二章 オーバートレーニング

 日曜日の早朝、瑠佳はスポーツバッグを肩に掛けて車庫のシャッターを持ち上げた。昨夜はよく眠れなかった。大きな欠伸をすると白い息が口から漏れた。車庫の中には陸上トレーニングの時に使用しているロードバイクがあった。それを引っ張り出すと跨がる。地面を蹴り、ペダルを漕ぎ始めた。


 スケート場があまり営業していない夏場のトレーニングとして小学生の時から乗っていた。ロードバイクはスピードスケートで必要な筋力や持久力を鍛えられるのだ。

 筋肉痛で太腿が痛む。かれこれ四日も筋肉痛だ。今回は治りが遅い。


 十一月になると寒さは一段と厳しくなる。アスファルトの隙間から生えている霜で白くなった雑草がそれを物語っていた。山道を進んでいると紅葉している木々が視界に入る。ちょうど今が見頃だ。


 スケート場に辿り着くと部員と顧問を待ちながら、瑠佳はスケート場の前にある石階段で座っていた。余裕を持って来たため集合時間より三十分早く来てしまった。まだ誰も来ていない。


 スポーツバッグを肩に掛けながら数人の部員達が駐車場を歩いて来る。ちょうど最寄りのバス停にバスが来る時間だった。

「お前、もう来てたのか!」

 部長が瑠佳を見付けると驚いていた。

「はい。ロードバイクで来たんですけど、早く着き過ぎました」

 瑠佳は顔を駐輪場の方に向けた。其処には瑠佳のロードバイクが置かれていた。

「此処までそれで来たんだ。……練習熱心だね」

 部長は呆然としながらロードバイクを見詰めていた。


 その日の夜中、瑠佳は自室のベッドの上で寝返りを打っていた。目を瞑っていても眠れない。目を開き、暗闇の中手探りでデジタル時計のボタンを押す。橙色に液晶画面が光り、午前二時二十四分と表示されていた。かれこれ一時間半近く布団に入っているが全く眠りに就けない。


 午前は部活で氷上練習をして、行き帰りはロードバイクを漕いでいた。午後は俊弘と練習をして、その後走り込みをしたり筋トレをしたりしていた。これだけ体を動かせば疲労を感じている筈なのに眠れない。早く眠ろうと思うほど眠れなくなり、苛ついてくる。最近こんな事がずっと続いていた。


「瑠佳、起きなさい! 遅刻するわよ」

 母の声で瑠佳は目を覚ました。昨日の疲れが完全には取れておらず目覚めは悪かった。欠伸をしながら布団から出て立ち上がる。

 ――おかしい。まだ治ってない。

 太腿の痛みが引かない。太腿を擦ってみたが、特に異変は無い。そのうち治るだろうと思いそれ以上気に留めなかった。


「寝坊したの?」

 廊下を歩いていると既に起きていた瑠奈と擦れ違う。

「昨日の夜眠れなくて寝坊した」

 瑠佳は答えるとリビングダイニングに入る。無理矢理胃の中に朝食を詰め込むと支度をして、走ってバス停に向かった。


 まだ生徒が揃っていない教室で瑠佳はいつものように黙々と問題を解いていた。数人の生徒の話し声がストーブで暖められた空気に乗って瑠佳の耳に届く。

 授業が終わったら少しでも練習をしたい。そのために学校では空き時間を勉強に費やしていた。しかし、それだけの時間では終わらない。今までは終わらなかった分は家でやっていたが今はその時間も惜しい。瑠佳は授業中に内職するようになっていた。練習をしていないと不安だった。


「おはよう! 古文の予習終わってる? 終わってたらノート貸して。予習するのを忘れちゃってさ」

 後ろから恵也の声が聞こえた。振り返ると両手を合わせている彼が立っていた。

「仕方無いな……」

 一昨日の授業中に内職をした後、教室の外のロッカーに古典のノートを仕舞い込んでいた。それを取りに行くために立ち上がった。その瞬間、倒れそうになり思わず机に手を突く。浮遊感を覚える。目眩だと分かった。

「大丈夫か?」

「平気、平気」

 瑠佳は笑顔を作って教室を出て行くが、変な感覚が消える事は無かった。


 大会を六日後に控えた日曜日。瑠佳は午前中、俊弘の指導を受ける事になっていた。寒さに耐えながらバス停でバスが来るのを待つ。眠くて思わず欠伸が出た。吐かれた息が白くなる。


「最近いつも眠そうにしてるね」

 一緒にバスを待っていた瑠奈が心配そうに瑠佳の顔を見た。

「俺、不眠症かもしれない」

 瑠佳は冗談めかして答える。

「そういえば少し痩せた?」

 瑠奈に投げ掛けられた質問に少し驚いた。

「そうか?」

 他の人にはそんな事を言われない。しかし、最近食欲が無い事、トレーニング量を増やした事を考えれば痩せるのも当然かもしれない。

 ――家に帰ったら久し振りに体重を計ってみるか。


 暫くしてやって来たバスに二人は乗った。


 広いリンクの上で瑠佳は滑走をしていた。しかし、思うように滑る事が出来ない。迫っている大会に彼は焦っていた。記録が全く伸びない。結果を残さなければ強化選手から外されてしまうかもしれない。そうなれば瑠奈にまた差を付けられてしまう。その考えばかりが彼の脳内を駆け巡る。

 俊弘も伸び悩む瑠佳に様々な提案をするがその通りにやっても効果が無かった。

 瑠佳は練習をすればするほど疲労だけが溜まっていくような気がした。氷を蹴る足が重い。


 休憩時間になると瑠佳はベンチに座って目を閉じた。眠気と目眩を感じる。

「最近眠そうだね。ちゃんと寝ているのかい? 睡眠不足は良くない」

 俊弘は瑠佳の隣に座って彼の横顔を見た。

「すみません。少し寝不足で……」

 瑠佳は眠たげに目を開いて答える。

「もしかしてテスト勉強でもしているのかい?」

 テスト週間は勉強時間を確保したいが練習時間を減らしたくないので睡眠時間を削る事はよくあった。

「いえ、そういう訳ではないです。家に帰ってからトレーニングをしていたら少し寝るのが遅くなってしまって……。あと最近どうも寝付きが悪くて……」


「ちゃんと休んでるかい?」

 俊弘に疑いの眼差しを向けられる。瑠佳は今まで俊弘に隠れて練習していた事を打ち明けた。この事を知られたら練習を止められかねない。それは嫌だった。しかし、もう隠し通せないと思った。

「瑠佳、今日の練習は中止にしよう」

 俊弘は怒ったりはしなかった。しかし、俊弘の一言は怒られるより精神的ダメージが大きい。


「この練習が終わったら休みますから練習だけはやらせて下さい。別に病気とかじゃないです。少し疲れてるだけで……」

 貴重な氷上練習を無駄にはしたくなかった。その氷上練習は身体的負担が大きい事も瑠佳は知っているが何としてもやりたい。しかし、俊弘は練習を続けさせてはくれないだろう。それは分かっていた上で懇願する。

「駄目だ」

 俊弘は首を横に振る。予想通りの答えだ。

「瑠佳、前より少しやつれてないか? 念のために病院に行った方がいい」


 練習を切り上げると瑠佳は母に病院に連れて行かれた。幸いまだ診療時間が終わっていない病院が近くにあった。

 母が運転する車に揺られながら考える。まさか本当に不眠症なのではないかと。そうなれば大会出場も危ぶまれる。大会に出られないのだけは嫌だった。瑠佳は何も無い事を祈る。


 精密検査を受けると不眠症ではなく、オーバートレーニング症候群と診断された。


「三週間、スケートのトレーニングは禁止だ。その間は大会も棄権する」

 俊弘の言葉を聞いて瑠佳は頭が真っ白になった。

「そんな……。嫌です。俺は出ます!」

 三週間休むという事は二つの大会の出場を見送るという事だった。怪我をしている訳ではない。少し疲れているだけなら三週間も休まなくて疲労回復は出来ると瑠佳は思っていた。

「棄権すると言っているだろう?」

 俊弘の両肩を勢い良く瑠佳は掴む。

「お願いです。出させて下さい!」

 必死で頼み込む瑠佳に俊弘は首を横に振る。絶対に返答は変えない。

 瑠佳は膝から崩れ落ちた。

「気持ちは痛いほど分かるよ。でも、無理は良くない。瑠佳は、まだ十五歳だろう? 此処で無理をすればスケート人生を棒に振りかねない。休養を取らずに練習し続ける事は二流の選手がやる事だ。一流のスケーターになりたいなら俺の言う事を理解してくれ」

 俊弘はしゃがみ込んで、俯く瑠佳の顔を見た。瑠佳は無言で頷いた。


 冷静になれば今は休むべきだと瑠佳は分かった。それが分かっていても大会には出たい気持ちはあった。

「休養もトレーニングの一つだと思ってくれ。瑠佳の事に気付いてあげられなくて申し訳無い。本当に済まない」

 頭を下げる俊弘は自分の事のように悔しがっているように見えた。俊弘を見て瑠佳は首を横に振った。

「丸山コーチが謝る必要はありません。俺が悪いんです」

 瑠佳は唇を噛み締め、強く拳を握った。自分がどれだけ愚か者なのか思い知った。自己嫌悪に駆られる。


 最初はスケーティングの技術を忘れてしまってスランプに陥っていた。それを克服しようとして練習量を増やした結果、過労になった。それが更にスランプを深刻化させていた。


 瑠佳は帰宅をすると自室に直行した。放心状態でベッドに寝転がり、天井を仰ぐ。

 今まで怪我で練習が出来なくなる事はあったが、それでもせいぜい一週間ほどだった。三週間もスケートから離れるのは不安で仕方無かった。休んだら余計にタイムが落ちてしまうのではないか。そうなればまた瑠奈と差が開いてしまう。


 すると部屋の扉が急に開く。

「瑠佳、大丈夫!?」

 瑠佳は体を起こして扉の方を向く。瑠奈が其処に立っていた。防寒着を着たままの彼女は練習から帰宅した後すぐに彼の部屋にやって来たのだろう。

「ちょっと練習し過ぎただけだから」

 瑠佳は作り笑顔をする。

「馬鹿……」

 瑠奈に哀しそうな表情で彼を見た。彼女はそれだけを言うと去ってしまった。

 自覚していた事を他人に言われると余計に哀しくなってくる。瑠佳は窓越しに外の景色に目をやった。鈍色に染まった雲が空を支配していた。


 次の日になると朝から細雨が降っていた。

 四限目の授業が終わると昼休みになり、教室は活気に満ちていた。瑠佳は後ろに居る恵也の方に椅子を向けて座り、一緒に弁当を食べていた。周囲の生徒達は明るい表情で楽しげに話している。しかし、彼は暗鬱な表情だった。


「そんな顔するなって。一生スケートが出来ない訳じゃないんだろ?」

 恵也は箸でご飯を口に運びながら話す。

「そうだけど……」

 瑠佳は俯いた。瑠奈の事が脳裏に浮かぶ。彼女はもうすぐ大会のためにフランスへ旅立ってしまう。スケートの練習すら出来ない自分とは大違いだった。彼女と比較する度に腑甲斐無い気持ちになる。

「今回駄目だった分、その次に出る大会で結果残せばいい。大会はまだ沢山あるんだろ? 今はこれからのためにエネルギーを充電する時期だと思おうぜ」

 歯を見せて笑う恵也を見て瑠佳も釣られて笑う。しかし、彼の心が晴れる事は無かった。




 二章まで読んで頂き、ありがとうございました。

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