六章 明日への希望
朝を迎えた。今日は公式練習後、五〇〇メートルと五〇〇〇メートルの二種目が行われる。
会場入りした瑠佳は緊張した面持ちで練習に臨んだ。調子は悪くなかった。しかし、練習中に他の選手が視界に入ると気になってしまう。対戦する選手の姿が見えると視線を背けたくなる。
女子の五〇〇メートルが終わると次は男子の五〇〇メートルが行われる。
観客席には疎らに人が居て、選手の名前が大きく書かれた応援幕が目に付く。遠くの方に父の姿が見えた。コースの周囲には審判やカメラマンの姿もある。
五組目まで滑走が終わり、瑠佳のスタートまであと一組だった。彼はリンク内に設けられたベンチに座って出番を待つ。無意識に近くのベンチに座っている鎌田の方を時より見ていた。Eグループの選手だからたいした事は無い。そう思いたかったが、自分も同じグループなので他人の事は言えない。
前の組が終わるとスタートラインに立つ。鼓動が高鳴る。瑠佳はインナーレーンからのスタートだった。その証拠に腕に白い腕章を付けている。
内側の練習レーンは競技が終わっていない選手がウォームアップを行っていた。
外側のアウターレーンには赤いウェアを着て、同色の腕章を付けた鎌田の姿がある。やや小柄で色黒の彼は一瞬瑠佳の方に顔を向けた。彼の目と瑠佳のそれが合う。
――負けたくない。
その気持ちのせいかサングラスの奥の目は鎌田を睨み付けていた。
「レディ」
スターターの声が聞こえてくる。瑠佳は前傾姿勢になり、片手を氷に付ける。三点スタートの構えだ。一方、鎌田はやや上体を低くしたスタンディングスタートのような姿勢になる。静かになったリンクに号砲の音が響く。
二人はほぼ同時に飛び出す。氷を駆ける。勢いが付くと一〇〇メートルの直線を滑り始める。僅かに鎌田の方が前に居た。
――不味い。でも、少しずつ差を詰めればいい。
焦りを抑えるようと必死になる。
第一コーナーに入ると放送機器を通した女性の声が聞こえる。先程の直線のタイムを告げている。はっきりとは聞こえない。
鎌田の背中を追いながらバックストレートに入る。瑠佳はレーンの外側に居る俊弘の方に視線を向けた。彼が持っている数字が表示された板を見て、一〇〇メートルのタイムを知る。休養する前のタイムと比べたら遅くはなかった。しかし、鎌田はもっと先に居る。瑠佳は焦りを感じた。
此処で外側と内側のレーンを交換して滑らないといけない。内側に入る者が常に優先なので外側に出る者はその進路を妨げてはならない。鎌田は内側に入ると瑠佳は外側に出た。依然、鎌田の方が前を滑走している。
第二カーブを通過。最後の直線に入る。鎌田との距離を縮める。
――あと少し。
追い上げを見せるもフィニッシュラインを先に通過したのは鎌田だった。
――駄目だ……。
瑠佳は電光掲示板を見た。三十八秒五四。暫定三位。鎌田は三十八秒二一で一位だった。両膝に手を突きながら瑠佳はゴールした勢いで第一コーナーを進む。上半身を起こす。この体勢だとウェアが窮屈なのでファスナーを下ろした。ウェアの中から黒いTシャツが見える。フードを取って、頭にサングラスを乗せる。
第一コーナーの出口付近に居る鎌田の後ろ姿を見た。湧き上がる敗北感。自分より明らかに経験年数が少ない選手に負けた自分が許せない。瑠佳は俯きながらコースから出て行った。
「結果は悪くない。むしろ今シーズンではベストタイムだ。そう落ち込むな」
滑走後、瑠佳の表情を見た俊弘に慰められる。気持ちを切り替えろという思いも込められているのだろう。五〇〇メートルの最終的な結果は二十一位だった。タイムも順位も去年の方が良かった。鎌田は十六位、瑠佳より後の組で滑走した和喜は十二位だ。中途半端な順位に満足出来ない。その感情が俊弘を見上げる顔に出ていたのだろう。
「この後の五〇〇〇メートルと明日の一五〇〇メートルで良い結果を残せば一万メートルに出られる可能性はある」
俊弘はもう次の種目を考えているようだ。
最終種目の一万メートルに出場出来るのは八人だ。三種目が終了した時点で総合得点順位、五〇〇〇メートルの順位で共に八位以内なら必ず出られる。八人に満たない場合は総合得点、五〇〇〇メートルそれぞれの順位の若い選手から選抜される。
極端な話をすれば五〇〇メートルと一五〇〇メートルで最下位を取っても五〇〇〇メートルで一位になれば最終種目に出場出来る可能性は高い。
午後になると女子の三〇〇〇メートルが行われ、その後本日最後の種目となる男子の五〇〇〇メートルが始まろうとしていた。ウォームアップを済ませるとベンチに座って瑠佳は出番を待った。
――試合に集中しろ。
俊弘にそう言われていた。五〇〇メートルでは鎌田の事を気にして集中を欠いていたかもしれない。俊弘の言葉を何度も言い聞かせる。
自分の番になるとスタートラインである第二カーブの入り口付近の線の前に立つ。五〇〇〇メートルは十二周半このコースを回らないといけない。インナーレーンからスタートする瑠佳はアウターレーンからスタートする黒いウェアを着た菅原より少し後ろからのスタートだ。種目によってスタートラインの位置は異なるが、フィニッシュラインは殆どの種目で同じである。
サングラスの位置を調整し、深く呼吸をする。気持ちを落ち着かせようとする。スターターの声が聞こえると瑠佳はいつもの構えをする。菅原は鎌田と同じような構えをした。
リンクは静かになる。同じ失敗はしたくない。スタートダッシュが肝心だ。
号砲の音と共に二人は飛び出す。勢い良くスタートしたのはいいが、瑠佳はつんのめってしまった。体勢が崩れる。此処で転びでもしたら終わりだ。何とか立て直し、カーブを曲がる。菅原は数メートル先を滑走していた。彼の背中を見ると焦りが募る。負ける相手ではないと言い聞かせる。しかし、格下の彼と同じ組になっている時点で自分の実力が落ちている事も分かる。無理にペースを上げようとすると逆にスピードを殺しかねない。しかし、このままのペースではいいタイムは出ない。
ホームストレートに到達し、リズム良く重心を左右に移動させながらスケート靴で氷を蹴る。バックストレートに来るとレーンの外に居る俊弘の方を一瞥する。最初の二〇〇メートルのタイムを確認する。
――どうしよう。
スタートの失敗がタイムに響いていた。瑠佳はインナーレーンからアウターレーンに移動してカーブに入る。滑走のリズムを変えるタイミングはカーブに入る時しか無かった。遠心力に負けないように体を内側に傾ける。左足のアウトエッジと右のインエッジだけを使って滑る。
二周目に入る。バックストレートにやって来ると再び俊弘の方を見る。一周目のラップタイムは三十三秒二だった。
三周目は三十二秒九、四周目は三十二秒六と少しずつラップタイムを縮める。それでも菅原は彼の前に居た。
五周目になってやっと菅原と横に並ぶ事が出来た。菅原は以前より実力を付けていた。瑠佳のスタートの失敗もあるが、追い付くのに五周掛かってしまった事実がそれを物語っていた。
そのまま並走していた二人に転機が訪れたのは八周目に入った時だ。瑠佳は今まで一定のペースを保っていた菅原のペースが少し遅くなったように感じた。
八周目も半分が過ぎると瑠佳の方がリードする展開になっていた。既に三キロメートル以上滑走していた。そろそろ体力的に辛くなってきてもおかしくない。瑠佳も少しずつ疲労を感じ始めていた。僅かに乱れる呼吸。しかし、此処でペースを落とせば良い結果は生まれない。瑠佳は一歩一歩前に足を進める。
九周目、十周目とラップを重ねるにつれて瑠佳と菅原の距離は広がる。
しかし、瑠佳の足は重く感じられ、前傾姿勢を保つのも辛くなってきた。もうやめたい。そんな気持ちが脳裏に浮かぶ。十一周目が終わると瑠佳のラップタイムも落ちていた。呼吸も乱れている。だが此処で力尽きる訳にはいかなかった。
残り一周だ。それを知らせる鐘が響く。バックストレートで十一周目のタイムを確認した時には残り半周となっていた。最後の力を振り絞って滑る。力強く氷を蹴った。
瑠佳はフィニッシュラインを通過する。肩で息をしながら両膝に手を置く。顔だけ電光掲示板に向けた。六分五十秒二七。暫定一位だ。タイムは自己最高記録。希望の光が彼の心に差す。
上半身を起こすとファスナーを開ける。彼はこの大会で初めて笑みを零した。しかし、この後二十人近くの選手の滑走が残っている。自分の順位を何処まで上位に保てるかは分からない。それでも最終種目出場への淡い期待を寄せる。バックストレートまで来ると俊弘とハイタッチをした。
その後、上着を羽織ってリンクから出て行く。思わず口角が上がる。
「スタートは上手く行かなかったが、最高記録だ。よくやったな」
俊弘は満面の笑みを浮かべていた。瑠佳も嬉しそうに頷いたが、最終順位がどうなるかは分からない。期待と不安を胸に渦巻いていた。
全員の滑走が終わった。瑠佳の五〇〇〇メートルの順位は六位だった。
「五〇〇〇メートルの順位だけじゃギリギリ一万メートルに出られないですよね……」
滑走直後の喜んでいた瑠佳の姿は何処にも無かった。
「正直五〇〇〇メートルだけの順位では厳しい」
俊弘の言葉を聞いて瑠佳は落胆した。分かってはいたがコーチに言われると望みが薄い現実を突き付けられた気がした。
「でも、六位になったおかげで一万メートルに出られる可能性が出て来た。一五〇〇メートルもこの調子で行こう。気持ちを切り替えて練習に行って来い」
俊弘に肩を叩かれた。総合順位は十位だ。明日の一五〇〇メートルで良い結果を残し、総合順位で八位以内に入れば最終種目に出場出来る。まだその可能性が残されている。
諦めるのはまだ早い。瑠佳は俊弘に送り出されて、リンクに向かって行った。
六章まで読んで頂き、ありがとうございました。
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