切り株のある丘で(葉っぱ)
少女は空を見上げ、呆然と立ち尽くしていた。
「おーい!!」
少年は、ありったけの声で呼びかけた。
少女は気付かない。
「おーい!!」
声の限り、体力の限り、叫んだ。
少女は気付かない。
近づいて見ると、彼女はいつもと同じ、あの制服姿だった。
川に突き落とされたかのように全身ずぶ濡れで、足元は泥にまみれている。
少年ほどではないにしろ。
彼は少女のすぐそばで立ち止まり、膝に手をついた。
一秒たりとも立ち止まらず、信号さえ無視して、ここまで走ってきた。
意識が朦朧としていた。肩で息を―いや、肩ですら、息が回らなかった。
少女がゆっくりとこちらを振り向いた。
少年の姿を認めると、驚きのあまりすくみあがった。
彼女の前には、戦場から還ってきた兵士さながらの、男の姿があった。
全身が切れ、泥だらけになり、片足をひきずり、それは土砂降りを帰ってきたと言うには、あまりにも大げさなほどだった。
少年は、少女を見据えた。彼女は、片言でしか話せなかった。
「なんで……ここに……なんで、きみが?」
彼は、もはや気力だけで立っていた。
「会いに……きたよ」
そういうや否や、少年は倒れこんだ。
少女が慌てたように受け止める。
少年は、少女の体をすり抜けなかった。
夢の中の存在では、なくなっていたのだ。
少女の口がいっぱいに歪んだ。
次の瞬間、泪がとめどなく溢れてきた。
少年を抱きかかえながら、彼女は泣いた。
窒息死させるほど強く抱きしめながら、声を上げずに泣いた。
びしょ濡れになった体で、ただただ、抱きしめていた。
やがて、少年は自分で立てるようになった。
「ずっと、待っていてくれたんだね」
彼の目にも、泪がうっすらと浮かぶ。
少女は、指の腹で瞼をぬぐった。
「あたりまえでしょ?でも、あいに来てくれるなんて、おもってなかった」
今度は少年が、その逞しい腕の中に少女を抱きよせた。
「会いに来ないわけないだろ?」
いつの間にか、雨はやんでいた。
二人の想いが、届いたのかもしれない。
あの日見たような夕日が彼らを照らしていた。
少年と少女は見つめあい、それから頬を緩めた。
彼女の顔には、あのふんわりとした笑みが戻っていた。
「ごめんね」
少女は囁くような声で言った。
「俺の方こそ、ごめん」
少年もそれに応じ、首を振った。
少女は、夕焼雲を見上げながら語りだした。
「私も、きみとおんなじだったんだ。お父さんがいなくなって、ずっとふさいでた。生きているのもいやになっちゃって……」
今度は少年が、黙って聞いていた。
「そんなとき、ひさしぶりにきみを見たんだよ。それで、話してみたいなって、おもったんだ」
彼女は話した。
自分は昔から少年のことを知っていて、彼女にとっての唯一の知人だったこと。
それを思い出すうちに、徐々に生きる気力が戻ってきたこと。
「こないだはひどいこと言って、ごめん。私とはなしたかっただけなのに、あんなにおこっちゃって」
今日は彼のことが心配で、ずっと待っていたこと。
でも、自分からは会いにゆけず、ここで待っていることしかできなかった。
最後に、少女は言った。
「―ぜんぶ、きみのおかげなんだよ。きみがいたから、私は、生きる意味がもてた。だから、ありがとう。全てをありがとう」
少年は口を開き、彼女に誓った。
「ずっと、一緒だからな」
少女はそれに応じ、にっこりと笑った。
「うん!ずっと、いっしょだよ。やくそく……だからね?」
彼は嬉しさのあまり、手をつなごうと指を伸ばしかけた。
ああ、なぜなんだろうか。
指は、彼女の手をすり抜けていたのだ。
「―えっ!?」
彼は、はじかれたように少女の顔を覗き込んだ。
視線の先には、あの幸せそうな笑みがあった。
「今日はさようなら。またあした、まってるからね」
少女は、ふうっ、と息を吹きかけた。
丘にそよ風が吹き、草木がかすかに揺れた。
そして、少女の姿は陽炎のように消えていた。
切り株のある丘の上、彼は独りで立っていた。
少年は、目の前で起こっていることが呑み込めずにいた。
ずっと一緒にいよう。
そう約束して、一分も経っていないのに消えた。
丘を下り、そこら中を探した。しかし、少女の姿は、どこにも見当たらなかった。
―なぜ?
どうして突然消えたのだろう。
そのとき、彼の心の中に、誰かの声が響き渡った。
[ここにいるよー]
あの少女の声がする。
少年は、思わず意識の中で聞き返した。
[どういうこと?どうして突然消えたの?]
気まぐれな少女は、何も答えなかった。
[うーんとね、へへへ]
彼は必死になって訴えた。
[ずっと一緒にいようって、約束したばかりじゃないか!]
姿は見えないが、彼女が首を傾けるのが分かった。
[そうだよ?今だって、きみのいちばんちかくにいるよ]
もうわけが分からなかった。
[君は、誰なんだよ……?いい加減教えてくれよ]
しかし、呼びかけるほど、彼女の意識は遠のいていった。
やがて、ずっと遠くの方から、少女の声が聞こえてきた。
[わたし?うーんとね、「青木ふたば」ってよんでね]
*********************
丘の上に静寂が訪れた。
しじまの空の下、少年は考えた。
最後に残して言った名前。
―青木ふたば。
聞いたことがないはずなのに、不思議ななつかしさを帯びた響きだ。
彼は、彼女の姿が一瞬にして消えたことを思い出した。
そして、ふたばが息を吹きかけると、決まってそよ風が吹いたこと。
「―あっ!」
彼は、にわかに目の前の世界がつながるような感覚を覚えた。
本能に導かれるようにして、彼は切り株をくまなく観察した。
樹皮の隙間の空洞も逃さぬように、隅の隅まで見回した。
そして見つけた。
切り株の横から出ていた、若々しい新芽を。
青々とした双葉。
か弱いが、生き生きとした茎。
それは、新しく誕生した命に贈られる、もっとも単純な色彩美。
生きとし生けるものすべてに平等に与えられた、誕生の瞬間への讃美歌。
それを目にしたとき、謎は全て解けた。
父の死を乗り越え、彼女はやっと、生まれてこられたのだ。
青木ふたば―きみをやっと、見つけたよ。
[ありがとう]
彼の意識の中で、また声が聞こえた。
[こういうことだったんだね?]
少年が確かめるように言った。
[うん。みつけてくれて、ありがとうです]
切り株のある丘の上。
新芽―青木ふたばは、静かに微笑んだ。
ずっと一緒、約束だよ。
~了~
切り株のある丘で 水色鉛筆 @atp0210
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