第8話 久しぶりの故郷

 思い出すのは、真っ白い雪の上に降り注ぐ宝石の雨。鳥の羽ばたき、山羊が雪を駆ける音、どこからか響くフクロウの鳴き声、風の音……。その全てが色とりどりの宝石となってこぼれ落ち、雪原を彩る。

「はぁ……」

 痛いほど冷えた指先をこすり合わせ、暖かい息をそっと吹きかけても、この極寒の中ではちっとも暖まらない。赤く染まったかじかんだ指先を顔や首に当て、自分自身の体温で少しでも暖を取る。自宅玄関のドアの前に座り込んだ5歳になったばかりのジルは、そうやって寒さに耐えていた。どうして家を追い出されたのかはわからない。自分の言った何か、もしくは自分の行動の何かが、母の逆鱗に触れたことだけは確かだけど。

「はぁ……」

 何度も、何度もかじかむ手に息を掛ける。いや、かじかんでいるのは手だけではない。足先から頭の先まで全身がガタガタと震え、歯の合わさる音が響いている。だけれど、自分から発せられる音は宝石に変わらない。

(どうして僕の音だけキラキラしていないのかな……)

 ジルは常に、何とも言えない疎外感を感じていた。

 外の気温は、氷点下。薄着の子供がいて良い気温ではない。しかし、今日みたいな雪の降り積もる真冬の寒空の下へ出されるのは、ジルにとって珍しいことではなかった。

(このまま、死ぬのかなぁ……)

 そう考えたことも数知れない。だけれど、5歳のジルにはただ待つしか無かった。母の気が治まって、ドアを開けてくれるのを……。

 だから、彼にとってドアが開く音は特別だった。その宝石を大切に取っておくくらい好きだった。その時、発せられる母の声も……。

「入って、ご飯食べなさい」

 そんな不機嫌そうな声すら、一際輝く宝石に見えた。この時は、黒真珠の意味など知らなかったから。

 

「……ル……おい……ジル、寝てんのか?」

 音動二輪車バイクの後部座席。ロークの背中に頬をくっつけるようにしてもたれかかり、ぼんやりしていたジルは、背中で顔を押された小さな衝撃ではっと顔を上げた。

「あ……すみません、ぼーっとしちゃってました」

「……大丈夫か?」

「え……」

 大丈夫かと問われ、首を傾げる。その大丈夫か、が何に対してなのかが、ぱっとわからなかったからだ。思い巡らしている様子のジルに、ロークが嘆息を吐く。

「お前は自分のこととなると、途端に鈍くなるよな……」

 流れた音は目には映ったけれど、音動二輪車が切る風の音にかき消され、ジルの耳には届かなかった。瞳に捕らえた音はいつもと同じラピスラズリの宝石で、心配性のロークさんらしい……とジルは微笑んだ。

「大丈夫ですよ。お母さんに最後の別れを言ったら帰ります。心配、ありがとうござます」

「……そうか」

 聞こえていなかったことも理解した上で、それ以上、何も言わなかった。きっと、これはジルと母親の問題であり、部外者がとやかく言う問題でないことも十二分に理解していたからだろう。

 音動二輪車は順調に距離を稼ぎ、日が沈む頃にはジルが生まれ育った村へと到着した。

 ここは、コンチェルト山脈の果てと呼ばれた小さな村。

 木で作られた申し訳程度の村の入り口を示す案内板を通り、音動二輪車は村の中へ進む。村に建つ家々は先ほどのコンフェティと同じドーム型だが、雪が積もりに積もって、どこが家だかわからないほどだった。

(雪かきや雪下ろしが間に合わないほど、高齢化が進んでいるらしいな……)

 ロークはそう推測したが、ジルが「変わってないなぁ……」と懐かしそうに呟いたので、もしかしたらこれがこの村の越冬スタイルなのかも知れない、と考え直すことにした。

「家はわかるか?」

「はい。この道を真っ直ぐ行って三番目の曲がり角を右です」

「さ……三番目? 曲がり角がどこにあるのかすらわからんが?」

「え、家と家の間の広い道のことですよ」

「……ここか?」

「そこはただの雪だまりです」

「はあ?」

 どうしてわからないのか理解できないと言いたげなジルに、どうしてわかるのか理解できないという顔のローク。二人の溝は、この国一番の深さを誇るヘオン海峡よりも深かったに違いない。

 結局ジルが付きっきりのナビをすることで話は決着した。音動二輪車を村の入り口に置いて行かなかったのは、この村が人口の割に広いことを知っているから。そして雪道の歩きづらさを学んだからだろう。

「そこを右に曲がってください」

 ナビをしながらも、どうしても納得のいかないジルは後部座席から質問を投げた。

「でも、どうしてわからないんです? あの日も、こんな雪でしたよね」

「あん時は、探す目印があったからな」

「目印……ですか? あの時、何か目印になるようなもの、ありましたっけ? こんな感じの雪景色だったと思うんですけど……」

 ジルは知らない。

 あの日、この村に着くや否や聞こえてきた少年の声を。

「お母さん、ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!」

 そう泣きわめく少年の声。寒さのせいか、泣いているせいか、声は震えていた。村の入り口ですら聞こえたのだから、隣家や他の家にも声は届いていただろう。それなのに、村人は誰一人として顔を出していなかった。

「ロークさん?」

 後ろからの声で我に返ったロークは、不機嫌そうにゴーグルに積もった雪を手で払った。

「んなのどうでもいいだろ。とっとと案内しろ」


 村に入ってから時間にして僅か10分ほど。だが、心臓が痛いほど緊張していたジルには、ずっと長く感じた。

 見知った隣家、夏には野菜が実っている畑……そして、辿り着いた。

「……ここです」

 そこは、十二年ぶりに見るジルの生家。いや、正確には生家かどうかはわからない。だが物心がついてから育った家ということは確かだ。玄関の周りはきれいに除雪され、玄関のドアの横には昔と変わらない小さな明かりが灯っている。他の家より手入れが行き届いているのは、働き手である若い者がいる証拠だ。

「お前の母さん、病気だっつってたよな?」

「……はい。その話が本当なら、家の手入れは妹がやっているんでしょうね」

 生まれたばかりの、赤子の時しか知らない妹。

 ジルは音動二輪車から降りると、玄関の前に立った。この辺りの家に、訪問を知らせるベルは備え付けられていない。訪問を知らせる方法は、ドアを叩くか呼びかけるかしかない。

 ドアを叩こうと手を上げる。だが、手は思うように動いてくれない。何度も何度も叩こうとするが、手は無意識にドアに触れる寸前で止まってしまう。

 ロークは黙ってその様子を見ていた。寒空の下、急かすこともなく……ただ静かに。

 何度目か覚えていないが、手を振り上げた時だった。

「はなぜえええええっ!」

「ママ、お願いだから暴れないで!」

 中からだった。

 透き通った無色の宝石と、焦りと戸惑いを意味するガーネット、寂しさを意味する琥珀がドアの隙間から零れ落ちる。問題は、ひとつ目の宝石。

「ロークさん、これって……」

「ああ、間違いない」

 ロークの目にどう見えているのかはわからない。だが、ロークもすぐに理解を示した以上、何らかの異常を感じ取ったことは確かだろう。

 もう迷っている時間はない。ジルは懐かしい家のドアを力強く叩いた。

「すみません!」

 そして、名乗ろうとして悩んだ。

 自分は何と名乗ればいいのだろう。息子のジル? いや、自分は音魅に売られた身。僅かな金貨と引き替えにこの家の息子であることは剥奪させられている。

 ジルの言葉が続かないのを見かねて、ロークが声を上げた。

「音魅郵政科の者です。火急の用があります、開けてください!」

 声を掛けてしばらく。中から玄関に小走りで向かってくる音がして、次にドアの鍵が開く音が届いた。そして……ゆっくりとドアが開く。

「誰ですか……?」

 ほんの数センチ開いたドアに、すかさず手を入れるローク。まるで悪人のような行動に、ジルは「うわぁ……」と引いた顔を見せる。だが、決して声には出さない。

「音魅郵政科の者です。こちらに患者さんがいるようですので、立ち寄らせていただきました」

「患者……?」

「お母様がご病気だとお伺いしましたが……違いますか?」

「母は病気ですけど……どういうことですか?」

 零れるのは、文字通りの訝しげな声色(ほうせき)。

 だが、ロークは怯まない。

「説明しますので、ドアを開けてくれませんか?」

「ドアを……開ける?」

 表向き、冷静に話し合いながらも、水面下ではドアの開閉を巡っての一進一退の攻防が続いている。

「怪しい人を家に入れるなんて……絶対っ無理です!」

「怪しくありません! 私たちは音魅役所の職員です……っ」

「おとみやくしょって何ですか!」

「は? そんなことも知らないのかよ」

「知りません!」

「説明してやるから、中へ入れろって」

「イヤです、無理です!」

 ぐぐぐ……とドアを引くロークに、絶対開けまいと全身全霊全体重をかけてドアを引く少女。妹が喋っている声を初めて聞くジルは、彼女がこんなに大きくなっていることに驚いた。

(あれから十二年も経ってるんだ。当然といえば、当然だけど……でも)

 実感はわかない。

 二人の攻防を見かね、ジルが一歩進み出た。ドアの前にスッとしゃがみ込み、数センチだけ開いたドアの奥に微笑み掛ける。隙間の奥には妹、ラピスの顔があって、この時初めてジルは妹の顔を見た。

「僕たちは怪しい者ではないよ。君のお母さんを治療しに来たんだ。開けてくれないかな?」

 にっこりと笑うその顔に、どこか見覚えがあったのかも知れない。

 ラピスは驚くほど素直にドアから手を離し、二人を家へと招き入れてくれた。


「はー……生き返る」

 雪が積もったコートを脱ぎ、暖炉の側に干させて貰う。ぐしょぐしょに濡れたスノーブーツも同様に、暖炉の近くに置いた。

 家の中はあの頃とあまり変わっていなかった。通された部屋には、木でできたダイニングテーブルに椅子が三つ。火を起こすタイプの釜戸兼暖炉に、井戸で汲んだ水を溜める貯水瓶が置いてある。暖炉の横には奥に続く細く廊下があって、先には部屋が二つある。そのうちの大きい部屋が両親の寝室で、もう一つの小さな部屋がジルがここに住んでいた頃に寝ていた物置だ。今はラピスが使っているのだろうか。それとも物置として使われているのだろうか……。

「それで、治療ってどういうこと?」

 背が高くて声が低くて目付きが悪い威圧感のあるロークよりも、背が低くて声が比較的高くて童顔のジルの方がとっつきやすいらしい。ラピスは、ロークを避けるようにしてジルに尋ねた。

「ん……何から説明したらいいかな」

 少しの時間、言葉を考えあぐねてから再び口を開く。

「君は、不協和音ノイズって知ってるかな?」

 想像通り、ラピスは首を横に振った。ジルは、用意しておいた言葉をそのまま続ける。

不協和音ノイズっていうのは、一言でいうと音の化け物なんだ。それが生まれる原理や理由は僕たちにもわからないけど、人を襲い、人の身体を奪い取る恐ろしい性質を持っている。お母さん……あ、君のお母さんの病気は、この不協和音が原因だと思うんだ」

 ラピスはキョトンとした顔でジルを見つめた。その顔は全く理解をしておらず、突然のことにどう反応して良いか戸惑っているように見えた。

「えーっと、いきなりこんなことを言われてびっくりしているよね……。音って普通目には見えないと思うんだけど、中には見える人もいて……それが音魅って言うんだけどね? 僕たちはその音魅で、不協和音と戦うのが仕事なんだ」

「本業は郵便配達だけどな」

「ややこしくなるから、ロークさんは黙っててください」

 突然のことに、ラピスは混乱しているようだ。それもそうだろう、今まで色々な病名を告げられ、その度に様々な治療をしてきたのだから。だが、完治に至っていない今、話を聞くべきだと判断したらしい。

「……つまり、ママの病気はそのノイズっていう化け物のせいだって言いたいの?」

「そう」

 理解が早くて助かると言いたげなジルに、ラピスは不機嫌そうに言い放つ。

「証拠はあるの? 突然、訳わかんないこと言われても信じらんないし、そのノイズっていうのもよくわかんない」

「あ、そうだよね」

 ジルは焦りすぎたとばかりに、頭をかいた。そして一呼吸おいてから、再び話し始める。

「君のお母さん……突然暴れ出したり、訳が分からないことを叫んだり、変な行動をしたりしてない?」

「どうしてそれを…………はっ、さっき聞こえてた?」

 疑いの目。

 ジルは慌てて、説明を加える。

「それもあるけど……その症状って、不協和音に食われた人の特徴なんだよ」

「食われた?」

「あー……えっと、不協和音が身体に入って、身体の支配権を得た状況ってことなんだけど、わかる?」

「……よくはわからないけど、今のママはママであってママじゃないってこと……であってる?」

「うん、平たく言うとそういうこと」

 ラピスは複雑そうな表情を浮かべていた。まだ半信半疑のように見える。でも、それで良い。直ぐさま全てを受け入れられたら、簡単に悪い人に騙されるんじゃないか……など、逆に心配になってしまう。

「君のお母さんがこうなったのはいつ頃なの?」

「……一年くらい前。初めは数日に一回とかだったの。変なことするな、どうしたんだろうって思ってた。でも、どんどんひどくなっていって……色んな治療をしたけど、どれもダメで。終いには祈祷師とか呪い師みたいなのが来るようになって、でもそんなのが効く訳ない。他の治療法を探している間にもどんどん悪化して……今ではママがママでいられるのは一日のわずかな時間だけ。私だけでは抑えきれないからベッドに縛ったままになってて」

 ラピスの瞳から大粒の涙が次から次へとこぼれては落ちる。この村では、一年の半分を厳しい冬が締める。その間、たったひとりで母をみるのは十二歳の彼女にとって重すぎるしごとだったに違いない。

「さっき暴れて、今は気を失ってるのか……眠っているのかはわかんないけど」

 まさに話している最中だった。

「はなぜ……はなぜええええええっ!」

 それは、奥の部屋。両親の寝室から聞こえた。

「ママ!」

 ラピスが奥の部屋へ走る。そのあとを、ジルとロークが続いた。

「ママ、大丈夫!?」

 寝室へ入って、ジルは目を見開いた。そこには、木製のベッドの底にいくつもの土嚢がくくりつけられ、その上に横になったままベッドにぐるぐる巻きにされている母の姿があった。布団ははねのけられていて、寝間着姿の骨と皮だけの身体が露わになっている。あの頃は、あんなにもふくよかだったのに……。

「ママ、落ち着いて! 大丈夫だから。お願い、暴れないで……!」

「はなぜ……はなぜえええええええ!」

「ママ……」

 日に何度この発作があるのだろう。

 この短い間に二回も起こった。とすると、日に何十回も起こる計算になる。

「はなぜ…………」

 母はひとしきり暴れると、気を失ったかのように眠りに落ちた。覚醒と潜伏を繰り返すのが、ある一種の不協和音の特徴でもある。二人は確信した。

「間違いなく不協和音の仕業だ」

「ノイズ……」

 ラピスは、母を見つめた。長い間、自分と母と苦しめた犯人がようやくわかった。だけど、まだほっとできない。彼女は母を見つめたまま、背後に立つ二人に尋ねた。

「……治せるの?」

「…………」

 ジルはロークの顔をみた。だが、答えは一つ。都合の良い、ラピスが期待する答えはない。言い渋るジルを見かねて、ロークが口を開く。

「手遅れかどうか、やってみないことにはわからない」

「どういうこと?」

「どういうことも何も、他の病気と一緒だ。身体のどこまで不協和音が蝕んでいるのか、やってみないことにはわからない。治療で不協和音を取り除いたとして、君のお母さんがどこまで保つのか調べる術はない。最悪、心臓まで食われていたとしたら、不協和音を取り除いた瞬間……」

「ロークさん」

 歯に衣着せない物言いのロークをジルがキッと睨み付ける。だが、ロークは悪びれない。

「事実を言ったまでだ」

「それでも……! そこまで言う必要は……」

「あるだろ。彼女のことを思えばこそ、言うべきだ」

 ジルは奥歯を噛む。

 だけれど、ジルの心配は杞憂だったらしい。振り向いたラピスに涙の影はなく、寧ろその瞳には希望の光が灯ってすらいるように見えた。

「それって……ノイズを取り除くことができたら、生きられる希望はあるってことだよね!?」

「……発症して一年以上が経過しているからな。僅かな希望だと思っておいた方がいい」

「……それなら、治療しない方がいいってこと?」

「いや、全て食われる前に治療した方がいい。絶対にだ」

 そう力強く言い切る彼に、ラピスは怪訝そうに眉を寄せる。

「どういうこと?」

不協和音ノイズに食われると、その人は不協和音そのものになる。自我は持たず、不協和音そのものとして生きていくことになるんだ」

「…………この、狂ったような状況がずっと続くってこと?」

「ここに縛り付けていられれば、そうかもな」

 ラピスは静かに母の顔を見た。

「よくわかんない……」

 ロークは制服から煙管を取り出し、口に咥えた。火もつけていないのに、忽ち煙が上がる。

「わかんなくて当然だ。悪いが、俺たちも具体例を説明する術を持っていない。なぜなら不協和音に食われた者の末路は、俺たち下っ端には公開すらされていない国家機密情報だからな。ただ……悲惨、とだけしか教えられていない」

 ラピスは不安そうに母を見る。

「……決めるのはお前だ」

「……私?」

 ロークは、真っ直ぐにラピスの目を見て告げる。

「お前の母として生きる為、死ぬ為に治療を選ぶか……母の身体だけ生きていてくれれば中身はどうだっていい、そう願うか……。ふたつにひとつだ」

 穏やかな母の寝顔。それだけ見たら、不協和音に侵されているとは到底思えない。ラピスは母の頬に手を伸ばし、優しく撫でた。母と子の間に確かに存在する愛、温もり……。それを様々と見せつけられジルは思わず目を反らした。

 そんな兄の思いになど気づかないまま、ラピスは母の手をぎゅっと握り、何かを心に決めたらしい。

「………………そんなの、決まってる」

 まるで母に「いいよね?」と、そう確認するように呟いてから、ラピスはゆっくりと振り向いてロークの目を真っ直ぐに見た。

「お願いします。母を治療してください」

「……どうなってもいいんだな?」

「はい」

「………………わかった」

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