八章 一〇〇分の一秒
翌日、瑠佳は携帯電話のアラームが鳴る前に目を覚ました。枕元の携帯電話を掴み画面を見る。起床時間の数分前だった。もう起きてしまったのでアラームは必要無い。
それを解除するとテレビの電源を入れる。ニュース番組が流れ始めた。
その音声で父親も目を覚ました。
「起こしてごめん」
「いや、大丈夫だ。もう起きないといけない時間だったしな」
父はテレビの左上に表示された時間を見て言う。
瑠佳は着替える時も朝食を食べる時も終始無言だった。緊張のせいで精神的に余裕が無い。幸い食欲はあり、昨夜も思っていたより寝付きが良かったので体調は万全だ。
瑠佳はウェアやスケート靴を持って部屋を出る。少しすると忘れ物が無いか確認した父がスーツケースを持って部屋から出てきた。
チェックアウトを済ませると俊弘と合流して大会の会場に向かう。
瑠佳は父の車ではなく、俊弘の車に乗っていた。その時も瑠佳は無言だった。右手には瑠奈がくれたお守りが握られている。多少気持ちが落ち着くが緊張感が勝っている。
「緊張してるのかい?」
俊弘が運転しながら一瞬ルームミラーを見た。
「はい、少し……」
瑠佳は笑顔を作る。
「そんなに気負わなくても大丈夫だ。兎に角、自分の滑りをしてきなさい」
瑠佳は力強く首を縦に振った。
会場の駐車場に到着すると中に入る。
ウェアに着替え、公式練習が始まる時間に瑠佳は氷上に現れた。
和喜も同じ頃にやって来るがお互い顔を合わせない。自分の滑りに集中していた。
練習が終わり、女子の一五〇〇メートルが終わると男子の一五〇〇メートルが始まる。瑠佳はリンクの中央で出番を待ちながら軽く走ってウォームアップをする。
少し離れた所で紺色のウェアを着た和喜は音楽プレーヤーで音楽を聴いていた。喉の渇きを覚えてペットボトルの蓋を開けるとドリンクを飲む。心拍数も少し上がっていた。
――大丈夫。
お守りを握りながら自分に言い聞かせた。
瑠佳はスケート靴を履き、練習レーンで軽く滑るとベンチで自分の番を待つ。鼓動の高鳴りは最高潮に達していた。
暫く待っていると前の組の滑走が終了した。十四組の瑠佳はアウターレーンのスタートラインに立つ。
三点スタートの構えをする。斜め後ろには和喜の姿があった。和喜は鎌田や菅原と同じ体勢を取る。アウターレーンはバックストレート、インナーレーンはそのすぐ後ろの第一カーブの出口にスタートラインが引かれている。
静寂に包まれたリンク。和喜に訊かれてしまうのではないかと思うほど瑠佳の心臓音は大きくなる。
号砲の音が鳴り響く。二人は小刻みに両腕を振り、足を前に進めた。インナーレーンを走っていた和喜が直線で瑠佳に追い付く。瑠佳は気配を感じた。焦ってはいけないと自分に言い聞かせる。二人は並走する。カーブもほぼ隣を滑走していた。徐々にスピードに乗り、肩で風を切る。
第二カーブを曲がり、二周目に入った。
バックストレートに居る俊弘を見て一周目のラップタイムを確認する。それは和喜と同タイムだった。十月の五〇〇〇メートルのように和喜に引き離される事は無かった。悪いタイムではない。しかし、彼に差を付ける事も出来ない。このタイムは安心感を与えるが満足感は与えない。二人は常に横並びで疾走していた。年下の相手には何としても負けたくはない。そして、何よりライバルとして負けたくない。
三周目に入る。二周目のラップタイムは僅かな差で瑠佳が勝っていた。長距離が得意な二人は後半伸びるタイプだ。気を抜けばいつ追い抜かされるか分からない。瑠佳は残っている体力を出し切って滑る。しかし、和喜を引き離す事は出来ない。
体力的に辛くなってくる。それでもライバルとの勝負は楽しかった。
最後の直線も彼等は殆ど並んでいた。一緒にフィニッシュラインを越える。勝敗が分からず胸が波打っていた。上半身を起こし電光掲示板に顔を向ける。和喜に勝ったのか負けたのか。
瑠佳は一分五十二秒一三、和喜は一分五十二秒一四だった。一〇〇分の一秒差だった。瑠佳は小さくガッツポーズを取った。
「僕の負けです……」
瑠佳が後ろを振り向くと隣のレーンに居た和喜が悔しそうな顔を向けた。
「でも、あと少しで俺が負ける所だった」
一瞬でも気を抜いていたら恐らく勝てなかった。自分が勝利したのが不思議なくらいだ。
「ありがとう」
瑠佳は歯を見せて笑った。
和喜は悔しさを滲ませた目を丸くした。
「和喜と一緒に滑ってたから全力を出せた。自己最高記録には届いてないけど、練習で滑った時よりもいいタイムが出た。……このタイムにはまだ満足出来ないけどな。でも、一緒に滑ってて凄く楽しかった」
瑠佳はそう言うとバックストレートに居る俊弘の元へ滑って行った。
結果が発表された。瑠佳の最終順位は十二位。総合得点は八位より下だった。
――一万メートルに出られないかもしれない。
沈んでいる瑠佳を見て俊弘は言った。
「まだ諦めるには早い。五〇〇〇メートルで瑠佳よりタイムが良かった選手が二人失格になっている。その分、下の順位の選手が一万メートルに出場出来る」
五〇〇〇メートルで二位と四位だった選手が一五〇〇メートルで失格になっていた。
――一万メートルに出られるのだろうか。
瑠佳はただ祈るしか無かった。
一万メートルへの出場者が決まったのはその直後だった。瑠佳もその中に入っていた。結果を知ると喜びで体が震えそうになる。もし最終種目の出場人数が七人だったら彼は出場出来なかった。失格者が一人だったら出場出来なかった。
滑走の組み合わせを確認する。組み合わせを知り、瑠佳は言葉が出なかった。一緒に滑る相手は
「瑠佳君、まさか一緒に滑走出来るなんて思わなかった。お互い良い滑りをしよう。もちろん負けるつもりは無いけどね」
隣を通り掛かった黒茶色の髪をした青年に瑠佳は声を掛けられた。准だった。瑠佳は日本人離れの長身の彼を見上げる。何度か会った事はあるが、その度に身長に圧倒される。
「一緒に滑走出来るなんて俺も思ってませんでした。俺だって負けませんから」
瑠佳は准の両目を見詰めた。准はこれからの勝負を楽しみにしているかのように静かに微笑んだ。そして、コーチと一緒に瑠佳の前から去って行った。
八章まで読んで頂き、ありがとうございました。
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