氷上の弾道

万里

一章 遠き姉の背中

 冬が近付いてきた十月下旬の朝は寒く、布団から出るのが少し億劫だ。それでも学校に遅刻をしないために起床すると灰色のパーカーを着て彼は手櫛で漆黒の髪を整える。

 そして、二階の自室から一階のリビングダイニングに向かった。


 部屋の中はストーブで暖かかった。自分の席に座ると食卓に用意されていた朝食をいつものように食べ始める。

 テレビの方に顔を向けるとスポーツニュースが放送されていた。

碓氷うすい選手、三位になった感想をお願いします』

 画面の中では十代半ばの少女がはにかみながらインタビューに応じていた。彼はテレビから視線を外す。

 インタビューに答えている張本人は目の前で温かい味噌汁を飲んでいた。


 碓氷瑠奈るな。彼女はフィギュアスケート界の注目選手だ。彼女は彼と同じ漆黒の髪を肩甲骨の辺りまで伸ばしている。


 キッチンに居た母は嬉しそうにテレビを凝視していた。愛娘が世間から脚光を浴びているのがよほど嬉しいようだ。瑠奈は画面から顔を逸らしていた。彼女の耳は赤くなっている。

 彼はそんな彼女を意識しないようにするため食事に集中した。


 瑠奈は朝食を食べ終えると食器を流し台に持って行く。

「瑠奈、次の大会も応援してるからね! 瑠佳るか、あなたもね」

 彼女は照れ笑いを浮かべて頷くと歯磨きをするために洗面所に消えてしまった。瑠佳と呼ばれた少年は少し不満そうに首を縦に振る。母が期待しているのはどうせ瑠奈なのだ。彼は分かっていた。


 朝食を済ませた瑠佳は出掛けるための準備をした。黒い学ランに着替えて青いネックウォーマーを被り、手袋をはめる。白いスポーツバッグを肩から斜め掛けすると家を出てバス停に小走りで向かった。

 中央高地の朝は寒い。寒いのを通り越して耳が痛くなるくらいだ。吐く息は白い。


 バス停には黒いスクールバッグと白いトートバッグを肩に掛けた瑠奈の姿があった。深緑のリボンの黒いセーラー服を身に纏っている。防寒具として赤いチェック柄のマフラーを首に巻き、手袋を付けていた。朝食を時とは違い髪をゴムで二つ結びにしている。


 バスがやって来ると二人は開いた扉から乗り込む。バスの中は暖房が効いていて暖かかった。この時間帯は高校生が多い。瑠奈が扉付近の二人掛けの座席に座る。

「隣座ってもいいか?」

「いいよ」

 彼女が首肯すると瑠佳はその隣に座る。二人は鞄から英語の単語集を取り出すと無言で小テストの勉強を始める。お互い話し掛ける事は無かった。

 しかし、瑠佳は瑠奈の事が気になって何度か彼女の方を見てしまう。こんなに近くに居るのに遠い存在に思えた。様々な大会で上位の成績を残す瑠奈はオリンピック代表候補とも言われているほどだ。スタートラインは同じだった筈なのに彼女は瑠佳のずっと先を進んでいた。


 三十分ほどバスに乗っていると降りるバス停に停車したので瑠佳は席から立ち上がった。立っている客の間を掻き分けて運転席の側まで来ると定期券を見せてから下車する。


 一限目の英語が終了し、教卓の前の席に座っていた瑠佳は教材を机の中に仕舞う。暇なので明日が提出期限の宿題でもしようと数学の問題集を取り出そうとした。

 するとクラスメイトの男子が横に現れた。彼とは今まで殆ど話した事の無い。


「なあ、碓氷って碓氷瑠奈の弟なの?」

 男子生徒は瑠佳の机に両手を置く。瑠佳は彼に横顔を覗き込まれる。

「……そうだけど。と言うか顔近いから離れろ」

 瑠佳は苦笑いをしながら男子生徒の顔を押し返す。

 男子生徒は喜びに満ちた顔をする。彼は瑠佳に色紙を差し出した。

「俺、碓氷瑠奈のファンなんだ。だからサインを貰ってきて下さい! お願いします!」

 両手を顔の前で合わせる男子生徒を見て苦笑しながら瑠佳は首を縦に振った。

 ――俺じゃなくて瑠奈なんだ……。


「一応頼んでみる」

 瑠佳の反応を見て男子生徒は小躍りしていた。

「瑠奈ちゃんと双子なのかー。羨ましい。いや、瑠奈ちゃんと双子になったら恋が出来ない! やっぱり嫌だ」

 男子生徒は大きな声で独り言を言い続けている。

「……双子じゃなくて、年子だから。誕生日の関係で学年同じだけど」


 姉の瑠奈は四月に生まれで弟の瑠佳は翌年の三月に生まれたため同学年だった。

「へぇー。まあ、兎に角、サインの件は頼んだから」

 男子生徒は笑顔で瑠佳の肩を叩くと自分の席へ戻って行ってしまった。


 瑠佳は溜息をつく。脚光を浴びている瑠奈と自分を思わず比較してしまう。彼は瑠奈に対して双子以上にライバル意識を抱いていた。

「そう落ち込むな。いつか大きな大会で優勝して有名になればいいって。お前のサイン貰っておけば良かったってあいつに言わせてやろうぜ」

 瑠佳の背後から百瀬ももせ恵也けいやの声が聞こえてきた。黒い髪の彼は瑠佳に笑顔を向けている。


「出来たらいいんだけどね。あいつにサイン欲しいと言われても別に嬉しくないけど」

 大きな大会で優勝など彼には到底出来ない事だった。瑠佳は冷めた顔をしていた。

「瑠佳らしくないぞ。夢は大きく持てよ! オリンピックで金メダル取るとか!」

 一人で盛り上がっている恵也を見て瑠佳は乾いた笑みを浮かべていた。

「スピードスケートの世界は信州の冬の寒さよりも厳しいんだ。そんな簡単に金メダルなんて取れないから」

 瑠佳はそれだけを言うと問題集を開いて宿題を始めた。


 授業と部活が終わり、瑠佳は校門から出て行く。空は墨で塗られたように黒に染まっていた。彼が所属しているスケート部は平日、校内で部活が行われていた。

 彼は高校から徒歩圏内にある屋内のスケート場に足を運んだ。


 軽い夕食を摂ると黒地に青い模様が入ったスピードスケート用のウェアに身を包む。スケート靴を履くと貸切のリンクへ降りる。コーチである丸山まるやま俊弘としひろが現れると丁寧に挨拶をする。

 俊弘はかつてスピードスケート選手として活躍していた。五年ほど前に引退し、今はコーチとして瑠佳を指導している。


「よし、今日は五〇〇メートルのタイムを計ってみるか」

 練習の後半で俊弘が提案する。瑠佳は長距離が得意で短距離である五〇〇メートルは得意ではない。瑠佳は頷くが不得意な種目という事もあり、顔は不安げだった。それでもサングラスを掛けて五〇〇メートルのスタートラインに立つ。トラックは一周四〇〇メートルなので、一周と四分の一を滑る事になる。


 瑠佳は前傾姿勢になると右手で軽く氷を触る。三点スタートと呼ばれる少し珍しいスタート法だ。憧れのあの人と同じ構え。スタートの合図を待っている間、何と無く嫌な感じがした。上手く滑る未来像が描けない。


 俊弘の合図が聞こえると氷上を滑り始める。スケート靴の音だけがリンクに響く。最初の一〇〇メートルのホームストレートを滑ると第一カーブに入る。反時計回りにカーブを回って行く。今度はバックストレートを左右に揺れながら進んで行く。第二カーブに入りカーブの出口にあるスタートラインを通り過ぎた。第一カーブの手前にあるフィニッシュラインに向け、最後の直線を滑る。しかし、上手くスピードに乗れなかった。


 ゴールすると彼はサングラスを外して頭に乗せる。その後、俊弘の元へ滑って行くとタイムを尋ねる。

「三十九秒一三だ」

 案の定それは昨シーズンの自分のタイムに及ばない物だった。こんなタイムでは次の大会でも満足の行く結果が残せない。瑠佳は拳を強く握り締めた。

 どんなに練習しても昨シーズンのようには行かない。このままでは、また開幕戦のように納得の行かない結果になってしまう。瑠奈に置いていかれてしまう。彼の焦燥感が高まる。


「瑠佳、まだ大会まで時間はあるから焦るんじゃない」

 俊弘は瑠佳の肩を叩く。

「でも、瑠奈には負けたくないんです。勝ちたいんです!」

 瑠佳は訴え掛けるように俊弘を見上げた。脳裏に瑠奈の姿が浮かぶ。

「今はお姉さんの事は考えるな。瑠佳は瑠佳のペースでやるんだ」

 俊弘は諭すように瑠佳の目を覗き込む。瑠佳は頷くが納得が行かない。


 練習が終わり、瑠佳はスケート場の最寄りのバス停からバスに乗る。冷えた体を車内の暖かい空気が包み込む。この時間帯は乗客が少なく数人だけしか居ない。

 最後列の席に座ると車窓に身を預ける。ぼんやりと結露した窓から暗闇を見詰めていた。瑠佳は深い溜息をついた。


 家に帰ると時刻は十一時近くになっていた。玄関の扉を開けると先に帰っていた瑠奈が廊下で足を止めた。

「お帰り」

 既に入浴を済ませているようだ。その証拠に瑠奈は淡紅色のファスナー式のパーカーにパジャマ姿だ。濡れた髪は照明で輝いている。肩にはバスタオルを掛けていた。


 瑠佳は彼女の顔を見て思い出したように鞄を漁る。色紙を差し出した。

「ただいま。クラスの奴が瑠奈のファンでサインが欲しいって言ってた」

 彼女は一瞬驚いていたが瑠佳からそれを受け取る。色紙を両腕で抱えながら二階に上がって行ってしまった。


 瑠佳はリビングに入る。ソファーでテレビを見ていた父母に声を掛けてから自分の部屋に向かった。


 部屋に入り、勉強机の横にスポーツバッグを置く。すると扉をノックする音と共に瑠奈の声が聞こえた。

「書けたよ」


 瑠佳は部屋の扉まで行くと開ける。瑠奈は恥ずかしそうに色紙を差し出す。

「ありがとう」

 瑠佳は色紙を受け取る。瑠奈はすぐに視線を逸らすと足早に去って行ってしまった。


 瑠佳は色紙を鞄に仕舞うと学ランの上着を脱いでハンガーに掛ける。

 居ても立ってもいられなかった。少しでも瑠奈に近付きたい。彼はスクワットを始めた。


「瑠佳、お風呂に入らないの?」

 いつもならすぐに入浴をする瑠佳がなかなか二階から下りて来ないので、母がやって来た。瑠佳の動きが止まった。ベッドの側に置かれていたデジタル時計に視線を向ける。既に日付が変わっていた。かれこれ一時間以上経過していたようだ。

「今から入る」

 瑠佳は立ち上がると風呂に入る準備を始めた。暖房が入っていないのに全身汗で湿っている。体が熱を帯びているのを感じる。

「明日は朝の補習があるんでしょ? 早くお風呂に入って寝なさい」

 母はそう言い残して去って行った。


 瑠佳は目覚まし時計のアラームで目を覚ました。本当はもっと寝ていたいが、これ以上寝ていると遅刻をしてしまう。

 朦朧とした頭で布団から出る。部屋の空気は冷え込んでいて上着無しでは耐えられなかった。灰色のパーカーを羽織って大きな欠伸をしながら階段を下りて行く。


「はい、これ」

 学校に到着すると男子生徒に瑠奈のサインを渡した。

「お、サンキュー!」

 男子生徒は躍り上がるように喜んでいた。


 授業が終わると瑠佳はスケート場に赴く。今日は本来、練習は無い。俊弘が瑠佳を休ませるために作った休養日だった。しかし、瑠佳は休んでなどいられなかった。早く昨シーズンの感覚を取り戻すために少しでも練習したかった。朝の眠気もすっかり無くなり、体も疲れてはいない。三時間くらいの練習なら問題無い。瑠佳はそう判断した。


 リンクには他の客も居たが平日なので休日に比べたら少ない。瑠佳はスピードスケート用のレーンで練習を始めた。他の客とは比べ物にならない速さでリンクを周回する彼に皆は視線を向けた。

「あの人凄いねー」

 誰かがそう言った。しかし、瑠佳は自分の滑りに納得していない。去年はもっと速く滑る事が出来た。自分は長距離の選手であるがそれを短距離が速く滑れない理由にしたくない。短距離も長距離も速く滑れる選手は居る。あの人だってそうだ。


 その日は営業時間が終わるまで一人で滑り続けていた。

「ただいま」

 瑠佳は白い息を吐きながら家の中に入る。

「お帰り。休みなのに練習してくるなんて珍しいわね」

 母は何処か嬉しそうな声をしていた。息子が頑張っている姿を見たいのだろうか。

「練習したい気分だったから」

 瑠佳は母の方を見ずに部屋の中に入って行く。瑠奈は練習があり、まだ帰宅していないようだった。瑠佳は用意されていた夕食を機械的に食べる。


「お風呂はどうする?」

「後でいい」

 瑠佳は無愛想に返答する。食事を終えると鞄を持って自分の部屋に戻った。すぐに筋トレを始める。時間があれば少しでも体を動かしていたかった。


 瑠佳が風呂から出て来て、ソファーに座ってタオルで頭を拭いていると扉が開く。瑠奈は部屋に入るとすぐにソファーの隣にあるストーブの前を陣取る。

「寒かったー」

 彼女はマフラーと手袋を外すとストーブの前で丸くなる。頬が緩んでいた。その表情から練習で上手く行った事が瑠佳には分かる。

 彼はその姿を見て苛立ちを覚える。大会に向けて調子を上げていく姉と全く思い通りの滑りが出来ない自分。次の大会でもまた差を付けられてしまうのではないか。自分と正反対の彼女を見たくない。彼はソファーから立ち上がると無言で部屋を出て行った。




 一章まで読んで頂き、ありがとうございました。

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