

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