九章 氷上の戦士に祝福を

 女子の五〇〇〇メートルが終了すると午後になり、男子の一万メートルが始まる。

 瑠佳はウォームアップを済ませるとベンチで自分の番を待つ。深く息を吸い込む。ゆっくり息を吐くと右手に握られている瑠奈から貰ったお守りに視線を落とす。少しだけ緊張が和らいだ気がした。二組目の選手がスケーティングを始めて数分が経過し、スケート靴を履き始める。准もほぼ同じタイミングでスケート靴を履き始めた。

 ――瑠奈、行って来るから。

 心の中で呟くとお守りを鞄の中に仕舞う。


 二組目の滑走が終了すると瑠佳はスタートラインに立った。此処に居られる事が嬉しい。彼はアウターレーンからの滑走だ。隣のインナーレーンには黒地に黄色の模様が入ったウェアを着た准の姿がある。スタート位置は第一カーブの入り口だ。


『続いて三組。インナーレーン、依田准、碓氷工業。アウターレーン、碓氷瑠佳、小楠北おぐすきた高校』

 放送機器を通した女性の声が聞こえる。リンクは水を打ったように静まり返る。瑠佳は深く息を吸って吐いた。滑る事だけに意識を集中させる。


「レディ」

 スターターの声が聞こえると瑠佳は三点スタートの構えをする。准も同じ構えだった。号砲の乾いた音が静寂を破る。


 瑠佳は音が耳に届いた瞬間、第一歩を踏み出す。氷を蹴って勢いを付ける。レーンの内側に体を傾けた。足を交互に前に出す。線をギリギリ踏まない所に足を置いていく。准は瑠佳の左斜め前を滑っていた。

 ――やっぱり速い!

 先にバックストレートに到達した准がアウターレーンに向かって行く。僅かに遅れて瑠佳がカーブからバックストレートにやって来た。第二カーブを通り過ぎ、ホームストレートを戻って来た。


 二周目に入る。バックストレートでレーンの外側に視線を向けた。俊弘の方を見る。一周目のラップライムは三十八秒八二。瑠佳はアウターレーンに入り、第二カーブを曲がる。まだ始まったばかりだ。序盤で無理にリズムを変えてペースを上げる必要は無い。今は准の背後に張り付くようにして滑る事に徹する。


 三周目に入り、バックストレートでレーンを換えながらラップタイムを確認する。ラップタイムは上がっていた。しかし、二周目の時に比べて准に引き離されていた。准は瑠佳以上にタイムを上げていた。

 ――付いて行かなきゃ。


 四周目、五周目はラップタイムを維持する。しかし、瑠佳は少しずつ疲れを見せ始めた。その証拠に六周目からタイムが落ちた。准のペースに合わせて滑ろうとした結果、いつも以上に体力を消費してしまった。疲労のせいでスケーティングが雑になり、スピードが落ちる。


 俊弘に見抜かれて九周目のバックストレートで丁寧に滑るように指示された。瑠佳は頷きで返事し、一歩一歩前に進む。

 ――これ以上タイムを落ちたら不味い。

 九周目のタイムは何とか前のタイムを維持する事が出来た。


 しかし、周回を重ねるにつれて苦しくなってくる。

 一方、准は疲れている様子が見られない。准は瑠佳より足が長く大きなストライドが取れる。長距離においてそれは武器だ。それに高い技術を持っている。彼はスケート靴で円を描くように滑っていた。理想的な滑りだ。


 瑠佳は耐えた。己に負けないように足を前に進める。十七周目に入ると体が少し楽になってきた。第二カーブで滑るリズムを速めた。氷を力強く蹴る。


 十八周目で十七周目のラップタイムを確認する。タイムは縮んでいた。

 ――この調子で滑ろう。

 徐々に准のラップタイムに迫る。しかし、准との距離は開くばかりだ。追い付くためには准より速く滑らなければならない。瑠佳はカーブに入る度にスピードを上げていく。


 二十周目に入る。俊弘の方を一瞥した。その後、俊弘の持っていた板に視線を向けた。その時、隣に居る准のコーチが目に映る。彼の持っていた板を見て気付く。准より僅かに自分のラップタイムが速かったという事を。

 第二カーブに入る准の表情からは焦りが感じられた。瑠佳もカーブに入り、追走する。肩で風を切る。


 二十一周目、二十二周目で少しずつ差を詰める。しかし、准もラップタイムを上げてくる。

 准が第一カーブに差し掛かるとファイナルラップを告げる鐘が鳴った。

 ――追い付いてやる!

 瑠佳も少し遅れてカーブに入る。バックストレートに入ると准と交差した。瑠佳も准も体力の限界を迎えようとしていた。二人の表情が険しくなる。

 それでも滑れば滑るほど楽しくなってくる。風を切るのが心地良い。氷の上を滑る。ただそれだけで喜びを感じる。


 瑠佳は斜め前に居る准の背中を追う。弾丸のような速さで二人はホームストレートに入る。フィニッシュラインまであと一〇〇メートル。瑠佳は今まで保っていたスピードを殺さないようにリズムを保持したまま滑る。


 瑠佳は准と一緒にフィニッシュラインを通過する。勝敗は分からない。喘ぎながら顔を上げる。体は熱くなっていた。胸が早鐘を打っている。


 瑠佳のタイムは十四分二秒六七、准のタイムは十四分一秒五九。瑠佳は暫定二位、准は一位だ。敗れはしたが自己最高記録だった。

 瑠佳は嬉しさと悔しさで胸がいっぱいになる。この矛盾した感情を抑える術は持っていない。ウェアのファスナーを下ろし、フードを外すと熱が解き放たれ体が少し冷やされる。瑠佳の心は全力を出し切った清々しさで満ちていた。サングラスを頭の上に乗せて准の方に視線を送った。

 彼はコーチの方へ滑って行き、少年のような笑顔でハイタッチをしていた。その姿を見るとやはり少し悔しかった。


 瑠佳のコーチの元へ行く。

「よくやった。次の大会もこの調子で行こう」

 俊弘は肩を叩いてくれた。

「少し悔しいですけど……」

 そう言いながらも瑠佳は力強く頷いた。


 四組の滑走が終わったが、瑠佳と准の一万メートルの順位に変動は無かった。


 競技終了後に一万メートルの表彰が行われた。この大会では距離別でも表彰が行われる。上位三位までの選手はメダルと賞状が授与される。学生限定の大会以外で表彰されるのはこれが初めてだった。表彰されると瑠佳の顔の筋肉が綻ぶ。


 瑠佳の総合順位は五位だった。リンク内で行われた閉会式では賞状を授与される。心は晴れやかだった。

 優勝した准は賞状の他にカップやメダルを受け取って先程と同じように少年のような笑みを浮かべていた。瑠佳はそんな彼に改めて憧れを抱いた。


 閉会式が終わり、瑠佳は着替えのためにリンクの外に向かって滑って行く。

「瑠佳先輩おめでとうございます。……今回は僕の負けですけど、次は僕が勝ちますからね!」

 賞状を大事そうに抱える瑠佳の隣に和喜がやって来た。強気な態度でそう言うと彼は去って行く。

「何言ってるんだよ。次も勝つのは俺だからな!」

 瑠佳は口元に手を当てて和喜の背中に叫ぶ。


 着替えを済ませてエントランスホールにやって来ると既に俊弘や父、恵也の姿があった。

「瑠佳おめでとう!」

 恵也が突然飛び付いてきた。瑠佳は彼を受け止めると思わずよろけそうになる。

「帰ったら瑠奈や母さんに報告だな」

 父も結果に満足していた。

 その後、父は口に手を当てて遠くの方に居た准に声を掛ける。

「依田君もおめでとう」

 准はコーチと一緒に歩いていた。准はそれに気付いて父の方に歩み寄って来た。

「ありがとうございます」

 歯を見せて少年のように笑う。


 准は去り際に瑠佳の頭を軽く撫でた。瑠佳は驚きながら彼を見上げる。

「次の大会楽しみにしてる」

 それだけを言い残すと踵を返してコーチの元へ戻って行く。

「絶対依田さんを超えてみせますから!」

 准は振り返ると笑い掛けた。


 それから瑠佳は俊弘と別れて父の車の後部座席に乗り込む。

 発車するなり瑠佳は鞄から携帯電話を取り出した。瑠奈に結果報告とお礼のメールを送信する。もしかしたら瑠奈はまだ学校が終わっていないかもしれない。返事が来るのは暫くしてからだろうと思った。きっと瑠佳のメールを読んだら耳を赤くして恥ずかしがるかもしれない。彼女の事を想像すると瑠佳は無意識に笑っていた。


 鞄に携帯電話を仕舞って少しすると着信音がした。メールではなく電話だ。瑠佳は急いで電話に出る。

『……おめでとう』

 瑠奈の恥ずかしそうに話す声がスピーカーから聞こえる。

「ありがとう。今はまだ瑠奈に勝てないけどすぐに瑠奈を追い越すから」

 今の瑠佳はそう宣言出来た。

 澄み切った星空の下、瑠佳を乗せた車はスピードを上げて真っ直ぐに伸びる道を走っていく。




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氷上の弾道 万里 @Still_in_Love

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