三章 幼き姉弟

 数日後。夜中のリビングの扉の曇りガラスから光が漏れていた。普段この時間にリビングに明かりが点いている事は無い。テレビの音声がくぐもって聞こえる。

「まだ起きてたのか」

 扉を開けるとソファーに母と並んで座っていた父が瑠佳の方を見た。

「眠れなくて」

「そうか。もうすぐ瑠奈がテレビに出るから瑠佳も見るか?」

 瑠佳は無言で首を縦に振り、父の隣に腰を下ろす。

「中継が終わったら寝なさいよ」

 母は瑠佳の体の事を心配しているようだった。瑠佳は無言で頷く。


 暫く待っているとフィギュアスケートのテレビ中継が始まった。普段は翌日の練習に備えて寝るので夜中の国際大会の中継は見ない事が多い。リアルタイムで見ている事に不思議な感覚を覚えた。

 本当は体を休めていた方がいいのだろうが、どうせ眠れない。それに瑠奈の事が気になってしまう。


 出番になると画面の中の瑠奈はリンクに降り立つ。彼女はポニーテールに赤と黒の衣装で現れた。すると父も母も無言になった。

 名前がコールされ、彼女はリンクの中央まで滑って来るとポーズを取る。リンクは静寂に包まれる。


 音楽が流れ始めた。ピアノの調べに合わせて瑠奈は滑走を開始する。普段は恥ずかしがり屋だが、演技が始まると別人だ。彼女がジャンプを決めると歓声が沸く。

 堂々とした表情で演技を終えると笑顔で観客達に手を振る。彼女の後ろに映るフラワーガール達がリンクに投げ込まれる花束を拾う。瑠奈はリンクから去って行く。彼女の笑顔は今の瑠佳には眩し過ぎた。あっという間の二分五十秒だった。


 瑠奈は上着を羽織るとリンクの脇にあるキスアンドクライでコーチと共に結果を待っていた。彼女は祈るように手を組んでいる。瑠佳はテレビを凝視しながら唾液を飲み込んだ。

 得点が発表される。瑠奈は思わずコーチと抱き合った。それは彼女の自己最高得点だった。側に居る父母が自分の事に喜ぶ声が耳に届く。リビングは歓喜に満ちていたが、瑠佳だけ取り残されているようだった。

「お休み」

 瑠佳は俯きながらソファーから立ち上がるとリビングから出て行った。


 自室のベッドで布団を被って俯せに寝転がると咽び泣いた。出国前の彼女には応援の言葉を掛けたが、輝いている彼女を見ると悔しくて堪らない。本当は自分も今日大会があった筈だった。頬を温かい水滴が濡らす。心は空虚感が支配されていた。何故、姉弟として生まれてきてしまったのか。瑠奈の弟でなければ劣等感を抱かずに済んだのに。彼は泣きながら眠りに就いた。


 後日、瑠奈は空港まで迎えに行った父と家に戻って来た。二人の声が聞こえてくると母は嬉しそうに玄関の方に行ってしまった。

 瑠佳は動こうとはせずにソファーに寝転がりながらテスト勉強のために教科書を読んでいた。

「メダル見せて」

 リビングに戻って来た母が満面の笑みを瑠奈に向けた。瑠奈は白銀に輝くメダルをスーツケースから取り出して見せる。

「ただいま。体の調子はどう?」

 瑠奈の声が聞こえてきた。瑠佳は教科書から視線を外さずに答える。

「平気。たいした事無いから」

 瑠佳は一瞬、瑠奈の顔を見る。彼女の耳は赤かった。両親に囲まれてきっと恥ずかしかったんだろう。


「……おめでとう」

 瑠佳は複雑な気持ちで言葉を口にした。瑠佳はもう彼女を見たくなくてもう一度教科書に視線を向ける。

「……ありがとう」

 彼女の顔は見えなかったが、瑠奈の事だから恥ずかしそうにしているのだろうと思った。

 瑠佳は気不味くなってソファーから起き上がると自分の部屋に戻った。


 部屋に戻ると頭の後ろで手を組みながらベッドの上で仰向けになっていた。瑠奈の事を素直に喜べない自分が嫌だった。


 天井をぼんやり眺めていると部屋の扉が叩かれる音がした。上体を起こして音のした方へ顔を向ける。

「中に入ってもいい?」

 瑠奈の声が聞える。

「いいけど」

 扉を開け、瑠佳の元へ来た彼女は照れ臭そうに右手に持っていたビニールの袋を差し出した。

「フランスのお土産。さっき渡そうとしたけど、瑠佳が部屋に行っちゃったから渡せなかった」

 瑠佳はベッドに座るとそれを受け取る。

「ありがとう」


 袋を脇に置くと溜息をついた。心の中は虚無感が支配していた。

「スケートやってないと自分が自分じゃないみたい」

 練習が解禁されるまで二週間もあった。心は常に暗雲が立ち込めている。練習を続けていたら鬱病になりかねないと俊弘に聞かされたが、むしろ練習をしていない方が鬱になるような気がした。

「でも、今は休まなきゃ。また無理をして同じ事になりそうで心配。瑠佳は頑張り屋だから」

 瑠奈に見詰められる。瑠佳は首を横に振った。

「俺は頑張り屋なんかじゃない。無駄な努力をしてただけ」

 外の景色を遮るカーテンをぼんやり眺める。

「やっぱり瑠奈には敵わないな……」

 瑠佳は嘆息を漏らす。




 外は雪が吹雪いていて、雲の隙間から漏れた月明かりが積もった雪を青白く照らしていた。

 幼い瑠佳と瑠奈は暖かいリビングの中でテレビを見ていた。二人は隣同士でソファーに背を預けている。白いリンクの上を滑走するスケーター達。セミロングの髪の少女は画面に釘付けだ。彼女の目は輝いていた。瑠佳はそれを今でも忘れない。


「瑠奈、瑠佳、もう寝なさい」

 部屋の外から父の声が聞こえてきた。

「はーい」

 二人は返事をするとソファーから立ち上がる。というよりは降りると言った方が正しい。彼等の体にはソファーが大き過ぎて足が床に着いていなかったからである。

 瑠佳より背の高い瑠奈が背伸びをしてテレビの上にある主電源を切る。瑠佳はストーブの電源を切った。


 父はリビングにやって来るとテレビとストーブの電源が消してあるか確認する。父はまだストーブのプラグが刺さったままだった事に気付く。それを抜くためにコンセントの前で屈むとその背中に瑠佳が跳び付く。瑠奈も抱っこをせがんでいた。

「分かったからちょっと待って」

 父はプラグを抜くと瑠佳を背負い、瑠奈を抱き上げた。部屋を出る時、父は瑠奈に頼んで電気のスイッチを押してもらう。流石に三歳児と四歳児を背負って階段を上る事は出来ない。階段の前で二人を下ろすと父は二人に寝室に向かうように促した。二人は足音を立てて階段を駆け上がって行く。その後ろから父がゆっくりと後を追う。


 瑠佳達は寝室に辿り着くと母が待っていたベッドに飛び込む。父が部屋に入って来ると部屋の明かりが消えた。瑠佳と瑠奈は両親と一緒にベッドに寝転がる。

「瑠奈、スケートやりたい。大きくなったらスケートの選手になる!」

 彼女の顔は見えないが、声は弾んでいた。

「じゃあ、今度の土曜日にスケート場に行こうね」

 瑠奈の隣に居た母も何処か楽しげだった。


 土曜日になり瑠佳達は自宅の近くにあるスケート場に訪れた。母は本当にスケート場に連れて来てくれたのだ。借りたスケート靴を履いて瑠佳と瑠奈はリンクに降り立つ。最初は壁に掴まって立っているだけで精一杯だった。しかし、瑠奈はすぐに滑れるようになった。対照的に瑠佳は転んでばかりだ。転んではよく泣いていた。


 毎週のようにスケート場に行こうと瑠奈がせがむ。そんな彼女を見て母はスケート教室に通わせる事にした。ついでに瑠佳も通う事になった。

 母は選手を目指すなら個人レッスンを受けた方がいいと知ると教室の先生にコーチを紹介してもらった。コーチに二人を指導してもらう事にした。


 それから一年が経過。

「いつになったらリンクをびゅんびゅん滑れるの? 僕、くるくる回ってるよりそっちがいい!」

 瑠佳はコーチを見上げて尋ねる。瑠佳達はフィギュアスケートの指導を受けていたが、瑠佳はスピードスケートの方がやりたかった。瑠奈とスケート場で遊ぶ時も鬼ごっこをしている方が楽しい。いつも両親には危ないと言われて止められるが、速く滑る事は心地良かった。

 瑠佳はコーチを変えてもらいスピードスケートを始めた。


 それから二人はそれぞれの道を歩き始める。

 瑠佳はスピードスケート、瑠奈はフィギュアスケートの大会で上位の結果を残してきた。ライバルとしてお互い切磋琢磨していた。

 状況が変わったのは中学二年生の時だ。瑠奈が強化選手に選ばれた事がきっかけだ。瑠奈はフィギュアスケーターとして頭角を現してきた。瑠佳も今年度やっと強化選手に選ばれたが、瑠奈はもう特別強化選手になっていた。




「でも、瑠佳は私より速く滑れるよ」

 瑠奈の言葉を聞いて瑠佳は苦笑をする。

「そりゃ、普通に考えればずっとフィギュアスケートやってきた人よりスピードスケートやってきた人の方が速く滑れるだろ。それに男女の差もあるし。俺だってフィギュアだったら間違いなく歯が立たない」

 瑠奈は少し口角を上げた。


「でも、スピードスケート格好いいと思う。憧れちゃうな」

 瑠佳は笑いながら首を横に振った。

「やめておけ。スピードスケートなんて始めたら太腿太くなるぞ」

 瑠佳は逞しい自分の太腿を掌で叩く。しかし、運動をしていないせいかその太腿は以前より少し細くなっていた。


「でも、最初にやりたいと思ったのはスピードスケートなの。スケートやりたいって言ったらお母さんがフィギュアスケートだと勘違いしちゃって。今はフィギュア大好きだけどね」

 彼女は眩しい笑顔を彼に向けた。瑠佳は彼女から視線を逸らす。

「それで活躍出来てるならいいじゃん。俺とは大違い。俺は強化選手から外されるかも……」


 昨年の彼は調子が良かった。そのおかげで今シーズンの強化選手に選ばれた。しかし、今シーズンは良い結果を残せていない。強化選手から外されれば、また瑠奈と差が付いてしまう。

「まだ大会は残ってるでしょ? これから結果を残せば大丈夫」

 瑠奈は瑠佳の肩を叩く。瑠佳は首を縦に振る。頭では分かっているのだが、それを成し遂げる自信が無い。


「スピードスケートをメジャースポーツにするんじゃなかったの? 卒業文集に書いてたじゃない」

 瑠奈の声を聞いて瑠佳は顔を上げる。

 小学校の卒業文集に書いていた事を思い出す。スピードスケート選手になってスピードスケートをメジャースポーツにすると書いていた。

「すっかり忘れてた、そんな事。思い出させてくれてありがとう」

 ――そうだ。こんな所で落ち込んでる場合じゃない。別に選手生命が絶たれた訳じゃないんだ。

 瑠佳は心が軽くなった。




 三章まで読んで頂き、ありがとうございました。

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